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FLCスタッフエッセイ

2015.11.12 DV
DVを受けている女性を支える~なぜ逃れられないのかを理解する

                                           西 順子

毎年11月12~25日(女性に対する暴力撤廃国際日)は「女性に対する暴力をなくす運動」期間です。女性に対する暴力には、夫・パートナーからの暴力、性犯罪、売買春、セクシュアル・ハラスメント、ストーカー行為の他、女児への性的虐待も含まれます(1993年国連総会採択女性への暴力撤廃宣言より) 。

内閣府その他男女共同参画推進本部では2001年より、女性に対する暴力は「女性への人権を侵害するものであり決して許されるべき行為ではない」と、他団体との連携、協力の下、意識啓発活動に取り組んでいます(⇒詳しくはこちら)。

さて、前回エッセイでは「DVを受けている女性を支える~家族、友人、知人として」を書きましたが、今回もDVについてとりあげたいと思います。

DV被害を受けている女性が、辛い状況であるにも関わらず、暴力からなかなか逃げようとしなかったり、逃げてもまた戻ってしまうことがよくあります。なかなか逃げ出そうとしない被害者に周囲や支援者も苛立ち「どうして逃げないの?」「また戻ってしまうの?」と責めてしまうことがありますが、そうなると被害女性はますます孤立していきます。

女性が安全に暴力から脱出するには、他者とのつながりと信頼を保ち続けることが必要です。そのためには、周囲にいる支援者が女性は「なぜ逃げないのか」「逃げてもまた戻るのか」ということを被害者の視点から理解しておくことは重要です。
では女性は「なぜ逃げられない」のでしょうか。理論的枠組みの一つとして、ここでは「パワーとコントロールの車輪」を紹介したいと思います。

□パワーとコントロールの車輪

今から35年前、1980年にミネソタ州ドゥルース市では地域社会の9つの機関が集まり(裁判所や警察、福祉機関など)、DV介入プロジェクト(DAIP)が組織されました。1984年には被害女性たちの声をもと、暴力を理解する理論的枠組みとして「パワーとコントロールの車輪」が作られました。女性たちはなぜ暴力男性の元にとどまるのかについて、それまでの推論に異議を唱えたのです。この車輪が示しているのは、暴力は突発的な出来事でもなければ、積りつもった怒りや欲求不満、傷ついた感情の爆発でもなく、あるパターン化した行動の一部分だということです。
 

この「車輪」によれば、暴力には意図があり、車輪の中心にある「パワーとコントロール」が車輪を動かす原動力となります。車輪の一番外側には身体的暴力と性的暴力があり、内側には8つの心理的暴力があります。

心理的暴力には、①脅し怖がらせる、②情緒的虐待、③孤立させる、④暴力の過小評価/否認/責任転嫁、⑤子どもを利用する、⑥男性の特権を振りかざす、⑦経済的暴力を用いる、⑧強要と脅迫とがあります。身体に触れなくとも、外からは見えにくい心理的暴力によって、被害者は力を奪われ無力になり、服従を強いられていきます。身体的暴力や性的暴力は他の行動の効果を高めるため、恣意的に使われ結果としてパートナーが自立する能力を奪います。   
              『暴力男性の教育プログラム-ドゥルース・モデル』(2004)より

例えば、「いつまた爆発するかわからない」と恐怖から顔色や機嫌を伺い生活するうちに、「自分がどうしたいか」「何を望んでいるか」等わからなくなり、主体性が奪われていくのです。

ハーマンは「逃走を防ぐ障壁は通常目に見えない障壁」と言います。繰り返し、暴力が反復されるなかで、恐怖と孤立無援感を感じ、「他者との関係における自己」という感覚が奪われると説明しています。

□つながりを保ち続けること

では、周囲の家族、支援者はどう対応すればいいでしょうか。
私は、「つながり」を保ち続けることが大事だと思っています。それは、何かあったらいつでも駆け込める場所や、何かあれば相談できる人、助けを求められる人との「つながり」です。温かいお茶を飲みながら、たわいないお喋りを楽しんだり、一緒に笑える人でもあるでしょう。切れそうな糸であったとしても他者との「絆」を保ち続けられることがとても大切だと思います。

DVを受けている女性と共に過ごすとき、その時間を大切にしていただきたいと願います。その時間が少しでも安心できる時間であればあるほど、自分自身のことを考える余裕も生まれてくるのではないかと思います。自分自身のことも大切にしていいと思えるかもしれません。
そして、いざ女性が「逃れたい」と助けを求めたときには、タイミングをはずさずに、脱出することができればと思います。

女性が保護を求めたのにも関わらず、うまく支援につながらずチャンスを逃してしまうこともあります。そういうことが決してないよう、一人でも多くの人によって、DV被害を受けている女性が理解され、よりよい支援につながることができればと願っています。

□小さな一歩から

1994年、米国のベルリンという小さな町のサバイバーによる集まりから始まったインターナショナル・パープルリボン・プロジェクト(IPRP) があります。国際的な女性への暴力根絶を訴えるキャンペーンです。現在、40カ国以上に知られ、国際的なネットワークに発展しています。
このキャンペーンには、誰でも、一人でも参加することができます。紫色のリボンを購入して身に着けたり、車につける等、小さな努力から始めることができます。

私もこの二週間、パープルリボンを身につけてみたいと思います。


[参考文献]
『暴力男性の教育プログラム-ドゥルース・モデル』(2004)エレン・ベス、マイケル・ペイマー著、波田あい子訳、誠信書房。
『心的外傷と回復』(1999)ジュディス・ハーマン著、中井久夫訳、みすず書房。


[関連記事]
FLCスタッフエッセイ「DVを受けている女性を支える~家族・友人・知人として」
所長のブログ「トラウマと回復~援助関係について学ぶ」

                 今日はパープルリボンにちなんだ
               年に一度のパープル・ライトアップ、綺麗でした! 
                        はじめての通天閣より

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                全国のライトアップ実施予定施設は⇒こちら

