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FLCスタッフエッセイ

2012.09.02 DV
安全でサポーティブなコミュニティづくり~相互信頼を実感して

西 順子

 先週の土曜・日曜日の二日間、援助者向け講座「DV被害者のトラウマと回復~女性と子どもの視点から考える」を開催したが、あっという間に一週間がたった。開催の一週間前から講座本番に向けて集中力が高まり覚醒度がアップ(ハード面とソフト面と両方の準備は初めて!)、当日はピークを迎え、終了後のこの一週間はこの体験を咀嚼し消化する時間だった。と同時に、次にどうつなげていけるかと新たなアイデアが浮かんだり、それを現実に照らし合わせたりして考える時間でもあった。

 私にとって今回開催した講座は、「安全でサポーティブなコミュニティづくり」の一歩だった。生態学的視点からトラウマと回復を捉えると、トラウマを受けた人は「安全でサポーティブなコミュニテイ」に接近する必要がある(女性のトラウマに関わる臨床家の使命)。昨年、年報21号の論文「女性や子どものトラウマとコミュニティ支援-個人臨床を超えて」をまとめたことで、自分のなかで「コミュニテイづくり」がより意識されるようになった。そして今年は「自分がいいと思ったこと、やりたいと思うことで、できることは何でも思うようにやってみよう」という意思があった。そして自分の考えに賛同しチームを組んでくれた仲間がいたことで、今回の講座が実現した。なので、私にとっては行動できたこと自体が嬉しいことなのだが、この二日間で経験したことはこれまでにないくらい心に響くエンパワメントの体験となった。それは何かと考えると、今回は講座開催の動機など、大事に思っていること、価値を置くことをストレートに伝えたわけだが、心をオープンにしているせいか、そこに入ってくるものはどれも新鮮で有難く感じられるものだった。

 この体験をなんと言ったらよいだろう・・と思っていたところ、ふと読んだ昨年の年報21号のタイトル「コミュニティ・エンパワメント」がぴったりきた。コミュニティ・エンパワメントとは、コミュニテイやシステムなど「場」全体の力を引き出す、活性化することを意味する(村本、2011)。二日間の講座という一つの「場」に、参加している人々のもてる力が集まり、互いにそこから学びあい、互いにエンパワーされたこと、その相互作用が素晴らしくて刺激的だった。「場」に参加している人とは、参加者の皆様とお手伝いに参加してくれたスタッフ、主催者であり講師である私たちである。その場自体が、コミュニティ・エンパワメントだったかもしれない。

 もともと私は、相互作用のなかで互いに変化、成長する双方向性の関係性がとても好きである。だからカウンセリングという仕事が好きであるが、講師という伝える仕事においても、「場」のなかで相互作用から生まれる変化や変容を感じられることは新鮮な感動であった。世の中に、こうして女性や子ども、人々に寄り添っていこうとしている方々がいるということ、真摯に学んでいこうという方々がおられることに、人やコミュニティへの信頼を感じさせていただいた。そして、信頼を寄せる気持ちをもつことで、これから私たちも頑張っていこう~と未来へと向かう希望を感じた。

他にも、もっとこんなことも伝えたい、やってみたいと思いは色々湧いてくるが、それを現実化することを考えると現実の壁にぶつかる。何をするのにも資金、人、時間、場所・・が必要である。そこにはいつも限界がある。しかし、どれも十分にはないからこそ、また工夫も生まれるというものだ。できることはほんの小さな、ささやかなことかもしれない。でも小さな第一歩からでもスタートすると、また次につながっていくと、今回の講座を経験して実感した。できれば思いつきではなく、長期的展望をもってつなげていきたい。

 今日は本社で月一回の「女性のためのセルフケア・グループ」の日だった。継続して参加くださっている方から初めて参加くださった方まで、何がしか自分を大切にしてケアするヒントを持ち帰ってくださったのなら嬉しい。アンケートには、今後希望するグループやワークショップも書いてくださっていた。女性や子どもの声に耳を傾けると、そこにはさまざまなニーズがある。

 一人でできることは限られているけれど、さらにスタッフの力も合わせていければいいな。「安全でサポーティブなコミュニティ」への架け橋となるように、コミュニテイに出向いていっての「場」づくり、研究所のなかでの「場」づくりと、小さな一歩を積み重ねていきたい。

(2012年9月)

2012.07.10 虐待
ボストン・トラウマセンター研修に参加して

西 順子

 2012年6月26日~6月29日まで、アメリカのマサチューセッツ州ボストン郊外にあるトラウマセンターでの「発達途上のトラウマを受けた子ども達への最新治療研修」に参加、7月1日に帰国したところである。帰国して2日たったが、まだ余韻を感じつつ早速臨床の仕事に戻っている。「鉄は熱いうちに打て」ではないが、学んできたことをぜひ伝えたいという思いが残る研修だったが、まずはこのエッセイで、今感じていることを書き記しておきたいと思う。

