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FLCスタッフエッセイ

2007.06.12 コミュニケーション
ストレスとつきあう

村本邦子

 「なぁ、久しぶりに動作法やって~や・・・」ストレスでしんどくて吐きそうと訴えている娘。この子は友達に恵まれ、自分のことで悩むことはないんだけど、特定の誰かを嫌って排除するようなことができないために、激しく対立する友人やグループの間に立たされ、振り回されるハメになることがある。

 「自分で背負いきれないほど、人の荷物しょったらアカンで。そんなことしても、誰のためにもならんからな。相手のためにもならんし、自分のためにもならん。荷物が自分でしょえる重さを超えたら、きっぱり線引かな~」「うん・・・自分でもわかってるんやけどな。今日、ちゃんと話して帰ってこようと思ったけど、限界やった。明日はちゃんと話すわ」

 自分がどこまで人の荷物を背負えるか、背負えないものはきっぱりと線引いて引き受けないというのは、本当のところ、とても難しい。まず第1に、自分のキャパを十分に知っていなければならない。そして、はっきりとノーを言わなければならない。荷物の持ち主が自分に近しい人であればあるほど、これは難しい。私自身、娘くらいの頃は、うまくバランスを取れずに悩んだものだ。私の場合は、友人ではなく、家族の荷物だったけど。

 ベーシックに肩上げからやり始めるが、体がピクピクひきつっているのがわかる。娘の肩は、本来、ものすご~く柔らかく上がるのだ。片方ずつゆっくりと、手を当てながら何度かしているうちに、少しずつ、ピクピクがなくなり、スムーズに上がるようになる。もう片方、そして両肩。何度も繰り返して、片開きまでやると、ずいぶん楽になったと言う。それは、援助しているこちらにもよくわかる。

 友人関係のごちゃごちゃを親に詳細に語れないこの年齢の子に、詳しい話を聞かず(聞かなくても、概要は推測できるのだけど・・・)、体のことだけで何かしてやれるツールがあるのはとっても良い。「動作法」なんて言葉、よく覚えていたもんだ。たしか、受験のストレスの頃、何度かやってやったんだと思う。

 しばらくすると、「せっかく少しリラックスしたのに、頭が考えてしまうから、また、体が緊張してきた・・・」と言う。「じゃあ、次は、タッピングタッチで行くか」。こちらは、前に一度やった時、息子とともに、「なんか怪しい」とあまり喜ばれなかったんだけど、今回は、「やっぱ、いいな~」と受け入れられた。その後は、すぐ寝付けたようだ。

 人との関係で、ストレスは避けられない。ストレスに自覚的であること、早めに手当すること、誰かにSOSを発信すること、自分の体を労ること・・・いろんなことが今後の人生のための勉強だ。ふだんは、ほとんどもう不要となりつつある親役割だけど、あと少しだけ、残っているものがありそうだ。

(2007年6月)

2007.06.10 いのち
生老病死~病院臨床に関わりはじめて

西 順子

 ご縁があって、今年の4月から病院で週一回、非常勤の心理士として勤務することになった。総合病院だが、婦人科と小児科の所属のため、女性や子どもの相談、カウンセリングが主な仕事となる。これまで、女性ライフサイクル研究所を中心に、女性センターや学校でのカウンセラーも経験してきたが、主に女性や子どもの問題に関わってきたので、病院臨床でもこれまでの経験を活かしていけるだろうと思っていた。しかし、これまでの経験を活かせるところと、新たに勉強していかなければならないことがたくさんあることを日々痛感しているところである。もちろん、臨床の現場によって、どんな方々が来られるか、何が求められているか、それぞれの場での特徴はあると思う。それぞれの場に応じて、新たな学習が必要であるし、経験を積んでいくことも必要である。病院臨床でも、新たな学習が必要なことはもちろんだが、またこれまでとは違った体験をさせてもらっているな・・と感じることがある。

 まだ勤めて3ヶ月もたたないが、病院では、やはり「生と死」について、「命」について、漠然とではあるが考えさせられることに気づく。生きる喜びと、死の悲しみが隣り合わせに感じることもある。生きる喜び、病気の苦しみ、死の悲しみを前にして、自分には何ができるだろうかと問いかける。今の私にできることは、そこに寄り添うこと・・それしかできない、できないのではないか。寄り添うことしかできないが、そこに、共にいさせてもらえるなら・・という気持ちで、お話を聞かせていただいている。