2015.11.10 子ども/子育て
出産や子育てを語ること−子への否定的感情を語る−『たのしく、出産』を読んで

                                             金山 あき子

 

筆者は5歳の娘の子育て中。つくづく「子育てって大変だなあ。」と、思い知らされることも多い今日この頃です。そんな中、村本邦子(当研究所の顧問です)著の、『たのしく、出産』という本を読んで、自分の出産について思い出し励まされたり、「子育てとは?」ということについて改めてふりかえる機会があったので、今回はこの本について少し書いてみたいと思います。

 

この本は、まずは著者の出産体験のレポートから始まります。とても生き生きと、普段は表ではあまり語られることのない、妊娠・出産という女の「秘められた」体験が、なまなましく語られてゆくうち、読む者は思わずハッと息を飲んだり、ほろりとしたり・・。著者が、第一子を自宅で出産をすることを決心してから、自宅出産して子育てが始まり、第二子を出産するまでの軌跡が、鮮やかに、情緒豊かに描かれてゆきます。

 

読み進めるうちに、「人が自然に出産・子育てするとは?」「病院で出産することの意味は?」など、出産にまつわる「当たり前」がどんどんゆらいできて、現代の出産システムへの色々な問いも生まれてきます。

また、著者が子育てをすすめる中で、自らの子どもへの気持ちや関係の変化についても、つぶさに描写されてゆきます。その中でも、私は特にこんな語りが心に残りました。

 

著者が二人目の子どもを妊娠中、身重で思い通りに動いてくれない母に、息子がイライラしはじめた頃のこと。「子どもが産まれてから、子どもの存在を疎ましく感じるようになったのも、息子のそんな感情の変化(イライラ)に出くわしてからだ。ある母親は、産まれてすぐから、我が子を疎ましいと感じる自分に気づく。またある母親は、もっと大きくなってから、(中略)初めてそんな自分の(子が疎ましいという)感情を知る」。「とにかく、遅かれ早かれ、女たちは、母として存在しながら、母親らしからぬ部分を持っている自分に気づく。それは、周囲にどう非難されようと、否定できない事実である。」「でも私は、こう思うのだ。本当に、母親が子どもをかわいいとしか思わないとすれば、子どもは成長する必要もないじゃないかと。(中略) ところが、世間や男や心理学者はこういう。「母親とは、子どもを愛してやまない存在であるはずだ。でも、子どもの自立を阻んではいけない」と。そんなのは、あまりに虫のよすぎる話じゃないか。母親だって、ただの人間だ」。さらに、著者はこう言います。「産んだ女が今、語らねばならないのは、子どもに対する否定的感情ではないか」。と。

 

子どもが愛おしく、かけがえのない大切な存在だと思う肯定的な気持ちと、子どもが疎ましい、イライラするというような、否定的な気持ちは、本来、同じだけ存在するものでしょう。我が国では、とくに「母性愛神話」という、「母は、子どもを無償に無条件に愛する存在であるべき」願望が強いと言われます。こうした背景もあって、子への否定的な気持ちは、タブーとして、見つめにくく、より語られにくいものとなっています。しかしこの否定的な側面を、単に「良くないもの」として抑圧してしまうことは、心のバランスに偏りを起こすでしょう。子どもに対する、両価的(アンビバレント)な感情を、みつめてゆくことで、よりバランスのとれた子育てになってゆくと思われます。といっても、それはそう一朝一夕に簡単にできるものではないのかもしれません。ただ、「子が疎ましい」「子が憎い」といった、子への否定的な感情の部分も、「母なるもの」の自然な姿なのだ、と思うだけで、十分解放される部分があるかもしれません。

 

育児(子育て)=育自(自分育て)とは良く言いますが、確かに子育ては、子どもを育てると同時に、自分の心をみつめ、育ててゆく一つの機会になることができます。そのことを、日々娘との関わりに試行錯誤している自分にも言い聞かせながら、ひとまずは、この機会を大切に歩んで行こうと思いなおすこととします。

 

 

引用・参考文献:『たのしく、出産』(1992) 村本邦子編著 新水社 

 

2015.10.28 子ども/子育て
大人も子どもも楽しめる絵本のすすめ

福田ちか子

 

 本屋さんで,表紙に惹かれて手に取ったヨシタケシンスケさんの絵本,「りゆうがあります(2015 PHP研究所)」が,とても面白かった。

 

 帯には"ハナをほじったり,びんぼうゆすりをしたり,ごはんをボロボロこぼしたり,ストローをかじったり......。こどもたちが,ついやってしまうクセ。それには,「りゆう」があるんです。""こどもにもいいわけさせてよ"とあった。

 

 大人の目線からみると,注意しがちなこどものクセ。お母さんに見つかってダメよと言われたこどもが,つぎつぎとおもしろおかしい理由を繰り出して"いいわけ"をする。それと向き合うお母さんの表情が,何とも絶妙に,複雑な心境を物語っているのもまた面白い。お母さんが子どもの"いいわけ"や母への反論を,受け流しつつ大人の言い分を伝える場面も、素敵だった。

 

大人にとって,こどものクセは「大きくなってもそのままだったら...」と心配してしまう不安のタネ。そして小学校の低学年くらいまでの間にしばしば聞かれるこどもの"いいわけ"は,正面切って向き合うと「なんでそんなウソを言うの」「いい加減なことばっかり言って...」と無性に腹が立ったり,「この子大丈夫??」と心配になったりしてしまうやっかいなもの。 

 

そしてこどもにとって,ついやってしまうクセは,何かに夢中になったり他の事に気を取られたりしているときに,無意識に身体が動いてしまう,やったらダメということは知っていても,なんでだかしてしまうもの。少し前にこどもたちの間で流行っていたことばを借りると「妖怪のせい」と言いたくなってしまうほど、わかっているけどどうしようもないもの。 

 

 そんなこども気持ちを堂々と代弁してくれているこの絵本は、こどもの強い味方のようでもあり、大人にとっても、お母さんの表情に、わかるわかると共感できたり、ユーモアに肩の力がふっと抜けたりする一冊のように思う。

 

