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FLCスタッフエッセイ

2015.09.03 いのち
生と死と、自由と愛と~『レ・ミゼラブル』を観て思い巡らしたこと

                                                  西 順子

この夏、夏季休暇中の楽しみとして、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観にいきました。観劇してから三週間がたちましたが、毎日、家で過ごす時間はCDの音楽に聴きいっています。

『レ・ミゼラブル』は「悲惨な人々」「みじめな人々」を意味しますが、CDの歌声と音楽によって、ミュージカルの登場人物らの情熱的な生き様が思い出され、魂を鼓舞されます。
生の舞台や歌、そしてアンサンブルは、生きるエネルギーに満ち、魂を揺さぶられるようでした。
ここでは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、思い巡らしたこと、考えたことを書いてみたいと思います。

□『レ・ミゼラブル』とは

原作『レ・ミゼラブル』(1862年)は、ヴィクトリア・ユゴーが自身の体験を基に、19世紀初頭のフランスの動乱期を舞台に当時の社会情勢や民衆の生活を克明に描いたフランス文学の大河小説です。1切れのパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになった主人公ジャン・バルジャン。ミリエル司教の慈愛によって改心し、善良に生きることを全うしようとする人生の物語です。

私は原作を読んでいませんが、2012年に映画を観て、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のことを知り、今回二回目の観劇となりました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1985年ロンドンでの初演から現在まで世界30カ国以上で公演、ブロードウェイでも16年間続く大ロングランヒットとなっています。ミュージカルとしての歴史も長いことには驚きます。

ミュージカルには、原作のもつ「無知と貧困」「愛と信念」「革命と正義」「誇りと尊厳」というエッセンスを余すことなく注ぎこまれたと言われています。時代を超えて人気があるのは、この物語の根底にある普遍的なテーマが、観る者の魂に訴えかけてくるからでしょう。

□ 自由と使命、愛

私自身が魂をゆさぶられたのは、「この物語は決して過去ではない」ということでした。
ユゴ―自身「地上に無知と悲惨さがある間は、本書のごとき書物も、おそらく無益ではないだろう」(岩波文庫版)と言いますが、私はこの物語から「自由を求める闘い」を感じました。そして「自由を求める闘い」は現代において今もなお続いていることを思いました。

それは社会のなかで、家族のなかで、そして人々の内側で、支配し抑圧する者との闘いです。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、自由で平等な社会を目指して革命を起こそうとする若者たち(男)、生きるために売春窟で働く女たちも、自由を求めて生きることと闘っているのだと、その闘いは命の叫びであると感じられました。

一方で、自由があるだけでは人は幸せになれないのか・・という問いかけも起こりました。
ジャン・バルジャンに愛娘コゼットの未来を託したフォンテーヌと、託された使命のためコゼットを愛し守り抜くジャン・バルジャン。叶わぬ恋とわかりながらも愛する人のために力を貸したエポニーヌ、皆が人を愛することを全うするなかで、安らかに死の床についたのが印象的でした。
正義のため、自由を求めて闘った若者たちも、闘いに破れて命を落としました。

皆、愛することが使命であったともいえるでしょう。愛することが生きること、と愛が生きる意味を与えていたのだろうと思いました。もちろん、キリスト教精神がバックボーンにあることは大きいと思いますが、東西文化の違いを超えて、愛することの大切さを教えてくれています。自由は「個としての尊厳」ならば、愛は「他者とのつながり、絆」です。人が幸福に生きるためには、自由と愛と、その両方が必要なのだと考えさせられました。

もちろん、生きることは愛することと、きれいごとではないことも描かれています。民衆は、自由を求めて闘う若者たちを見捨てました。ティナディエル夫妻のように生きるために盗みを働き、お金を得ることに執着する者もいます。生き延びるためには、きれいごとでは生きられないのか・・と、人間の限界や悲しみを感じました。貧困にあえぐ悲惨な社会には善と悪、被害者と加害者が入り混じり、光と闇があるのです。どちらにせよ、民衆たちは生きること、生き延びることに必死であると言えるでしょう。


□未来を託すもの、託されるもの

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、生きること、愛すること、使命を全うして生きることに、生命エネルギーを感じると同時に、死ということと、死にゆく人々のことも考えさせられました。

ミュージカルの最後の場面は、ジャン・バルジャンが愛するコゼットと命を救ったマリウスに看取られて、幸せのなかで亡くなります。ジャンバルジャンの命を引き継いだのは、生き残ったコゼットとマリウスの二人。最後の最後の舞台は、この二人を囲むようにして亡くなった民衆や若者ら全員が亡霊のように登場し、大合唱で幕を閉じます。
ジャン・バルジャンは、自分が愛し育て、命を救った若者に未来を託すことで、安らかに永遠の眠りについたといえるでしょう。

涙なくしては観られない場面ですが、生き残った二人の命の背後には、たくさんの亡くなった命があることに思いを馳せました。

ミュージカルを観劇したのがちょうど終戦記念日の前々日。この夏でわが国も戦後70年を迎えましたが、今、生きているということは、たくさんの命の犠牲の上にあることなのだということを思い、その命を大切にしていかなければならないと思いました。

私自身のことですが、この一年親の介護の問題が現実化してきました。気がつけばいつの間にか親はすっかり年を取り、生命に限りがあるということを最近実感させられるようになりました。

前世代が私たち次世代に、安らかに幸せな思いで命のバトンを手渡してくれるだろうか、未来への希望を託してくれるだろうか、そして私はバトンをしっかり受け取れるだろうか・・と考えると不安になります。残された時間はもう少ないと思うと焦る気持ちにもなります。できれば幸せに最期のときを迎えさせてあげたいと願います。

しかし不安になっても私にできることは何もないに等しいことから、私にできることは自分が今生きていることを大切にすること、自分に与えられた役割や使命を全うすることと思い、心を鎮めるようにしています。


□生きるということ


日々の臨床のなかでは、生きることに絶望している、生きる意味が感じられない、自分には生きている価値がない・・という声なき声に耳を傾けています。


私には何も言うことはできませんが、ただその声に寄り添い、聴き取り、自由と尊厳を求めて生き抜いてきた方々の証人であり続けたいと思います。
そして、生きることは辛くとも、闇から光を見い出す道もあると信じ、そして生きている限り、身体がある限り、生きる意味があり、生きる価値があると、ただただ命を信頼していければと思います。


