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1999.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
生態学的視点から見たトラウマと回復

ハーバード大学臨床心理学助教授/ケンブリッジ病院暴力被害者治療プログラム主任
メアリー・ハーベイ(村本 邦子訳)

1 はじめに

 トラウマにさらされた被害者は、急性もしくは遅延性の外傷後ストレス障害(PTSD)(アメリカ 精神医学会、1994)、複雑型外傷性症候群(Herman, 1992a, 1992b)、一連のトラウマ関連性精神障害(Brett, 1992)、広範囲にわたるトラウマ反応と回復のパターン(Briere, 1998; Browne & Finkelhor, 1986; Cohen & Roth, 1987)を示す可能性があることが、研究結果や臨床経験からわかっている。トラウマ反応の多様性をトラウマ以前の個人特性から理解する臨床家は多い。し かし、その一方、トラウマの程度と持続時間(Kulka et al., 1990)、トラウマとなった出来事の特徴(Herman, Russell, & Trocki, 1986; Roth, Wayland & Woolsey, 1990)、被害者の解釈(Green, Wilson, & Libowitz, 1988)、被害者を取り巻く環境(Green, Wilson, & Lindy, 1985; Koss & Harvey, 1991; Wilson, 1989)が同じように重要であることを示唆する研究も多い。
 トラウマに関する既存の文献は、トラウマ反応と回復における個人差に環境要因が関与していることを過小評価する傾向がある。とくに、臨床的な文献は、個 人の回復力(resiliency)、臨床的援助なしの回復の可能性、社会・文化・環境の影響を見過ごしがちである。「回復」の定義づけが曖昧で、トラウ マからの回復を示す基準がはっきりしていないことも多い。
 この論文では、これらの問題を取り上げるために、コミュニティ心理学の概念である生態学の視点を利用する。この視点から言えば、人間の心理的特性は、コ ミュニティという生態学的文脈で、もっともよく理解できるし、出来事への反応は、コミュニティで養われた価値、行動、技術、理解に照らせば、もっともよく 理解できる(Kelly, 1968, 1986; Koss & Harvey, 1991)。本論文では、この考え方をトラウマ現象にあてはめ、トラウマ反応と回復の個人差を理解する生態学的モデルを提示する。このモデルでは、個人差 を、人、出来事、環境の3つの要因の相互作用と考える。これら3つの要因は相互作用して、人とコミュニティの力動関係を決定し、それぞれに独自な回復の文 脈をつくる。生態学的モデルでは、トラウマからの回復結果を4つの概念に分け回復の多次元的定義を提示する。臨床的援助が回復を助けるのか、それとも損ね るのかについても取り上げ、臨床的援助とは違ったコミュニティ介入が回復力を育てることにも触れる。臨床的援助もコミュニティ介入も、それが有効に働くか どうかは、人によって違う回復の文脈に、生態学的適合(ecological fit)を果たし、その人とコミュニティの関係をうまく強化できるかどうかにかかっている。

2.生態学の視点から見たトラウマ

(1)生態学の視点とは

 生態学とは、有機体とその環境との相互関係を扱う科学である(Webster's Ninth New Collegiate Dictionary, 1985)。コミュニティ心理学は、生態学的文脈から、コミュニティに関心を向け、人とコミュニティの相互関係を扱う。人は、コミュニティからアイデン ティティ、所属感、意味を引き出す(Kelly, 1968, 1986; Koss & Harvey, 1991)。人の行動を生態学から見る時、コミュニティ心理学者は、実地生態学者が他の生命環境を調べるのとまったく同じ仕方で、コミュニティを調べる。 「生態学のアナロジー」(Kely, 1966, 1986; Trickett, 1984)は、資源と資源交換の特性という観点からコミュニティを記述する。たとえば、コミュニティのお金、サービス、価値、伝統が循環し、共有され、豊 かになったり、枯渇したりといった点に見ることができる。また、コミュニティ成員の欲求と環境に対して、適応と健康を促進したり、逆に、不適応と不健康を 促進するコミュニティの特質にも見ることができる。
 生態学のアナロジーをトラウマの領域に応用すると、トラウマとなる暴力的出来事は、人の適応能力への脅威と捉えられるばかりでなく、成員が関わり合っ て、健康と回復力を育てるというコミュニティの能力への脅威とも考えられる(Koss & Harvey, 1991; Norris & Thompson, in press)。つまり、都心部で増えつつある暴力は「酸性雨」のようなもので、成員に安全な天を提供するコミュニティの能力への生態学的脅威と見ることが 可能になる。人種差別、性差別、貧困は環境汚染、つまり、暴力を育て、人のコミュニティの健康促進資源を破壊する生態学的異常と考えられる。
 暴力的な出来事がコミュニティ資源を汚染し破壊するように、コミュニティの価値、信念、伝統はコミュニティ成員の防御壁となり、暴力に続く回復を支え る。貧困と人種差別がコミュニティを暴力に晒す危険性を高める生態学的要因だと考えられるなら、経済を安定させ、多様性を認める視点をコミュニティに流布 させることが、暴力を予防するエコロジー要因になる。同様に、女嫌い(misogyny)と家父長制が性暴力を増やし、女性の幸福を脅かす生態学的要因で あると考えられるなら、コミュニティに根ざしたレイプクライシスセンターや「夜を取り戻そう」キャンペーン、性暴力を許さないコミュニティづくりは、女性 の安全と幸福を支持する生態学的要因となろう(Koss & Harvey, 1991)。
 ほとんどの人は、多様なコミュニティに属している。たとえば、地理(市、町、近隣)、人種、民族、言語を共有するコミュニティの一員であり、また、職業 や宗教、思想を共有するコミュニティの一員でもあるだろう。ここで提示する生態学的モデルは、トラウマとなる暴力的出来事への個々の反応は、それぞれが所 属しアイデンティティを引き出す複数のコミュニティの特性の組み合わせによって変化すると仮定する。人とコミュニティの相互作用を形づくるのは、人、出来 事、環境のさまざまな組み合わせである。

(2)トラウマの生態学―「人×出来事×環境」モデル

 図1はトラウマ、治療、回復の生態学的モデルである。このモデルには3つの前提がある。第1は、 トラウマとなる出来事が同じであっても、誰もが、同じように傷ついたり、影響されるわけではないということである。被害を受けやすいか、被害への反応と回 復は、互いに影響しあう3つの要因によって多面的に決定される。3つの要因とは、巻き込まれた人や人々との関係、経験された出来事、より広い環境である。 これらの要因が一緒になって、人とコミュニティの生態システム(ecosystem)が決定される。その中で、人はトラウマとなり得る出来事を経験し、対 処し、意味づけを行っていく。
 生態学的モデルの第2の前提は、トラウマとなる出来事に晒された後、人は臨床的援助を求める場合もあれば、求めない場合もあるということである。求めな い人の方が多いだろう。トラウマを十分に理解するためには、治療を受けない大多数に目を向け、トラウマ後の状態と回復のプロセスを明らかにする調査が必要 である。
 第3の前提は第2と密接に関わっているが、臨床的援助は、必ずしも、回復の保証にはならないということである。生態学的モデルでは、回復結果に関する4 つの概念を立てている。1)臨床的援助が他の要因と作用しあい、回復を助ける。2)臨床的援助が回復を妨げ、損なう。3)臨床的援助なしに回復がおこる。 とくに、自然発生的な生態システムが回復力を支え、自然なサポート体制とコミュニティ資源が豊富にあるとき。4)時宜を得た適切な介入がなく、回復できな いまま。
 生態学の枠組みで考えると、回復の失敗は、個人の苦悩が持続することを意味するだけでなく、回復する環境の欠如、コミュニティ心理学者が生態学的適合と 呼ぶものを達成するようなトラウマへの介入の失敗をも意味する。生態学的適合を構成するのは、人と社会的文脈の関係の質と有用性であり、人と環境の結びつ きを強める必要がある。つまり、孤立感を減らし、社会的能力を高め、良い対処を促し、コミュニティへの所属感を促進しなければならない。(Levine, 1987; Maton, 1989)。
 生態学的モデルは、グリーンら(Green et al., 1985)が仮定した心理社会的枠組みと一致し、ウィルソン(Wilson, 1989)が描いた統合的個人・環境モデルとも一致する。違いは、出来事と環境要因の区別、被害化の社会・文化政治的文脈に置かれる力点、回復と復元力の 源泉としてコミュニティを強調する点である。

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図1.トラウマのエコロジー・モデル


(3)「人×出来事×環境」がトラウマ反応に与える影響

 人、出来事、環境に関するたくさんの要因がトラウマ反応と回復に影響を与えるが、なかでも、生態 学的視点からとくに重要なのは、人とコミュニティの関係に影響を及ぼす要因である。そのなかには、臨床家がクライエントのニーズを査定するとき日常的に考 慮されるものもあるが、無視されることが多いものもある。
 トラウマ反応と回復に影響を与える人の変数には、たとえば、年齢、発達段階、被害時の苦痛の程度、知性、人格、感情、認知、トラウマ以前の対処能力、ま た、もしあるとすれば、それに先立つ外傷、被害者と加害者の関係、その他もろもろの人口集団的特徴がある。経験を積んだ臨床家ならばほとんどが、これらの 変数に注意を払い、診断決定と治療計画に重要な役割を果たす。生態学的視点からは重要だが、臨床上のアセスメントではあまり注意を払われない人変数には、 トラウマを受けた人が、自分の文化のなかで、被害体験をどう理解するか、さまざまな種類の援助を抵抗なく受けられるかどうか、家族、友人、その他重要な人 が希望、粘り、回復力のモデルを提供してくれるかどうかなどがある。
 出来事変数は、一回、あるいは一連のトラウマ体験の特徴を示すものである。トラウマ反応を決定する重要な要因には、経験された出来事の頻度や強度、持続 度、身体的な暴力や性暴力が含まれていたか、恐怖や屈辱の持続度、一人だったのか、他の人と一緒だったのかなどがある。その他、出来事に付随し、その人と コミュニティが重きを置いているものと関わる部分も重要である。たとえば、強い信仰をもつ帰還兵は、敵兵の死体によって負わされた十字架に苦しみ続けるだ ろうし、恐怖のために抵抗できず、加害者に同意と喜びの言葉を強制されたレイプ被害者は、それを恥じ、苦しみ続けるだろう。トラウマそのものがもっとも傷 ついた部分であるはずだという思い込みは捨てる必要がある。そして、トラウマの解釈や記憶、感情と経験のニュアンス、その人のトラウマ反応に影響を与える 固有の社会構造など周辺部分にも耳を傾ける必要がある。
 トラウマ反応と回復に影響を及ぼす環境要因はたくさんある。トラウマが経験される生態学的文脈(家、学校、職場、その他)の特徴、自然なサポート体制、 良い適応を育てるシステムの力、トラウマ後の被害者に与えられた安全とコントロールの度合いなどである。被直後、最初の対応者がどんな態度を取ったか、家 族、友人、世話役、その他の重要な他者および集団がどう理解し行動したかは、回復のための重要な要素となる。生態学的視点からトラウマと回復を理解する上 で重要な環境要因は、コミュニティのもつ態度や価値観、人種とジェンダーについての文化的構造、被害者に向けられる政治経済的要因、コミュニティの被害者 援助とアドボカシー資源の質、量、接近しやすさ、文化的妥当性を挙げられる。英語をしゃべれない難民が災害に遭ったとき、その人を取り巻くコミュニティが 移民の増加を恐れ、あからさまに敵対的な態度を取るなら、回復する気力もなくなるだろう。コミュニティに「主流な」サービスの質と利用しやすさがどうであ ろうと、この人にとって、接近しやすさと文化的妥当性はどう見積もっても制限される。同性愛恐怖によるゲイ・バッシングの被害者は、伝統的な道筋からプロ の援助を求めるのは嫌でも、別の設定や非公式のネットワークを通じて得られる適切な援助にはつながるかもしれない。

