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FLCスタッフエッセイ

2015.12.30 こころとからだ
カナシミのちから(映画インサイド・ヘッドを観て *ネタバレ注意)

福田ちか子

 ディズニーの映画『インサイド・ヘッド(Inside Out)』(今年の7月に公開され、11月には早速DVDのレンタルが開始されている)が、とても面白かった。11歳の女の子ライリーの頭の中が舞台の中心で、感情にそれぞれ、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリという名前がついたキャラクターたちが登場し、ライリーが壁にぶち当たって乗り越えるまでの心の動きが物語になっていた。そのなかで,(物語のネタバレになってしまうけれど)カナシミの感情の大切さについて描かれていたところが,とくに印象深かった。

 

 頭の中の会議では,友だちとの間で嫌なことがあったり,両親に叱られたりと,落ち込むような出来事があると,カナシミやイカリ,ムカムカ,ビビリが騒ぎ出す。すると,リーダーシップをとっているヨロコビが,楽しいことを思い出させたり,好きなことに気持ちを切り替えたりして,いつも明るく楽しいライリーでいられるようにコントロールを利かせていた。友だち,親子,得意なアイスホッケー,それぞれの楽しい思い出によって創られた基地が脳内にあって,そこから次々と楽しい気持ちの素が,生み出される仕組みになっていた。

 

 ところが,親の仕事の都合で引っ越すことになり,環境が大きく変わり,新しい環境に馴染めず,親子のすれ違いが起こり,前思春期まっただなかの多感なライリーは途方もないショックを受けて次々と気持ちが悲しみの感情に染まってしまう。ヨロコビがカナシミに大人しくするように叱り,必死に元通りにしようとするが,これまでに築かれた基地が全て崩れてしまい,これまでヨロコビがしてきたようには制御できなくなってしまう。

 

 ヨロコビは,なんとか(脳内の世界が)元通りになるように頑張ろうと躍起になるのだけれど,一人の力では上手くいかない。感情の他に、ライリーが幼いころに空想の中で作っていたビンボンという、重要なキャラクターの力も借りつつ,最後にヨロコビ自身が悲しみ,カナシミを受け入れることによって,周りの人の温かさに気づいてより一層深みのある感情を手にし,ライリーが立ち直っていく姿が描かれていた。(――重要なビンボンの活躍は,これから映画をみる人のためにここでは触れずにおきます。幼少期にファンタジーを楽しむ力が前思春期を乗り越えるために大切ということが伝わる活躍ぶりでした。)

 

 悲しみはネガティブなイメージが強く,どちらかといえば感じない方が良い感情と捉えられることが多い。身近な人が悲しみを表現しているときや,自分自身が悲しみを感じているとき,ヨロコビがそうしたように,悲しまないように,楽しいことを考えるように,カナシミを無視する対処や,ないがしろにするような対処をとっていることが多いのではないだろうか。 大人から子どもへ,「もう泣かないの」「落ち込んでてもしょうがないでしょ,頑張りなさい」「泣くなんて,~らしくないよ」,大人から大人へ,「頑張って!」「落ち込まないで元気出して!」などなど。 

 

 悲しい気持ちになる状況は少ない方が良いけれど,悲しいと感じたなら,その気持ちは自分の中で無視せず,我慢せず,存在を認めること,相手が悲しんでいるときは,励ますだけではなく悲しみを共有することも忘れてはいけない大切なことである,ということを改めて思い出させてくれる映画だった深い悲しみ,大きすぎる悲しみ,ゆとりがない中での悲しみ......悲しみを認めると,日々を過して行くことが難しいこともあることと思う。でも,少しゆとりができたとき,共有してくれる相手がいるとき,カナシミの存在に目を向ける時間も大切にしたいと感じた。

2015.10.28 子ども/子育て
大人も子どもも楽しめる絵本のすすめ

福田ちか子

 

 本屋さんで,表紙に惹かれて手に取ったヨシタケシンスケさんの絵本,「りゆうがあります(2015 PHP研究所)」が,とても面白かった。

 