 「やったらダメよ」「は~い...」、「もう、また!」というやり取りを繰り返して大人もこどもも疲れてしまっていたり、なんだか険悪になっているような時に、この一冊を一緒に読むと、ふっとお互いに力が抜けて、気持ちがほぐれることがあるかもしれない。 

2015.10.14 カウンセリング
トラウマとレジリエンス~カウンセリングで大切にしていること

西 順子

女性ライフサイクル研究所では、1990年の開設以来、虐待、DV、性暴力など女性や子どものトラウマと回復をテーマに、カウンセリングからコミュニティ支援まで取り組んでいます。

カウンセリングに来談くださる方々から、「カウンセリングって何ですか」「カウンセリングって初めてでよくわからないのですが・・」とよくお聞きします。カウンセリングってよくわからないのは当然です。カウンセラーの私には説明責任がありますので、カウンセリングでできること、今後の可能性と限界など、今できる限りの説明をさせて頂きながら、同意のもとで、カウンセリングを進めていきます。

ここでは、カウンセリングをご検討されている方から、自分の生きづらさや苦悩がどこから来るのかわからない、今どうしていいかわからない・・という方まで、自分を理解しエンパワメントすることに役立てば・・と、トラウマのカウンセリングについて、カウンセラーとして大切にしていることをまとめてみたいと思います。

■トラウマのカウンセリングで大切にしていること

カウンセラーとして、トラウマ被害にあわれた方の回復をお手伝いさせていただくとき、大切にしていることが二つあります。一つは、虐待や暴力など自由を奪われ尊厳を傷つけられる体験はどれほど破壊的な影響を与えるか、被害者の視点からトラウマの影響を理解すること、もう一つは、誰にもトラウマを越えて生き抜く力、レジリエンス(回復力)が備わっていると信じ、レジリエンスを引き出し、レジリエンスを強められるようサポートすることです。

■トラウマの影響

被害にあわれた方が自分の生きづらさ、苦悩がどこに起因するかを理解することで、様々な症状は「自分がおかしくなったのではない」「異常な事態での正常な反応」と理解することが可能となります。自分の症状の理由がわかることは、自己否定、自責感、恥意識を乗り越えて、自己の尊厳を取り戻していく第一歩となります。

回復の第一歩は、「被害者であることを受け入れること」とよく言われます。
しかし「被害者である」と受け入れることは難しいことかもしれません。また受け入れるまで、とても時間がかかるものでもあるでしょう。「もっと何とかできたはず」「人に腹を立てたり、嫌悪したりする、愚痴ったりする自分が嫌。そんなことさっさと忘れて、前を向いていきたいのに」「自分が弱いから、もっと自分が強くならないと」「自分さえ我慢すればいい」と考えることもよくあり、それも自然なことです。

しかし、身体は症状や生きづらさとしてさまざまな形で訴えてきます。トラウマ的な状況や苦境を生き抜くなかで、その「傷つき」は、さまざまな症状や対人関係上の問題となって、「もう限界だよ」「これ以上無理だよ」と、声なき声として教えてくれているのだと思います。
「被害者であること」あるいは「傷つき」を受け入れることは、無力になることではありません。逆境を生き抜いてきた自分自身に敬意を示して、労わることであると思います。

カウンセリングでは、声なき声にも耳を傾け、「傷つき」を受け入れられるよう、症状について説明し、「傷つき」への理解を深めていきます。そして、症状とうまくつき合えるよう、コントロールするためのスキルを学んで頂いたり、心身へのアプローチ法を用いながら症状や苦悩の軽減を図ります。

■レジリエンス

トラウマ体験の中核は、恐怖感、無力感、孤立無援感です。「自分にはどうすることもできない」「一人ぼっちだ」という体験です。トラウマ的出来事に晒され被害を受けることで、自己や他者、世界に対する安全感、、安心感、信頼感が奪われるという、深刻なトラウマ(傷つき)を受けます。
一方で、誰もに、逆境を生き抜いてきたレジリエンス(回復力)があり、「強み」があります。「傷つき」を認めることが大切であるのと同様に、自分自身のもつ「強み」に目を向けることも大切です。

カウンセラーとしてできることは、自分がどうやってその状況を生き抜いてきたのか、そして今、どうやって何とかしのいでいるか、自分にあるレジリエンスに気づいてもらいながら、それを支持することです。そして、レジリエンスを強めることです。
回復のプロセスは、トラウマの影響を減らして、レジリエンスを強めていくことと言えるでしょう。
では、レジリエンスにはどのようなものがあるかと言うと・・、

レジリエンスの一つにコーピング・ストラテジー(対処戦略)があります。
自分がどうやってここまで生き抜いてきたか、そこに目を向けていただくことで、対処方法が見えてきます。自分自身は無力ではなく、生き抜いてきた自分があるのだと気づくことは自己を発見するプロセスでもあります。

例えば、子どもの頃であれば、「絵を描くのが好きだった、絵を描いているときは忘れることができた」「先生に読書感想文を褒められて嬉しくて、それから本をよく読むようになった」「漫画やアニメが好き」「とにかく勉強を頑張った。自分で自立して仕事ができるようにと」・・などがあります。

大人になってからであれば、「水泳をしているときは気分が晴れる」「美味しいものを食べにいると、気分転換できる」「アロマオイルなど、香りが好き」「仕事が支えてくれている」・・などがあるでしょう。

対人関係に困難を抱えているときには、「あまり関わらないようにする」とその人と距離をおくことや、味方になってくれる人の助けを求める・・などの対処をとることもあるでしょう。


レジリエンスの構成要因として、環境も大切です。私たち人間は環境との相互作用のなかで生きています。人は、コミュニティからアイデンティティ、所属感、意味を引き出します。安全な環境、安全な人との何らかの「つながり」があることは、レジリエンスを強めます。子どもの頃は環境を選べませんが、大人になって、可能な範囲で、安全な環境を選ぶことができればと思いますし、その選択肢が広がればと思います。