(4)4つの回復結果

 生態学的モデルでは、トラウマを受けた被害者をグループ分けする。どこかの時点で臨床的援助を受 けた人、受けなかった人、トラウマから回復した人、していない人である。概念的に4つの回復結果が考えられるわけだが、それぞれに特有の問題と、臨床的援 助とコミュニティ介入の課題がある。

1. 臨床的援助を受け、回復したトラウマ被害者

このグループは、いちばん臨床家の興味をひくものである。臨床家の援助を受け、あきらかな効果が あった場合である。治療効果を査定し、確認する調査が必須である。トラウマ被害者にかかわる臨床的仕事で有望なのは、今のところ、安全とエンパワメントと いうふたつのテーマを強調するフェミニスト的な治療アプローチ(Harvey & Herman, 1992)、症状を管理し減らしていく認知行動療法的技術(Foa, Steketee & Rothbaum, 1989, 1991; Keane, Fairbank, Caddell, zimering & Bender, 1985; Resick, Jordan, Girelli, Hutter & Marhoefer-Dvorak, 1989)、統合的トラウマ集中治療(Wilson, 1989)、トラウマによる情動とパターンの解決を促進する力動認知アプローチ(McCann & Pearlman, 1990; Roth & Newman, 1991)、孤立感を減らし新しい愛着を形成する安全な場を提供するグループ療法(Koss & Harvey, 1991; van der Kolk, 1987)、段階別・多元的治療アプロ―チ(Herman, 1992b; Lebowitz, Harvey & Herman, 1992)が挙げられる。

2.  臨床的ケアを受けたが、効果なく、回復していないトラウマ被害者

生態学的モデルでは、2番目のグループになる。さまざまな治療アプローチの成功と効果を臨床家が共 有し、研究者が確認する一方で、治療の失敗も同じように立証し、治療を失敗させた生態学的条件を確定することが重要である。たとえば、身体的な安全と生理 的安定が得られて初めて、トラウマの記憶をさぐることが実りをもたらすこと、早すぎる時期に慌ててトラウマを探ることは、傷つきやすい患者を不安定にし、 再度トラウマに晒すことになるという厳しい事実を学んできた臨床家は少なくないだろう(Herman, 1992b; Horowitz, 1986)。同様に、患者のもつ文化・歴史的背景に鈍感だったり、患者の回復予後に関するコミュニティの信念、価値、資源の役割について誤った情報しか もっていなければ、その治療法は、生態学的視点から言って、制限され、失敗しやすい。

3. 臨床的援助なく回復したトラウマ・サバイバー

このグループは、危機と苦境にあって、内的・外的資源をうまく活用できた人々からなる。研究者も臨 床家も、このグループから学ぶことは多い。これらの人々は、ストレスへの抵抗力という内的資源を持っていたのだろうか。回復のスキルを新たに獲得したのだ ろうか。具体的なコミュニティ資源や個人的なサポート・ネットワークによって、防御できたのだろうか。回復の基盤にある資質は、遺伝子的に決定されている ようなものなのか、あるいは、後天的に獲得されたもので、他の人にも獲得することができるものなのだろうか。手短に言えば、このグループにとって、トラウ マへの予防接種の役割を果たした要因は何なのだろう。これらの要因は、臨床的技法とコミュニティ介入によって再製したり、動員したりできるものなのだろう か。

4. 臨床的ケアを受けず、回復していないトラウマ被害者

生態学的モデルで4番目のグループは、長い間、研究者からも臨床家からも目を向けられなかった人々 である。傷ついたまま、孤立して生きており、不適切な対処法と資源に頼っているかもしれない。いずれにせよ、臨床的ケアを受けていない。このグループにつ いて、もっと学ぶ必要があるし、彼らの孤立感を減らし、利用できる資源があることに気づいてもらえるようなコミュニティ介入を考える必要がある。たとえ ば、公共教育のキャンペーンはトラウマ反応に関する理解を促し、これらの反応が奇妙なものではないことを理解する助けとなる。アウトリーチのキャンペーン は、利用可能な臨床的資源をはっきりさせ、接近を促すだろう。これらの資源がないコミュニティでは、コンサルテーション活動と、トレーナーの養成プログラ ムによって、準プロフェッショナル、牧師、しろうとの援助者の理解と技術を促し、治療を受けていないトラウマ被害者に役立つことができるかもしれない。

3.回復の多次元的定義

(1)トラウマからの回復の定義

 回復の実践的な定義について書いた文献はあまりない。あっても2種類で、どちらも適切とは言えな い。1つ目は、包括的なもので、長期にわたる心理療法をやり遂げ、トラウマに起因するものしないものも含めて葛藤を統御し、最終的に解決することを目指 す。これらの治療目標は称賛に値するが、トラウマからの回復というより、「包括的精神衛生」と呼べるだろう。トラウマそのものについての理解を助けるもの ではないし、有効な介入計画についても、治療結果の調査に関しても方向性を与えない。2つ目は、外傷後ストレス障害に特徴的な過覚醒と侵入性の症状に限定 したものである。このアプローチは、トラウマからの回復の症状の減少と考えているようだ。たとえば、フラッシュバックや悪夢がなくなるとか、トラウマを想 起するときの反応が穏やかになるなど。この定義には、臨床介入するうえで特別の焦点をあて、症状から逃れることの重要性を強調する利点がある。しかし、そ の他のトラウマ関連性障害、ハーマン(1992a)が「複雑型PTSD」と呼んだものには役立たない。たとえば、症状がなくなっても、恥と自責の念や、い わゆる「サバイバーシップ」(Janoff-Bulman, 1985)と呼ばれる孤立感や不信感などの持続を考えるうえでは不足である。トラウマからの回復を症状の減少だと考えれば、非常に効果的な心理療法の過程 において、症状が強まる時期があることを理解できないだろう(Briere, 1989)。
 ここに提示する生態学的モデルでは、トラウマからの回復を、以下のような基準によって特徴づけられる多元的な現象として理解する。

1.  記憶の再生への権限

記憶と意識の変異はトラウマ性障害の中心である(APA, 1994)。トラウマとなった出来事は、記憶の再生と利用に混乱を与える。サバイバーはしばしば、自分が経験したことの記憶の一部がなかったり、その場面 が突然現れて、凍りついてしまったりする(van der Hart, Steele, Boon & Brown, 1993)。トラウマからの回復の最初の兆しであり、それゆえ第一の治療目標となるのは、記憶に対し、新たな権限を得ることである。回復すると、いきなり 意識に侵入してきたものを、思い出すか、思い出さないか、選択できるようになる。記憶喪失がなくなる。思い出せなかった部分が思い出され、新しい意味が記 憶に付け加えられる。記憶との力のバランスが逆転し、サバイバー自ら、まとまり連続した物語として記憶を呼び起こせるようになる。

2. 記憶と感情の統合

単発のトラウマでも、慢性化した一連のトラウマでも、記憶ははっきりとつながっているが、思い出し ても何も感じない、ほとんど感じない場合がある。逆に、特定の刺激に反応して、恐怖や不安、怒りなどが押し寄せるが、これらの感情が何と結びつくのかまっ たくわからない場合もある(Harvey & Herman, 1994)。いずれも、記憶と感情が分離しており、その結果、心理的問題が生じている。回復すると、記憶と感情が結びつき、感情を伴って過去が思い出せる ようになる。その体験をした時に起こった心と体の状態がいくぶんか再現されるだろう。悲しい記憶は再び悲しみを引き起こし、怒り、不安、その他も同じよう に記憶と結びつく。回復すると、過去についての現在の感情も区別して理解できるようになる。たとえば、回復したレイプ被害者は、その時の恐怖を思い出し感 じると同時に、それを思い出している今、新たな怒りと悲しみをも感じるだろう。

3.  感情への耐性

回復とは、トラウマと結びつく感情にもはや圧倒されたり脅かされたりしなくなることである。トラウ マと結びつく感情が、耐えがたいほどの直接性と強烈さを失う。圧倒されたり、防衛的な感覚麻痺や解離なしに、感情を受け入れ、名づけ、耐えられるようにな る。不適切な警報と危険信号から解放される。感情がさまざまに分化し、記憶に一定の反応ができるようになり、現在のストレスに対処する能力が増す。

4. 症状管理

とくに持続していた症状が弱まり、管理可能になる。たとえば、フラッシュバックを引き起こす刺激が 何か知り、避けられるようになる。回復したサバイバーでも症状が続くことはあるが、うまく対処して、症状を減らし、ストレス管理ができるようになる。たと えば、暴力的な映像など苦痛を呼び起こす刺激を避けたり、ストレス管理の技術を使ったり、なかなか消えない症状に対しては、薬を処方してもらって適切に利 用することで改善できるだろう。重要なことは、すべての症状がなくなることではなく、症状を予測し管理できるようになることである。

5. 自己評価と自己の凝集性

1回のトラウマであっても、自己感や自己の価値に対して破壊的な影響を及ぼす力を持っている (Terr, 1983)。幼少期の慢性化し繰り返された被害は、アイデンティティに深刻な影響を与え、自己を不連続で断片化したものにする。回復すると、自己評価と自 己の凝集性の面で、これを修正し制御できるようになる。自傷行為や自己破壊的な衝動がなくなり、健康で自己受容的になる。断片化していた自己は、凝集性を 持ち一貫した自己が体験される。罪の意識、恥、自責の念がなくなり、自己の価値を感じられるようになる。強迫的で自己批判的な考えがなくなり、現実的に自 分を評価し、肯定できるようになる。自分はケアされるに値することに気づき、自分で自分をなだめたり、自己実現していけるようになる。

6. 安全な愛着関係

他者から孤立し、再び被害者となりやすい傾向は、トラウマと密接に関わっている。暴力や信頼の裏切 りを伴うトラウマ体験は、悲惨にも、安全で支持的な人間関係を求め、維持していく能力を危うくする(van der Kolk, 1987)。トラウマからの回復は、対人関係能力の発達、あるいは改善と回復を含む。孤独に固執していたのが、信頼や愛着関係を持てるようになる。人との 関係で身体的、感情的な完全を求め維持できるようになり、いくぶんかの楽観主義とともに、親密な結びつきを期待できるようになる。そこまでいくには、複雑 な再交渉や、重要な人への服喪が必要だろう。ほとんどの場合、サバイバー自ら、社会的な支援のネットワークを広げていくだろう。