・・・ミクロからマクロまで視点があちこちにいきながら、つらつらと書きましたが、生と死と、自由と愛について、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、考えさせられ、思い巡らしました。


19世紀前半のフランス社会の激動期の物語、150年前に書かれた物語は今にも通じるところがあるのではないかと思います。時代を経ても、社会と人との関係、人と人との関係、自由と愛を求めることは普遍なのだと思います。
そして「無知と貧困」を繰り返さないよう、歴史から学ぶ必要があります。ぜひ一度、原作を読んでみたいと思います。

2015.08.20 こころとからだ
日々のほのぼのエピソード探し

 福田ちか子

 

ある日,電車での移動中に、心があたたかくなるような二つの場面に出会った。

 

 一つ目は、とある駅で、4歳くらいの男の子とそのお父さんが乗車してきたときのこと。お母さんが一緒じゃなくて電車に乗るのが初めてだったのか、初めてお出かけする先だったのか、男の子はとても不安そうな顔で、ドアが閉まって電車が動き始めると、「お母さぁぁぁぁん」と声を上げて泣き出した。迷惑そうなものから心配そうなものまで、乗り合わせた周囲の人々の視線は、様々だった。

 

 お父さんがかがみ込んで、「もうすぐ着くよ、大丈夫」「怖いなぁ~、よしよし」と、ゆっくり声をかけると、男の子は、お父さんにしがみついて、少しずつ泣き声を収めていった。電車が駅に停まり、開いたドアが再びしまって動き出すと、また込み上げるように「お母さぁぁぁぁん」。お父さんが「よしよし。怖いな~」。

 

 三駅目の手前で、お父さんが「よしよし。(降りるの)次やで」と声をかけると、お父さんにしがみついていた男の子が顔を上げて「とうちゃく?」と尋ねた。お父さんは頷いて「頑張ったね~」。そうしている間に電車がホームに入ると、男の子は泣き止んで、心なしか得意そうに涙の跡を残した顔で、お父さんと手をつないで降りていった。

 

 みている側には、ローカル線でたった三駅分の、あっという間の出来事だったけれど、男の子にとっては大冒険だったに違いない。「ちょっとの間我慢しいや!」などと大人の物差しで測らずに、でも抱きかかえたりして大冒険を台無しにすることもせずに接していたお父さんの姿も印象的だった。あの男の子は、頑張れる自信がついたことだろう,とほっこりした。

 

 二つ目は、車椅子にのった高齢の男性がホームで電車に乗り込むところで、その妻とおぼしき高齢の女性と、白いシャツと背広のズボン姿の男性が二人、乗り込むのを手伝っていたときのこと。二人の男性の姿から、駅員さんだとばかり思い、ホームでよくみかける光景だなぁと思っていたら、乗り込みを手伝い終えると、男性二人は老夫婦に会釈し、それぞれにカバンを抱え、慌てて別々の改札口の方へと走って行ってしまった。どうやら駅員さんではなかったらしい。仕事で急ぐ足を止めて、手を貸していたのだと思うと、ほんのりうれしい気持ちになった。

 

 思いがけずあたたかい場面に居あわせて,ほんのりと心が動かされる心地良い感覚を味わうことができた。

 

 たくさんの情報が、いろいろなメディアから流れている今日この頃。より多くの人の注目を得ようと競う結果か、ワイドショー的な要素が強いもの程,どれだけ異常かということが強調されている風潮が目立つ。一つ一つを真剣に受け止めると、気分が落ち込むなどの影響がでそうなぐらい、刺激の強いものも多い。

 

 深く考えないようにしてそれらをやり過ごすことや、見ないように好きな物事に没頭する、ということが無意識のうちに習慣になっていて,心が動かされる感じを忘れがちになっていることがあるのではないだろうか。

 

 そんな時,ほのぼのするエピソード探しをしてみると,心地よく心が動かされる感覚を思い出すことができるかもしれない。

2015.08.06 子ども/子育て
思春期の子どもの成長を支える~「バケモノの子」を観て思い巡らしたこと

                                                    西 順子


先日、今公開中の映画『バケモノの子』を観ました。バケモノの世界に飛び込んだ少年、九太(きゅうた)と、師匠のバケモノ、熊徹(くまてつ)とが共に成長していく物語。未来を生きる子どもたちへの温かい眼差しと、子どもの成長を応援する深い愛を感じる映画でした。この映画を観て、思春期の子どもと親・大人との関係性について、そして「愛とは何か」を考えさせられました。子どもの視点、親の視点から思い巡らしたことについて書いてみたいと思います。

■映画を観て

少年と父親代わりの熊徹との関係性は、子どもの視点にたってみると「こんな大人がいてくれるといいよなぁ」と理想的です。子どもと一緒にとことんつき合い、向き合う熊徹は、子どもにとって頼もしい存在だろうなと羨ましく思いました。


親の視点にたってみると、思春期になった子どもが変化し反発すること(=自立していくこと)への戸惑いや寂しさ、でも最終的には子どもを認め、後ろに引いて子どもを手放そうとする熊徹に、愛するが故の切なさを感じました。物語の最後、熊徹が表現した愛は、想像を超えていましたが・・(ネタバレにならないために書けませんが、涙があふれそうになりました)。


今の時代にあっては、子どもが成長していくためには、親でなくとも、熊徹のように子どもと体験を共にし、向き合い、愛をストレートに子どもに手渡してあげられる大人の存在が必要とされているのだと思います。


一方、九太と熊徹の関係性と対照的に描かれている親子が、一郎彦(いちろうひこ)とその父親の猪王山(いおうぜん)。猪王山も一郎彦を大切に思い愛しているのですが、その関係性は全く違うものでした。一郎彦と猪王山の関係性は「心の距離感が遠く」、子どもの疎外感と孤独が伝わってきました。そして親も子も、どちらも「本音」が見えずに隠されていました。そこには現代社会における父子(特に父と息子)の関係性が象徴されているように感じました。