例えば、パートナーからのDVに晒されているというとき、「パートナーが怒りを爆発させ、きれそうなときは、家を出て、友だちの家に身を寄せる」「職場で理解してくれる人がいる。その方に相談にのってもらっている。」「自分のことを話せる友達が一人いる。しんどいときは、時々、話を聞いてくれる」「主治医の先生に話を聞いてもらっている」「子どもの心配ごとについては、保育所の先生に相談している。話を聞いてもらうとほっとする」・・など、逆境にあっても、安全な人とのつながりを保つことが大切です。

■回復のプロセス

このようにトラウマのカウンセリングでは、トラウマの影響への理解を深めながら、回復への道標となるレジリエンスを発見し、強めていけるよう取り組んでいます。トラウマから回復は、トラウマの影響を減らしながら、自分のもつ力を発見し、「つながり」を回復していくプロセスでもあるのです。それは、希望を見失わず、命を肯定することであると思っています。

回復のプロセスは、お一人お一人が違い、個性的なものです。来談くださった方の希望やニーズ、意思、選択を第一に寄り添いながら、伴走者となって、回復の道を歩むお手伝いができればと思っています。


※カウンセリングについては、こちらをご覧ください。⇒カウンセリングについて

※トラウマからの回復とレジリエンスについてはこちらもご参照ください。
  ⇒「トラウマからの回復とレジリエンス・モデル~回復の3段階と8次元」


■関連記事
2015年4月FLCエッセイ「セルフケアのヒント
2014年6月FLCエッセイ「女性のトラウマとセルフケア
2009年6月FLCエッセイ「心と身体をつなぐトラウマケア
2007年7月FLCエッセイ「トラウマ反応とケア
2006年11月女性ライフサイクル研究第16号「レジリエンス~苦境とサバイバル
1999年11月女性ライフサイクル研究第9号「生態学的視点からみたトラウマと回復
1999年11月女性ライフサイクル研究第9号「女性のトラウマと回復

2015.09.15 五感
アロマの楽しみ −ディフューザー作り−

                                金山あき子

涼しい風が心地よく吹いて、めっきり秋らしくなってきました。秋は、ゆっくり読書をしたり、料理をしたり、手仕事をしたり・・・と、自分の好きなことや、内向的な仕事をして時間をすごすのにぴったりの雰囲気がありますね。皆さんが、この秋に、してみたいことは、何でしょうか。

 

私が、最近してみて面白かったことは、アロマのリードディフューザー作りです。リードディフューザーは、玄関や、居間、お手洗いなどに置くと、ほんのりといい匂いがして、リフレッシュやリラックス効果があるそう。市販でもいろいろなものがあるけれど、なかなか好みの香りに出会えなかったり、少々値が張ったり・・。じゃあ、手持ちのアロマオイルで作ってしまおう、ということで、先日おそるおそる、作ってみました。これが、案外大満足の出来。作り方もとっても簡単でした。

 

<材料> 口が小さめの瓶、竹串を数本、無水エタノール(薬局などで売っています)、水(揮発を減らすため)、好みのアロマオイル。

 

<作り方> 無水エタノール:水:アロマオイルを、8:1:1くらいの割合で、好みの瓶に入れます。そして、竹串(できたら尖った先を切っておく)か、市販のリード(串)を瓶の口にさしたら完成です。

 

出来た瓶に、リボンをかけてデコレーションをしたり、アロマの種類も、季節や、好みによって変えれるのがお楽しみです。

 

 私は、一つ目を、ラベンダーで作ってみました。ラベンダーは、昔からハーブの中でもさまざまな用途に使われ、リラックスや鎮静効果があると言われます。フランスでは、収穫したラベンダーの花をいっぱいに詰めたサシェ(袋)を枕元に置いて、睡眠の助けにしたり、箪笥の中に入れて虫除けに使われてきたとのこと。ラベンダーの香りを胸にすいこむと、紫色のラベンダー畑の中に居るような、寛いで、ほっとした、ひろびろとした気持ちになります。

 

二個目のデフューザーは、レモングラスを中心として、ペパーミント、ローズマリーなどのスッキリとした香りを中心に作ってみました。レモングラスは、タイなどアジアの料理に使わることも多く、消化を促す作用があると言われます。また、インドのアーユルヴェーダーでは、鎮静剤、蚊などの虫除けの薬にも使われるそう。これを玄関に置くと、ドアを開けるたびにレモングラス特有の爽やかな草の香りがし、とても幸せな気持ちになります。夏の終わりの蚊除け効果にも期待?!できるといいなあ。

 

アロマオイルも、いろいろな種類や効能がありますね。皆さんは、どんな香りが好みでしょうか。ぜひ、お好きな香りで、楽しんでみてください。

2015.09.03 いのち
生と死と、自由と愛と~『レ・ミゼラブル』を観て思い巡らしたこと

                                                  西 順子

この夏、夏季休暇中の楽しみとして、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観にいきました。観劇してから三週間がたちましたが、毎日、家で過ごす時間はCDの音楽に聴きいっています。

『レ・ミゼラブル』は「悲惨な人々」「みじめな人々」を意味しますが、CDの歌声と音楽によって、ミュージカルの登場人物らの情熱的な生き様が思い出され、魂を鼓舞されます。
生の舞台や歌、そしてアンサンブルは、生きるエネルギーに満ち、魂を揺さぶられるようでした。
ここでは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、思い巡らしたこと、考えたことを書いてみたいと思います。

□『レ・ミゼラブル』とは

原作『レ・ミゼラブル』(1862年)は、ヴィクトリア・ユゴーが自身の体験を基に、19世紀初頭のフランスの動乱期を舞台に当時の社会情勢や民衆の生活を克明に描いたフランス文学の大河小説です。1切れのパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになった主人公ジャン・バルジャン。ミリエル司教の慈愛によって改心し、善良に生きることを全うしようとする人生の物語です。

私は原作を読んでいませんが、2012年に映画を観て、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のことを知り、今回二回目の観劇となりました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1985年ロンドンでの初演から現在まで世界30カ国以上で公演、ブロードウェイでも16年間続く大ロングランヒットとなっています。ミュージカルとしての歴史も長いことには驚きます。