7. 意味づけ

最後に、トラウマ、サバイバーとしての自己、トラウマが起きた世界に新しい意味づけがなされる (Janoff-Bulman, 1985)。トラウマの意味づけは個人的なものであり、非常に個性的なプロセスである。とくに、暴力によるトラウマで、人は残虐行為を行うという事実と直 面させられるような場合はそうである。損なわれた自己という感覚がなくなると、それまで不幸を背負ってきたと思いこんでいたものが、力と共感を得たという 新たな発見に変わる場合もある。自分の体験を創造的に表現したり、確固たる社会活動へと変容させ、サバイバー使命を抱くことが回復のプロセスの一部となる 人々もある(Herman, 1992b)。「なぜ」「なぜ私が」という問いにスピリチュアルな答えを出す人もあろう。プロセスはさまざまだが、回復したサバイバーは、トラウマに名前 をつけ、喪に服し、命を肯定し自己を肯定するような意味づけを行う。
これらの基準は、1回、あるいは一連のトラウマによって否定的な影響を受け得る心理機能の全領域を反映している。すべてを含めて、回復の多面的な定義であ り、臨床家、サバイバー、研究者に個々人の回復を査定し、臨床的介入、コミュニティ介入が目指すべき基準を与えてくれる。治療を受ける受けないにかかわら ず、サバイバーの回復と復元力を生態学的視点から多次元的に査定する概念的枠組となる(Harvey, Westen, Lebowitz, Saunders & Harney, 1994)。この枠組では、トラウマに影響を受けたどの領域でも、プラスの方向で変わったとすれば、回復が進んだということになる。あまり影響を受けな かった領域があり、その領域の力を使って、問題のある領域に対処し、回復できるとすれば、これは、復元力と呼べる。たとえば、記憶の侵入などに苦しんでい るサバイバーが、相対的に損なわれなかった領域にある対人関係能力を使って、誰かに支えてもらったり、有益な心理療法を受けることもあろう。安全な愛着関 係の領域にある強さと復元力を動員して、症状管理と記憶再生への権限の回復を得たと言える。人と会うのが怖くなった暴力被害者は、しっかりした自己感とス ピリチュアルな価値感を動員することで、信頼と結びつきの感覚を取り戻すかもしれない。この場合、自己評価と意味づけの領域の力が、安全な愛着関係の領域 の修復を助けたと言える。

(2)レイプからの回復-生態学的モデルによる事例と分析

 生態学的モデルは、トラウマ反応のさまざまを予測することができる。人・出来事・環境要因の相互作用と、トラウマ反応・回復への環境の影響力について、二人の女性を対比させながら例示しよう。どちらも近所のバーで知り合った、いわゆる「顔見知り」の男性にレイプされた。
 サラは21歳、白人の中流階級に属するボストンの大学生。どちらかと言えば平等主義の家族に育ち、両親はともに子育てに関わってきた。サラはフェミニス ト・グループの一員で、さまざまなキャンパス活動に従事している。ある夜、地域のバーで友人と別れた後、ちょっと興味のある男性と話し始めた。彼が送って くれると言うので、サラは、もっと彼を知る機会だと期待し、同意した。帰り道、サラは彼のあからさまな性的行動が嫌で、突き離した。すると、彼は怒り、暴 力でもってレイプしたのである。
 ジョアンも21歳の白人。ボストンから西へ数マイル離れた田舎にある労働者階級のコミュニティに住む、信心深い閉鎖的な大家族で育った。ジョアンは運動 が得意で、自己主張的なので、二人の兄は「おてんば」だと思ってはいたが、彼女の強さを誉めてくれた。しかし、両親は、ジョアンの「女らしくない」行動に 腹を立てることがしばしばだった。学校の成績もよかったが、高校を卒業すると同時に結婚。今は離婚し、4歳と2歳の子どもと、実家近くの小さなアパートに 暮らしている。地元のレストランでパートタイムで働き、地域のソフトボールチームの強力な選手でもある。試合に勝った夜、ジョアンは友達と近所のバーに 寄った。その夜のバーは、とくに騒々しかったが、友達と別れた後、彼女はもうしばらくそこにいた。それまでも見かけたことのある男性が、家まで送ろうと 言った。その男は、駐車場で、人気のないところまで運転するよう命令し、レイプしたあげく、行ってしまった。

1.  人×出来事×環境要因について

人の属性という観点から言えば、サラもジョアンも多くの共通点がある。どちらも白人で21歳、両親 の子育て態度と、家族の教育水準は違うが、どちらも養育が行き届き、結びつきの強い家族の育った。それぞれ違う点は、サラは未婚で、ジョアンは離婚したこ と。サラは大学生、ジョアンは働いていた。サラは中流階級、ジョアンは労働者階級に属していた。サラの生活は、金銭的に困るようなものではなかったろう し、責任も少なかった。ジョアンは、しばしば家族に経済的な援助を求めなければならなかった。サラにとって、女性も男性と同じ機会と生活様式が与えられる べきであることは明白だったが、ジョアンは、社会的な制限に反発しながらも、同時に伝統的な性役割のステレオタイプと、家族やコミュニティを特徴づけてい る信念を是認している部分もあった。

2.  出来事について

どちらも、近所のバーで出会い、知り合いになりたいと思った男性にレイプされた。どちらも身体的な 残虐性と屈辱が伴い、どちらもアルコールが一要因になっている。レイプの後は、侵入的な記憶を経験し、恐怖と苦痛を再体験した。非常に長い間、個別の特徴 が頭から離れなくなる。サラは、レイプした男性に最初にひきつけられたのは自分だったという事実を思い出して、特別恥ずかしく感じるだろう。ジョアンは、 恐怖のあまりに戦えず、自分の肉体的な力が役に立たなかったことに屈辱を感じるだろう。

3. 環境について

しかしながら、回復の予後に関する限り、生態学的視点から最も重要なのは、彼女たちの状況を特徴づ ける環境要因である。サラもジョアンも心から心配してくれる友人や家族がいたが、二人を支えるネットワークを構成する人々は、レイプに対する見方、アル コールへの態度、専門的な援助や精神科医の治療を受け入れる素地という点で大きく異なる。二人が住むコミュニティとそこでの選択肢も非常に違っている。
たとえば、サラは、フェミニスト仲間に友人がたくさんいて、その大半は、これがレイプであり、責任があるのは加害者の方だということをはっきり理解してい る。サラの友人のなかにも、「私を変だと思う人」もいるし、サラも、彼女たちの言葉を「本気でそう思っているのかしら」と疑うことはある。それでも、サラ のコミュニティには、彼女を支える人々がたくさんいるし、必要な資源も豊かにある。彼女の親友のなかには、これらの資源のことをよく知っていて、利用する よう励ましてくれる女性もいる。彼女の家族は、専門機関を利用することに慣れている。家族も「誰かに話を聞いてもらう」こと、とくに、レイプ・クライシス についてのトレーニングを受け、トラウマの知識がある人に聞いてもらうことを励ますだろう。
ジョアンの状況は違っている。彼女の故郷である田舎には、レイプ・クライシス・センターも、特別な訓練を受けた緊急医療隊も、地域警察の性被害対策部もな い。彼女の話を聞き、家族に電話した方がいいのか、するとすれば、いつ、何を話せばよいのか、決めるのを助けてくれるレイプ・クライシス・ワーカーもいな い。ジョアン自身も自分の体験をどう考えたらよいのかわからない。これはレイプだろうか?彼女の両親を含め、彼女の故郷であるコミュニティの多くの人は、 「良い娘」はレイプされないと信じていることだろう。ジョアンの町には、公的な資金によるメンタルヘルスケアの方法はほとんどないだろうし、トラウマに対 するサービスは実質的に皆無だろう。個人開業している臨床家はわずかながらいるだろうが、ジョアンやジョアンの知り合いが予約の電話をすることはないだろ う。彼女の家族でセラピーを受けたことのある人はいない。友人のなかには、十代の息子を指導カウンセラーに連れていった人、夫をつれて、夫婦カウンセリン グに行こうと考えている人はいるが、ジョアンは彼女たちに、レイプのことを話そうとは思わないだろう。

4. 臨床介入による査定と援助

サラの生活の現実は、臨床家に査定と援助を受けるにいたる生態学的条件をつくりだしている。資源が 豊富にある都会のコミュニティには、多くのメンタルヘルスの実践家や専門家がいて、そのなかから選択することができる。選択肢が広いので、サラに合う実践 家が見つかる可能性は高いだろう。また、若い白人、シングル、中流階級、教育水準が高いなど、サラと多くの共通点を持つボランティアスタッフをたくさん抱 える草の根的なフェミニスト資源も揃っている。多くの共通点を持つ人々がいることで、これらの資源の文化的妥当性は高まり、サラがそれらを効果的に利用す る可能性も高くなるだろう。これらの資源は、サラの回復を助けるコミュニティ・サポートとなるだけでなく、専門家への紹介にも結びつくかもしれない。これ らの条件が、必ずしも容易な回復や最善の臨床経験を保証するわけではないが、サラは、これらの条件のなかで回復の道を探ることができるだろう。サラの生態 系は、その伝統、信念、価値観などが有効な臨床資源の利用を促進する力を持っている。
他方、ジョアンの方は、臨床的な援助を受ける方法をさがせそうにない。その経験を誰かに話すよう励ます友人はいるかもしれないし、自分のレイプの体験を話 してくれる友人もいるかもしれない。お酒でも飲んで気持ちを紛らわしたらと言う友人もいるだろうし、教会に戻って、司祭に話すよう勧める人もいるだろう。 でも、専門的な援助を受けるよう励ます人はほとんどないだろう。もちろん、状況が変わる可能性はある。とくに、レイプの体験そのものが、ジョアンとコミュ ニティの生態学的な関係を変えることがある。たとえば、彼女が告訴を決めれば、弁護士に会うことになるが、その弁護士が、はっきりとそれはレイプであると 言い、心理的査定を受けるよう紹介するかもしれない。法廷の被害者権利擁護の人が、適切なサービスを紹介してくれることもあるだろう。彼女の体験したレイ プの状況と残虐性がコミュニティの誰かに知れて、ジョアンに援助の手が差し延べられ、そこから臨床的援助へとつながる可能性もあるだろう。しかしながら、 生態学的視点から言えば、ジョアンが臨床的援助につながる可能性、仮につながったとしてもそれが彼女の回復に役立つかどうかは、サラと比べれば、はるかに 当たりはずれのあるものになる。臨床的援助のあるなしより、ジョアンの回復は、それ以外の資源に大きくかかってくるだろう。