■思春期の子どもの成長を支える


大人は子どものためを思い、子どもを愛する気持ちで、大人がよいと思うことを与えます。そして子どもは疑問なくそれを受け取り成長します。
しかし思春期を迎えるとき、子どもは親から受け取ってきたもの(価値感)に疑問を感じ、反発し、それを壊そうとするものです。そして「自分とは何か」を探求し、試行錯誤し、自分の価値感を構築していこうとします。それは親を客観的に見れるようになるからこそできることであり、親離れであり、自立へのプロセスで、それが思春期の子どもの仕事です。


しかし、親からみると「以前はいい子だったのに、どうしてこうなってしまったの?」「今まで子どものためを思って、ここまでしてきたのに・・」と、受け入れがたい気持ちになったりします。
しかし、子どもの人生の主人公は「子ども」です。といっても、まだ子どもから大人への過渡期。子どもが思春期の課題を乗り越えていくには、成長を支えてくれる親、大人の存在が不可欠です。かといって今までと同じ関わりでは役に立ちません。


思春期を迎えた子どもが成長のために必要としているのは、「大人が誠実に、本音で、ありのままの自分と向き合ってくれること」、そして「子ども扱いせずに対等に関わってくれること」です。そのことを、『バケモノの子』を観て再確認させられました。


「思春期の子どもをごまかさない」姿勢が大切なのです。嘘、ごまかしは子どもの信頼を損ねます。子どもが大人を信頼できることが必要で、他者を信頼できることは自分を信頼することとつながるのです。

■思春期の子どもと向き合う


思春期の子どもの心に寄り添いたいとカウンセラーを志してから早30年が過ぎました。そんな私のカウンセラーとしての原点を思い出させてくれた映画でした。これからも、一人の大人として、子どもと向き合い、親や家族に寄り添うことができれば・・と思います。


女性ライフサイクル研究所では、不登校、引きこもり、摂食障害、うつ・不安、いじめ、デートDV、暴力被害・・など、思春期の子どもと親への心理的援助(カウンセリング)を提供しています。子どもが未来に希望をもって歩めるよう子どもの伴走者となりながら、親御さんには、子どもの行動の意味、コミュニケーションの取り方や関わり方を共に考えていければと思っています。


子どもと大人、子どもとコミュニティ・社会とをつなぐ「橋渡し」となれればと願って・・。

お勧め図書:
『思春期の危機と子育て』村本邦子・前村よう子著、三学出版。
『プレ思春期をうまく乗り切る!大人びてきたわが子に戸惑ったときに読む本』村本邦子著、PHP研究所。


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2015.07.14 コミュニケーション
子育て中の夫婦間コミュニケーションのヒント

                                         金山あき子

人と人とのコミュニケーションは、時に難しいものです。特に、子育て中や忙しい時、自分が何かのストレス下におかれている時は、家族やパートナーからのサポートは大事なものですが、そのニーズをコミュニケーションの中で伝える事は、案外難しかったりします。今回は、ちょっとしたコツで夫婦間のコミュニケーションを円滑にしてゆくヒントを、筆者が最近読んだ本、『赤ちゃんを愛せないーマタニティブルーを乗り越える12章』(クラインマン&ラスキン)からまとめ、考えてみたいと思います。

 

妻自身が忙しかったり、ストレス下にある時には、夫に家事や子育てを手伝って欲しかったり、心の支えになってもらいたかったりなど、相手に対する欲求やニーズが多くなる時期といえます。しかし、多くの女性は、自分の気持ちをストレートに相手に伝える事に、ためらいや違和感がある、といいます。それはあまり主張するのは「女性らしくない」と社会的に思われてきたことから、女性が主張したり、助けを求めることを難しく、恥ずかしいと感じやすいことが原因となっていると言われます。ストレス状況と、そうした社会的なハードルが重なって、女性は相手に自分のニーズを伝えるのがより難しくなる傾向があると言えるでしょう。

では、一体どうしたら、より、パートナーに自分のニーズを健全に伝え、コミュニケーションをより良くできるのでしょうか。以下に具体的な例を交えて「伝え方のヒント」を挙げてみたいと思います。

 

⒈「あなたは〜」ではなく、「わたしは〜」という言い方をする。

「あなたは・・・」という言い方で始めると、ついつい相手のことを責めるような内容になってしまいがちです。例えば、「あなたは、いつも家に居てくれないのね。」という言い方があります。これを、「私は〜」という風な言い方でしてみたらどうでしょうか。つまり、自分の気持ちを、相手に伝えてみるのです。上の例では、「私は、あなたがいつも家に居ないと寂しいのよ。」というように、「私」の気持ちをベースに言い換えることができます。そうすることで、相手は自分が責められないので、あなたの言いたいことも聞いてみようという気になり、コミュニケーションへのドアが開かれやすくなるかもしれません。

 

2.まず夫の立場を認め、その上で自分の欲求を伝える。

例えば、夫と話をしたいと思っていた夜、夫が仕事で遅く帰ってきたとします。ここで、「今頃帰ってきて!一体どういうつもりなの」と言ったとします。こうすると、夫は自分が責められたと思い、また自分の状況をわかってもらえないと感じるでしょう。また、妻が「話をしたい」という本当にして欲しかったことを伝えるゴールは遠のいてしまいます。良い例としては、「仕事で疲れているところ悪いのだけど、私とも話をしてほしいの。」というものがあります。こうして相手の状況を理解する内容を入れてみることで、話し合いの場ができるかもしれず、また自分の欲求を伝えることができる可能性も高まるでしょう。

 

3.曖昧な言い方をせず、はっきりと直接的に欲求を伝える。

たとえば、「もっと手伝って欲しい。」と漠然と言っても、実際に、夫に「何を」して欲しいのかを、具体的に伝えないと、なかなか相手に自分のして欲しいことをわかってもらいにくいでしょう。まずは、こちらが何をして欲しいか、例えば、「子どもがトイレをする間見ていて欲しい」、「食器を下げて欲しい」など、具体的に明確化して伝えると、もっと相手に実行してもらえる可能性が高まります。その際には、1.の「私は〜」の言い方で考えること、2.相手の状況・立場を認めるコツを適用すると、より有効です。