 ここ数年、戦争によるトラウマの問題に関わるなかで、中国からスタートして、韓国、インドネシア、台湾とアジアの国々に行く機会をもつようになった。日本から離れて外国に身を置くことで、日本で暮らしていては当たり前と思っていることが当たり前ではないと、自分を相対化して見る機会となり、それはとても貴重な体験となった。特に中国でのHWHワークショップに参加するなかで、日本人としてのアイデンティティについて改めて意識する機会となった。それは日本人としての責任性である。

 そしてまた、この研修でも自分を相対化して見る機会となった。私が気づいたのは、心理臨床家としての責任性である。

 今回アメリカ訪問は初めて、しかもトラウマ研究の第一人者とされるヴァン・デ・コーク博士が設立されたセンターを訪問してお話を聞けるということだったので、ドキドキワクワクした興奮と緊張、期待する気持ちでいっぱいだった。

 研修では、コーク先生のお話をトップに、センターのスタッフ6名からお話を聞かせて頂いたが、まず、コーク先生のお話を聞いて印象に残ったことは、「闘っているのだ」ということだった。私にとっては雲の上の存在のような権威ある偉い先生というイメージであったが、雲の上ではなく、トラウマ研究者として、今現実の世界で、トラウマを受けた子どもの役に立てるよう、闘っているのだと胸に響いた。現段階では、発達途上でトラウマを受けた人達の診断名がない、今の診断名では子どもにとって悪いものになっていると研究を行い、「発達途上のトラウマ障害」という診断名をDSM-5(精神疾患の分類と診断の手引き)に提案している。もちろん、この診断名は科学的に調査されたもので根拠があると言う。その研究調査に基づき、50州の賛同を得て働きかけを行っているというようなことだった。でも壁があるとのこと。また、薬に頼らない治療として、トラウマをよくするためには何が大切か、とてもわかりやすくエッセンスをお話下さった(それは治療にかからない人達にも役立つもの。ぜひまた紹介したい)。

 コーク先生だけではない、お話下さったスタッフ(サイコロジスト、ヨガの先生など)の皆さんも、それぞれが研究をなさっていた。実証的な研究をして、きちんと評価を出している。トラウマ治療の新しい枠組み(ARC理論=愛着、自己調整、能力)も2003年に出来て、改訂をくわえながら、現在ではこのARC理論に基づく治療施設(日本で言うところの情緒障害児短期治療施設)での取り組みも行われている。施設見学もさせて頂いたが、理論的枠組みに添った施設でのケアが行われ、また施設をでた後は地域へと引き継がれていく流れを作っておられる。つまり、一貫して子どもの目標に添った教育、ケアが提供されている。

 社会、文化的背景の違いということはあるかもしれないが、まずは、トラウマに携わる臨床家の一人として、お話を聞かせて下さった皆さんのトラウマに関わる信念や姿勢、情熱、切磋琢磨する自己への厳しさ・・など、研究者、臨床家としてのプロ意識の強さを垣間見させて頂いた。

 私自身は・・というと、切磋琢磨して自己研鑽する姿勢を保ってきたつもりであったが、研究という姿勢には欠けていたように思われた。研究者ではないが、それでも自分が実践していることを客観的に検証することは大事なことであると、今回の研修で改めて考えさせられた。それは社会に対する仕事の責任性でもある。批判されることは苦手だか、例え社会の批判に晒されたとしても、それを論証できるだけの理論的根拠や依拠する考えをもつということである。

 一方で有り難いなと思うことは、私自身は研究熱心ではなかったものの、女性ライフサイクル研究所では、研究、臨床、予防啓発などコミュニティ活動が三位一体となって活動する場が与えられてきたことである。それは所長のポリシーでもあり設立当初より大事にされてきたものである。私自身は、研究が一番最後に後回しになってきたなと、そんな自分に気づくことができた。

 数年前、中国から帰ってきたときも、自分の責任性に気づいて、自分がしっかりと地に足が着く感覚があった。今すでに仕事に戻っているが、地に足をしっかりと着けて臨床に向き合える感覚がある。研究の大切さを自覚して視野にいれながらも、よりよい臨床サービスを提供できるように切磋琢磨していければと思う。また、学ばせてもらったことを、社会に還元していければ・・と思う。

(2012年7月)

2012.06.12 コミュニケーション
みやげ話

村本邦子

 みやげ話という言い方がある。私自身もあちこちに行くことが多いので、周囲の人たちに旅先の写真を見せ、おもしろかった体験を話して聞かせることは多い。楽しかったことや驚いたことなど印象深いエピソードを身近な人たちと共有したいと思うからだ。でも、最近、本当におみやげ話が嬉しい人はどのくらいいるんだろう?と考えるようになった。もしかすると、本当はあまり興味のない人や、むしろおもしろくない人だっているのかもしれない。行先や関係性にもよるだろう。年賀状の写真に似ているのかもしれない。