 「命」をありのまま受け入れることは難しいことだと改めて感じる。「命」には、生も、老いも、病も、死も含まれることに気づく。「命」を受け入れるとはどういうことなのだろうかと問いかける。老いも、病も、死もあるものとしての「命」を受け入れるには、スピリチュアルなものが必要といえるだろうか。スピリチュアルとは、人間の力を超えたものに対する畏敬の念、己を超えたものとのつながりを実感することなどである。

 今の私にできることは、ありのままの「命」を受け入れることに伴う苦しみ、痛みに寄り添うこと。そして、苦しみ、痛みを超えて生きていく人間の可能性も感じていたい。

(2007年6月)

2007.04.10 ライフサイクル
棚の整理は心の整理

西 順子

 年が明けたかと思うと、あっという間に4月を迎えた。桜の開花とともに春を感じるが、春の季節は、心の「春」を感じる時でもある。心の「春」とは、生命力、新しい成長に向かう力を感じ、新しい影響と変化を受け入れることである。

 研究所が設立して16年半。この間に引越しが2回あったが、現在の場所にきて5年がたった。引越しの機会は、物を整理する機会でもある。しかし、5年もたつといつの間にか、いろんな物がたまってくる。物が増えるのは家も仕事場も同じだ。最初は広く感じた本社の部屋も、随分手狭に感じるようになり、心機一転、3月は、物の整理・棚の整理をしようと思いたった(自宅の場合もそう。突然、むしょうに片付けたくなる時がある)。

 3月中には終わらせる予定が、4月に食い込んでしまったが、いつの間にかたまった諸々の物を、何が必要か不要かと選択しながら、仕分けし直し、ファイリングし直し・・、徐々に部屋や棚がすっきりと片付いていっている。なんて、気持ちがいいんだろう!

 もちろん、1人でできるはずはなく、スタッフの協力を得て、日々の仕事の合間に、手伝ってもらっているが、スタッフがさらに整理のアイデアを出してくれて、どんどんと整理をして片付けてくれるので、とっても有難い。ファイルには、分かりやすくテプラで打った見出しもつけてくれた。「大きなカブ」のお話のように、1人でできないことも、皆の力があわせられれば、思いもよらない力が発揮されるものだ・・と、力を合わせることの感動も、じんわり体験させてもらっている。

 なかには、10年も前の講演会の時のスタッフの写真、その子ども達の写真も出てきた。子ども達の、なんとかわいいこと。私も、若いスタッフから「若い~」と言われて、月日のたつ早さにしみじみ~となった。思わず、アルバムを見てみたくなったが、見ていると時間がない。それはまたいつかのお楽しみにして、一番端の棚の奥に閉まっておいた。

 新たな年度を迎えるために、棚の整理をしながら、心の棚卸しも一緒にしているように思う。物が整理されていくと同時に、心も整理されていく。片付けや整理の作業は、自分の心を静かにするときであり、自分自身の内面に精神を集中するときである。心の棚卸しは、心に「平安」をもたらしてくれる。私にとっては、そんな意味もある。

 綺麗に、機能的に仕事がしやすくなった研究所で、心新たに「春」の気持ちで6年目を迎え、仕事に精を出していこう~。

(2007年4月)

2007.03.12 いのち
嬉野の「命の水」

村本邦子

 嬉野温泉へ行った時のこと。嬉野と言えば温泉豆腐だが、『まっぷる』に「抹茶豆腐」というのが取り上げられていたので、今回はこれを試してみることにした。嬉野の街は、何だかよくわからないけど、一種独特の不思議な雰囲気を持つ街だ。街中にある「板前東屋」を訪ねる。夕方5時頃、開店一番乗りだったので、お客は誰もいない。嬉野はお鮨も結構いけると聞いたので(勝手に山のイメージを持っていたけれど、案外、海に近いのだ)、握りと抹茶豆腐を頼む。

 手持ちぶさたなので、机の上に積んであるサイン帳を見る。それによれば、料理がとってもおいしいらしいが、ここでは、「命の水」とやらをもらえるらしく、そのことへの感謝がたくさん記されている。「何のことだろう???」と訝しんでいるが、料理を運んできた板前のおじさんが話し出した。