 

最後に、「ありがとう」は魔法の言葉、とも言われますが、やはり感謝伝えるということは、コミュニケーション上とくに大事なことのように思われます。相手がしてくれることが当たり前になっていることも多いものです。自分の主張や、ニーズを伝えてみて、パートナーがしてくれた行動や、言葉が嬉しかったら、それへの感謝を言葉にして、喜びを伝えてみましょう。きっとその喜びは何倍にもなって返ってきて、二人のコミュニケーションが、ますます素敵なものになっていくことでしょう。

 

【参考文献】カレン・R・クレイマン+ヴァレリー・B・ラスキン(1996)『赤ちゃんを愛せない マタニティブルーを乗り越える12章』 (村本邦子+山口知子訳)創元社

 

2015.07.06 DV
DVを受けている女性を支える~家族、友人、知人として

                                                                           
                                                                       西 順子

 あなたが大切にしている人(家族や親戚、友人、同僚)から、パートナーや恋人との関係で悩んでいる、暴力を受けていると打ち明けられたことはありませんか。
 彼女のことを心配しながらも、なんと言葉をかけていいか、どう対応していいかと戸惑ったかもしれません。あるいは、彼女の力になりたいと協力を申し出たけど、断られてしまい無力に感じたかもしれません。

 パートナーや恋人など親密な関係にある人から受ける暴力のことをDV(ドメスティック・バイオレンス)と言います。調査によれば、女性の約4人に1人は配偶者から被害を受けたことがあり約10人に1人は何度も受けています。被害にあった女性の約4割はどこにも相談していませんが、相談したことがある人は「家族・親戚」「友達・知人」が最も多く(合せて5割)、DVに関わる専門機関や支援機関に相談する割合はほんのわずかです。
 交際相手からは(いわゆる「デートDV」)、女性の約5人に1人が被害を受けたことがあり、被害を受けた約4人に1人は命の危険を感じたことがあります。被害を相談したことがある女性は約6割で、相談先のうち「友人・知人」が約5割となっています。
                        (内閣府2015年発表:男女間の暴力に関する調査より)


 この調査結果から、DVを受けている女性が悩みを話したり、相談するのは、まず身近にいる家族や友人、知人です。女性が暴力から逃れ、回復していくためには、被害女性の身近にいる家族や友人、知人の存在が重要です。なぜなら家族や友達など身近な人との「情緒的なつながり」こそが、被害女性が信頼感や自尊心を取り戻す力になり得るからです。
 ではどのようにして「情緒的なつながり」を保てばいいのでしょうか。『DV被害女性を支える』(金剛出版)をもとに、被害女性との「関わり方」の指針を紹介できればと思います。

□アンカーの必要性

 『DV被害女性を支える』の著者、ブルースターさんは、被害女性の家族、友人らが果たす役割をアンカー(錨:いかり)という言葉で表現しました。
 ブルースターさんは心理療法家としてDV被害女性や家族と関わり、シェルターで臨床主任を務めたこともある方ですが、昔にボーイフレンドからの暴力の経験があります。「そのときは幸いに周囲に心温かい人がいてくれ、いれかわりたちかわりアンカー(錨)として働いてくれたおかげで今があり、もし、いなかったら自分の人生はかなり違った方向に進んでいただろう」と言います。

 アンカーとは船の錨(いかり)のことで、アンカーの仕事は船の安定を保つことです。鎖がたるみすぎてもいけないし鎖を断ち切ってしまうこともありません。いつも鎖をピンと張って船を近くにおくことで、船の方も自分のいるべき位置がわかります。
 DV被害女性を支えることも同じで、アンカー(錨)の役割を果たす「人」が必要だと言います。第三者であるアンカーとのつながりが保てることで、DV被害女性はよりよい解決に向かうチャンスができます。アンカーとの平和な関係のもとで、女性も自分本来の強さに目覚め、自己を取り戻す力を得られるのです。

 しかし、DVを受けている女性との関係で、家族や友人が知らず知らずに演じている典型的な役が二つあり、それを「逃亡者」と「救助隊」と言います。逃亡者タイプの人は被害女性と気持ちの上で離れる傾向にあります。救助隊タイプの人は巻き込まれ過ぎる傾向があります。この中間になるのがアンカーで、アンカーは大切な人との物理的な距離を保ちながら、相手に敬意を持ち、支えとなる接し方をします。
 アンカーとは、相手が本来持っている能力を支援し、力づけ、伸ばしていく人のことです。その女性が自分の長所や感情や欲求に目が向けられるよう助け、自力で最も安全な判断ができるよう手伝う人です。

□DVを受けている女性を支援するにあたっての原則

 女性を支援しようとするときの原則は、エンパワメントと「つながり」です。あなたが女性のことを大切に思い、いくら善意であったとしても、エンパワメントの原則がないと支援はうまくいきません。エンパワメントとは、人は本来生まれながらにして、生き抜く「力」が備わっていると信じることからスタートします。そして、相手を変えようとしないことが重要です。女性を変えようとすると、あなたは支配する立場になり、彼女の力を奪い孤立させてしまいます。アンカーとして集中しなくてはならないのは、大切に思う女性と信頼関係が持てる人になることです。信頼は、心が通じ合うかどうかにかかっています。

 DVの話をうちあけられたときの原則を、ブルータスさんは12カ条としてまとめています。

1. 信じること
2. 彼女が虐待されている事実を真剣に受け止めること
3. 中立を守り、片方に味方しないこと
4. 彼女の判断を尊重し、批評しないこと
5. 彼女の気持ちを尊重すること
6. アドバイスはしないこと
7. 彼女ではなく、あなた自身をコントロールすること
8. あなたのとらえた現実を彼女に見せること
9. 共感を心がけながら、客観性を保つこと
10. あなた自身の欲求を満たして、手本を見せること
11. あなたにできることとできないことを伝えること
12. 援助を申し出るときに条件をつけないこと(見返りを期待しないこと)