 娘がヨーロッパから帰ってきた。今回ほどおみやげ話を心待ちにしていたことはない。今や私がまだ行ったことのない未知の国々を経験してきた貴重な人だ。ブルガリア、オランダ、ベルギー、モロッコ、トルコ・・・。セルビアやボスニアなんて、いったいどんな国なのか想像もつかない。カミーノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴ巡礼)にも興味津々。いったい何から聞けばいいのやら。

 「旅先で出会った女たちで素敵だった人たちは?」一番は、30歳のインドネシア人、カミーノで一緒だった女性だそうだ。ジャカルタで生まれ、イタリアにインターンシップに行って、そこでファッション関係の仕事を見つけ、ミラノに暮らす。休暇ごとに「カウチ・サーフィン」(要するに、ネットで旅人にソファを提供しあうサイト)であちこちの国を訪れている。バスク地方では、ブータンからの留学生で男の子2人がカウチを提供してくれてとても親切にしてもらったそうだ。さすがはブータン。

 もうひとり、アルゼンチンから来た年配の女性ともカミーノの道で一緒になったそうだ。自国には子どもがたくさんいて、毎日、家事や子育てが大変すぎるから、休みを取って、夫に家のことを任せ、一人で旅している格好いい女性。日本ではちょっと考えにくい。良くも悪くも我が強いので、時には一緒になった人たちとけんか腰になることも。

 不思議すぎるのは、日本からブルガリアに一人で来ていた20代の女の子。英語もまったく話せず、おどおどと困惑しながら何でも娘に代弁を頼んでくる。将来の夢は国際NGOで働くこと。だったら英語くらいは勉強してきた方がと思うけど、それにしても、そんな状態で一人、ブルガリアに辿りついたということだけでも驚異ではある。

 「じゃあ、嫌な目に遭ったり、怖い目に遭ったりは?」何もなかったわけではないが、「でも、結局のところそれほどひどい目には遭わなかった」そうだ。世の中にはどこにでも悪い人はいるし、下心のある人たちはたくさんいるが、だいたいパターンは決まっていて(たとえばマッサージかダンス)、きっぱりとノーを言えば、ほとんど大丈夫とのこと。なるほど。なぜかイスタンブールでは、宝石屋さんで話しがはずみ、お茶をご馳走になって、アクセサリーを買おうと思ったら全部タダでくれたのだそうだ。それでおしまい。奇妙な話だ。

 そして、ほとんどの場合、出会う人たちがみんな親切にしてくれ、かわいがってくれるそうだ。それもそうだろう。好奇心で眼をキラキラ輝かせた若い女の子が一人で旅をしていれば、たぶん、誰もが親切にしたくなるだろう。そのうえ、出会ったたくさんの人たちと人生を語り合い、いつも常に素敵な言葉をもらってきたとのこと。なかなか良い人生ではないか。親としては無事に帰ってきてくれたことだけで十分だが、娘を育ててくれる世界に感謝である。私にとっては貴重なみやげ話、当分、尽きそうにない。

(2012年6月)

2012.03.12 コミュニティ
マジョルカにて・・・

村本邦子

 昨年、「雨だれ」を弾いていたこともあって、マジョルカ島に行ってみようと思った。マジョルカは、ショパンとジョルジュ・サンドが愛の逃避行を試みた地中海に浮かぶスペインの小さな島だ。と言っても、サンドは二人の子連れ、ショパンは結核で療養が必要な状態だった。当時、結核は不治の病と恐れていたため、人々の冷たい視線から逃れるように、彼らは山奥にあるバルデモサの修道院に暮らすようになる。「雨だれ」は、ショパンが、激しい嵐のなかパリから送ってもらったショパン愛用のピアノの税関手続きのために出かけたサンドを窓辺で待っているときに生まれた。1838年のことである。

 バルデモサは美しい村で、ショパンとサンドが滞在していたカルトゥハ修道院には格調高い宗教性と芸術性が漂っている。こんなところに暮らしていたら、創造性がこんこんと湧いてきそうな気がする。そこには、ショパンの使っていたピアノが残っていたが、小さなかわいいピアノ。デスマスクと手も置いてあったが、ショパンの手は、とても小さかったようだ。修道院の隣には、初代マヨルカ王が息子のために建てたという宮殿があり、ここでは、毎日数回、ショパンのミニコンサートをやっていた。わずか15分ほどの間に、次々と曲を重ねていくが、弾いているうちに段々とのっていくのが感じられるのは生ならでは。

 マジョルカには洞窟がたくさんある。なかでも、ポルト・クリストという港町の郊外にあるドラック洞窟は、全長2キロ。1時間ごとにガイドが案内してくれるのだけど、このガイドがすごい。カタラン語、スペイン語だけでなく、お客に合わせて、ドイツ語、英語、仏語、イタリア語を一人で自由に操るのである。鍾乳洞を下っていくと、地下湖として世界最大のマルテル湖がある。ここでコンサートがあるのだと聞いていたが、こんな暗闇でいったいどんなコンサートをするのだろうと訝しく思っていたら、想像を遥かに超える素晴らしさだった。