 その昔、このおじさんはかなり大きな交通事故に遭って死にかけた。頭が割れてへこんで、万が一、助かっても植物人間状態と言われたそうだが、夢に裏にある「お湯の神様」が現れて、「お前はもっと生きて、人のために尽くせ」と語ったそうだ。意識を取り戻したおじさんは奇跡と言われたそうだが、それからおじさんは、温泉豆腐の水づくりに精を出した。「お湯の神様」とは、東屋の路地裏にある薬師如来。湯屋のそばにあった大きな楠が対象11年の大火で消失したが、燃え残った木片で掘られたものだそうだ。

 板前だから食べ物を通じて人に尽くそうと考えたのだろう。何しろ、ここは明治の中頃から続く温泉湯豆腐の老舗。20年間、豆腐に合う温泉水を研究し、カルシウムを含む食材を加え調整することで理想の味にたどりついたという。こうして出来た温泉水をお客さんに求められて差し上げているうちに、それが奇跡のような働きをすることがわかったという話らしい。おじさんの父親である90何歳のおじいさんも途中で出てきたが、かくしゃくとして、虫歯の一本もないそうだ。

 心臓病やら癌やら、さまざまな難病を抱えた人たちの家族が、遠くからお水をもらいにきて、長生きをしているという。たしかにサイン帳に書かれているのはそういった話だ。研究者やマスコミも何度かやってきて取材したが、なぜだか公開されないらしい。たしかに、この「湯の端お茶豆腐」については頻繁に紹介されているが、「命の水」の方はどこにも紹介されていない。従弟の京大病病院の先生から「特許を取って水を売ったら?」などとも言われているが、豆腐を食べに来てくれたお客さんにペットボトルで1本無料で差し上げているだけという。

 私もラベルをはがした古いペットボトルに1本、「命の水」を頂いたが、この地味さ加減がマスコミでブレイクしない理由のような気がする。でも、私は、この地味さ加減が気に入った。サイン帳を読んでいて思い浮かぶのは、家族を思って遠くからやってくる人たちの思い。そして、温泉の神様の夢を守って、水を作り料理を作り続ける職人気質のこのおじさん。なんかいいな~と思う。この水を朝夕、おちょこで一杯ずつ飲むといいんだそうだ。飲み終えたが、効果はいかに!?

 ネイティブ・アメリカンのリザベーションでも、不治の癌の病床で神のお告げを聞き、そこから突然回復し、現在はヒーラーとして働いている女性と出会ったことがある。この手の話を私はそのまま信じるわけでもないが、そんな場でいったいどんなことが起こっているのだろうということには、とても興味がある。「嬉野をフィールドにして研究したら、温泉に通えるなぁ・・・」などと考える私は、やっぱり動機が不純だ。東屋の隣の「古湯」が近く再建されるそうだ。

(2007年3月)

2007.01.10 こころとからだ
身体感覚との対話

 西 順子

 カウンセリングに来談された方から、「こんなに自分と向き合ったことはなかった」と、聞くことがある。確かに、カウンセリングのなかでクライエントさんは自分自身の心の内側と向き合い、心の内との対話がすすむなかで、自分で答えを見つけられていく。人に自然に備わっている力や可能性、そしてまた、人間の力を超えた力の働きに、敬虔な気持ちになる。カウンセラーとして、その答えを見つけるために、よりよいお手伝いができればと思っているが、そのプロセスの途中では、何らかの壁にぶつかることもある。
そんなとき、そのプロセスをすすめるための一つとして、身体感覚と向き合うことが役に立つと感じ、最近では身体感覚を取り入れたアプローチも取り入れている。特に、トラウマ(心的外傷)は身体に記憶されると言われることから、身体感覚に注目するようになってきた。

  そもそも東洋では、心と体は一つのものとして捉えられてきたが、日本語でも、心を身体感覚で表現する言葉が多い。怒りは、「腹が立つ」「腹に据えかねる」「はらわたが煮えくりかえる」「頭にくる」「頭に血が上る」、笑いは「お腹をかかえて笑う」「笑い転げる」、感情が込み上げてきたときは「目頭が熱くなる」「胸がいっぱいになる」、苦しい時は「胸が詰まる」「喉か詰まる」、心の負担感やプレッシャーは、「重い」「軽い」・・など。ほかにも、「ムカつく」「スッとする」「ワクワクする」なども身体感覚の表現である。
  自分の本当の気持ちがわからないとき、どうしていいかわからないとき、心の内側に問いかけても答えが見えないとき、自分の体の感覚に耳を傾けてみることで、自分の気持ちに気づくことができる。私も、心が「もやもや」っとするとき(もやもや・・は胸の辺りの身体感覚)、もやもやってなんだろう・・と「もやもや」に聴く気持ちでいると、ふと「ああ、そうか」と気づきが起こることがある。意識できない気持ちも、無意識から身体感覚を通して教えてくれる。