                「DV被害女性を支援するにあたっての12カ条」『DV被害女性を支える』より


 DVを受けている女性を支え、支援したいと思っているけど、どう関わればよいかという声を家族・親族だけでなく、地域で活動している支援者の方からもお聞することがあります。そこで、その思いが、うまく女性とつながることができればと思い、「アンカー」について紹介しました。DV被害女性に「アンカー」という存在があればどんなに安心できることだろうかと思います。
 もちろん、DV被害者支援は一人ではできるものではありませんので、危機介入や緊急事態にはDV専門機関につないで、援助やアドバイスを受けることが必要な場合もあるでしょう。また自分自身の身を守ること、セルフケアも大切にしていただきたいと思います。

 DVを受けている女性が、身近にいる他者との間に〈信頼の絆〉が結ばれていくことを祈っています。

 なお、DVを受けている女性の支援について学ぶ講座を企画しました。家族として友人として知人として、隣人として何ができるかを共に学び、共有する機会を提供できればと思います。詳しくはこちらをご覧ください→「講座:DV被害女性を支える~家族、友人、知人として」

参考文献:『DV被害女性を支える~信頼感と自尊心をつなぎとめるために』スーザン・ブルースター著、平川(監修・解説)、和歌山(訳)、金剛出版。


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2015.06.24 子ども/子育て
"落ち着かない子ども"の気持ち

                                                                                                                                            福田 ちか子

 

 先日,FLC(女性ライフサイクル研究所の愛称)で開催しているCARE(ケア)の講座に,サポートスタッフとして参加した際に,とても興味深い体験をしたので紹介したい。

 

 その前に,少し講座の紹介をしようと思う。CAREというのは,米国オハイオ州シンシナティ子ども病院で開発された,子どもと関わる大人のための心理教育プログラムで,子どもとの間に温かな関係を築き、関係をよりよくする際に大切なコミュニケーションのコツについて,体験的に学ぶことができる講座である。一日5分,子どもが遊びをリードし、親がそれについていく関わりをすることで関係が改善し、子どもの自尊感情を高めることにもつながる。

 

 その中で,今回興味深い体験をしたのは,大人が二人一組で,一人が母親の役を,もう一人が子どもの役をして,子どもが遊びをリードする場合と,大人がリードする場合を,それぞれロールプレイで体験するという場面がある。(以下の会話例は,体験をもとに一部編集・再構成したもの)

 

例えば,

子:「こうやって,車で遊ぶの~!!」

母:「こっちのブロックの車はどう?」  

子:「えっと...じゃあそうするね」

母:「窓もつけて見たら?きっと格好良いよ!」         (大人が主導の例)

 

子:「こうやって,車で遊ぶの~!!」

母:「そう~,車で遊ぶのね」 

子:「うん。車を走らせて,お出かけごっこするの」

母:「おでかけごっこするのね~」               (子ども主導の例)

 

 それぞれの関わりについての詳しい説明はここでは置くとして,おもしろかったのが,子どもの役になった時の,自分の心の動きだった。母親役から,特に何か傷つくような言葉を言われるわけでも,母親役が怖い言葉を言うわけでもないのに,大人が主導のロールプレイでは,相手の言葉に注意が向いて,そわそわして手元に集中するのが難しく,遊びを考える暇がない感じがした。時には自分がしたいことを考える前に言葉が掛かって,イラ立ちを覚えることもあった。

 ところが子どもが主導のロールプレイでは,子ども役である自分の言葉を相手が繰り返して,リードについてきてくれるので,落ち着いて自分の考えに集中することができて,一つの遊びを発展させるようなアイディアが自然と湧いてきたのだった。

 

 大人の関わり1つで気持ちが大きく変化することを改めて実感できて良かったので,是非,子どもとの関係作りに悩む保護者の方や支援者の方にも体験をおすすめしたい。

 

 さてこの体験を振り返ってみて,近年増えているといわれる"落ち着かない子ども"の気持ちについて,思うところがあった。

 

 次々と外から声がかかったり新しいアイディアが降ってきたりして,そのリードについていくため自分の外側に注意が向く感覚と,自分の言葉を繰り返してもらって,じっくり考えを反芻して自分が自分の行動をリードし内側に注意が向く感覚。この前者の感覚が,パソコンやスマホで,ネットをみたりSNSやゲームアプリをしているときの感覚と似ているように感じられた。

 

 本当にいろいろな情報がものすごいスピードで発信されては消えていく日々の中で,自分の内側に注意を向けて,落ち着いて手元の課題に取り組むことは,気をつけておかないと中々に難しいことなのではないだろうか。そう考えると,ここ数年の間に"落ち着かない子ども""キレやすい子ども"が増えている,といわれることが,無関係ではないように思われてならない。自分の外側に注意を向けることと,内側に注意を向けること,そのバランスが取れるように意識することが大切なのだと感じた。

 

 

2015.05.31 カウンセリング
カウンセリングの窓から~母娘の心理と癒し〈娘編〉

                                            西順子 

女性ライフサイクル研究所では、女性が抱える傷つきや生きづらさ、あるいはトラウマについて、女性の視点から取り組んでいます。女性が抱える生きづらさを考えるとき、「娘であることの傷つき」は普遍的なテーマの一つといえるでしょう。

「自分に自信がもてない」「何をやってみても自信につながらない」「人からどう思われるか気にしてしまって、人と関わるのもしんどい」・・といった生きづらさの背景には、娘としての傷つきが関係していることがあります。その背景には、親(主たる保護者)から褒められたり、認められたという実感がないということがよくあります。

今回は、母と娘の関係における娘の傷つきに焦点をあて、娘はその傷をどう癒していけるのか、そのヒントを提供できればと思います。女性は誰もが母の娘です。娘の立場からお読みいただければと思います。

●母と娘の心理

まず、母と娘との間で形成される心理について、女性の視点からその特徴を紹介しましょう。一般に女性は、ジェンダーの社会的要請を受けて、子どもの頃から人の世話をし、ケアをする役割を期待されて育てられます。それは「私は~したい」「私は~が好き」を優先するよりも、「~しなければいけない」「~すべき」と他者の欲求や要求に従い、優先することが求められます。その結果、女性は育つ過程で、自分の欲求を抑えることを学ぶことになります。自分の欲求を我慢し、抑圧することで生きてきた女性が母親となるとき、娘との関係性はどうなるでしょう・・。