 暗闇のなか、右手側から、柔らかなオルガンと弦楽器の音がかすかに聞こえ始め、ライトをつけたボートが三艘、漕がれて近づいてくる。そのなかの一艘で、3人の演奏家たちが音楽を奏でているのだ。ライトに照らされた湖の水面は透明なグリーンでうっとり美しい。「別れの曲」をはじめ数曲を演奏しながら、ボートは左手までゆっくりと進み、再び暗闇の中へと消えていく。残るボートに乗せてもらって地上へ出たが、まるで遠い夢の世界から現実に帰ってきたような錯覚を覚える。レベルの高い、なかなかの演出だった。

 パルマからレトロな列車に乗って、通り過ぎていくアーモンド畑や小さな街々を眺めながら、1時間ほどでソジェールという小さな街へ。さらに路面電車に乗り換えて、ソジェール港まで出かけ、海辺のテラスでパエリアやカフェを楽しむのも気持がいい。最後になってしまったけれど、中心地、パルマの街もおしゃれだ。海岸沿いに大聖堂がそびえる。レコンキスタの後、1230年から370年かけて造られたというゴシック様式の大きな聖堂で、ガウディが改修に携っている。ステンドグラスが張り巡らされ、とくに直径12mもあるバラ窓から光が入り、カテドラルのあちこちに幻想的な虹色が映っている。ヨーロッパの数々のカテドラルを訪れたが、これほど美しいステンドグラスは初めて。神々しく厳粛な気持に満たされる。

 マジョルカには、さまざまな要素が組み合わさって存在しており、まるで万華鏡のよう。静かに眼を閉じて、このイメージを胸に刻み、日常に湧き出る泉にすることができたらどんなに素晴らしいことだろう。

(2012年3月)

2012.01.12 コミュニティ
スペインから「フェリース・アニョ・ヌエボ(FELIZ AÑO NUEVO)!」

村本邦子

 2012年のお正月は、スペインのマルベージャで迎えた。映画の中のような太陽がいっぱいの地中海沿岸に泊まったが、年越しを経験するために、大晦日、にぎやかな旧市街のナランホス広場へ出かけた。ステージでは陽気な二人組のおじさんバンドが音楽を奏で(毎年、ここで、35年もやってきたそうだ)、かわいい子どもたちや世代さまざまの恋人たちが楽しそうに踊っている。

 日本では「年越しそば」だが、スペインでは「年越し葡萄」。年明けを告げる午前0時の鐘の音に合わせ、1回ごとに1粒ずつ、計12粒の白葡萄を食べる。鐘は3秒ごとに鳴るので、かなり慌ただしいが、無事に12粒を食べられれば、その1年間を幸福に過ごせるそうだ。みんなには結構難しいようで、スーパーマーケットには、あらかじめ皮をむいたり、種を取ったりしてすぐに呑み込めるように準備した12粒入りの缶詰まで売っている。私には、いたって簡単。皮も種もそのまま食べちゃったらいいだけだ。おいしくはないけど、幸福には代えがたい。

 いよいよ鐘が鳴り、みんなで葡萄をほおばり、あちこちでシャンパンが音を立て、人々は、「フェリース・アニョ・ヌエボ!」と抱き合ってキスする。あちこちに花火が上がる。楽しい年越しだった。一昨年は、エッフェル塔でパリの年越しをしたっけな。フランス人の方がもっと派手などんちゃん騒ぎをしていたような気がする(と言っても、本当のところは、観光客が多いらしいが)。いろいろな国のいろいろな年越しがある。新しい年を迎えるのは、どこでも心躍る楽しいことなのだろう。

 それでも、安心して年を越せない人々はいつの時代、どこの国にもいるはずだ。それを思うと、罪悪感が頭をもたげ始める。とくに今年は、大震災の影響が大きかっただけに、具体的な人々のことを思うと、いたたまれない気持ちにもなる。そして、いつも人に言っていることを自分に言い聞かせる。罪悪感は何の役にも立たない。むしろ現在の自分のありように感謝して、自分にできることを積み重ねよう。昨年は、どうにも無理をしすぎて、調子を崩すことの多い1年だった。今年は、もっと元気に頑張れるよう、年齢相応の工夫が必要だ。そして、祈ること。

 どうか世界中の人々によい年が訪れますように!