  先日、10年ぶり?くらいに、フォーカシングを学びなおそうと思ってワークショップに出かけた。フォーカシングとは、「からだを使って、自己の気づきを促し、こころを癒していく、独特のプロセス」(アン・ワイザー・コーネル)である。「からだの気づきに対して興味深い好奇心をもって注意を向けるとき、洞察、身体的な解放、前向きの生活の変化があらわれる」と言う。
  私自身も日々の生活の中で、こまめに体の感覚に耳を傾けているが(まずは、今日は何が食べたい?とお腹にきくことにはじまり・・!)、自分はどう思うのか、どう感じるのかを大切にしたいと思っている。

(2007年1月)

2006.12.10 トラウマ
今年のキーワード~トラウマ心理療法、アート、選択

西 順子

 今年もあと少しで終わろうとしている。12月はこの一年を振り返り、次の一年をどう過ごそうかと、来年に向けての心の構えを調整するような時期だ。

 今年はどんな年だったかなと振り返ったとき、キーワードとなる言葉が三つ思い浮かんだ。「トラウマ心理療法」「アートによる癒し」「選択」。それぞれについて振り返ってみたい。

トラウマ心理療法
今年も、新しい知識を学び、カウンセリングの援助技術を高めたいと、いろんな研修に参加した。なかでも今年は、トラウマ心理療法について学ぶ機会に恵まれた。特に印象深かったのは、日本EMDR学会ワークショップ「EMDRによる解離性傷害・複雑性PTSDの治療」(キャロル・フォーガッシュ氏)、日本臨床催眠学会研修「自我状態療法」(ワトキンス氏)、服部雄一氏による研修「ひきこもり治療」である。いずれも解離や自我状態について学ぶ研修であり、私が学びたいと思っていたことが得られた貴重な機会であった。ただ残念ながら、実際に今どれだけ自分に消化吸収できているかというと、ほんの一部分でしかない。トラウマを受けた方に、よりよい援助が提供できるよう、来年も引き続き、こうした研修に参加して学びを深めたい(早速、2007年4月にフォーガッシュ氏が再来日し、研修が開かれると聞いた。やったぁ! 再び学べることに感謝)。

アート
今年は、何年かぶりに、トラウマ・アートセラピー・グループを実施することができた。このグループは、村本が米国のユニオン・インスティテュート博士課程に在学中、渡米した折に仕入れてきたくれたアートセラピーの本『MANAGING TRAUMATIC STRESS THROUGH ART』を元にして、組み立てたグループである。トラウマからの回復と癒しのために「想像力」は大きな力になるとして、さまざまなプログラムが用意されている。
スタッフと共に私自身もこのプログラムをやってみたことがあるが、とてもおもしろかったし、楽しかった。私自身、いろんな発見があったし、エンパワーされた。だから、このプログラムはお薦め!と、他の皆さんにもぜひ体験してもらえたらいいなと思ってきた。グループではファシリティーターをつとめているが、自分の作品ではなくても、アートに触れることで、心に何かが響き、心が潤うような気持ちになる。
また、今年の秋には、私の好きな伊藤尚美さんの展覧会が大阪で開かれたので、足を運んだ。せっかくの機会だったので、思い切って一つ作品を購入した。「線」で描かれた「つぼみ」の絵。つぼみが膨らんで、咲こうしている絵。カウンセリングの部屋に置いているが、絵を見ることで、何かが心に響いてくる。筆のタッチを見ていると、「生きている」っていう感じがするから不思議だ。
2002年に研究所が今の場所に移転したとき、部屋に飾るために心惹かれる絵を購入したが、それはChieさんという方のものだった。今年、Chieさんはアートセラピー活動をしていると知った。Chieさんは「絵画を観ることは、絵を観るのではなく、絵の先にある自分自身の心と対話すること」と言う。なるほど・・。アートが感情や感覚に働きかける力、癒しの力ってすごいな、不思議だなと思う。自分では意識できないもの、無意識に働きかけてくれるものなのかもしれない。
年末は、一年の締めくくりに、葉加瀬太郎のコンサートに行く予定。昨年はじめて行って、とてもよかったので、今年も行くことにした。絵も音楽も、アートは心を力づけてくれるし、癒してくれる。疲れたとき、弱っているとき、アートは心に潤いをもたらしてくれる。