5.  回復への生態学的影響

レイプの直後、サラもジョアンも激しい苦痛を経験し、自己感覚や他者への信頼、世界観にひどい混乱 が生じたことだろう。生態学的視点から言えば、時間が経つにつれ、回復を支える他者や環境の違いが、多次元の回復領域における修正と復元力の程度の違い、 トラウマから回復へいたる道の違いとして現れてくる。サラは、被害にあったその夜、別の選択をすればよかったと考えては、自己感と自己評価をかき乱される 思いを経験するかもしれない。自分をレイプするような男に興味を持った自分を責め、彼が暴力的な男であると見抜けなかった自分を腹立たしく感じもするだろ う。そのうち、コミュニティのなかに、彼女が期待するほど断固として彼女の味方になってくれない人もでてくるかもしれない。たとえば、友人の少なくとも何 人かは、なぜ、なんとかしてレイプを防げなかったのかと思っていることが判明するかもしれない。家族のなかにも、学校の職員や警察のなかにも、彼女がどの くらいお酒を飲んでいて、その時の判断力が鈍っていたかを問う人がいることだろう。
サラは、ほとんど同じことを自問自答していたことに気づく。自分のことを心配してくれる人々に申し訳なくて、自分がまた前の状態に戻れるのだろうかと不安 に思うことだろう。しかし、結局のところ、サラを支えてくれる人々の多くは、彼女の経験がレイプであると理解できるので、彼女の苦痛を理解し、この一貫し た見解で支えてくれるだろう。彼女たちは、臨床的援助を受けてみるように励ますだろうし、サラもその勧めに従うことだろう。レイプ・クライシスのボラン ティアと話すことで、さまざまな医療および法的選択があることを理解し、選択の助けとするだろう。のちには、心理療法が自己感と自尊心を脅かす感情や記憶 を点検する助けとなるかもしれない。トラウマの記憶が侵入してくるのは症状のひとつであることを知り、少しずつコントロールできるよう治療を利用するだろ う。人一般、とくに男性に対して不信感と恐怖を感じるかもしれない。その場合、レイプ・サバイバーのグループに参加することで、他者を警戒したり、安全で 満足のいく人間関係を求めているのは自分一人でないことを理解するようになるだろう。心理療法の内でも外でも、このような目標をもって、肯定的な愛着と比 較的損なわれていない対人関係能力の蓄積を活かせるようになるだろう。そして、新たな人間関係をつくり直し、自分の経験を意味づけることができる。
レイプ後のジョアンの経験は、ずいぶん違うようだ。トラウマの記憶に襲われることを、ジョアンも身近な人も、レイプによって起こり得る感情的な反応として 理解できない。ジョアンは自分が傷ついたこと、怒っていることを知っているが、それがレイプだったのかどうかには確信がもてない。少なくとも、彼女の両 親、近所の人、友人たちがレイプと思わないことは確かだろう。両親は深く恥じるかもしれない。近所の人たちに知られたくないだろう。兄弟は加害者に腹を立 てるだろうが、危険な行動をとったジョアンにも腹を立てることだろう。ジョアン自身、傷つき、我が身を恥じている。
ジョアンも、サラのように損なわれた自己評価を修正し、対人関係を作り直し、自分の経験の意味づけをしなければならない。しかし、サラと違って、まずレイ プに対する新しい理解ができるようになる必要があるし、家族や近隣、教会に行き渡っているジェンダー構造に挑戦し、新しい社会的サポートと理解の資源をさ がさなければならない。そうするさい、彼女は、自分が保持している力を使って、自分がレイプされても仕方ないことをしたのだと仄めかす態度をきっぱりと拒 否する必要があるだろう。彼女の兄弟がその判断にアンビバレントではあっても、彼女の力を認め、彼女の勇気を褒めるなら、彼女の重要な資源となるだろう。 互いの関係を大事に思うチームメイトは、文化的妥当性から言えば、サラにとってフェミニストのコミュニティにあたり、これもまたはかり知れない資源の一部 となる。この仲間にレイプのことを話せれば、多くの人がそれをレイプだととらえ、彼女の苦しみに共感を示し、再び生活のコントロールができるよう励まして くれることがわかるかもしれない。さらに、チームにおける自分の地位を確認することで、ジョアンは、再び自分の肉体的力を感じ、スポーツに打ち込む力を少 しずつ取り戻していくだろう。気持ちを建て直すなかで、わずかながらあるコミュニティの資源を見つけ、公的なサポートによって回復を助けてもらえるかもし れない。たとえば、地域の弁護士事務所、法廷の被害者権利擁護プログラムなどである。こういったものがあって、活用できれば、彼女の回復が助けられるだけ でなく、その社会活動の成果や、彼女の経験をはっきりレイプと定義する州法によっても益することになる。

6.  介入と生態学的適合を構成するもの

生態学的モデルは、介入が成果をあげるためには、個々人の回復の文脈にうまく適合するものでなけれ ばならないことを示唆する。サラが利用できる臨床的援助は、この基準にうまく合うかもしれない。他方、ジョアンの回復に対する臨床的援助の適切さは、制限 されている。まず、彼女がいる地域のコミュニティに適切な資源があるかどうかわからないし、あってもその質はどんなものかわからない。さらに、ジョアンが 臨床的援助にうまく馴染めるかどうかを決定する生態学的要因も制限されている。レイプ被害から数週間、数ヶ月経てば、ジョアンのチームメイトによる援助と 法廷にある被害者権利擁護の側のアウトリーチの方が、彼女にははるかに有益で、生態学的適合を達成していることがはっきりするかもしれない。ジョアンの回 復には、文化に浸透しているジェンダー構造と個人的に対決し、あまりに馴染み深い加害者を支持するような信念の点検が、確実に必要である。ジョアンに新た な社会的サポートの道とレイプに対する新しい理解を提供するコミュニティ介入は、これを促進し、コミュニティと彼女の生態学的関係を決定的に変えるだろ う。それこそが有効な臨床的介入の唯一の道であるかもしれない。

4.臨床的介入と調査へのヒント

 生態学的モデルを念頭に置くと、ほとんどのサバイバーは複雑に入り組んだ世界に生きており、トラ ウマにいつも臨床的援助があるとは限らず、ない場合がほとんどであること、あったとしても臨床的援助はつねに有効とは限らないし、当てにならないことも多 いということを思い知らされる。サラとジョアンの事例は、多くの点で似た状況にあり、初めての単発トラウマの例である。二人の人種、民族の特徴を変えた り、あるいは子ども時代のトラウマ、大人になってからの殴打、深刻な物質依存の家族歴や差別、貧困、制度上の無視と個人間の暴力が日常的であるようなコ ミュニティに住んでいるなど、レイプされた女性の条件を変えていけば、彼女たちの回復への生態学的課題は、もっと複雑になる。どんな介入も、その有効性 は、その課題に適い、孤立感を減らし、当人になじみのある社会的文脈のなかで有効な対処法を促進できるかどうかにかかっている。

(1)生態学的視点から見て適切な臨床的介入の特質について

 有効な臨床的介入は、生態学的視点を入れた査定から始まる。トラウマからの回復の多次元的定義か ら言えば、損なわれた領域と、力として残っている領域の両方を特定する査定が重要である。回復と復元力の多次元的査定(Harvey et al., 1994)に基づいて治療計画を立て、被害者とコミュニティの関係に肯定的な影響を与える臨床的介入のデザインの基礎をつくることができる。多様な個人の 予後と回復にもっとも適した臨床的介入の特質は何なのか、はっきりさせるような研究が必要である。この特質には、介入の試みがなされるタイミング、設定、 目的と方法論が、そして、力のある部分を促進したり、損なわれた部分を修正するような特質、また、トラウマを受けた人の住む文化およびコミュニティの特徴 が含まれるはずである。生態学的枠組みでは、トラウマが生じた社会・経済・政治的環境は同じだけ重要だし、サバイバーが自分の経験を理解するうえでコミュ ニティが影響を及ぼすことに臨床家が気づいていることも重要である。有効な臨床的介入をするためには、トラウマ被害者がアイデンティティと意味づけを引き 出すより文化、人種、民族、言語的コミュニティに普及しているトラウマ理解、被害化と援助に対する理解について知っておく必要があるし、場合によっては、 それらに挑戦しなければならないだろう。

(2)社会変革とコミュニティ介入について

 臨床的援助を利用しない人、あるいはそこから利益を得られない人たちは非常に多いので、治療を受 けないサバイバーの回復の研究と復元力についてのコミュニティに根ざした研究が必要である。効果的なコミュニティ介入の努力もますます必要になってくるだ ろう。たとえば、幅広い人々に対してトラウマと暴力についての情報を与え、トラウマに続いて多くの心理的な反応が起こるが、それは正常であることを理解さ せるような公共教育活動は、臨床的介入の効果を高めるものである。ある人たちにとっては、これらの介入は、臨床的援助以上に高い効果をあげる。同様に、そ れぞれの成員の権利を擁護し、抑圧の政治的修正を目指す市民の人権グループ、子どもの権利擁護団体、フェミニスト・グループ、レズビアンとゲイの組織は、 被害化の経験の意味づけを変えるうえで、数年にわたる個人セラピーよりもずっと多くのことができるかもしれない。警察官による不適切な取扱をなくすための 法改正や、告訴弁護士、救急医療隊員も被害者の予後を助けることができる。臨床的援助という選択肢と競合する必要はないが、臨床的、コミュニティ的、社会 的介入といった幅広い範囲を捉える視点が必要である。

5.要約

 生態学的視点からトラウマを見るとき、トラウマ後の反応と回復パターンは、人・出来事・環境の3 要因が複雑に作用し合って決定されると考えられる。生態学的モデルは、サバイバーを、臨床的介入を受けた人、受けない人、さらに、それぞれについて、回復 した人、していない人の下位グループに分ける。どのグループにも、臨床調査、コミュニティ調査に固有の問題提起を行い、異なった課題がある。とくに、私た ちがふだんほとんど会うことのない人々のことを知っておく必要がある。それは、専門的援助なしに回復した人、専門的援助が必要なのに、得られず回復してい ない人である。
 生態学的モデルは、トラウマからの回復は多次元的であること、臨床的援助のない回復もあることを認め、個人の持つ復元力、環境の役割、自然な援助、適切 なコミュニティ介入などにも目を向ける。これらの介入は、現在、治療を受けておらず、おそらくは孤立したまま苦しんでいるサバイバーの回復を促進するうえ で重要だし、トラウマを引き起こす暴力的な出来事を減らすうえでも重要である。

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注)本論文は、Plenum Publishing Corporationの許可を得て、"Journal of Traumatic Stress, Vol.9, No.1"より翻訳転載しました。

『女性ライフサイクル研究』第9号(1999)掲載

1999.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』第9号(1999年11月発行)

特集《女性のトラウマと回復》


report09.gifトラウマは一般に「心的外傷」と訳されます。「心のケア」が叫ばれて以来、テレビや新聞でたびたび耳にする言葉となりました。
本特集では、女性の抱える様々なトラウマに焦点を絞り、その実態とメカニズムを明らかにし、より有効な援助法を模索すべく、多方面にわたる方々に執筆頂いています。

〈内容〉



1 女性の傷つきとその回復─事例編

ひらめ-童話による外傷、童話の内容とそっくりの人生を歩んだ人
もう虐げられない-夫による精神的暴力を受けた妻の記録
暴力による心の傷とそこからの回復-Aさんの事例を通して

2 女性の傷つきとその回復─理論編
ドメスティック・バイオレンス、一体何が起こっているのか
ドメスティック・バイオレンス-「男性のための非暴力プログラム」の取り組みについて
夫婦間における言葉の暴力とトラウマ
トラウマをもつ人のカウンセリングにおける中立性の問題

3 傷ついた女性とコミュニティ─危機介入
男性から女性への暴力-「女性サポートダイヤル」の取り組み
被害者への心理的援助-電話相談の経験から
自分の限界を知って息の長いサポートを-性暴力を許さない女の会と支援のあり方


4 傷ついた女性とコミュニティ─共生
ドラッグ・アルコール依存、家庭内暴力からの解放
女性のトラウマと宗教との関わり-その明と暗
トラウマに対するセルフヘルプグループと専門家アプローチの違い

5 社会制度と被害者支援
性暴力被害者に対する社会の動き-特にこの1年を振り返って
刑事手続きにおける犯罪被害者の尊重


約170頁

〈掲載論文〉
生態学的視点から見たトラウマと回復
ハーバード大学臨床心理学助教授/ケンブリッジ病院暴力被害者治療プログラム主任メアリー・ハーベイ(村本 邦子訳)
女性のトラウマと回復 村本邦子

1999.10.25 活動報告-論文/執筆/学会活動等
娘に女性としての自分を投影する母親たち(1999年)

子育て情報センターKANAGAWAまいんどブックレット64号』(1999年)より

                                            村本邦子

  • 娘は息子より貴重?
  • 母娘関係は永遠のテーマ
  • 母娘関係は生まれた時から始まる
  • 母親は娘に女性としての自分を投影する
  • 母親ばかりが子育てを担っていることから生じる問題点
  • 娘は母親のケア・テイカー(情緒的な世話役)になりやすい
  • 母親は自分の人生をあきらめ、娘に自分の代理を期待してしまう
  • より良い母娘関係のために


娘は息子より貴重?