ミュージカルには、原作のもつ「無知と貧困」「愛と信念」「革命と正義」「誇りと尊厳」というエッセンスを余すことなく注ぎこまれたと言われています。時代を超えて人気があるのは、この物語の根底にある普遍的なテーマが、観る者の魂に訴えかけてくるからでしょう。

□ 自由と使命、愛

私自身が魂をゆさぶられたのは、「この物語は決して過去ではない」ということでした。
ユゴ―自身「地上に無知と悲惨さがある間は、本書のごとき書物も、おそらく無益ではないだろう」(岩波文庫版)と言いますが、私はこの物語から「自由を求める闘い」を感じました。そして「自由を求める闘い」は現代において今もなお続いていることを思いました。

それは社会のなかで、家族のなかで、そして人々の内側で、支配し抑圧する者との闘いです。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、自由で平等な社会を目指して革命を起こそうとする若者たち(男)、生きるために売春窟で働く女たちも、自由を求めて生きることと闘っているのだと、その闘いは命の叫びであると感じられました。

一方で、自由があるだけでは人は幸せになれないのか・・という問いかけも起こりました。
ジャン・バルジャンに愛娘コゼットの未来を託したフォンテーヌと、託された使命のためコゼットを愛し守り抜くジャン・バルジャン。叶わぬ恋とわかりながらも愛する人のために力を貸したエポニーヌ、皆が人を愛することを全うするなかで、安らかに死の床についたのが印象的でした。
正義のため、自由を求めて闘った若者たちも、闘いに破れて命を落としました。

皆、愛することが使命であったともいえるでしょう。愛することが生きること、と愛が生きる意味を与えていたのだろうと思いました。もちろん、キリスト教精神がバックボーンにあることは大きいと思いますが、東西文化の違いを超えて、愛することの大切さを教えてくれています。自由は「個としての尊厳」ならば、愛は「他者とのつながり、絆」です。人が幸福に生きるためには、自由と愛と、その両方が必要なのだと考えさせられました。

もちろん、生きることは愛することと、きれいごとではないことも描かれています。民衆は、自由を求めて闘う若者たちを見捨てました。ティナディエル夫妻のように生きるために盗みを働き、お金を得ることに執着する者もいます。生き延びるためには、きれいごとでは生きられないのか・・と、人間の限界や悲しみを感じました。貧困にあえぐ悲惨な社会には善と悪、被害者と加害者が入り混じり、光と闇があるのです。どちらにせよ、民衆たちは生きること、生き延びることに必死であると言えるでしょう。


□未来を託すもの、託されるもの

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、生きること、愛すること、使命を全うして生きることに、生命エネルギーを感じると同時に、死ということと、死にゆく人々のことも考えさせられました。

ミュージカルの最後の場面は、ジャン・バルジャンが愛するコゼットと命を救ったマリウスに看取られて、幸せのなかで亡くなります。ジャンバルジャンの命を引き継いだのは、生き残ったコゼットとマリウスの二人。最後の最後の舞台は、この二人を囲むようにして亡くなった民衆や若者ら全員が亡霊のように登場し、大合唱で幕を閉じます。
ジャン・バルジャンは、自分が愛し育て、命を救った若者に未来を託すことで、安らかに永遠の眠りについたといえるでしょう。

涙なくしては観られない場面ですが、生き残った二人の命の背後には、たくさんの亡くなった命があることに思いを馳せました。

ミュージカルを観劇したのがちょうど終戦記念日の前々日。この夏でわが国も戦後70年を迎えましたが、今、生きているということは、たくさんの命の犠牲の上にあることなのだということを思い、その命を大切にしていかなければならないと思いました。

私自身のことですが、この一年親の介護の問題が現実化してきました。気がつけばいつの間にか親はすっかり年を取り、生命に限りがあるということを最近実感させられるようになりました。

前世代が私たち次世代に、安らかに幸せな思いで命のバトンを手渡してくれるだろうか、未来への希望を託してくれるだろうか、そして私はバトンをしっかり受け取れるだろうか・・と考えると不安になります。残された時間はもう少ないと思うと焦る気持ちにもなります。できれば幸せに最期のときを迎えさせてあげたいと願います。

しかし不安になっても私にできることは何もないに等しいことから、私にできることは自分が今生きていることを大切にすること、自分に与えられた役割や使命を全うすることと思い、心を鎮めるようにしています。


□生きるということ


日々の臨床のなかでは、生きることに絶望している、生きる意味が感じられない、自分には生きている価値がない・・という声なき声に耳を傾けています。


私には何も言うことはできませんが、ただその声に寄り添い、聴き取り、自由と尊厳を求めて生き抜いてきた方々の証人であり続けたいと思います。
そして、生きることは辛くとも、闇から光を見い出す道もあると信じ、そして生きている限り、身体がある限り、生きる意味があり、生きる価値があると、ただただ命を信頼していければと思います。


・・・ミクロからマクロまで視点があちこちにいきながら、つらつらと書きましたが、生と死と、自由と愛について、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、考えさせられ、思い巡らしました。


19世紀前半のフランス社会の激動期の物語、150年前に書かれた物語は今にも通じるところがあるのではないかと思います。時代を経ても、社会と人との関係、人と人との関係、自由と愛を求めることは普遍なのだと思います。
そして「無知と貧困」を繰り返さないよう、歴史から学ぶ必要があります。ぜひ一度、原作を読んでみたいと思います。

2015.08.20 こころとからだ
日々のほのぼのエピソード探し

 福田ちか子

 

ある日,電車での移動中に、心があたたかくなるような二つの場面に出会った。

 

 一つ目は、とある駅で、4歳くらいの男の子とそのお父さんが乗車してきたときのこと。お母さんが一緒じゃなくて電車に乗るのが初めてだったのか、初めてお出かけする先だったのか、男の子はとても不安そうな顔で、ドアが閉まって電車が動き始めると、「お母さぁぁぁぁん」と声を上げて泣き出した。迷惑そうなものから心配そうなものまで、乗り合わせた周囲の人々の視線は、様々だった。