(2012年1月)

2012.01.10 トラウマ
トラウマと身体~ソマテイック・エクスペリエンス(SE)と出会って

西 順子

 2012年1月、ソマティック・エクスペリエンス(SE)認定プラクティショナーとしての認定をいただいた。新年早々、認定の連絡がメールで届き、心から「やった~!」と嬉しく、喜びに満たされた。 

 ソマティック・エクスペリエンス(SE)に出会ったのが、2008年。『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』(P・リヴァイン著、雲母書房)の本を、そうそう・・、なるほど・・と興奮する気持ちで読んだことを今でも覚えている。子ども時代の虐待や性暴力被害など、トラウマ臨床に携わるなかで感じてきた<もっとどうすれば回復できるのか>、つまりトラウマの再現によって生じる恐怖、不安を、圧倒されずにどう緩和できるのか、という問いに答えてくれるように感じた。トラウマを「身体」の側面から理解すること、それがトラウマからの回復と癒しの鍵になるということに納得した。ぜひ、このSEを学び臨床に役立てたい・・と志して早3年半。今振り返れば、幸運な出会いに恵まれて、今ここに、辿りつけることができた。無事にここまで来れたことに、感謝の気持ちである。

 3年間のトレーニングで感じたことは、折にふれてエッセイや日記などでも書いてきた。2009年には年報19号『身体の声を聴く-肥大化した心の時代に』のなかで論文としてまとめたが、SEを学ぶなかで、私自身も変化を体験してきた。何より、以前と比べて、自然体で落ち着いていられるようになったことが有り難い。

 SEでいうところの「落ち着く」とは、自律神経系が落ち着いてバランスがとれていること、つまり、交感神経系の「楽な活性化」と、副交感神経系の「楽な解放」との継続したサイクルがあることである。それは、呼吸のリズムや深さ、心拍数、筋肉の緊張と弛緩、五感など身体感覚によって感じることができる。私自身まだまだ、活性化しすぎて過度に緊張したり、イライラしたり、動揺したり・・することも多々あるが、そのことに気づくだけでも違うように感じている。神経系が落ち着いているときは、くつろいでリラックスしつつも機敏で、他者ともつながることができ、情緒的に安定していて、さまざまな状況下で適切に対応できる・・と言うから、そんな状態に少しでも長く留まっていたいものだと思う。

 「心と身体がつながっているって、こういうことなんだ」と、自分の身体で実感することで、生きているってすごいことなんだと、生きていることそのものに、有り難く感謝するようにもなった。そして、人間の存在全体に対しても、畏敬の念をもつようになった。身体とつながることで、個の意識を超えて、スピリチュアルなものとつながれるように感じている。本能的な生命の営みによって生かされていること、生かされた命を大切にすることが、私自身にまずできることであると、地に足を着けて、自分の中心にいられるよう意識するようになった。

 身体はトラウマを覚えてはいるが、身体感覚に耳を傾けて、身体に備わる自然治癒力や回復力へとつながることで、解離したままのトラウマ記憶を消化、解放していける可能性が生まれる。それはまた、「人とのつながり」のなかで、安全に感じられてこそ可能となる。 生まれたときから、目と目を合わせるアイコンタクトが、安心してこの世界につながる始まりであるように。

 ハーマンさんの『心的外傷と回復』のなかで、私が一番好きなのは、最後のページ。最後の言葉、「他の人々と共世界をつくりえた生存者は生みの苦しみを終えて憩うことができる。ここにその人の回復は完成し、その人の前に横たわるものはすべて、ただその人の生活のみとなる」は、しみじみと心に響く。誰もが、人々とのつながりのなかで、安全で平和に、日常生活を暮らせるようにと願い、祈りながら、SEで学んだことを、トラウマ臨床に役立てていきたい。

(2012年1月)

2011.12.10 性的虐待
子どもへの性的虐待を考える~臨床的援助と予防と

西 順子

 1992年、女性ライフサイクル研究所では年報2号で「チャイルド・セクシャル・アビューズ」を特集した。チャイルド・セクシュアル・アビューズとは、家庭内で起こるか家庭外で起こるかを問わず、子どもへの性的な虐待(力の濫用)を指している。当時はまだ、「それは病んだ国のことで、日本には性的虐待はない」と言われていた時代であった。

 しかし、子どもへの性的虐待は、私たち自身の問題であると認識し、社会的な働きかけを行ってきた。子どもをもつ母親として性被害から「子どもをどう守れるか」という問題と、性の対象とされてきた女性の問題としてである。

 年報2号は、各社新聞で取り上げられ、全国各地から、購読の注文が届き、あっという間に売り切れとなった。予防啓発活動として、子どもへの防止教育プログラムを開発して防止教育を実施したり、専門家への意識啓発として1990年代は、心理臨床学会で自主シンポジウムを開いたりしてきた。そして、時代は変化し、2000年には児童虐待防止が成立、子どもへの性的虐待も社会的に認知されるようになった。防止法から早10年過ぎたが、子どもの置かれている現実は変わったであろうか。

 子どもへの性的虐待はいまもなお起こっている。ただ、希望を感じるのは、性虐待を子どもが打ち明けたとき、母親がその声を否認せず、受けとめようとしていることである。親に話せないまま、被害の記憶を失っていたり、あるいは、親に話したとしても、否認され、否定されて受けとめてもらえなかったことで、トラウマ反応が大人になってから顕在化することも多いが、今、母親らがしっかりと子どもの現実と向きあおうとしている。