 かつては、跡取りを生まなければならないというプレッシャーから、男の子が望まれたものですが、今時は、娘が望まれ、娘の方が貴重なのだそうです。「女の子は、髪をゆったり、かわいい格好させて着飾ってあげられるから楽しみ」「息子は結婚してしまえば終わりだけど、娘なら、いつまでも自分のそばにいてくれる」「息子の嫁に介護されるのは耐え難いけど、自分の娘なら安心して面倒見てもらえる」などというのが、その理由だとか。女性を貶める価値観が変化したことは喜ばしいことですが、娘が望まれる背後には、娘なら、母親の気持をわかってくれ、いつまでも自分のものでいてくれるという期待があるようです。

 親が夢を膨らませ、子どもに期待をかけることは、ごく自然でほほえましいことには違いありませんが、行過ぎた期待は、子どもにとって迷惑なもの。まだ若い独身の女性が、「娘ができたら早くから英才教育をして宝塚にいれる」と言うのを耳にしたり、まだ生まれもしない娘のために、フリルでいっぱいのドレスを何枚も買ってしまってあるという話を聞いて、人事ながら将来を心配してしまう私がいます。そもそも、娘が生まれなければどうするんだろう?仮に娘が生まれたとして、娘がそれを嫌がったらどうなるんだろう?

 それと言うのも、日々、女性のカウンセリングに携わっていて、母娘関係のこじれをテーマにした相談を聞くことが、あまりに多いからです。

母娘関係は永遠のテーマ

 「母は時々、私を傷つけた。私は、良いお母さんになりたかった。それなのに、ふと気がつくと、子どもに罵声を浴びせ、私が一番嫌だった母と同じことをしている。」「お母さんに甘えたい。お母さんに認めてもらいたい。お母さんじゃなきゃダメなんです。」「母は、ありのままの私を愛してくれなかった。母に愛してもらうために、私は一生懸命、理想の娘を演じてきました。」「仕事も夫も、お母さんの望むように選んできたのです。このままでは、私の人生ではなく、お母さんの人生になってしまう。」「お母さんが怖いんです。どこまで逃げても追いかけてくる。」

 30代、40代、時には50代になっても、女性たちの悩みの中には、母との関係が顔をのぞかせます。女性のライフサイクルに添って、女性の視点で女性をサポートしようと研究所をスタートさせて十数年。日々のカウンセリングを通じて出会う女性たちの悩みはさまざまですが、母娘関係だけは永遠のテーマと言いたくなるほど、どの世代の女性にとっても、普遍的な問題です。娘として母のことを考えると、いろんな不満を感じるけれども、母として娘のことを考えると、自分が娘の人生にどんなに大きな影響を与えているのか、怖くなる・・・。

 子育てをするとき、母たちは、母としての理想を、自分の母を基準にしてつくりあげますが、描いた理想と比較して、自分の母親ぶりに満足する母は残念ながら少数です。「母みたいなお母さんになりたい」と思っていた女性たちは、「母みたいなお母さんには到底なれない」と感じ、逆に、「母みたいなお母さんにはなりたくない」と思っていた女性たちは、「母みたいなお母さんになってしまった」と感じるのです。

 本当は、自分の母親のようなお母さんだろうと、自分の母親とは違ったお母さんだろうと、自分らしいお母さんであれば、それで良いのですが、娘がつねに、自分の母親との関係のなかで自己定義していくとところに、母娘問題のテーマがあります。

母娘関係は生まれた時から始まる


 オギャーと生れ落ち、「お嬢さんですよ」の声を聞いた瞬間から、母娘関係はスタートします。生まれる前から女の子だとわかっている場合もあるでしょうし、女の子だと決めつけている場合もあるでしょう。いずれにしても、それが現実のものと確認された時、あなたは、最初に何を思ったでしょうか?

 喜んだ人、がっかりした人、さまざまでしょう。自分の理想だったお嬢さま、奥さまコースを歩ませたいと空想する人もいれば、大きくなってから、二人でおそろいの服を着たり、交換したりする仲良し母娘を夢見る人もいます。娘が生まれた瞬間、「これで、老後の面倒を見てもらえる」と思ったという人もありましたし、「この子も自分と同じように、社会のなかで差別され、性暴力の危険に晒されて生きていかなければならないのかと苦しくなった」と言った人もいました。

 私自身のことをお話しますと、娘が生まれたとき、私は、なぜか、「この子には仕事を持ってちゃんと生きていって欲しい」と思いました。同時に、そんな自分をおかしく感じ、笑ってしまったのです。最初に息子が生まれたとき、私は、彼の将来を勝手に空想することはありませんでした。「どんな道であれ、責任を持って自分の人生を歩んで欲しい」と思っただけです。それが、娘には、仕事への期待が生まれたのです。

 ちょうどその頃、私は、自分がどんな形で仕事を続けようかと迷っていました。上の子が生まれてからは、週一日だけ非常勤のカウンセラーをしていたのですが、娘を生むときに産休がとれず、いったんやめざるを得ませんでした。子育てを中心にして、適当な非常勤の口を見つけるのがいいか、それとも、自分のペースで仕事を続けられるように、部屋を借りて開業するか悩んでいました。子育てしながら、女性がフルタイムで仕事をするのは、まだまだたいへんです。うちは核家族で、子どもが病気をしたときにあてになる人もいませんでした。

 そんな私が、娘を産み、娘には、仕事をする女性を望んだのです。これは、私自身の願望だったと思います。そんな自分に気づいて、私はしっかりと仕事を続けていく覚悟が決まりました。危ない、危ない。もしも、私が、自分自身の仕事をおろそかにして、子育て中心の生活を送るなら、仕事する女性という自分の理想を、娘に押しつけてしまったことでしょう。「自分の夢は娘に期待するのでなく、自分自身が生きなければならないのだ」と腹を括った私は、3ヶ月の娘を抱えて部屋さがしをし、女性ライフサイクル研究所を立ち上げたのです。

母親は娘に女性としての自分を投影する


 基本的に同性であるということは、同じだからよくわかるという気持を強めます。母親は、男の子については、よくわからない部分があることから、自分とは別個の他者として尊重する姿勢を持つことができます。それに対して、娘には、娘が通る道は、自分も通ってきた道だから、よくわかるという思いを抱きやすくなります。娘は同性であるがゆえに、母親は、そこに、女性としての自分を投影しやすくなるのです。それは、そんなふうに生きたかったけれど、生きられなかった自分であり、自分が生きることを早々にあきらめた人生、これまでの自分の人生をリセットして、
娘として新たに生まれ直し、再出発したいという願望かもしれません。

 父親が息子に、母親が娘に、自分の理想を託す、期待するということを、一概に否定することはできませんが、それが過剰になれば、子どもたちは、自分の人生を生きることができず、親の代理人生を生きさせられることになってしまいます。子どもが親の期待に応えられない場合、親は、やむなく、自分の理想を修正し、少しずつ、ありのままの子どもを受け入れるようになっていくでしょう。

 でも、小さな子どもは、まだ、自分自身の価値判断ができませんから、一定の年齢までは、親の言うまま、思うままに成長するかもしれません。子どもの方が、親の期待に応え続けることができてしまった場合、むしろ、後になって、母娘関係の修正が大きな課題になります。母娘関係のこじれが表面化するのは、多く、娘の思春期です。子どもは思春期になると、親から独立した自分を築くために、反発し始めます。この時期、親子関係が葛藤に満ちたものになることは、ごく自然なことですが、これをスムーズに乗り越えるためには、子どもの小さいうちから、親の方が、ちょっとした心構えをしておくことが大切なのではないかと思うのです。

 それは、娘は自分ではない、娘は自分とは別の独立した人格なのだということを認めることです。父と息子にも同じことが言えるのですが、母親ばかりが子育ての大半を担っているという現実は、母娘関係にとりわけ困難な問題を引き起こします。

母親ばかりが子育てを担っていることから生じる問題点


 人と人とが関わりあうとき、関わりの時間が長ければ長いほど、大きな影響を与えることになるのは必然です。もちろん、人生には、誰かのたった一言によって人生が大きく変わったというようなことはあるかもしれません。関わった時間と影響力がきれいに正比例するというわけではないでしょう。それでも、一般的には、長い時間をともに過ごした人から受ける影響は大きくなるはずです。ましてや、人格形成の基礎がつくられる人生初期に長い時間を一緒に過ごす人々から受ける影響力は大きくて当然です。

 子育てを母親一人が担っているという状況において、母親が子どもに絶大な影響を与えることになるのも無理はありません。子どもにとって母親が重要だから、子どもが母親から多大な影響を受けるのではなく、母親ばかりが子育ての大半を担っているという現状のために、子どもが母親から多大な影響を受けるのです。「子どもにとって母親は絶対的存在。責任を持って、しっかり子育てして」というのは、むしろ逆だと思います。母親が一人で責任を負えば負うほど、子どもにとって絶対的存在になってしまうでしょう。

 そもそも、「自分が誰かの人生に絶対的な影響を与えることができたら、その人は立派な人間になること間違いなし」と言えるほど、自分に自信を持っている人などいるでしょうか?母親であってもなくても、みんな欠点だらけの人間です。人格の土台が形成される幼少期、子どもたちがいろんな人から影響を受け、その中から、自分なりの個性を育んでいける方がよいのだと思います。

 愛着理論で有名なボウルビィは、一人の養育者より、複数の養育者が子育てに関わる方が、子どもは安定した人格を形成すると言っています。大家族での子育てや、保育所を利用した子育てでは、努力せずとも、母親以外の大人が子どもと接する時間が確保されますが、専業で母役割をこなしている場合、これには努力が必要になってきます。子育ての負担を一人で抱え込むのでなく、夫や家族、友達や近所の方々に子育ての一部を担ってもらうよう、子育ての責任を手放す必要があるのだと思います。

 現状としては、母親が子育ての大半を担い、その母親は娘に自分の理想を投影するのですから、ますます、母と娘の間の距離感はなくなっていきます。それだけに、娘は、母親と違う自分らしさを育てていくことが難しく、思春期以降の課題となる分離独立のプロセスは困難になります。

娘は母親のケア・テイカー(情緒的な世話役)になりやすい


 母娘関係が困難になる理由は他にもあります。それは、母親たちが娘に望む期待のなかにも潜んでいます。母親たちは、「娘は母親の気持をわかってくれ、いつまでも自分のものでいてくれる」と期待する傾向があります。


 最近では男女平等が進み、男の方が虐げられているという意見まで耳にするようになりましたが、少なくとも、子育ての現場で、「女の子はやさしく」という規範は、まだまだ健在です。男の子が自己主張することは奨励されますが、女の子が主張すると、わがままだとレッテルを貼られることが多いものです。男の子に対してより、女の子に対して、人の気持がわかる優しい子であって欲しいという期待が強くなるのです。

 このような規範のもとで育てられた女の子は、男の子と比べ、他者の気持に敏感で、場に対する配慮をすることが得意です。しかも、女の子は、同性である母親をモデルに成長しますから、家族の中で、ほとんどの場合、ケア・テイカーの役割を担っている母親をまね、男の子よりも感情面に敏感に反応します。こうして、母親の気持がよくわかる娘がつくられていきます。娘は、「お母さんを喜ばせてあげたい」という気持が強く、母親の良い娘になろうと努力することでしょう。