選択
 この2年間、研究所から外に出て、新たな分野にも活動を拡げてきた。でも、今年は仕事が増えて、仕事の量や質を調整していかないと、このままではヤバイとちょっとした危機感を感じた。ついつい何でもやってみたくなるが、仕事を選んで調整していかないと体がもたない。自分の仕事について振り返ってみたとき、やはり一番好きだなと思ったのは、カウンセリング。自分の好きなことが一番自分にあっているんだろうと思う。来年は仕事を調整して、研究所でのカウンセリングの仕事をベースに少しでもいい仕事ができればと思う。研究所を訪ねてくださった方々に、少しでもいい援助が提供できるよう、臨床家としても人間としても、成長していけたらいいなと思う。

 ・・・先日、久しぶりに高校生の娘といろいろとお喋りした。学校、クラブ、友達のこと・・など、娘の話を聞いていて、「いいなぁ~。青春やなぁ~」と思わず口に出た。娘は「えっ? 自分もやん」と。「はぁ、どういうこと?」と聞くと、「自分も好きなこといっぱいしてるやん」と。そっか、そういえば、私も好きなこといっぱいしているな。仕事もそうだし、研修に参加するのもそう。音楽聴いたり、絵を見に行ったり、エアロビクス・・と、そうや自分も好きなことしてる。好きなことばっかり? これって青春してるってことか?

 今年の私のキーワードについて書いてみたが、三つまとめると、「好きなこと」に集約できると気づいた。今も青春させてもらっていることに感謝して、またこれから一年、とにかく元気に過ごしたい。

(2006年12月)

2006.09.12 子ども/子育て
子どもの時間

村本邦子

 この夏、バリの小さな村で、一週間ほどホームステイをした。まだ大家族制が残っているので、近隣に住む家族(拡大親族)が、毎日のように集まってくる。お母さんやお父さんもやってくるが、一番、多いのは子どもたち。0歳から20代まで、女の子も男の子も(でも、中高生くらいの子どもたちと会わなかったな。思春期の子たちは、やはり、いったん、家族から距離を取って、仲間たちと徒党を組んでいるのだろうか?)。5~6歳の子が赤ん坊を抱き、大きい子が小さい子の面倒を見ながら、日が暮れるまで、庭で戯れる。その合間に、気が向けば、大人たちの中に入っていっては、毎日、欠かせないお供え物作り、野菜の皮むきなど食事の下ごしらえ、アイロンがけなどを手伝う。

 一週間の間、大人が子どもを大声で叱っているような場面を一度も見なかったし、ごく稀に、小さい子どもの泣き声は聞いたが、基本的に、子どもたちは皆、機嫌が良く、ニコニコしている。私の眼には、まだまだ子どものように見える20代前後の若いお母さんたちも、子どもに向けるまなざしは、暖かく、いかにも親らしい。日本の子育てといったい何が違うのだろうかと、あれこれ考えてみたが、自然な生活の流れのなかに、子どもたちがいる。ゆったりとした子どもたちのペースで生活が流れ、それに添って、日常が回っているから、子どもたちに無理をさせる必要がないのだ。大人が子どもを対象化して、あれをさせ、これをさせといった操作的意図が見られず、むしろ、子どもの主体が尊重されている。いつもが子どもの時間だ。

 私自身、田舎に育ったので、自分の子ども時代が重なって見え、ひとしきり思い出に浸った。正確に言えば、札幌、奈良、大阪と引っ越して、ちょうど7歳になる時から、鹿児島の父の実家に住むようになったのだが、幼稚園に入るまで住んでいた奈良(尼ヶ辻)も、当時は相当、田舎だった。見わたす限り田んぼ。甘く懐かしい郷愁とともに、池の上を滑るアメンボが眼に浮かぶ。私が一番小さかったけど、近所の子どもたちの後をついて回って、あれこれ世話を焼いてもらったし、ちょうど妹が生まれる頃だったが、同じ敷地にある大家さんの息子さんや娘さんたち(当時は大人に思えたけど、たぶん、中高生くらいだったろう)が可愛がってくれた。納屋に素敵なブランコを作ってくれたっけ。大阪(守口)はすでに生水を飲めない都会だったけど、それでも、近所の神社でよく遊んだな。知らない子たちとも遊んでいたと思う。