オーバック、アイケンバウム(1988)は、母親であることがもたらす積極的な喜びや満足感とは別に、母親がもつもう一つの自己像について明らかにしました。自分自身の欲求や欲望を長年に渡りきり詰めてきた結果、母親は「欠乏感に悩み、十分な愛情を受けていないと感じ、しかもそれを受ける資格もなく、不十分で、自分の要求をはっきり口にだすことすらできない」という自己像をもつと言います。オーバックらは、この「愛情を求める」母親自身の一部を、「内なる少女」と呼びました。母親が娘をもつとき、この「内なる少女」が露呈すると言います。

母親は娘と性とジェンダーを共有することから、無意識的に娘と同一化します。その結果、娘が欲求をあからさまに示すのを見て戸惑い、なぜ同じように自分の欲求を抑えないのかと、娘に対して怒りと不同意を示して反応してしまいます。
例えば、息子には身の回りの世話をやいても、娘には「自分のことは自分でしなさい」と情緒的な甘えを許さないことがあります。母にとって、息子は「他者」であるのに対して、娘は自分の延長線上にあるように感じ、同一化してしまうのです。

そして母親は情緒的ケアを求める渇望や願望を娘に投影し、娘に愛情、慰め、ケアを求めると言われます。例えば、「母親の愚痴を聞かされて、自分の話は聞いてもらえなかった」という娘の声はその一つでしょう。


娘は母親からケアテーカーであることを求められ、母の自己実現を求められると、娘は自分の欲求を抑えこみ、隠しておかなければならないものとなります。母から娘へと「愛情を求める渇望や欠乏感」が再生産されていくといえるでしょう。

●情緒的ケアの喪失と女性の人生への影響

子ども時代に情緒的ケアを受けられない状況のなかで、娘は「内なる少女」や「本当の自分」を隠して、その環境に適応する自分を育てることで生き抜いていきます。


しかし、大人になり、青年期、成人期に入り、この対処法では通用しなくなってくるときがきます。子ども時代の対処法が壊れるきっかけには、20代、30代での「親密な関係のバランスの変化」があると言われます。


20代、30代では、恋愛/失恋・結婚・妊娠・出産・子育て・離婚など、パートナーや子どもとの親密な関係に変化が生じやすく、女性にとって人生の危機となることもあります。 危機にあっては、苦悩とともに、さまざまな心身の症状となって現れることもあるでしょう。


例えば、「内なる少女」の情緒的な飢餓感、空虚感は、身体的なぬくもりや一体感を求めて、性関係を求めるということもあるでしょう。しかし自己肯定感の低さから、自分を傷つけるパートナーと一緒になり、それが人生の危機となることもあります。


また、十分に情緒的なケアを受けられなかった傷つきは、女性が子どもを生み、育てるときに、抱えきれない不安となって現れることもあります。「自分も母親のようになるのではないか」あるいは「同じことをしてしまう」と不安や怖れがついてまわることがあります。

●傷つきを癒す

では、娘はどのようにして、傷つきを癒し、人生の危機を乗り越えていけるでしょうか。 まず、子ども時代の喪失を悼む作業が必要です。そして他者に助けを求め、自分自身のケアに取り組むことが必要です。

自分自身へのケアとは、自分に対して、優しさ、慰め、励まし等を提供することです。
落ち込んでいるときは慰めを、努力したときには自分を褒め、疲れているときには労わる等、自分に対して共感的に関わることです。
自分でケアするのが難しいときは、自分の気持ちに共感してくれそうな友達やパートナーに話を聴いてもらう等、他者からケアや協力、助けを受けることも大切です。ケアには、身体的なケア、情緒的なケア、スピリチュアルなケアがあるでしょう。

バソフ(1996)は、癒しのプロセスを完了させるための方法として、「母に代わる人との出会い」「自然による癒し」「創造による癒し」を挙げています。

例えば、動物や植物の力強い生命力に触れることは傷ついた心や魂を深く慰めてくれます。自然とふれあうなかで、宇宙との一体感を経験し、その一体感のなかで様々な感情を解き放つことができると言います。

母もまたかつて娘であったし、今もまた娘であるでしょう。年齢や立場を超えて、女性が自分のなかの「内なる少女」を抱きしめ、優しく接する気持ちで自分と関われることを願っています。

娘の女神ペルセポネーがそうであったように、娘が母といったん分離し、自分の傷つきを癒し成長した後には、母との関係が変容するかもしれません。

「渇望は、内なる知識と必要なことを知らせる導き」と言われます。女性が自分の内にある欲求に気づき、内なる声に従って自分の「生」を肯定して生きることができれば、娘を抑圧することはなくなるでしょう。それが可能となる環境(あるいは社会)となることを願います。


女性ライフサイクル研究所では、現在娘である方も、母親の立場にある方にも、娘としての傷つきをケアし、喪失を悼む作業をお手伝いしながら、命の肯定と未来への希望を伝えていくことができればと願っています。

 

【参考文献】
アイケンバウム、オーバック(1988)『フェミニスト・セラピー』(長田訳)新曜社。
バソフ(1996)『娘が母を拒むとき~癒しのレッスン』(村本邦子・山口知子訳)創元社。

関連記事:
2015年3月FLCエッセイ「カウンセリングの窓から~思春期の娘と母〈母編〉」
2014年5月メディア掲載 「母娘の「毒の吐き合い」壮絶食卓バトルから見えるものは・・映画『8月の家族』たち」
2012年4月メディア掲載 朝日新聞「お母さんキライ・下~人生つづり心取り戻す」
2000年10月年報10号「女性の自己実現と心理療法~『血と言葉』を女性の視点から読み直す」(西順子)
1999年10月「娘に女性としての自分を投影する母親たち」(村本邦子)
  『子育て情報センターKANAGAWAまいんどブックレット64号』

2015.05.14 こころとからだ
からだの声に耳をすます

                                         金山 あき子

 