 

 お父さんがかがみ込んで、「もうすぐ着くよ、大丈夫」「怖いなぁ~、よしよし」と、ゆっくり声をかけると、男の子は、お父さんにしがみついて、少しずつ泣き声を収めていった。電車が駅に停まり、開いたドアが再びしまって動き出すと、また込み上げるように「お母さぁぁぁぁん」。お父さんが「よしよし。怖いな~」。

 

 三駅目の手前で、お父さんが「よしよし。(降りるの)次やで」と声をかけると、お父さんにしがみついていた男の子が顔を上げて「とうちゃく?」と尋ねた。お父さんは頷いて「頑張ったね~」。そうしている間に電車がホームに入ると、男の子は泣き止んで、心なしか得意そうに涙の跡を残した顔で、お父さんと手をつないで降りていった。

 

 みている側には、ローカル線でたった三駅分の、あっという間の出来事だったけれど、男の子にとっては大冒険だったに違いない。「ちょっとの間我慢しいや!」などと大人の物差しで測らずに、でも抱きかかえたりして大冒険を台無しにすることもせずに接していたお父さんの姿も印象的だった。あの男の子は、頑張れる自信がついたことだろう,とほっこりした。

 

 二つ目は、車椅子にのった高齢の男性がホームで電車に乗り込むところで、その妻とおぼしき高齢の女性と、白いシャツと背広のズボン姿の男性が二人、乗り込むのを手伝っていたときのこと。二人の男性の姿から、駅員さんだとばかり思い、ホームでよくみかける光景だなぁと思っていたら、乗り込みを手伝い終えると、男性二人は老夫婦に会釈し、それぞれにカバンを抱え、慌てて別々の改札口の方へと走って行ってしまった。どうやら駅員さんではなかったらしい。仕事で急ぐ足を止めて、手を貸していたのだと思うと、ほんのりうれしい気持ちになった。

 

 思いがけずあたたかい場面に居あわせて,ほんのりと心が動かされる心地良い感覚を味わうことができた。

 

 たくさんの情報が、いろいろなメディアから流れている今日この頃。より多くの人の注目を得ようと競う結果か、ワイドショー的な要素が強いもの程,どれだけ異常かということが強調されている風潮が目立つ。一つ一つを真剣に受け止めると、気分が落ち込むなどの影響がでそうなぐらい、刺激の強いものも多い。

 

 深く考えないようにしてそれらをやり過ごすことや、見ないように好きな物事に没頭する、ということが無意識のうちに習慣になっていて,心が動かされる感じを忘れがちになっていることがあるのではないだろうか。

 

 そんな時,ほのぼのするエピソード探しをしてみると,心地よく心が動かされる感覚を思い出すことができるかもしれない。

2015.08.06 子ども/子育て
思春期の子どもの成長を支える~「バケモノの子」を観て思い巡らしたこと

                                                    西 順子


先日、今公開中の映画『バケモノの子』を観ました。バケモノの世界に飛び込んだ少年、九太(きゅうた)と、師匠のバケモノ、熊徹(くまてつ)とが共に成長していく物語。未来を生きる子どもたちへの温かい眼差しと、子どもの成長を応援する深い愛を感じる映画でした。この映画を観て、思春期の子どもと親・大人との関係性について、そして「愛とは何か」を考えさせられました。子どもの視点、親の視点から思い巡らしたことについて書いてみたいと思います。

■映画を観て

少年と父親代わりの熊徹との関係性は、子どもの視点にたってみると「こんな大人がいてくれるといいよなぁ」と理想的です。子どもと一緒にとことんつき合い、向き合う熊徹は、子どもにとって頼もしい存在だろうなと羨ましく思いました。


親の視点にたってみると、思春期になった子どもが変化し反発すること(=自立していくこと)への戸惑いや寂しさ、でも最終的には子どもを認め、後ろに引いて子どもを手放そうとする熊徹に、愛するが故の切なさを感じました。物語の最後、熊徹が表現した愛は、想像を超えていましたが・・(ネタバレにならないために書けませんが、涙があふれそうになりました)。


今の時代にあっては、子どもが成長していくためには、親でなくとも、熊徹のように子どもと体験を共にし、向き合い、愛をストレートに子どもに手渡してあげられる大人の存在が必要とされているのだと思います。


一方、九太と熊徹の関係性と対照的に描かれている親子が、一郎彦(いちろうひこ)とその父親の猪王山(いおうぜん)。猪王山も一郎彦を大切に思い愛しているのですが、その関係性は全く違うものでした。一郎彦と猪王山の関係性は「心の距離感が遠く」、子どもの疎外感と孤独が伝わってきました。そして親も子も、どちらも「本音」が見えずに隠されていました。そこには現代社会における父子(特に父と息子)の関係性が象徴されているように感じました。



■思春期の子どもの成長を支える


大人は子どものためを思い、子どもを愛する気持ちで、大人がよいと思うことを与えます。そして子どもは疑問なくそれを受け取り成長します。
しかし思春期を迎えるとき、子どもは親から受け取ってきたもの(価値感)に疑問を感じ、反発し、それを壊そうとするものです。そして「自分とは何か」を探求し、試行錯誤し、自分の価値感を構築していこうとします。それは親を客観的に見れるようになるからこそできることであり、親離れであり、自立へのプロセスで、それが思春期の子どもの仕事です。


しかし、親からみると「以前はいい子だったのに、どうしてこうなってしまったの?」「今まで子どものためを思って、ここまでしてきたのに・・」と、受け入れがたい気持ちになったりします。
しかし、子どもの人生の主人公は「子ども」です。といっても、まだ子どもから大人への過渡期。子どもが思春期の課題を乗り越えていくには、成長を支えてくれる親、大人の存在が不可欠です。かといって今までと同じ関わりでは役に立ちません。


思春期を迎えた子どもが成長のために必要としているのは、「大人が誠実に、本音で、ありのままの自分と向き合ってくれること」、そして「子ども扱いせずに対等に関わってくれること」です。そのことを、『バケモノの子』を観て再確認させられました。