 帯には"ハナをほじったり,びんぼうゆすりをしたり,ごはんをボロボロこぼしたり,ストローをかじったり......。こどもたちが,ついやってしまうクセ。それには,「りゆう」があるんです。""こどもにもいいわけさせてよ"とあった。

 

 大人の目線からみると,注意しがちなこどものクセ。お母さんに見つかってダメよと言われたこどもが,つぎつぎとおもしろおかしい理由を繰り出して"いいわけ"をする。それと向き合うお母さんの表情が,何とも絶妙に,複雑な心境を物語っているのもまた面白い。お母さんが子どもの"いいわけ"や母への反論を,受け流しつつ大人の言い分を伝える場面も、素敵だった。

 

大人にとって,こどものクセは「大きくなってもそのままだったら...」と心配してしまう不安のタネ。そして小学校の低学年くらいまでの間にしばしば聞かれるこどもの"いいわけ"は,正面切って向き合うと「なんでそんなウソを言うの」「いい加減なことばっかり言って...」と無性に腹が立ったり,「この子大丈夫??」と心配になったりしてしまうやっかいなもの。 

 

そしてこどもにとって,ついやってしまうクセは,何かに夢中になったり他の事に気を取られたりしているときに,無意識に身体が動いてしまう,やったらダメということは知っていても,なんでだかしてしまうもの。少し前にこどもたちの間で流行っていたことばを借りると「妖怪のせい」と言いたくなってしまうほど、わかっているけどどうしようもないもの。 

 

 そんなこども気持ちを堂々と代弁してくれているこの絵本は、こどもの強い味方のようでもあり、大人にとっても、お母さんの表情に、わかるわかると共感できたり、ユーモアに肩の力がふっと抜けたりする一冊のように思う。

 

 「やったらダメよ」「は~い...」、「もう、また!」というやり取りを繰り返して大人もこどもも疲れてしまっていたり、なんだか険悪になっているような時に、この一冊を一緒に読むと、ふっとお互いに力が抜けて、気持ちがほぐれることがあるかもしれない。 

2015.09.03 いのち
生と死と、自由と愛と~『レ・ミゼラブル』を観て思い巡らしたこと

                                                  西 順子

この夏、夏季休暇中の楽しみとして、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観にいきました。観劇してから三週間がたちましたが、毎日、家で過ごす時間はCDの音楽に聴きいっています。

『レ・ミゼラブル』は「悲惨な人々」「みじめな人々」を意味しますが、CDの歌声と音楽によって、ミュージカルの登場人物らの情熱的な生き様が思い出され、魂を鼓舞されます。
生の舞台や歌、そしてアンサンブルは、生きるエネルギーに満ち、魂を揺さぶられるようでした。
ここでは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、思い巡らしたこと、考えたことを書いてみたいと思います。

□『レ・ミゼラブル』とは

原作『レ・ミゼラブル』(1862年)は、ヴィクトリア・ユゴーが自身の体験を基に、19世紀初頭のフランスの動乱期を舞台に当時の社会情勢や民衆の生活を克明に描いたフランス文学の大河小説です。1切れのパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになった主人公ジャン・バルジャン。ミリエル司教の慈愛によって改心し、善良に生きることを全うしようとする人生の物語です。

私は原作を読んでいませんが、2012年に映画を観て、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のことを知り、今回二回目の観劇となりました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1985年ロンドンでの初演から現在まで世界30カ国以上で公演、ブロードウェイでも16年間続く大ロングランヒットとなっています。ミュージカルとしての歴史も長いことには驚きます。

ミュージカルには、原作のもつ「無知と貧困」「愛と信念」「革命と正義」「誇りと尊厳」というエッセンスを余すことなく注ぎこまれたと言われています。時代を超えて人気があるのは、この物語の根底にある普遍的なテーマが、観る者の魂に訴えかけてくるからでしょう。