産まれてからずっと、「わたし」と共にある「からだ」というもの。あまりに在るのが当たり前なので、現代社会では、意外と「からだ」で生きているということを忘れがちなのかもしれません。 学校でも、小さい頃から「頭」を使うことが大事とされるので、からだ全身を使って感じたり、遊んだりという機会も減ってゆき、そうすると「からだ」はどこか遠いところへ押しやられてしまいます。私たちのからだは、自分が一生つきあうことになる、大切な場所。この場所を自分の家のように考えて、より気持ちよく過ごせるように、からだの声を聞きながら、整えてゆくことは、とても大切なことと思われます。

 ◇からだと心はつながっている

東洋では、昔から「心身一如(しんしんいちにょ)」という考え方があります。それは、「心」と「からだ」はひとつであり、分けて考えられないものであるという意味です。たとえば、私たちは怒った時の感情を「頭にくる」、「腹が立った」など、からだの部分を使った表現を自然に使いますが、これも心で起こっていることと、からだで起こっていることが密接に繋がっていることを示しています。

私たちのからだは、常に声を発しています。例えば、何か楽しいことがあった時や、大好きな音楽を聴いている時など、からだにはワクワクして、大きく広がってゆくような、心地よい感覚が走るでしょう。また何か悲しいこと、つらいことがあった時には、からだにはどこか固く、縮こまったような感じがあることでしょう 。ふと目を向けてみると、からだは、頭で考えるよりも先に、色々な情報をキャッチし、また外に向けて発しています。からだには独自の知恵があり、時には「わたし」よりも深く、「わたし」のことを知っているのかもしれません。

 ◇日常の中で気づいてみよう。

日々の生活の中で、少しからだの声を聞くことを意識してみましょう。例えば、「なんだか今日はやけに肩が凝るなあ」という日は、少し肩に意識を向けてみましょう。その肩の緊張は、どんなことをあなたに話しているでしょうか。一見不快な感覚も、何かメッセージを運んでいるかもしれません。いま、この身体で、何が起こっているのかに気持ちを向けてみましょう。そうすると、その緊張は、目を向けてもらったことで少しゆるむかもしれません。または、「ああ、私はこんなことで少し無理をしていたんだなあ・・」、「こんなことが苦手だったんだ」など、今まで気づかなかった洞察を得ることもあるでしょう。

また、自分が何に心地よい感覚を感じるのかに目を向けてみましょう。新緑が芽吹く山を見て、胸が広がってゆくような感覚がする。外の鳥のさえずる声を聞いて、からだ全体が澄み渡るような感じがする。または、バラの花のうっとりするような香りに触れ、深いところが解放されるような感覚・・・などなど、何でも自分にとっての「快」の感覚をからだで感じてみます。心地よいと感じる感覚により多く気づくことで、自分がリラックスし、安心できるスペースを作ることができます。その感覚を生かして、よりストレスにも対処できるようになるでしょう。

 ◇からだという自然

私たちのからだには、様々なリズムがあります。普段は中々意識しない、心臓の鼓動や、呼吸のリズム。そして女性には特に、月経、妊娠・出産、更年期など、人生を通じて身体に直接関わる周期やリズムが、節目ごとに存在しています。からだの声に耳をかたむけることは、自らの内に、自然のリズム、自然とのつながりを取り戻す事でもあります。世界のあり方がより複雑になり、ますます自然とのつながりが薄れていく今日、まずは自分のからだに向き合ってみるということの意味は大きいと思われます。日常の何気ないことから、身体の感覚に気づくことをはじめてみませんか。たとえばそれは、レストランで食べる時、「頭」で考えるのでなく、本当に食べたいものを一度「お腹」に聞いてみることかもしれません。または、からだの動きたいようにダンスすること、散歩や、ヨガなどの運動をしてみることかもしれません。からだの声に耳をかたむけ、小さいことからはじめてみると、案外、新しい発見や気づきがあるかもしれません。

2015.04.17 女性の生き方
日々の小悩み・イライラに――文庫『週末、森で』ご紹介――

福田ちか子

 「あ~っ、またやっちゃった」「あの人苦手だなぁ...」「あれとあれとこれもしなくっちゃ」などなど、日々のプチストレス。解消する間がなく明日がやってきて、同じことがくり返し続くと、落ち込みモードに突入してぬけだせなくなることもある。そんなときに,そっと背中を押してくれたり,ふっと視野を広げてくれたりするような一冊として,益田ミリさんの『週末、森で(益田ミリ2009 幻冬舎文庫)』を紹介したい。

 この本の主な登場人物は,思いついて森の近くで田舎暮らしをはじめた翻訳家の早川さんと,経理部ひとすじ14年のマユミちゃんと,旅行代理店勤務のせっちゃん。週末になると,マユミちゃんやせっちゃんが早川さんを訪ねては,ハイキングにでかけたりカヤックを楽しんだりして,また都会の暮らしに戻っていく。

 ある日のマユミちゃんは,仕事が忙しくてごきげんななめ。残業の帰り道に,その日がお母さんの誕生日だったことを思い出して,「どうしよう,毎年プレゼントを送ってるのに...」と焦り始める。ちょうどお店は閉まり始める時間帯で,いくつか心当たりのお店に向かうがすでに閉店。宅配か,明日の昼休みにダッシュで買うか...とひとしきり考えて,毎年の贈り物ができなかった自分に落ち込む。

そんなとき先週末に早川さんとカヤックをしたことを思い出す。向こう岸のカモが見たいのに,こいでもなかなか進みたい方角に進めなかったマユミちゃんに,早川さんが教えてくれたコツは「手もとばっかりみないで自分が行きたい場所をみながらこぐと近づけるよ~」だった。ふとそのことばを思い出したマユミちゃんは,ひとまずプレゼントのことは置いておいて,お母さんに電話をかけて「お誕生日おめでとね」と伝えることにした。

 週末,森で過ごした体験が,じんわりと平日をあたためて,マユミちゃんとせっちゃんが,日々のプチストレスをやり過ごす様子が描かれている。

日々のプチストレスがたまったとき,「もっと自分がちゃんと頑張らなくちゃ」と自分を責める方向に偏りすぎることや,「あいつが悪い!!」と相手を責める方向に偏りすぎることは,バランスを崩して落ち込みモードに突入しやすくする。