「思春期の子どもをごまかさない」姿勢が大切なのです。嘘、ごまかしは子どもの信頼を損ねます。子どもが大人を信頼できることが必要で、他者を信頼できることは自分を信頼することとつながるのです。

■思春期の子どもと向き合う


思春期の子どもの心に寄り添いたいとカウンセラーを志してから早30年が過ぎました。そんな私のカウンセラーとしての原点を思い出させてくれた映画でした。これからも、一人の大人として、子どもと向き合い、親や家族に寄り添うことができれば・・と思います。


女性ライフサイクル研究所では、不登校、引きこもり、摂食障害、うつ・不安、いじめ、デートDV、暴力被害・・など、思春期の子どもと親への心理的援助(カウンセリング)を提供しています。子どもが未来に希望をもって歩めるよう子どもの伴走者となりながら、親御さんには、子どもの行動の意味、コミュニケーションの取り方や関わり方を共に考えていければと思っています。


子どもと大人、子どもとコミュニティ・社会とをつなぐ「橋渡し」となれればと願って・・。

お勧め図書:
『思春期の危機と子育て』村本邦子・前村よう子著、三学出版。
『プレ思春期をうまく乗り切る!大人びてきたわが子に戸惑ったときに読む本』村本邦子著、PHP研究所。


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2015.07.14 コミュニケーション
子育て中の夫婦間コミュニケーションのヒント

                                         金山あき子

人と人とのコミュニケーションは、時に難しいものです。特に、子育て中や忙しい時、自分が何かのストレス下におかれている時は、家族やパートナーからのサポートは大事なものですが、そのニーズをコミュニケーションの中で伝える事は、案外難しかったりします。今回は、ちょっとしたコツで夫婦間のコミュニケーションを円滑にしてゆくヒントを、筆者が最近読んだ本、『赤ちゃんを愛せないーマタニティブルーを乗り越える12章』(クラインマン&ラスキン)からまとめ、考えてみたいと思います。

 

妻自身が忙しかったり、ストレス下にある時には、夫に家事や子育てを手伝って欲しかったり、心の支えになってもらいたかったりなど、相手に対する欲求やニーズが多くなる時期といえます。しかし、多くの女性は、自分の気持ちをストレートに相手に伝える事に、ためらいや違和感がある、といいます。それはあまり主張するのは「女性らしくない」と社会的に思われてきたことから、女性が主張したり、助けを求めることを難しく、恥ずかしいと感じやすいことが原因となっていると言われます。ストレス状況と、そうした社会的なハードルが重なって、女性は相手に自分のニーズを伝えるのがより難しくなる傾向があると言えるでしょう。

では、一体どうしたら、より、パートナーに自分のニーズを健全に伝え、コミュニケーションをより良くできるのでしょうか。以下に具体的な例を交えて「伝え方のヒント」を挙げてみたいと思います。

 

⒈「あなたは〜」ではなく、「わたしは〜」という言い方をする。

「あなたは・・・」という言い方で始めると、ついつい相手のことを責めるような内容になってしまいがちです。例えば、「あなたは、いつも家に居てくれないのね。」という言い方があります。これを、「私は〜」という風な言い方でしてみたらどうでしょうか。つまり、自分の気持ちを、相手に伝えてみるのです。上の例では、「私は、あなたがいつも家に居ないと寂しいのよ。」というように、「私」の気持ちをベースに言い換えることができます。そうすることで、相手は自分が責められないので、あなたの言いたいことも聞いてみようという気になり、コミュニケーションへのドアが開かれやすくなるかもしれません。

 

2.まず夫の立場を認め、その上で自分の欲求を伝える。

例えば、夫と話をしたいと思っていた夜、夫が仕事で遅く帰ってきたとします。ここで、「今頃帰ってきて!一体どういうつもりなの」と言ったとします。こうすると、夫は自分が責められたと思い、また自分の状況をわかってもらえないと感じるでしょう。また、妻が「話をしたい」という本当にして欲しかったことを伝えるゴールは遠のいてしまいます。良い例としては、「仕事で疲れているところ悪いのだけど、私とも話をしてほしいの。」というものがあります。こうして相手の状況を理解する内容を入れてみることで、話し合いの場ができるかもしれず、また自分の欲求を伝えることができる可能性も高まるでしょう。

 

3.曖昧な言い方をせず、はっきりと直接的に欲求を伝える。

たとえば、「もっと手伝って欲しい。」と漠然と言っても、実際に、夫に「何を」して欲しいのかを、具体的に伝えないと、なかなか相手に自分のして欲しいことをわかってもらいにくいでしょう。まずは、こちらが何をして欲しいか、例えば、「子どもがトイレをする間見ていて欲しい」、「食器を下げて欲しい」など、具体的に明確化して伝えると、もっと相手に実行してもらえる可能性が高まります。その際には、1.の「私は〜」の言い方で考えること、2.相手の状況・立場を認めるコツを適用すると、より有効です。

 

最後に、「ありがとう」は魔法の言葉、とも言われますが、やはり感謝伝えるということは、コミュニケーション上とくに大事なことのように思われます。相手がしてくれることが当たり前になっていることも多いものです。自分の主張や、ニーズを伝えてみて、パートナーがしてくれた行動や、言葉が嬉しかったら、それへの感謝を言葉にして、喜びを伝えてみましょう。きっとその喜びは何倍にもなって返ってきて、二人のコミュニケーションが、ますます素敵なものになっていくことでしょう。

 

【参考文献】カレン・R・クレイマン+ヴァレリー・B・ラスキン(1996)『赤ちゃんを愛せない マタニティブルーを乗り越える12章』 (村本邦子+山口知子訳)創元社

 

2015.07.06 DV
DVを受けている女性を支える~家族、友人、知人として

                                                                           
                                                                       西 順子

 あなたが大切にしている人(家族や親戚、友人、同僚)から、パートナーや恋人との関係で悩んでいる、暴力を受けていると打ち明けられたことはありませんか。
 彼女のことを心配しながらも、なんと言葉をかけていいか、どう対応していいかと戸惑ったかもしれません。あるいは、彼女の力になりたいと協力を申し出たけど、断られてしまい無力に感じたかもしれません。