 そして、父の運転する小さな車になけなしの家財道具、両親に三人の子どもと犬一匹で、出来たばかりの関門トンネルを通って、鹿児島の家に着いた時の驚きと感動。青い空と白い雲、緑の田んぼと山に囲まれ、なぜだか自分が世界の中心にいると感じて、大はしゃぎした。家も築百年のボロ屋ではあったけれど、大きくて、ちょうど、となりのトトロみたい。まだ五右衛門風呂だったし、床下にもぐって探検すれば、先祖の宝でも見つかるんじゃないか・・・なんて感じだった。庭の草陰に石神さんを見つけたっけ。

 私も少し大きくなり、妹や、生まれたばかりの弟をおぶって遊びに行ったり、近所のお兄ちゃんやお姉ちゃんたちに構ってもらったり。竹藪の基地作りに没頭し、裏山に探検に行ったり、薪拾いや畑の手伝いも遊びの延長だった。お月見なんて行事があった。男の子たちが、各家庭を回って藁を集め、大きな長い縄をなって綱引き。それをくるくる丸め、土俵を作って、相撲大会。この日だけは、子どもたちだけで夜遅くまで外で遊ぶことが許され、肝試しやクイズ大会もやったな。

 バリでも、取れたての落花生を煎って出してくれたが、うちでも、庭で作った落花生を煎って食べたし、ちょうど、お祭りで、鶏を絞めて丸焼きにしていたのだけど、そんなこともしていた(怖かったから、近所の子たちとキャーキャー言うだけで、一度も見なかったけど)。結構、何でも家で作っていたな。野菜もお茶も。椿の実を拾って油にして、髪に使っていたものだけど、今から思えば、立派な椿油だった(今は、高い値段で購入して、アロマのキャリアに使っている。椿油は、髪や日焼けに良い)。

 自然と調和しながら、時間に追われず、子どものペースで生活が流れること、遊びと仕事の境目が曖昧で、すべては生活の一部であること。子どもが育つことだってそう。子育ては大層な事業なんかではなく、ただただ、ふつうに人が生活しながら大きくなっていくことに他ならなかった。何もかもが、現代日本のあり方と違ってしまっているな~。昔が良かったばかり言っていてもしょうがないのだけど、生活の流れをもう少しゆったりできないものか。いつもを子どもの時間にして。

(2006年9月)

2006.06.12 女性の生き方
元気の素

村本邦子

 「誰に聞いても、村本さんって、いつも元気だよねって言うね~」と人から言われた。「そう?それ言ってる人たち、自分が元気ないんじゃないの!?」と答えたが、ちょっと考えてから、「だって、好きなことばっかりしてるからね~」と付け足した。すると、「そんなこと言ってる日本人、村本さんぐらいだよね~」と返ってきた。そうか、日本人は好きなことをしない人種なんだ。ふ~ん、そうかもしれない。
 
 私の育った家庭では、「好きなことを一生懸命やるのは良いことだ」という価値観があった。だから、自分の子どもにも、好きなことを一生懸命やろうとしている時には、親が大変な時でも、できる限りの応援をしてきた(つもり)。手抜きの子育てでも、これだけは実践してきたから、きっと子どもたちも元気なのだと思う。

 「うち、毎日、毎日がめっちゃ楽しいねん」と娘が眼を輝かせている。「高校時代って人生で一番楽しい時なんかな?」と言うから、「何言ってるの!お母さんだって、毎日、めっちゃ楽しいで~。大人になっても楽しいで~」と言うと、「そうか~。そうやんな~」と納得していた。
 
 好きなことを一生懸命すること、これは日々を元気に生きるコツだ。もちろん、好きなことを一生懸命やることのなかには、苦労や困難も含まれている。決して楽なことばかりではない。でも、同じ苦労でも、やらされていると思えば耐え難く苦痛だが、自分が好きで選んだことだと思えば、頑張れる。柔道をやっている息子も、高校生活最後の試合前で、練習がきつそうだが、よく頑張っている。全部、自分が選んだことだからだ。

 人生には自分で選べないことも、たくさんある。それでも、ちょっと視野を拡げてみれば、あるいは、柔軟な発想転換ができれば、人生の選択の幅はぐ~んと広くなる。一番、自分を縛っているのは、実は自分自身ということは案外あるものだ。本当は自分で選んでいるのに、つい、人のせいにして、「イヤダ、イヤダ」と言ってしまうことって、あるんじゃないかな~?