相手を責めるのでも自分を責めるのでもなくふっと肩の力を抜いて自分の気持ちをながめる,というプチストレスを溜めない極意を,日々の生活の中で活用するアイディアがいっぱい詰まっているところが,とても素敵だと思う。

2015.04.10 トラウマ
セルフケアのヒント~アートセラピーの手法を用いてトラウマに対処する

                                                                     西 順子

 今年度も「女性のためのセルフケア・グループ」を開催します。このグループでは、アートセラピーの手法を用いて、セルフケアの方法を提供しています。ここではトラウマからの回復と癒しのために、アートセラピーがどのように役立つのか、また各回のアートワークにはどのような意味や目的があるのかを紹介できればと思います。

 トラウマから回復するためには、症状を受け入れ、自分自身に共感をもって、他者と関わるための健康的な方法を身につける必要があります。これらの力を発達させる上で、創造性は重要な役割を果たすと言われています。「女性のためのセルフケア・グループ」でおこなっているアートセラピーは、創造性を使って、トラウマによる症状や苦痛を和らげ、本来もっている力を引き出すことを目的としています。

◆第一回「呼吸を描く」
 トラウマは呼吸に影響を与えます。あなたの呼吸はトラウマによる症状や慢性的な不安と関連しているかもしれません。自分の呼吸の質に気づき、コントロールすることで、よい影響をもたらすことが可能です。不安なとき、気持ちを鎮めるためには、自分の呼吸に意識を向けて、ゆっくりと息を吐き出して、呼吸を落ち着ける必要があります。自分の呼吸に意識を集中することで、フラッシュバックや強迫的な思考から離れて、現時点に自分の意識を戻すことができます。アートワーク「呼吸を描く」では、不安をコントロールするために、呼吸をコントロールすることを助けます。

◆第二回「安全な場所のイメージを創る」
 誰にでも、ほっとできる安全な場所が必要です。心の中に安全な場所を持つことは、ストレスに対処することを助け、安全で快適な感覚を高める効果があるとわかっています。安全な場所をイメージすることは、特にトラウマを経験した人の助けになります。恐怖、パニック、自己破壊的な思考で圧倒させられる時、安全な感覚や強さを取戻すために、安らかな心の聖域(ストレスの影響から避難する場所)に行くために、イメージを使うことができます。アートワーク「安全な場所のイメージを創る」は、圧倒するようなストレスを管理する道具として使うことができます。

◆第三回「侵入的な思考や感情を一時的にしまっておく入れ物のイメージを創る」
 トラウマを経験した人は、ストレスに圧倒されて、自分を傷つける行動へと至ってしまうことがよくあります。これが問題となっているのなら、それをしまっておく入れ物のイメージや、しまうためのスキルを身に着けることが役に立ちます。
 このアートワークでは、侵入的なもの(圧倒するような情報、イメージ、感情など)をしまっておく「入れ物のイメージ」を描くことで、再体験からあなたを守る自己コントロールの方法を提供します。

◆第四回「不安をかきたてる感覚を和らげ慰める~スケッチブックを創る」
 トラウマ反応の一つに、トラウマと関連した感覚刺激(匂い、味、視覚、音、触感)の回避があります。回避の反応は、不安や恐怖を減らす代わりに、慰めや楽しみの感覚を奪うかもしれません。しかし、積極的に、肯定的な感覚の経験を自分自身に与えることで、エンパワーできます。例えば、花の匂いを嗅ぐために花壇にいくこと、穏やかな音楽を聞くこと、熟したももや、なしの味を楽しむことなどは、直接的に感覚へとつながる経験です。
 しかし、実際の生活では必ずしもいつも自分を慰めることができるとは限りませんので、想像力を使うともっと便利です。このアートワークでは、肯定的な感覚の経験を呼び出して、雑誌から感覚ごとに心地よい写真を選び、「安息のためのスケッチブック」を作ります。

◆第五回「希望と癒しの箱を創る」
 トラウマを経験すると、不安、怒り、恐れ、絶望のような感情に圧倒されるとき、自分自身を慰めたり、安定させることができないことがあります。圧倒させられる感情が強烈であるために、孤立無援感を感じ、内なる強さ外の助けを借りることができなくななります。こうした時、触れることが出来て、慰めの拠り所があると、助けになります。このアートワークでは、圧倒されたり、苦痛を感じる時に使うために、希望と慰めとなる箱を創ります。
                                                   『MANAGING TRAUMATIC STRESS THROUGH ART』より
                          

 「絵を描く」と聞くと、「絵が苦手」「上手に描けない」と難しいと感じる方もありますが、このアートプログラムでは、特別な芸術的才能はいりません。誰もが簡単にできる工夫がされていますので、ご安心ください。また、アートワークの後、作品を見ながら、アートセラピーの体験を今後の日常生活にどう活かせるか、行動の工夫を考えます。「気づき」を大切にした、より実践的なプログラムとなっているのも特徴です。

 5月17日(日)より全5回でグループがスタートします。前期の「女性のためのセルフケア・グループ」に引き続き、後期は、前期参加者を対象にした「トラウマケア・グループ」も予定しています。
 トラウマの影響による苦痛とどう付き合っていいかわからない、どうしたら少しでも楽にしのげるのか・・と困っていませんか。アートワークを使って、トラウマ反応へのセルフケアの方法について学んでみませんか。

■2015年前期「女性のためのセルフケア・グループ」のご案内は⇒こちらをご覧ください。

※なお、このグループは、個人のトラウマに焦点を当てるものでありません。「今、ここ」での体験に焦点を当てるグループです。
※このグループが有効な方は、現在安全な状況にいる方です(暴力が継続していない、自傷他害の危険性がないなど)。現在通院中の方やカウンセリングを受けている方は、主治医やカウンセラーに相談したうえでお申し込みください。

■参加者の声は⇒こちらをご覧ください。


関連記事
2014年6月FLCエッセイ「女性のトラウマとセルフケア」
2013年10月FLCエッセイ「安全な場所を創る」
2007年7月FLCエッセイ「トラウマ反応とケア」
2006年12月FLCエッセイ「今年のキーワード~トラウマ心理療法、アート、選択」

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