□ 自由と使命、愛

私自身が魂をゆさぶられたのは、「この物語は決して過去ではない」ということでした。
ユゴ―自身「地上に無知と悲惨さがある間は、本書のごとき書物も、おそらく無益ではないだろう」(岩波文庫版)と言いますが、私はこの物語から「自由を求める闘い」を感じました。そして「自由を求める闘い」は現代において今もなお続いていることを思いました。

それは社会のなかで、家族のなかで、そして人々の内側で、支配し抑圧する者との闘いです。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、自由で平等な社会を目指して革命を起こそうとする若者たち(男)、生きるために売春窟で働く女たちも、自由を求めて生きることと闘っているのだと、その闘いは命の叫びであると感じられました。

一方で、自由があるだけでは人は幸せになれないのか・・という問いかけも起こりました。
ジャン・バルジャンに愛娘コゼットの未来を託したフォンテーヌと、託された使命のためコゼットを愛し守り抜くジャン・バルジャン。叶わぬ恋とわかりながらも愛する人のために力を貸したエポニーヌ、皆が人を愛することを全うするなかで、安らかに死の床についたのが印象的でした。
正義のため、自由を求めて闘った若者たちも、闘いに破れて命を落としました。

皆、愛することが使命であったともいえるでしょう。愛することが生きること、と愛が生きる意味を与えていたのだろうと思いました。もちろん、キリスト教精神がバックボーンにあることは大きいと思いますが、東西文化の違いを超えて、愛することの大切さを教えてくれています。自由は「個としての尊厳」ならば、愛は「他者とのつながり、絆」です。人が幸福に生きるためには、自由と愛と、その両方が必要なのだと考えさせられました。

もちろん、生きることは愛することと、きれいごとではないことも描かれています。民衆は、自由を求めて闘う若者たちを見捨てました。ティナディエル夫妻のように生きるために盗みを働き、お金を得ることに執着する者もいます。生き延びるためには、きれいごとでは生きられないのか・・と、人間の限界や悲しみを感じました。貧困にあえぐ悲惨な社会には善と悪、被害者と加害者が入り混じり、光と闇があるのです。どちらにせよ、民衆たちは生きること、生き延びることに必死であると言えるでしょう。


□未来を託すもの、託されるもの

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、生きること、愛すること、使命を全うして生きることに、生命エネルギーを感じると同時に、死ということと、死にゆく人々のことも考えさせられました。

ミュージカルの最後の場面は、ジャン・バルジャンが愛するコゼットと命を救ったマリウスに看取られて、幸せのなかで亡くなります。ジャンバルジャンの命を引き継いだのは、生き残ったコゼットとマリウスの二人。最後の最後の舞台は、この二人を囲むようにして亡くなった民衆や若者ら全員が亡霊のように登場し、大合唱で幕を閉じます。
ジャン・バルジャンは、自分が愛し育て、命を救った若者に未来を託すことで、安らかに永遠の眠りについたといえるでしょう。

涙なくしては観られない場面ですが、生き残った二人の命の背後には、たくさんの亡くなった命があることに思いを馳せました。

ミュージカルを観劇したのがちょうど終戦記念日の前々日。この夏でわが国も戦後70年を迎えましたが、今、生きているということは、たくさんの命の犠牲の上にあることなのだということを思い、その命を大切にしていかなければならないと思いました。

私自身のことですが、この一年親の介護の問題が現実化してきました。気がつけばいつの間にか親はすっかり年を取り、生命に限りがあるということを最近実感させられるようになりました。

前世代が私たち次世代に、安らかに幸せな思いで命のバトンを手渡してくれるだろうか、未来への希望を託してくれるだろうか、そして私はバトンをしっかり受け取れるだろうか・・と考えると不安になります。残された時間はもう少ないと思うと焦る気持ちにもなります。できれば幸せに最期のときを迎えさせてあげたいと願います。

しかし不安になっても私にできることは何もないに等しいことから、私にできることは自分が今生きていることを大切にすること、自分に与えられた役割や使命を全うすることと思い、心を鎮めるようにしています。