 日頃の臨床のなかで、子どもの性的虐待、性被害の問題と遭遇する。多くが、子どもへの性的虐待が発覚したとき、母親がどうしたらいいかと戸惑い相談に来られる。子どもが母親に被害を打ち明けてのことである。その声を受けとめた母親が、どうしたらよいのかと助言や子どもへのケアを求めている。加害者が顔見知りであることも多く、子どもも母親もその衝撃は大きい。安全感とともに、信頼感を壊される。加害者は子どもが信頼すべき大人の場合もあるし、子どもの場合もある。同じ家族、学校、地域コミュニティのなかで起こった被害に、被害にあった子どものケアはもちろんのこと、今後どう生活していけばよいのか、生活の問題や、人生の問題とも関わってくる。そのなかで、母親たちが、「子どもの安全を守る」のにどうすればよいかと、悩み、葛藤しながら、子どもをケアしようと懸命になっておられる姿を目の当たりにしてきた。

 カウンセリングでは、子どもとのプレイセラピーや面接のなかで、トラウマ反応を解放できるようにアプローチしているが、同時に母親への心理教育や母が子どもを支えるサポートを提供している。この20年のなかで、トラウマの解放に有効な様々なアプローチが我が国にも紹介されてきているので、トラウマによる心身への反応を緩和していくことが可能となった。もちろん、1人として同じ人はいないので、個々の回復の文脈に即して考えていかなければならない。回復の文脈をどうつくっていくかは、何よりも母親から学ばせて頂くことが多く、母親との協働作業となると言ってもよい。子どもが自分の自信を取り戻し、回復していくとき、そこには母親の並々ならぬ努力と支えがある。母親をエンパワメントしていくことが、子どもの回復の鍵になると実感している。子どもは安全の基地さえあれば、どんどん外へと世界を拡げていくからである。

 子どもが自分の強さ、自信をとり戻し、力強く回復する姿、そしてそれを支える母親の姿に心を打たれる。しかし、子どもが性的に濫用される現実が変わらなければと思う。

 日頃は臨床が仕事ではあるが、まだまだ予防啓発活動、社会への働きかけが必要なことを実感している。被害者はもちろん、加害者をつくらない社会のために、子どもの権利が尊重されるコミュニティでなければと思う。虐待とは、子どもの境界線の侵犯である。私たち誰もが、境界線を尊重される権利をもっている(境界線とは、自分の安全や人格やプライバシーを守るために、「私の体」「私の気持ち」「私は私」という感覚のこと)。まずは大人が子どもの身体的、性的、心理的境界線を尊重していかなければならないと思っている。 

 震災以後、Twitterを始めて、今社会のなかに、性暴力に取り組むさまざまな団体が立ちあがっていることを知った。私自身もまた、予防啓発として自分にできることからと、子どもを性的に濫用されることがなくなるよう、性的虐待は子ども達の身近で起こっていること、その問題意識を伝えていきたいと思う。

※参照: 子どもの性的虐待の予防、発見、ケアに関する文献
「チャイルド・セクシャル・アビューズとは何か」年報2号(1992)、村本著。
「チャイルド・セクシャル・アビューズを子どもの様子から知る指針」年報2号(1992)、村本著。
『子ども虐待の防止力を育てる~子どもの権利とエンパワメント』(2005)村本、西、前村著、三学出版。
『FLC子育てナビ3: 子どもが被害にあったとき』(2001)窪田、村本著、三学出版。

(2011年12月)

2011.10.12 性的虐待
見知らぬ人からの手紙

村本邦子

 「未知の人間からの手紙をお許しください。ただし、先生のご所属もはっきりしないので、これが先生のもとに届くかどうかも定かではありません」と始まる手紙が、おそらくはあちこち回って、私の手元に届いた。

 大学を定年退職したという現在八十歳のフランス文学者を名乗る男性からだった。たまたま、この夏、性的虐待を扱ったNHKの番組に出演したのだが、これを、パートナーと一緒に見たのだと言う。詳しいことはわからないが、その時の状況の描写からは、何か深い思いや背景があるのだろうと感じられた。そして、「もし私がドフトエフスキーであったなら、先生に向かって、全人類の名のもとにお礼を申し上げていたことでしょう。先生がずっとご健在であられることを心から願っております」と結ばれていた。

 最近はマスコミ関係の依頼をほとんど断ってきたが、真面目に制作されている番組は、それだけ人々の胸に届く力を持っているのだろう。いささか大袈裟だという気もするが(文学者らしいというべきか)、それでも、年輩の男性が、私たちの仕事に何がしか感銘を受け、わざわざこうしてエールを送ってくださるというのはとてもありがたいことだと思う。実は、この番組には何通かのお手紙を頂いており、年輩の男性(やはり大学の先生)からのエールが他にもあった。