 大人になってから、子ども時代、母親のカウンセラー役をやらされていたと語る娘たちがいます。靖代さんもそうでした。父親から怒鳴られながらも、祖父母に仕え、家事をこなす母親がかわいそうで、子ども時代、ずっと、母親の愚痴を聞いてあげていたそうです。具合が悪い時でも、学校で辛いことがあった時でも、母親に心配をかけたくないばかりに、自分のことは話さず、聞き役に回って、母親を支えていたのです。

 今は思春期の娘、鏡ちゃんは、小さい頃から、母親にあちこち引っ張り回されたことが嫌だったと語ります。本当は、あちこち出歩くより、家にいて、のんびり絵を描いたり、本を読んだりして過ごす方が良かったのです。鏡さんの母親である秀子さんは、小さい頃、よその家と比べて、あまり遊びに連れていってもらえず、寂しい思いをしてきました。将来、子どもができたら、あちこち連れていってやりたいと思い、鏡ちゃんが生まれてからは、休みともなれば、張り切って、あちこちの遊園地や百貨店に連れて行き、娘が喜ぶ顔を見ることに満足を得ていたのです。鏡ちゃんは、思春期になるまで、母親の機嫌を損ねるのが怖く、また、母親を喜ばせたいがために、自分の本当の気持を抑え、母親に合わせてきたそうです。

 人の気持がわかるやさしい子であることは、決して悪いことではありませんが、過剰になると問題が生じてきます。親が子どもの世話をしなければならないのに、子どもの方が親の感情の世話をするというのでは、役割の逆転です。いつもいつも、自分の気持を抑え、他者の感情を優先してばかりいると、うまく自己を形成することができなくなってしまいます。

母親は自分の人生をあきらめ、娘に自分の代理を期待してしまう


 他にも困難があります。世間では、母親になったからには、自分のことは後回しにして、子どものことを最優先して尽くすことに喜びを見出すものだという考え方が氾濫しています。これは、誤った考え方です。いつもいつも、自分のことを後回しにする人間は、自分の主体的な人生を生きることができません。自分の人生を生きることのできない人は、誰かの奴隷として生きるか、逆に、知らず知らずのうちに、誰かを奴隷のようにして生きることになってしまいます。


 すでに見たように、母は娘と一体化し、距離感を失ってしまう傾向が強いことから、「娘のために」という大義名分を振りかざして、娘に自分の代理人生を期待してしまうかもしれません。ただひたすら子どものためにと頑張っている時の気持は純粋なものだとしても、人は、エネルギーを注いだものには、どうしても見返りを期待してしまうもの。子どもが思うような成果を見せてくれないとき、または、子どもが母親の価値観に挑戦してきたとき、「あなたのためを思えばこそ・・・」「子どものために、これだけ一生懸命やったのに・・・」の言葉で、将来、子どもを脅迫してしまわないでしょうか。

 弥生ちゃんの母親、公子さんは、ピアノをやりたかったという夢を娘に託し、弥生ちゃんが小さい時から、音楽の英才教育を施しました。弥生ちゃんは、公子さんの期待に十二分に応えて、メキメキと腕を上げ、毎年、コンクールで賞を取り続けました。公子さんの夢は膨らむばかりでしたが、弥生ちゃんは、大学を選ぶ段になって、母親に反発し始めたのです。弥生ちゃんが、「音楽は趣味にしたい。受験は勉強で勝負する」と言い切った時、公子さんは全身の力が抜けたと言います。家計を切りつめ、安くないレッスン料を繰り出し、車で送り迎えしたこれまでの苦労はどうなるのでしょう?しばらくの間、二人は大きくぶつかり、へとへとの状態が続きました。

 公子さんの話を聞いて、私が感心したのは、公子さんが、最後には、娘の言い分を認め、「これからは、娘に期待するのでなく、自分の人生を一生懸命に生きよう」と決意されたことです。公子さんは、自分が家庭に入ってしまったことを後悔し、娘には、社会で活躍して欲しいと願っていたのですが、この後、大学院に入学し、現在は専門職として働いています。

 幸か不幸か、ある程度まで、母親の期待に応えることができてしまった娘たちは、どこかで壁にぶつかります。それは、息切れしてきて、これ以上、母の期待に応え続けることはできないと自分の力に絶望したときや、これまで母親の言うとおり打ち込んできたけれど、本当は自分のしたいことではなかったと気づいたときかもしれません。子どもが小さいうち、問題は表面化しないことが多いものですが、思春期に衝突が起こります。

 すべての母親たちが、公子さんのように、最終的に娘の主張を受け入れることができれば良いのですが、「これまでこんなにしてやったのに」「この親不孝者」などと恨み言を言ったり、「あなたは間違っている。お母さんの言うことを聞かなければ、ろくなことはないよ。」などと脅したりしてしまって、関係がこじれてしまうケースは少なくありません。そこで娘の方が自己主張をあきらめ、自分の人生を生きることを放棄してしまうなら、問題を先に持ち越すだけです。逆に、娘が、本当に自分の人生を生きるためでなく、ただただ母親への反発から、母親のもっとも嫌がる選択をしていくと、娘は、自分で自分を苦況に陥れるようなことになってしまいます。

 自己犠牲というのは一見美しく見えますが、自分の人生をすっかり投げ出した自己犠牲は、問題です。ちょっと不気味なたとえですが、自分の人生を生きずして、子どもに代理人生を期待する母親とは、寄生虫や寄生植物のように、他人の生き血を吸って、自分を大きくしていくという危険性を孕んでいるのです。

より良い母娘関係のために


ここで、母娘関係の特徴と問題点を整理しておきましょう。


①母親ばかりが子育てのほとんどを担っているために、母親の影響力が絶大になる 

②同性であるがゆえに、母親は娘に女性としての自分を投影しやすい
③女性は他者の感情に敏感であるよう育てられるため、娘は母親のケア・テイカーになりやすい
④母親は自己犠牲を求められるため、自分の人生を放棄して、娘に自分の代理を期待してしまう 

最後に、それぞれの特徴から生じる問題をクリアするために、今からできる工夫をアドバイスしておきたいと思います。

① 自分だけで子育てを担うのをやめよう。


 子育てを自分以外の大人に任せる時間をつくりましょう。どんなに立派な母親だとしても、365日24時間、いつも一緒に過ごすのは過剰です。夫、家族、友人、保育ママさん、シッターさん、誰でも構いませんが、誰か他の人にすっかり子育てを任せてしまう時間を確保しましょう。近所の子育て仲間と子どもの預け合いっこしたり、育児サークル、子育て広場など、集団の場に入るのもひとつです。

② 娘は自分とは別個の存在であることを忘れないようにしよう。


 「娘のことは私が一番よく知っている」「娘の幸せは私が決める」という考えは捨てましょう。女同士でも、理解できないほど自分とはかけ離れた人たちがいたことを思い起こしましょう。わが子と言えども、自分とは性格も好みも違う別個の人間であることに目を向けましょう。

 小さな娘が自分と違う選択をしたとき、それを尊重しましょう。たとえ、娘が自分の趣味とは違う服や靴を選んだとしても、「それもステキね!」と認めてあげるのです。娘が自分には思いもつかない発想をしたとき、「○○ちゃんは、おもしろいこと考えるのね。お母さんには、そんなこと思いつかないわ!」とほめましましょう。娘が母と違った価値観を持ってもオーケーなのだというメッセージを伝えることができます。

③ 娘をケア・テイカーにしない。


 小さい娘に自分の苦労や辛さを訴えることは控えましょう。子どもはお母さんが大好きですから、ただでさえ、母親を気遣い、心配します。たとえ、現実に困難を抱えているときでも、「今、お母さんは他のことで手一杯で、あなたに十分にかまってあげられずに、ごめんなさいね。でも、心配しなくても大丈夫だから。」と、子どもの安心を保証することが大切です。

 たいへんなときには、夫、友人、家族など、支えてくる他の大人に援助を求めましょう。

④ 娘に代理人生を期待せず、自分の望みは、自分でかなえよう。


 自分がやりたかったことを娘に託すのでなく、自分のやりたかったことは、自分でやりましょう。望みがそのままの形で叶うことはまれでしょうが、現実のなかで折り合いをつけ、今の自分にできることを考えてみましょう。

 子どもがいない時間、子どもが寝ている時間に、家事を片付けてしまうのも良いでしょうが、毎日30分でも、1時間でも、自分自身のために使う時間を確保しましょう。日記をつける、本を読む、勉強する、絵を描く、ピアノをひく・・・何でも構いませんが、子どもに直接関係ない自分の好きなことのために時間を使いましょう。子どものために自分の人生を犠牲にしたなどと恨みを持たずにすむよう、たとえ家事の手抜きをしたとしても、自分のために使う時間を作ることが大切です。