□生きるということ


日々の臨床のなかでは、生きることに絶望している、生きる意味が感じられない、自分には生きている価値がない・・という声なき声に耳を傾けています。


私には何も言うことはできませんが、ただその声に寄り添い、聴き取り、自由と尊厳を求めて生き抜いてきた方々の証人であり続けたいと思います。
そして、生きることは辛くとも、闇から光を見い出す道もあると信じ、そして生きている限り、身体がある限り、生きる意味があり、生きる価値があると、ただただ命を信頼していければと思います。


・・・ミクロからマクロまで視点があちこちにいきながら、つらつらと書きましたが、生と死と、自由と愛について、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、考えさせられ、思い巡らしました。


19世紀前半のフランス社会の激動期の物語、150年前に書かれた物語は今にも通じるところがあるのではないかと思います。時代を経ても、社会と人との関係、人と人との関係、自由と愛を求めることは普遍なのだと思います。
そして「無知と貧困」を繰り返さないよう、歴史から学ぶ必要があります。ぜひ一度、原作を読んでみたいと思います。

2015.04.17 女性の生き方
日々の小悩み・イライラに――文庫『週末、森で』ご紹介――

福田ちか子

 「あ~っ、またやっちゃった」「あの人苦手だなぁ...」「あれとあれとこれもしなくっちゃ」などなど、日々のプチストレス。解消する間がなく明日がやってきて、同じことがくり返し続くと、落ち込みモードに突入してぬけだせなくなることもある。そんなときに,そっと背中を押してくれたり,ふっと視野を広げてくれたりするような一冊として,益田ミリさんの『週末、森で(益田ミリ2009 幻冬舎文庫)』を紹介したい。

 この本の主な登場人物は,思いついて森の近くで田舎暮らしをはじめた翻訳家の早川さんと,経理部ひとすじ14年のマユミちゃんと,旅行代理店勤務のせっちゃん。週末になると,マユミちゃんやせっちゃんが早川さんを訪ねては,ハイキングにでかけたりカヤックを楽しんだりして,また都会の暮らしに戻っていく。

 ある日のマユミちゃんは,仕事が忙しくてごきげんななめ。残業の帰り道に,その日がお母さんの誕生日だったことを思い出して,「どうしよう,毎年プレゼントを送ってるのに...」と焦り始める。ちょうどお店は閉まり始める時間帯で,いくつか心当たりのお店に向かうがすでに閉店。宅配か,明日の昼休みにダッシュで買うか...とひとしきり考えて,毎年の贈り物ができなかった自分に落ち込む。

そんなとき先週末に早川さんとカヤックをしたことを思い出す。向こう岸のカモが見たいのに,こいでもなかなか進みたい方角に進めなかったマユミちゃんに,早川さんが教えてくれたコツは「手もとばっかりみないで自分が行きたい場所をみながらこぐと近づけるよ~」だった。ふとそのことばを思い出したマユミちゃんは,ひとまずプレゼントのことは置いておいて,お母さんに電話をかけて「お誕生日おめでとね」と伝えることにした。

 週末,森で過ごした体験が,じんわりと平日をあたためて,マユミちゃんとせっちゃんが,日々のプチストレスをやり過ごす様子が描かれている。

日々のプチストレスがたまったとき,「もっと自分がちゃんと頑張らなくちゃ」と自分を責める方向に偏りすぎることや,「あいつが悪い!!」と相手を責める方向に偏りすぎることは,バランスを崩して落ち込みモードに突入しやすくする。

相手を責めるのでも自分を責めるのでもなくふっと肩の力を抜いて自分の気持ちをながめる,というプチストレスを溜めない極意を,日々の生活の中で活用するアイディアがいっぱい詰まっているところが,とても素敵だと思う。

2014.12.24 子ども/子育て
大人と子どもをつなぐ絵本の魅力

福田 ちか子

 

