- 2005.10.25 活動報告-論文/執筆/学会活動等
- 子育ての分担は誰のため?~その2(2005年)
三重県男女共同参画センター『フレンテ三重』Vol.24 より
村本邦子
最近、子どもたちの声をたくさん聞く機会に恵まれた。10歳前後の子どもたちが両親についての愚痴やら希望やらを語り合っていたのだが、驚いたことに、子どもたちは、「お父さんが大好き!」だった。「お父さん、日曜日、眠ってばかりいないで、もっと遊んでよ!」子どもたちは、父親を求めている。かつて、「お父さんなんて、いない方がいい」「お父さんって何なのかよくわからない」「お父さんが家にいると、緊張して楽しくない」という声をたくさん聞いた。「子どもは親の背中を見て育つ」「お父さんの出番は思春期から」と、小さい頃に関わりを持たなかったのに、思春期になって、いきなり父親がしゃしゃり出て、子どもに軽蔑され、ひかれてしまうというようなことが目立ったものだ。
私は希望を持った。ひょっとすると、近頃のお父さんたちは、前より子育てに関わるようになって、子どもにとって、身近な存在になりつつあるのではないだろうか。思えば、私が子育てしていた頃(かれこれ15年ほど前)、夫が1人、抱っこひもやベビーカーで赤ん坊を連れて歩いていると、人々は物珍しそうに振り返ったものだ。「お母さんはどうしたんだろう?不幸でもあったんだろうか、それとも逃げられたんだろうか?」とでも言わんばかりに。今では、お父さん1人が赤ちゃんを連れていても、それほど違和感はない。むしろ、微笑ましいと見られるだろう。
父親不在と責められ、思春期は父親の出番と言われ、使命感に駆られた父親たちは、何かしなければといきり立って、空回りしていた。昔と違って、労働の場と生活の場が切り離されている社会で、父親の背中は何も語らない。子どもにとって、ほとんど接点のない人は他人に等しかった。思いが届かず、自信喪失し、途方に暮れている父親たちに、私は、「小さい頃から、子どもに関わろう!」「子どもにとって、大切な1人になろう!」と励まし続けてきた。父親たちは、子育てに関わりたくても、いったいどうしていいのかわからなかったのだ。だって、自分自身、父親に関わってもらった記憶がなかったのだから。母親たちも同様だった。子育てする父親像に慣れていなかったので、父親がオムツを替え、泣いている赤ん坊をあやす姿を見ると、罪悪感から手を出してしまうのだった。
今、若い夫婦たちが一緒に子育てしようと模索している。若いお母さんたちも子育てに悩み、お父さんたちも悩んでいる。母親が1人で有能に子育てをこなせてしまわないことは、きっと良いことなのだ。前回は、子育てを夫婦で分担しよう、それは他ならず、男性自身のためなのだと書いた。もっと言うなら、それは子どものためなのだ。夫婦が一緒に悩み、不器用ながら、共に子育てに関わるなかで、子どもたちは、自然に、両性が子育てに関わるのが当たり前だということを学ぶだろう。もちろん、生物学的な父親と母親が揃っていなければいけないということではない。シングルであっても、父親的存在、母親的存在が身近に確保されれば良いのだ。大切なことは、両性が子育てに関われるということを子どもたちが学ぶこと。次世代は、きっと、もっと良い時代になるだろう。