 大切な娘と末永く良い関係が持てたらいいですね。

1998.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
今、子どもたちの心と社会は

女性ライフサイクル研究所 村本邦子

 「ムカつく」「キレる」などという言い回しが新聞紙面に登場し、理解不可解な今の子どもたちを形容する枕詞にさえなったようだ。しかし、「今時の 子どもたちは......」という言い回しは、非難のニュアンスとともに、いつの時代にもあった。いつの時代でも、子どもたちの心が見えないのは、それを見ようと しないからだし、子どもたちの声が聴こえないのは、それを聴こうとしないからではないだろうか。
 私は60年代を子どもとして過ごし、70年代に思春期を迎え、大学時代は家庭教師として子どもたちと関わった(週8軒回ったりしていたから、6年間の学 生生活で30人以上の子どもたちと関わった)。その後は、思春期外来で子どもたちと会い、子どもを産んで、我が子や周囲の子どもたちともつながっている。 とにかく、途切れることなく、つねに子どもたちと接点があったが、いつの時代も子どもは一緒というのが、私の実感である。たしかに、時代の変化とともに、 表に見える子どもたちの姿は大きく変化したが、子どもたちが感じること、考えることは、私たちの時代と、それほど大きく隔たっているようには思わない。
 本特集は、見えにくい子どもたちの心を見ようとし、聴き取りにくい子どもたちの声を聴こうとする試みである。「今時の子どもたちはわからない」という言葉が、子どもたちを理解することへの拒否でなく、わかりたい、わかろうとする謙虚さへの出発になることを願っている。
 章外だが、トップ・バッターは、アフリカから徳永瑞子さんである。徳永さんのことはご存知の読者も多いだろうが、NGO「アフリカ友の会」の代表として 中央アフリカ共和国に滞在し、エイズ患者の支援活動をしている助産婦/看護婦さんである。今回は、おもに彼女の3人の子どもたちのことが書かれてあるが、 場所が変わっても、やはり子どもは子ども、世界中一緒であることを、まず知ってもらえたらと思う。診療所を駆け回って仕事の補助をするというポールくんに 社会性がないなどとは思えないが、将来のために教育をと願う徳永さんの親心、それを解せず我が道をいく思春期の子の関係は、日本の親子とそっくり同じじゃ ないかとほほえましかった。一方で、アフリカの子どもたちのおかれている状況の厳しさは、想像を絶するものがある。世界の政治経済を私たち個人が今すぐど うにかすることはできないけれども、通信や交通の発達に伴ってアフリカが決して遠い国でなくなった今、私たちはせめて世界で起こっていることに関心を持ち 続けたいものだ。
 さて、第一章は日本の教育への疑問から始まる。服部さんの義務教育カルト論は、初めての方にはいささかショッキングかもしれないが、けっして、読者の皆 さんを混乱させようと意図しているわけではない。子どもの問題が言われだして久しく、さまざまな対策が取られながら、いっこうに変化の兆しが見られないの は、そもそも、学校が建てられている土壌に目を向けてこなかったからだと考えれば、得心するからだ。この章の書き手たちのように、学校内部で真摯に頑張っ ている先生やスクールカウンセラーがいることは重々承知しているが、彼らが子どもの心に寄り添おうとすればするほど、さまざまな矛盾や葛藤に苦しむことに なるというのが現状のように思う。「どうか自分を責めないで。学校だけに囚われず、学校の外の世界とつながることが力になる」と伝えたし、のである。こう いった新しい流れのなかで、周囲の大人たちに支えられながら、国連でプレゼンテーションを行った桂高校の荒井さんたちの答辞は生まれてきたのだと思う。こ こに、本当の教育とは何かを考えるさいのヒントが隠されているのではないだろうか。
 第二章は、日々子どもたちの声に耳を傾けているカウンセラーたちの見た子どもたちの姿であり、子どもたちの声の代弁でもある。これらを読めば、一般には 理解しにくい子どもたちの心身症、不登校、キレる、ダべる、引きこもり、性の悩みなどの現象の意味がよく見えてくるのではないだろうか。「今時の子はわか らない」という大人のぼやきは、子どもたちには、拒否と見捨てられを意味しかねない。子どもは、いや大人だって、他者から自分の生に意味を感じてもらうこ とを求めているはずだ。誰かから関心を注いでもらうこと、自分の言葉(時には言葉なき言葉)に耳を傾けてもらうこと、そして理解されることがなければ、私 たちは生きていくことはできないのである。
 ただし、ここで私の立場からは、植田先生の「哺乳類の母」と「父親の役割」への反論だけはしておかねばと思う(植田先生、ごめんなさい!)。子育てが一 人より二人で行われる方が負担は少なく、その場合、伝統的な母役割と父役割が二人の間で役割分担される方が効率はよいのだろうし、その役割を、そのまま産 みの母と父が担うということは実際、数として少なくないかもしれない。それでも、これを生物学的なものと前提してしまうことの弊害を私は嫌というほど見て きた。詳しくは拙著(『しあわせ家族という嘘』創元社)で論じたが、母性が必ずしも「母親の体内から、自然に湧き出て」くるとは限らないし、これらの前提 に従わない親たちの罪悪感を煽る。「こういう議論を聞くたびに、どうせ自分はだめなんだ、実の両親に育てられてないんだから、と少々すねた気持ちになるん ですよ」とおっしゃった方もあった。「子どもはそれぞれ違う」を延長すれば、「大人だってそれぞれ違う」に行き着くはずだ。
 第三章は、子育てを親の責任に還元していくよりは、社会に開き、コミュニティが親子支援をしていく方向性への提案である。岩堂先生のおっしゃるように、 地域共同体が崩壊し、育児において母親の責任が強調されすぎたことからくる歪みを修正するうえで、今後、コミュニティに開かれた子育ては不可欠である。 「学校カルト論」と同じく「家庭カルト論」もあり得るわけで(実際のところ、虐待が起こる家庭を知れば知るほど、それが小さなカルトであることを感じ る)、もっとも危険なのは、家庭の閉鎖度が高いことだと感じている。どんなに立派な親であってもただの人、だからこそ抱える偏りの弊害を減らすためにも、 佐藤さん、松浦さんたちが試みている保育のように、外から風が吹き込む窓があることは救いになるはずだ。こんな支えがあってこそ、親も子も(保育者も同じ らしい)成長することができる。伊藤さんの提起は、たとえどんなに親が立派でも、子どもを支えるうえで限界があるということを示唆してくれる。吃音はひと つの例だが、親がどんなに子を肯定できたとしても、子の個性を社会が認めてくれない限り、子は人生の発達課題を達成することができないのだ。親子丸抱えで 受け入れてもらえるセルフヘルプ・グループが有効なゆえんである(『女性ライフサイクル研究6号、特集セルフヘルプグループ』をご覧ください)。
 第四章では、大人の人生と子どもたちとの関係を考えてみた。子どものことを考えるさい平井さんのように「生まれなかった子ども」にまで想いを馳せるの は、女性ならではかもしれない(このような視座を共有してくれる男性があるかもしれないとほのかな期待を持ちつつ......)。この章から読み取れるのは、子ど もの命や生が、大人の選択によって決定されていく現実だろう。その責任の重さを直視しつつ、私たちはどう生きてきたかが問われ、姿勢を正さざるを得ない気 分になる。子どもとの関わりを通じて私たち大人の生きざまが問われるのだというテーマは、当研究所が一貫して抱えてきたものである。
 さて、第五章では、社会に眼を向けてみた。少年事件のたびに新聞を賑わす「少年非行の凶悪化」は、津富さん、小松さんによれば、どうやら嘘らしい。マス コミの報道に乗せられて安易な結論を出すことで、子どもたちの本当の姿を見誤らないよう注意したいものだ。子どもたちの本質は変わらない、問題は大人たち の側にあり、子どもたちは大人社会を映し出しているだけだろう。大人の過ちを子どものせいにするということを、私たちは長いこと繰り返してきたが、自分た ちの失敗を認め、子どもたちを守り育む責任を果していかなければと思う。そのさい、砂川さんが提起してくれた保護と自己決定の双方をよく考える必要がある のだろう。エクパットの活動は、その試みそのものかもしれない。子どものことを考えるうえで、私たちの身近な子どもたちだけでなく、日本の外へも眼を向け る必要性を感じる。なにしろ、わが国は、子どもの商業的性搾取にかなりの程度、加担してきたわけだし、そんな大人の姿を子どもたちはじっと見ているのだか ら。
 最後になりましたが、いつも温かく応援してくださっている皆様、原稿を寄せてくださった皆様、表紙とイラストを描いてくれるJunさん、パソコン編集のいのきえみさんに感謝したいと思います。

『女性ライフサイクル研究』第8号(1998)掲載

1998.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』第8号(1998年11月発行)

特集《今、子どもたちの心と社会は》


report08.gif「今時の子どもたちは...」という言い回しは、非難のニュアンスとともにいつの時代にもありましたが、子どもたちの心が見えないのは、それを見ようとしないからですし、子どもたちの声が聴こえないのは、それを聴こうとしないからではないでしょうか。
本特集では、見えにくい子どもたちの心を見ようとし、聴き取りにくい子どもたちの声を聴こうと、現在、様々な立場で子どもの問題と関わっている方々にご執 筆いただき、子どもの視点から子どもの心をみつめ、子どもを取り巻く学校や社会の問題を捉え直しています。ぜひ、ご一読ください。

〈内容〉


1 学校と子どもたち
教育とマインドコントロールの違い
学校内の体罰と子ども
学校について、自分について
中学校でのスクールカウンセラーのまとめから
子ども代表として国連子ども権利委員会に報告して

2 相談に訪れる子どもたち
大好き!!お母さん~小児科相談室で出会う子ども達
思春期外来の子どもたち
子どもが引きこもるとき
思春期相談を通じて思うこと

3 コミュニティーと子どもたち
カナダで学んだ「アドボカシー」と「ピアペアレンティング」
子どもが子どもとして生きるために
保育ルームで出会う子どもたち
吃っているそのままでいい~吃音親子サマーキャンプ

4 大人の生き方と子どもたち
生まれなかった子ども
一人っ子、子どもたちに問う
現代女子高生見聞録~関係性の中で生きる彼女たちの声から
子どもの良心の発達を考える~仲間関係に対するアプローチから

5 社会と子どもたち
非行少年
すぐ「キレる」こども? おとな?~弁護士付添人から見た、少年非行をめぐる近時の状況について
保護することと個を認めること
子どもの性的虐待・搾取~日本の課題


約200頁 1,000円

〈掲載論文〉
今、子どもたちのこころと社会は 村本邦子

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1997.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
中年期の女性の課題