 パートナーや恋人など親密な関係にある人から受ける暴力のことをDV(ドメスティック・バイオレンス)と言います。調査によれば、女性の約4人に1人は配偶者から被害を受けたことがあり約10人に1人は何度も受けています。被害にあった女性の約4割はどこにも相談していませんが、相談したことがある人は「家族・親戚」「友達・知人」が最も多く(合せて5割)、DVに関わる専門機関や支援機関に相談する割合はほんのわずかです。
 交際相手からは(いわゆる「デートDV」)、女性の約5人に1人が被害を受けたことがあり、被害を受けた約4人に1人は命の危険を感じたことがあります。被害を相談したことがある女性は約6割で、相談先のうち「友人・知人」が約5割となっています。
                        (内閣府2015年発表:男女間の暴力に関する調査より)


 この調査結果から、DVを受けている女性が悩みを話したり、相談するのは、まず身近にいる家族や友人、知人です。女性が暴力から逃れ、回復していくためには、被害女性の身近にいる家族や友人、知人の存在が重要です。なぜなら家族や友達など身近な人との「情緒的なつながり」こそが、被害女性が信頼感や自尊心を取り戻す力になり得るからです。
 ではどのようにして「情緒的なつながり」を保てばいいのでしょうか。『DV被害女性を支える』(金剛出版)をもとに、被害女性との「関わり方」の指針を紹介できればと思います。

□アンカーの必要性

 『DV被害女性を支える』の著者、ブルースターさんは、被害女性の家族、友人らが果たす役割をアンカー(錨:いかり)という言葉で表現しました。
 ブルースターさんは心理療法家としてDV被害女性や家族と関わり、シェルターで臨床主任を務めたこともある方ですが、昔にボーイフレンドからの暴力の経験があります。「そのときは幸いに周囲に心温かい人がいてくれ、いれかわりたちかわりアンカー(錨)として働いてくれたおかげで今があり、もし、いなかったら自分の人生はかなり違った方向に進んでいただろう」と言います。

 アンカーとは船の錨(いかり)のことで、アンカーの仕事は船の安定を保つことです。鎖がたるみすぎてもいけないし鎖を断ち切ってしまうこともありません。いつも鎖をピンと張って船を近くにおくことで、船の方も自分のいるべき位置がわかります。
 DV被害女性を支えることも同じで、アンカー(錨)の役割を果たす「人」が必要だと言います。第三者であるアンカーとのつながりが保てることで、DV被害女性はよりよい解決に向かうチャンスができます。アンカーとの平和な関係のもとで、女性も自分本来の強さに目覚め、自己を取り戻す力を得られるのです。

 しかし、DVを受けている女性との関係で、家族や友人が知らず知らずに演じている典型的な役が二つあり、それを「逃亡者」と「救助隊」と言います。逃亡者タイプの人は被害女性と気持ちの上で離れる傾向にあります。救助隊タイプの人は巻き込まれ過ぎる傾向があります。この中間になるのがアンカーで、アンカーは大切な人との物理的な距離を保ちながら、相手に敬意を持ち、支えとなる接し方をします。
 アンカーとは、相手が本来持っている能力を支援し、力づけ、伸ばしていく人のことです。その女性が自分の長所や感情や欲求に目が向けられるよう助け、自力で最も安全な判断ができるよう手伝う人です。

□DVを受けている女性を支援するにあたっての原則

 女性を支援しようとするときの原則は、エンパワメントと「つながり」です。あなたが女性のことを大切に思い、いくら善意であったとしても、エンパワメントの原則がないと支援はうまくいきません。エンパワメントとは、人は本来生まれながらにして、生き抜く「力」が備わっていると信じることからスタートします。そして、相手を変えようとしないことが重要です。女性を変えようとすると、あなたは支配する立場になり、彼女の力を奪い孤立させてしまいます。アンカーとして集中しなくてはならないのは、大切に思う女性と信頼関係が持てる人になることです。信頼は、心が通じ合うかどうかにかかっています。

 DVの話をうちあけられたときの原則を、ブルータスさんは12カ条としてまとめています。

1. 信じること
2. 彼女が虐待されている事実を真剣に受け止めること
3. 中立を守り、片方に味方しないこと
4. 彼女の判断を尊重し、批評しないこと
5. 彼女の気持ちを尊重すること
6. アドバイスはしないこと
7. 彼女ではなく、あなた自身をコントロールすること
8. あなたのとらえた現実を彼女に見せること
9. 共感を心がけながら、客観性を保つこと
10. あなた自身の欲求を満たして、手本を見せること
11. あなたにできることとできないことを伝えること
12. 援助を申し出るときに条件をつけないこと(見返りを期待しないこと)

                「DV被害女性を支援するにあたっての12カ条」『DV被害女性を支える』より


 DVを受けている女性を支え、支援したいと思っているけど、どう関わればよいかという声を家族・親族だけでなく、地域で活動している支援者の方からもお聞することがあります。そこで、その思いが、うまく女性とつながることができればと思い、「アンカー」について紹介しました。DV被害女性に「アンカー」という存在があればどんなに安心できることだろうかと思います。
 もちろん、DV被害者支援は一人ではできるものではありませんので、危機介入や緊急事態にはDV専門機関につないで、援助やアドバイスを受けることが必要な場合もあるでしょう。また自分自身の身を守ること、セルフケアも大切にしていただきたいと思います。

 DVを受けている女性が、身近にいる他者との間に〈信頼の絆〉が結ばれていくことを祈っています。

 なお、DVを受けている女性の支援について学ぶ講座を企画しました。家族として友人として知人として、隣人として何ができるかを共に学び、共有する機会を提供できればと思います。詳しくはこちらをご覧ください→「講座:DV被害女性を支える~家族、友人、知人として」

参考文献:『DV被害女性を支える~信頼感と自尊心をつなぎとめるために』スーザン・ブルースター著、平川(監修・解説)、和歌山(訳)、金剛出版。


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