 戦時性暴力はじめ人道に反する罪、薬害エイズ、原発と戦後日本の建て直しの過ちを思うとき、とても哀しい気持ちになる。父や祖父、曾祖父の世代にもっとちゃんと頑張って欲しかった。女や子どもを保護しようとする男らしさが翻ると、女や子どもを凌辱する力となる。もちろん、男に強さを求める女にだって責任の一端があるし、人命より経済効率優先の価値は日本に限ったことではないけれど。

 先週、南京で行った「歴史のトラウマと和解修復」のセミナーで、祭壇に供える「思い出の品」として、家永三郎さんの写真を持ってきていた女性があった。大学の教え子だったそうである。当時は単位のためだけに授業を取っていたが、ある時、家永先生が学生たちのいい加減な態度に、顔を真っ赤にして怒ったことがあったという。彼女は、「その時はわからなかったけれど、年をとった今、先生の気持ちをこうして受け継いでいます」と語った。「そうだそうだ、心ある先達は、実はあちこちに確かにいたんだ」と思うと、泣けた。

 一方で、教育というのは、その時すぐには手応えが感じられなくても、こうして十年、二十年経ってから芽吹いていくものもあるのだと思った。自分なりには日々、頑張っているつもりでも、無力に感じることは少なくないけれど、後輩や教え子たちが頑張ってくれている姿を見ることは励みだし、たしかに感謝の気持ちに満たされる。つい、世の中の残念で情けない部分に眼が向いてしまうが、上の世代から下の世代へと確かに繋げていかなければならない希望を見失わないようにしなければ。大切なことを確認させてくれた見知らぬ方に感謝して。

(2011年10月)

2011.10.10 トラウマ
市民の力~被災地に心を寄せる人々

西 順子

 東日本大震災から7カ月が過ぎた。春、夏が過ぎ、秋も終わり、もうすぐ冬を迎えようとしている。この間、自分に何ができるのか・・自分なりに模索してきたが、結局は自分を落ち着かせ(過覚醒と無力感との間で揺れていて、やっと落ち着いてきたのが夏頃か)、自分の持ち場の責任を果たすことでやっとのことだった。日常を超えることはできず、日常のなかで「できることを」と思ってまず始めたのが、ツイッターである。

 支援者関係のメーリングリストからツイッターやfacebookを利用して情報交換をし、支援しようとしている人々がいることを知った。大阪にいながらも何かできることがあればと、ツイッターに登録してみることにした。
 ツイッターでは、新聞やテレビでは報道されていない被災地の様子や人々の生の声が聞こえてきた。そして、被災地の支援をしようとしている一般市民の方がこんなにたくさんいるんだということを知った。インターネットを利用して、支援システムができていく様子も、ITに弱い私はただ感嘆するばかりだった。例えば、被災地の経済復興のために、被災地のお店で物を購入して、被災地に届けるという、そんなシステムを作られた方々もいる。しかも、被災地で必要とされているけれど、個人1人では高価で買えないものも、「共同購入」という形で、一口3000円程度で購入できるようになっていた。また、物の支援だけではない、子ども達に遊びや遊び場を提供したりしようというグループもたくさんあった。

 女性の立場から特に印象に残ったのは、女性に<物づくり>の仕事を提供し、支援しようとする取り組みだ。2011年5月に「大槻復興刺し子プロジェクト」が立ちあがった(現在はNPOと有志で運営)。そして、最近知ったのが、<ふんばろう東日本支援プロジェクト>の活動の一つ「ミシンでお仕事プロジェクト」。これも、ミシンを送って被災地の女性達に元気になってもらい、仕事を見つけてもらおうというもの。私もずいぶん昔になるが、若い頃は物づくりが好きだった。手芸、編み物、ミシンで服を作ったり、出来栄えに関係なく、自分のオリジナルを創作するのが楽しかった。なので、手づくり、物づくりの楽しさと、それが仕事になり、収入になるという喜びと、また皆で一緒につくるというコミュニティでの人とのつながり・・が生まれる、そういうシステムづくりを思いつかれ、それを仕事としてシステム化していける人々の知恵が凄いなと思う。

 一方では、表にはでにくい暴力の問題に取り組むため、被災地での女性や子どもへの暴力防止のために活動するグループもある。「震災後の女性・子ども応援プロジェクト」では、暴力防止のための安全・安心カードを作成・配布したり、女性や子ども向けの支援物資を届けてきた。災害直後の暴力予防活動は10月末で終了し、今後は、東日本大震災女性支援ネットワークのチームの一つとして活動していくと言う。

 被災者の視点、そして女性や子どもの視点にたち、市民レベルで、さまざまなプロジェクトが立ち上がり、中長期的な支援へとつなげていこうとする努力には、本当に頭が下がる思いである。