女性ライフサイクル研究所 村本邦子

 ここ数年、私自身、中年期を自覚するようになった。年齢を考えてというよりは、体の変化、子どもとの関係、夫との関係、それから仕事などが、それを感じさせる。
 体のこと。私はもともと元気なタチで、よく食べてよく眠るし、肩凝りとか腰痛とかとは無縁だった。それが、すぐ、体に出るようになった。ストレスが高ま ると、どっと白髪が増える、胃の具合が悪くなる、頭痛がする、眠りにくくなる、肩や背中が凝ってくる。どうやら、これらは私のストレスサインで、「もっと 自分を大事にして暮らしなさい」と赤信号を送ってくれるようだ。ふと、これまで、私は本当に元気だったのか、もしかすると単に鈍感だっただけではないのか とも思えてくる。病気がちの人、病気を抱えながら生きている人たちにとっては当たり前のことなのだろうが、私にとって、これらの体の変調は、老いとしてだ けでなく、年齢とともに、自分の体としっくりやれるようになったこととしても感じられる。
 子どもたちも成長し、物理的な世話はぐっと減った。まだまだ、気にかけなければならない面もあるが、それぞれに、自分の世界を持ち始めている。ある種の 一体感は失われ、子どもたちも、一人の別個の人として生き始めているような気がする。夫との関係も、10年が過ぎ、10年ひと昔と言うけれども、ひとつの 時代を共にしてきた感慨もある。互いに必死ではあったけれどわがままなぶつかりあいを経て、ようやく、少し平和で穏やかな基盤を得たようにも思う。期待、 断念、現実、そして受容と尊重と......
 おかしな話だが、ようやく、本当に仕事をしようという気持ちになったことも大きな変化だ。長いあいだ、私にとって、仕事とは、現実の生活を支える必需品 という意味と、おもしろいことという意味の二つしがなかった。私には、仕事が多分に自己中心的な動機に基づいていたように思うのだ。ところが、こうして仕 事を続けてきて、今では、自分を社会にいかすという意味が付け加えられ、エリクソンのいう「世代性」という概念を意識するようになった。「世代性」とは、 次世代を確立させ、導くことへの関心、自己愛的なあり方から、もっと人類的な次元へと関心を拡げていくことを示している。ようやく、自分が本当に大人に なったような気がする。
 さらに、自分を歴史の流れに位置づけられるようになったのも変化である。子どもの頃、両親の子ども時代や戦争の話を聞いても、それは、おとぎ話のように 現実離れした「昔々、あるところに......」の物語のようなものだった。30年も40年も生きていると、歴史的な大きな出来事もいくつか経験するし、今から 50年前、60年前が、どの位のところにあるのか、大方の見当がつく。歴史の教科書に出てくる出来事が、バラバラの断片としてでなく、自分のいるこの現在 と連続した時間軸にあるのだということが、ようやく実感できるようにもなった。
 同時に、前の世代への思いも沸いてきた。どちらかと言えば、私はこれまでずいぶんと不遜で、誰かからアドバイスをもらってうまくやるより、自分の思うよ うにやって失敗することを好んだ。自分の体で納得しなければ、どうにも満足できなかった。今は、人生の先輩たちから学び、それに連なっていきたいという気 持ちが出てきた。中年期という今回のテーマは、まさに、先輩たちに教わりたいことのひとつである。
 第1章では、各世代の中年期体験を語って頂いた。意図したわけではなかったが、この章の執筆者は、みな何らかの形でカウンセリングに関わっている方々で ある。職業上の豊富な経験に加え、洞察力、分析力などといった点で優れた才を発揮してご自身の体験を語って頂いたので、さすがに読み応えがある。「世代と 中年期」としたが、中年期を終えた人、中年期真っ最中の人、中年期に入ったばかりの人、それから中年期前の人と並べて見ることで、それぞれの中年期の背後 にある時代を感じて頂けたらと思う。個々人の生き方もさることながら、中年期を規定する時代背景は変化していく。中年期という時期ができたのも比較的最近 のことながら、各世代、モデルのないなか模索してきたのだろう。ひとことに中年期と言っても、その時代のもつ社会的、文化的背景を欠かすわけにはいかない ことがよくわかる。
 第2章では、中年期女性が出会う可能性のある個々の課題に焦点を絞ってまとめてみた。中年期も、その入口にいるのか出口に近いのかで、状況はずいぶんと 違うだろう。それでも、一般的には、子ども、夫、親など家族との関係を見直したり、性や体の変化と折り合いをつけるといったことと直面するようだ。それら は、子ども時代の親との関係、思春期や子育てといったこれまでの人生を自分自身がどう生きてきたかの問い直しでもある。
 第1章からもわかるように、中年期が決して特別な時期であるわけでなく、それまでの生の延長にあるわけだが、改めて立ち止まって、「本当にこれでいいのか」と自分に問いかけるのが中年期なのだろうか。いや、ひょっとすると、特別意識せず過ぎていく中年期もあるのだろう。
第3章では、必ずしも中年期と関わりがあるとは言えないさまざまな人生を生きる女性の中年期に焦点をあててみた。シングルにしても、夫の海外赴任にして も、震災や子ども時代のトラウマにしても、本来、決して特殊な問題ではなく、さまざまな形であらゆる女性に関わってくる問題なのだと思う。第1章で佐藤先 生からの指摘もあったが、奥田さんからも、特別中年期を言うことに対する批判が提示されている。私も、特別中年期を言うことで、個々の女性の人生を型には めてしまうことを望んではいない。女性のライフサイクル論が「女の人生表街道」や「まともな女性のあり方」の規範を示すだけなら、単に現状適応を押しつ け、個々の女性を苦しめるだけだろう。でも、これらが、苦しみや悲しみを伴いながらも、多様で柔軟な女性たちの姿として浮かび上がってくるならば、それぞ れの女性が自分のいるところを確認し、人生を選択していく上での励ましのメッセージとなり得るのではないかと思っている。
 第4章では、中年期の女性へのサポートやサービスを提供する女性たちの目に映っているものをまとめて頂いた。執筆者は、それぞれご自身も中年期にある 方々ばかりだ。電話相談、個人面接、サポート・グループ、サイコ・ドラマ、女性学学習と形はいろいろあるが、偏った社会の中にある女性の立場を尊重し、 個々の女性がその偏りに気づいていくなかで、自分自身を問い直す手助けをする、あるいは自己表現を促し、自己評価を高めるという手続きは共通している。
 中年期女性の課題は、外から押しつけられてきた規範と、しらずしらずのうちに取り込んできたそれを見直し、本当に自分にとって必要なものとそうでないも のをより分け、自分の納得いくように自分の人生を立て直すチャンスになるものだと思う。本来、人生とは、いつの時期もそういうことの繰り返しなのだろう が、これからの時代、中年期を生きる者として、ますます自分本意に、自分が何を大切にして生きていこうとしているのかを常に確認しながら選択していきたい と思う。
 最後になりましたが、原稿を頂いた皆さん、いつもFLCの活動を応援してくださる皆さんに、あらためて感謝します。8年のうちにはいろいろなことがあり ましたが、ここまで息長く活動を続け、この仕事を大切に思えることも、皆さんの支えがあってこそです。例年のように表紙とイラストを描いてくれたJunさ んと、今年はパソコン編集を手伝ってくれたいのきえみさんにもお礼を言いたいと思います。今回の年報をすべて女性の手で作り上げたことを誇らしく感じてい ることを付け加えておきます。

『女性ライフサイクル研究』第7号(1997)掲載

1997.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』第7号(1997年11月発行)

※この号は売り切れました。

特集《中年期の女性の課題》


report07.gif中年期というのは、女性の一生の中でも、これまでの人生を振り返り、この先の人生の生き方を模索する、重要な転換期です。それにも関わらず、今までほとん ど取り上げられることのなかったこのテーマに、本書では、女性の視点から、女性の手で光を当ててみました。中年期女性の心・体・性・夫との関係、親子の問 題、介護、シングル女性など、さまざまな中年期女性のさまざまな側面に目を向けて、取り上げています。
これから中年期に入ろうとする人、現在中年期真っ直中の人、中年期を終えようとしている人にも、自分を見つめ直し、より自分らしく生きるための役立つヒントが満載です。ぜひ、ご一読ください。

〈内容〉


1 世代と中年期
2 中年期女性が出会うもの
3 さまざまな中年期女性
4 中年期女性へのサポートの方法と現場から


〈掲載論文〉
中年期の女性の課題 村本邦子

1997.11.10 関連図書
「しあわせ家族」という嘘

books_shiawase.gif【村本邦子 著】

同世代の女性の心のSOSを受けとめてきた気鋭のカウンセラーである著者が、様々な父をもつ9人の娘の心の傷を通して、娘の立場から「父」「父性」を考え、「しあわせ家族」の病と、方向喪失した日本社会を描くサイコ・エッセイ 。


〈目次〉

第1章 「しあわせ家族」の侵入する父 
第2章 「しあわせ家族」の不在の父 
第3章 「しあわせ家族」のさまざまな父 
第4章 父という人 
第5章 父を超えて-娘たちのこれから


創元社 1997年発行 265頁 1,575円(税込)

1996.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
はじめに~セルフヘルプ・グループ

女性ライフサイクル研究所 村本邦子

 女性ライフサイクル研究所(FLC)を始めて、6年がすぎた。まだ小さかった子どもたちを抱えながら、何かしたいという思いに尽き動かされてやっ てきたが、だんだんと、振り返って足跡を辿るほど、ゆとりもでてきたし、遥か遠くまで歩いてきたのだと思う。と同時に、スタッフそれぞれが、自分にとって FLCとは何なのか、自分はいったい何者で、何を求めているのかを、常に考えることを余儀なくされてきた。「自分が好きだからやる」というのが、いつも私 の鉄則だけど、「好きなことをやるためには、それに伴う好きじゃないこともやらなければならない」という鉄則も別にあって、いくぶん疲労を感じてもいる。 それで、今年は、成り行きまかせの無責任な編集を決め込むことにした。
 セルフヘルプという発想は、あまり勉強してこなかったものの、私自身にとっては、ごく自然に身につけてきたことのひとつである気がする。セルフヘルプの 語義には、「自分の力でやっていく」と「自分たちの力でやっていく」のふたつがあるらしいが、自立志向の強い私にとって前者は当たり前のことだったし、自 分の一面でしかないにせよ、外向的なところのある私にとって、仲間を求めるのも半分まで自然なことだった。もう半分が残ったのは、私がそこまで困っていな かったことによるのだろう。それが変わったところから、FLCは生まれた。子どもを産み、育てること、パートナーと向き合うことには、現実的な困難が多々 あったからだ(その意味は、人によって違うかもしれないが、少なくとも私にとって、それはクリエイティブかつチャレンジングである)。
 セルフヘルプ・グループの前提には、人々が困っていることと、孤立していることの二つがあるのだと思う。ごく自然に人々が支えあっている社会ならば、あ えてセルフヘルプ・グループを言う必要はないだろう。したがって、そこで目指されるものはふたつ、ごく自然に支えてはくれない社会に対して、自分たちの生 きにくさを訴えていく側面と、互いに支えあう(愛しあう?)ことで生きやすくしていく側面である。「運動」と「癒し」と言い換えてもいいかもしれない。
 私がそのことを意識するようになったのは、アドリエンヌ・リッチと出会い、女性解放運動の流れに自覚的に繋がるようになってからだ。自分が独立独歩の気 分でいた時には、一対一のサイコセラピーしか思いつかなかったが、自分を社会的歴史的に位置づけたとき(人々と一緒に生きている自分に気づいたとき)、セ ルフヘルプ・グループの力を実感するようになった。
 そういうわけで、今回の特集のきっかけは、「これからは、セルフヘルプ・グループの時代だ、セルフヘルプ・グループについて学びたい」と思ったことにあ る。本来は、セルフヘルプ』グループとは、自然発生的に生まれ、試行錯誤を繰り返しながら形を成すものだろうが、このような時代であるがゆえに、意図的に つくる―初めに、その必要性と意義を感じる人がいて、「仕掛け人」となる―場合もあろう。この特集では、セルフヘルプ・グループの定義をかなり曖昧にした うえで、さまざまなグループや人々の経験と学びを集めることにした。いつものように、「たまたまご縁のあった」方々に執筆をお願いしたが、快く原稿を寄せ て頂き、たくさんの問題提起をしてもらった。
 結論を出すつもりはまったくないが、私自身が興味をもっていることは、1. メンバーシップとリーダーシップのありかた 2. 運動と癒しのバランス 3. 専門家の関わり方(不要論も含め) 4. 経済的にどう成り立たせるのか 5. グループ全体の歩みと成長である。第一部は、まとまった形で原稿を寄せて頂いたものを歴史の長いものから、第二部は、グループ紹介として寄せて頂いたもの をアルファベット順に並べてある。第三部は、せっかくだから、FLCのセルフヘルプ的なありかたも、この際、振り返ってみようということになって後から追 加したものである。
 セルフヘルプ・グループの原則に従って、「書きっぱなし」「読みっぱなし」で、読者の方々にはどのように読んで頂いても構わないが、さまざまなグループ があることを紹介することで、必要に応じて連絡をとってもらえるように、また、さまざまなグループのあり方を参考に、必要に応じて新しいグループをつくっ てもらえるように、そして何より、喜びも苦しみも含めて互いの活動を知り合うことで支えあえるように、そんなセルフヘルプ的な役割を、この雑誌が少しでも 果たせたら嬉しい。
 ここまで活動を続けてこれたのも、FLCの活動に理解を示し、支えてくださっているみなさんのお陰だと感謝している。最後になりましたが、原稿を寄せてくださったみなさん、毎年、表紙とイラストを描いてくださるJUNさんと、読者のみなさんにお礼を言いたいと思います。

『女性ライフサイクル研究』第6号(1996)掲載

1996.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』第6号(1996年11月発行)

※この号は売り切れました。

特集《セルフヘルプ・グループ─もうひとつのエンパワメント》


report06.gifセルフヘルプ・グループとは、生きづらさを抱えた者同士が支え合う自助グループのことです。ごく自然に人々が支え合っている社会ならば、あえてセルフヘル プ・グループの必要はないのでしょう。けれどそうではない現実の中で、互いに支えあうことで生きやすくしていく側面や、自然には支えてくれない社会に対し て、自分たちの生きにくさを訴えていく側面などがセルフヘルプ・グループにはあります。それぞれのグループの歴史、活動内容などセルフヘルプ・グループに ついての情報を満載しておりますので、必要に応じて連絡を取って参加してもらえますし、さまざまなグループのあり方を参考に、必要に応じて新しいグループ を作ってもらえたらと思います。ぜひ、ご一読ください。

〈内容〉


性虐待、子ども虐待、アダルトチルドレン、子育て、親の会、女性の会、摂食障害、SIDS、アディクション、吃音、精神障害、HIV、がん等の疾病、殺人事件遺族、夫婦だけの家族...等のグループ


〈掲載論文〉
はじめに~セルフヘルプ・グループ 村本邦子

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