 小児科で相談を受けていた時,子どもの育ちについて相談に来られた保護者の方々から,「一緒に絵本を読むように言われたんですけど,それって意味あるんですかねぇ...」と尋ねられることが幾度かあった。親子のコミュニケーションを良くするために絵本がいったいどう役に立つというのか?という心の声が聞こえてくるようなお尋ねであった。

 

 子どもは確かに絵本が好きだ,けれどもいったいどう子育てに活かされるのか?どう役立つのか?という素朴な疑問を抱くことって,実は案外多いのではないだろうか。今回は,そんな疑問に答えてくれるような俵万智さんのエッセイ,『かーかん,はあい』(2012,朝日文庫)を紹介したいと思う。

 

  この本では,章ごとに一冊の絵本が,万智さんと息子の日々のやりとりの様子を交えながら紹介されている。親子のコミュニケーションにおいて,絵本が,何ともいえず良い仕事をしている場面や,大人にとって子育てを助けてくれる心強い味方となる場面が描かれていて,絵本の魅力を再発見できる一冊だ。

  例えば,「お薬飲みなさい。飲まないと良くならないよ!」何回いっても子どもは聞かない。「苦いからやだ!」「なんで飲むの?」大人は大人で,どうしていう事を聞いてくれないのかと焦るし心配だしで,時にはイライラ。「なんで?」と聞かれても,お腹の調子を良くする薬の働きなんて説明のしようもないし,と焦りは募る。

 そういう時に効きそうなのが,"バクテロリストVS.ビオフェル民族"の章。病気になる仕組みや身体の働きが詳しく紹介された絵本(『よーするに医学えほん からだアイらんど おなか編』)を気に入って以来,薬嫌いの息子さんが,ビオフェル民族に応援してもらうんだから,と張り切ってお腹の薬を進んで飲むようになったエピソードが紹介されている。

 また,「今日は幼稚園行きたくないんだ!だって......だってなんだもん!」嫌な気持ちを,子どもは上手く言葉にできない。大人は心配したり,かけることばがみつからなかったり。そんな時には,"今日は「いやいやえん」"の章が役に立つかもしれない。どうしても今日は幼稚園に行きたくないといった息子さんがお休みしたある日のエピソード。気晴らしにと出かけた図書館で,息子さんは,その日の自分の気持ちにぴったりの絵本(『いやいやえん』)を見つけて目を輝かせる。次の日は元気に登園したとあり,万智さんが安心した気持ちも伝わってくる。

 

  日々のあるあるシーンで,子どもの気持ちにぴったりの絵本がみつかると,絵本の世界をとおして,子どもが自分の気持ちを大人に伝えることができる。また,大人が子どもにわかりやすく伝えることもできる。絵本が,まるで大人の言葉と子どもの言葉を通訳してくれるかのようである。絵本によって,子どもと大人の気持ちが通い合う瞬間が生まれることが,この本のたくさんのエピソードに共通している絵本の魅力だ。絵本の力で,子どもと大人が楽しく通じ合える瞬間が,自然と増えていく。子どもの気持ちがわからない,子どもと楽しく過ごせない,そんな時,絵本を味方につけると,心強いサポーターになってくれると思う。

2014.12.01 コミュニケーション
夫って/妻ってこんなタイプ!!夫婦間ストレスを減らすコツ?!
福田ちか子

 

  漫画家の高世えり子さんが,自分とは考え方やものごとへのアプローチが大きく違う夫に焦点をあてて,出会いから結婚,出産までを描いたエッセイコミック"理系クン"シリーズ。 "理系クン"と呼ばれる夫、N島クンが,夫婦間の葛藤や家事といった彼にとっての難題を冷静に分析して改良(?)していく様子や,そんなN島クンに対する妻、高世さんの心のツッコミが,大学時代に比較文化を学んでいたという高世さんによってコミカルに描かれていて面白い。