 ただ、私にできることは、1人の市民として、自分の枠内で支援物資を購入すること、ツイッターでその情報を他の人にも知らせ、知ってもらうこと。そして、被災地のことに「関心を持ち続けること」。阪神大震災の時は、当初の支援の取り組みの後、関わらなくなってしまった・・という思いが残っている。なので、まずは「関心を寄せること」は続けていきたいと思っている。刺し子で創ったコースターは、研究所の本社で使わせて頂いてるが、直接支援は何もできないけれども、刺し子のコースターを見て触れることで、作られた女性たちのことをふと身近に感じる瞬間がある。
 
 先日、ツイッターで「一度現場を見に来て下さい」と呼びかける支援者の方の声があった。その言葉に、少し心が痛んだ。今もその言葉は心に残っている。実際に見て初めてわかることがたくさんあると思うし、行かなければわからないことがあると思う(それは南京を訪問して実感したこと)。いつか行くことができればいいなと願う。何かのご縁でつながりができれば・・と思いながら、今は一市民としてできることを、細いながらも長く続けていければ・・と思う。被災地に心を寄せる人々、その声を伝えてくれる人々と、細くだけれども長く・・つながっていければと思う。
 
 市民の手で、素敵な素晴らしい取り組みがされています。私が知るのはそのほんの一部ですし、皆さんも既にご存じかもしれませんが、ご紹介させて頂ければと思います。

大槻刺し子プロジェクト http://osp2011.web.fc2.com/index.html

ミシンでお仕事プロジェクト http://fumbaro.org/about/project/machine/

※この他にも、<ふんばろう東日本支援プロジェクト>では、「ハンドメイドプロジェクト」「おたよりプロジェクト」「ふんばろうエンタメ班」など、さまざまなプロジェクトが立ち上がっています。

震災後の女性・子ども応援プロジェクトhttp://ssv311.blogspot.com/2011/10/blog-post_27.html

(2011年10月)

2011.08.10 五感
夏の香り

西順子

 夏本番。毎日暑い日が続いているが、この季節、自然に香り(よい匂い)を求める自分に気づく。心地いい香りをかぐと、すっきりした気分になって、暑さが和らぐような気がするから不思議だ。

  • 柑橘系、ペパーミントなど、すっきりした香り
  • ひのき、ティートリーなど、森林系の香り
  • パッションフルーツ、マンゴー、桃などフルーティーな甘い香り
  • ブルーベリー、ラズベリーなど甘酸っぱい香り
  • ラベンダー、ローズなど、フローラルな甘い香り
  • シナモン、カルダモンなど、スパイシーな香り
  • みょうが、大葉、生姜、にんにくなど、食欲がわく匂い
  • 梅干し、らっきょなど、酢っぱい匂い
  • いれたてのコーヒーの香り、甘いバニラの香り・・・・・などなど

 今、好きな香りは? とピックアップしてみると、「味覚」とつながっているものが結構多いと気づく。朝のパンにつけるジャムはベリー系、食事の合間にペパーミントのガム、生姜飴、シナモンティー、コーヒー、それからバニラアイスクリーム。晩御飯のおかずには、香味野菜を入れたり、食後のフルーツ・・など、日常生活のなかで、自然に好きな香りを選んでいるようだ。

 食べること以外の香りは・・というと、スキンケアと関わっている。蒸し暑く、じめじめして汗臭く、またべとべとなりやいこの時期、入浴剤、シャンプー、石鹸、クリームなど、好きな香りを鼻からスーッと吸い込むと、気分もさっぱり、すっきりしてくる。一日の終わり、寝る前に好きな香りを嗅ぐと、ほっと一息ついて、一日の疲れがとれるようだ。

 ちなみに、ネットで調べてみると、食べるものも、そうでないものも、「香り」には効能があることがわかる。香り(いい匂い)は、実際に、心と身体に良い効果があるようだ。

 ふと、「夏の香りっていうと、何だろう?」と考えてみた。まず、海のイメージが浮かんで、潮の香りを思い出した。今年は海に行く予定はないけれど、「砂浜に青い空に青い海」のイメージが浮かぶと、海を見に行きたくなったな。

 私が子どもの頃は・・?と思い浮かべると、真っ先に「蚊取り線香」を思い出した。夏の夜は、やはり蚊取り線香。今や蚊取り線香は使わないが、思い出すと、かすかにその匂いの記憶が思い出される。郷愁を誘う、懐かしい匂いだ。

 「夏の夜」から連想すると、娘たちが幼い頃、両親や妹家族、姪っ子、甥っ子らも皆一緒に、スイカ割りをした時の甘い匂い、花火の匂いを思い出した。かわいい子ども達の歓声と共に。これも懐かしいなぁ。

 この夏は、下の娘と延期になっていた卒業旅行の代わりに、夏休み旅行に行くことにした。どんな「夏の香り」の思い出ができるのか、楽しみにしていよう。

 皆さんは、夏といえばどんな香りが好きですか? 好きな香りで、心身ともにリフレッシュして、暑い夏を乗り切りたいですね。

(2011年8月)

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