  例えば,買い物の仕方の違いで勃発した夫婦ゲンカについて。結婚後の新居に購入する家具を買おうとしたとき,納得がいくまで素材や商品を比較検討したいN島クンと,N島クンと一緒にお買いものをする雰囲気を楽しみたい(買う品物へのこだわりは小さい)高世さんの間に大きな溝ができる。

******

高世さん:「二人で買い物しようって言ったのに,N島クン一人で勝手にいっちゃうわ,私の意見は聞かないわ,話しかけてもシカトするわで一緒にいる意味全然ない!!」

N島クン:「(まっさお)......僕......は...えり子にとっても今日一日は楽しくてもりあがったデートだと思ってた...」

高世さん:「どっ,どこが......?」

N島クン:「え...だって...一緒にいるし,一緒にお店に入ったし...(以上)」―(略)―

N島クン:「シカト!?」「いつ...!?」 高世さん:「ずっと!」「休もうよ~とか」

 ここまではよく起こるすれ違いかもしれない。しかしここから,N島クンの分析がはじまる。

N島クン:「ごめんそれは僕の頭のCPUが「買い物」という項目で占められていて,えり子の様子や外のコトはひとっつも入ってこなかったんだよ...」「しかしえり子はすごいね...「会話」と「買い物」を「同時に処理」できるんだ...

そうして出た結論が,

N島クン:「はっ,そうかっ―(略)―集中力の使い方がちがう方式なんだよ!」

この後,お互いが重視するポイントを比較検討して,N島クンがネットで商品を探してしぼりこんでから高世さんに聞くシステムを考え出し,一件落着となる。 

*****


 こんな風に高世さんからみたN島クンとの価値観の違いにまつわるエピソードがちりばめられている。 "二人でしゃべりながら、良い雰囲気になったら楽しいだろうなぁ"などという期待に対して,N島クンからあまりにもピントがズレたコメントが返ってきた時の高世さんの肩をポンと叩いて労いたくなることもしばしばだ。

  ただ、このシリーズの面白いところは,二人の価値観が違う!!というところでどちらかがあきらめることや,相手の価値観を変えさせようとすることなく,お互いの価値観が尊重される落としどころをみつけていっているところだと思う。

   相手の価値観やタイプをしり,どちらか一方が我慢するのではなく,自分も相手も大切にする。高世さんやN島クンのように,衝突や葛藤があったとき,お互いの価値観の違いに気づいて、そのことを相手と共有できると,お互いにとって程よい着地点を工夫できて、「もうっ!!なんでっ!!」というストレスが,少~し減らせるかもしれない。

 

引用文献: 高世えり子 2012 理系クン 夫婦できるかな?   文芸春秋

 

2014.08.24 本/映画
思い出のマーニー~思春期のこころ~

                                                                                                                           

                                                                                                                          仲野 沙也加

  先日、今話題のジブリの映画、「思い出のマーニー」を鑑賞した。

 物語は12歳の主人公 アンナと不思議な女の子マーニーの話。不思議で、優しくて、せつない中に温かさを感じる物語。原作はジョーン・G・ロビンソンで長年親しまれている児童文学の一つである。この物語は、アンナとマーニーの友情を描く前半と、不思議なつながりの秘密に近づいていく後半で構成されている。舞台は北海道で、豊かな自然に囲まれ、日常の中にある非日常な空間が綺麗に描かれている。

 「思い出のマーニー」には思春期のテーマや、愛着対象の不在のテーマが背景に存在している。自分のことが嫌いで人の輪の外にいると感じる主人公アンナ。多くも少なくも自分と周りとのズレを感じる思春期。アンナには思春期特有のアンバランスさがあり、物語の感情ラインにも独特の緊張感を与える。信じるものを探して大人になっていく。異性では描けない同性同士のつながりや問題をジブリらしい流れの中で魅せられていく。心の支えとなる同性同士の絆や愛情、心のつながりの大切さを通して成長していく少女の過程が描かれている。

 この作品のキャッチコピー、「あなたのことが大好き」という言葉。監督である米林宏昌氏は、「きっとあなたのことを愛してくれる人がいる、誰かに愛されている、あなたも誰かを愛することができると感じてもらえたらいいなと思いながらこの作品を作りました」とコメントしている。

 さてこの映画は不思議なマーニーの謎を考えながら観るとさらに楽しむことができる。

・マーニーは誰なのかとはどういう意味?

・マーニーを誰かが演じている?

・マーニーという存在は実在しない?

 答えは映画の最後まで観ないと分かりません。映画のところどころにヒントが隠されている。映画は苦手という方は原作もとても素晴らしく、読むたびにいろんな発見ができる読み物であり、おススメしたい作品である。

 

2014.08.13 カウンセリング
『モモ』の世界と現代社会 ――時間泥棒...VS心理療法?!――



福田ちか子

 お盆前の多忙な時期,気がつけば,「最近忙しくて~できないなぁ」とか,「なんか楽しいことないかなぁ」とつぶやいている。 そんなおり,必要にせまられて学生の頃国語の教科書に載っていた『モモ』(ミヒャエル・エンデ作,大島かおり訳,岩波少年文庫)を手に取ると,そこには思いがけず立ち止まって考えることの大切さや,毎日にただ流されていくことの怖さにハッと気づかせてくれる物語が広がっていた。

 物語の主人公モモは,どこの誰ともわからない小さな女の子。ある日突然街にあらわれ,街の人たちに住みかを修理してもらったりご飯を分けてもらったりしながら廃墟に住み着いて暮らしている。モモは街の人たちにとって大切な存在になった。モモが,だまって話を聞くと,喧嘩をしていた人も,悩んでいた人も,自分自身と向き合って,自分の意志に気づくことができるのだ。モモが特別なことをするわけではない。モモは、ただだまって聞くだけ。物語の街は,そんなモモを受け入れて,モモの大切さに気づくことができる街だった。 

 そんな街が,人間から時間を盗もうと企む「灰色の男たち」によって,規律だらけで窮屈でせかせかした世界に変わってしまう。――もしもちゃんとしたくらしができてたら,いまとはぜんぜんちがう人間になっていたろうになぁ―― そんな大人たちの心は,「灰色の男たち」に付け込まれ,「良い暮らし」のためと信じて必死に時間を節約する毎日に追われていく。大人たちは,時間を節約することばかり考えて,時間を無駄にすることがとんでもない罪となり,イライラしたり互いを責めてばかりで,モモのことをすっかり忘れてしまった。

  子どもたちも,「灰色の男たち」に支配されてしまった。

  子どもたちはモモと一緒に、いつも新しい遊びを考え出して遊んでいた。子どもたちにとってはモモが心の中心人物で,モモがいなくても、モモがいるかのように遊ぶと、段ボールが海賊船になったり,石ころが宝物になって、イメージがどんどん広がり楽しい遊びを工夫できた。

 「灰色の男たち」は子どもたちを支配するのにとても手を焼いたが、大人たちを使って子どもたちの心を支配することにした。大人が時間を無駄にしないために、将来時間をたくさん節約できる大人に育てるために、と大人をそそのかした。子どもたちは決まった場所に放り込まれ、大人に教えられた決められた遊びしかできなくなってしまう。そのうちに、子どもたちは、楽しいと思うこと夢中になることを忘れて、大人たちと同じ顔つきの「小さな時間節約家」になってしまう。子どもたちは、最後には自分たちの好きなようにしていいといわれると、こんど何をしたら良いか全然わからなくなってしまうのだ。そしてモモとも遊べなくなってしまった。

 訳者の大島さんは、モモは「自然のままの人間」のシンボルのような子だと述べている。別の言い方をすれば、モモはありのままの自分のシンボル、とも言えるのではないかと思う。そう考えると、モモを大切にする=ありのままの自分を大切にする、ことによって、自分自身の気持ちに耳を傾ける余裕が生まれたり、落ち着いた気持ちを取り戻せたり、本当にしたいことに気づけたり、楽しむ力が湧いてきたりするところが、とてもしっくりくる。

 モモがどんな風に「灰色の男たち」から時間と元通りの街を取り戻したのかは、まだ読んでいない人のために取っておくけれど,物語の中では,「灰色の男たち」に立ち向かうために、過去・現在・未来のそれぞれの大切さに気づくことや、友だちとつながっている感覚を実感すること、心地よい音楽や香りを体験すること、成長するために深く眠ることなどが、とても重要な意味をもっている。

 これら一つ一つが、様々な心理療法の中で心身の回復や支援のために重要と考えられていることとリンクすることが,とても興味深いことだった。私たちの心にも「灰色の男たち」が深く入り込んでいるように感じる。そういう意味では,心理療法が「灰色の男たち」に立ち向かい,モモを大切にする心のゆとりを取り戻す役に立つことがあるともいえる。

  読み終えて,大切なもののために,自分のために,自由に時間を使う心地よい感覚を思い出せたように感じた。忙しい日々だけど,ちょっと立ち止まって考えることも大切にしたいなぁと,あらためて反省反省。次の休日は,ゆっくり時間をつかうことにし~よう♪

2014.06.07 本/映画
苦手克服のコツ?!ー池田暁子さんの"整理術!"シリーズから

福田ちか子

 

  イラストレーターの池田暁子さんが一念発起して,片付けや貯金,時間の使い方などの自分の苦手を克服していくエッセイ漫画のシリーズがある。その根底にある考え方が,良いなと思う。

  私たちは,自分の苦手なことをどうにかしようとするとき,~しないように頑張ろう,と考えがちだと思う。前向きではあるけれど,この頑張り方は,良い結果がだせなかった時に,「頑張りが足りなかったな~。...あかんなぁ自分。」となりがちなので結構疲れる。少し極端な言い方かもしれないけれど,これは自分自身を否定するふりかえりだ。頑張ってもそう簡単には結果につながらないから自分の中の苦手に分類されるのであって,頑張ってできるなら苦手にはなりにくい。苦手が続く間は,いつまでたっても自分を否定しっぱなしだ。

  池田さんの本では,ここに発想の転換がある。

   例えば,"一日が見えて楽になる!時間整理術!"のあとがきに,{「忘れないようにしなきゃ!」と思ったことは,ほぼ100%忘れる}から「忘れちゃうこと大前提で動く」とある。つまり,自分が苦手なことを,私にはこういうところがある(漫画の例で言うと,必要なことを忘れやすいところがある),と一旦認めて,それについて対策・作戦を考えていく(携帯のリマインダーを使う,明日の自分へ伝言を書く)という発想である。こう考えると,ものごとが望ましい結果にならなかったとき,頑張らなかった自分を責めるのではなく, この作戦が良くなかったと考えることができて、作戦に工夫の余地あり,とか,次に起きないようにするにはどんな作戦があるか,などと前に向かって進むことができる。または,今日は疲れたから作戦を考えるのは今度にしよう,と自分で選んで休息を挟むこともできるだろう。

   この発想は,自分自身が何か解決したいテーマをもっている場合のカウンセリングに通じるところがあるように思う。池田さんの著書のように,自分にはこういうところがある,と発見があって、試行錯誤しながらその対策がみつかっていく時もあれば、煮詰まって停滞状態が長く続くこともある。そんなとき、ちょっと人に相談すると、ふっと視野が開けたりすることがある。そんな風に、煮詰まった思考に風を通したいときの相談に、カウンセリングが役立つことがあると思う。...ちょっと宣伝みたいになってしまった。

  忙しいとき、疲れているときほど、「頑張りが足りなかったな~...自分」となってしまいがちだけれど、せっかく頑張っているのに自分を責める振り返りになってしまうのは、とてももったいないぞ、と思いなおせると素敵だ。

 

参考・引用図書
 池田暁子 2010 一日が見えてラクになる!時間整理術! 株式会社メディアファクトリー

 

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