 自分の人生を主体的に生きること。環境を好ましいものにするために努力を惜しまない。でも、今すぐ手に入らないものに固執しない。今、やれることのなかから、自分にとって最善のものを選んでいく。とってもエネルギーがいることだけど、これが元気の素だ。

(2006年6月)

2006.06.10 五感
五感を楽しむ

西 順子

 7-8年前になるだろうか。トラウマからの回復や癒しについて学ぶなかで、心地いい、肯定的な感覚を体験することは、不安を和らげ、自分を癒しや慰めるために、有効であると知った。トラウマの反応の1つに、「回避」「麻痺」があるが、この反応は不安や恐怖を減らす代わりに、慰めや楽しみを奪ってしまう。だからこそ、回復と癒しのために、積極的に肯定的経験を自分に与えてあげることが大事、ということだった。

 その当時はスタッフと共にアートセラピーを通して体験したが、それから私自身も生活のなかで肯定的な感覚の経験を大事にしようと思うようになった。最近は、ますます五感を味わう楽しさにはまっている。五感を感じるときは、自分がありのまま自然体であり、心と体の一体感を感じられる、心地いい幸せなひと時である。
 最近の私の五感の体験を振り返ってみよう。

 味覚・・私は食べることが大好き。好き嫌いはなく、何でも食べる。変わった食材、味も、一度は試してみたいと思うほう。一日三回の食事とおやつの時間と、毎回、食べる時間を楽しみにしていると言っても過言ではない。朝食は、コーヒーとパン、ヨーグルトが好き。ヨーグルトはアロエとマンゴーが今のお気に入り。パンには、ブルーベリー、いちご、ラ・フランス、アップルシナモン・・など、香りのいいフルーティなジャムが好き。ちょっと贅沢したい時はベーグルパン。もちもちとした食感が好き。昼食は、研究所にお弁当を持参。子どものお弁当の残りや生協のおかずに、納豆、もずく、味噌汁(orスープ)が定番。夕食は、魚、野菜、豆製品、海草類・・など、和食系が好き。でも、子ども達は肉系、夫は中華系を好むので、和洋中折衷が多い。毎回、「ああ、おいしかった~」と満足するのは、至福のひと時。外食のお気に入りは、ランチタイムのイタリアン。新鮮な魚貝系、トマトソース系パスタが好き。前菜やサラダ、デザートもついていればなお嬉しい。手ごろでおいしいイタリアンのお店を見つけると、嬉しくなる。同僚や家族と一緒に、おいしいものを一緒に食べるのも楽しいひと時だ。

 聴覚・・気分をリラックスさせたり、やる気を出させたり、気分を一新するときに、音楽は欠かせない。朝起きた時の目覚めの音楽、眠る前の音楽と、一日は音楽にはじまり、音楽に終わる。クラシック(誰もが知っているような曲しか聴かないが)、ヒーリングミュージックから、今流行のポップス系、ヒップホップ系と、その時の気分や目的にあわせて、聞きたいものをチョイス。例えば、眠る前にはリラックス系、今から掃除するぞという時にはテンションが高くなって体が動く曲を選ぶ。音楽は、友人や夫、子どもなどいろんな人の影響も受けて、聴くジャンルが拡がってきた。子どもの部屋からはアイドル系の音楽が聞こえる。たまには、アイドル系も、若い気分になっていいもんだ。ただ問題は、時々夫と、音楽vsテレビになること。それぞれ、リラックスのための感覚の使い方が違うのだろう。その時の優先順位で譲り合っているが(辛抱しあって)、どちらもほどほどになって・・ちょうどいいのかも。

 嗅覚・・もともと鼻はいいほうだと自負していた。夕食時には、近所からおいしい匂いがしてくるが、晩御飯のおかずを当てるのは得意。去年から、アロマセラピーを勉強し始めたので、今はもっぱらアロマを楽しんでいる。研究所にあるカウンセリングの部屋では、ローズウッドがお気に入り。ローズウッドは、ウッデイな香りとバラの華やかな香りと両方が楽しめていい。自宅では、眠る前のラベンダーが定番。ラベンダーの香りを1、2分でも嗅ぐと、もうコテンと寝入ってしまうほどである。嗅覚は脳に直接働きかける唯一の感覚ということで、1分間、ラベンダーの香りを嗅ぐだけで、身体に変化が起こるという(心拍数が10も減るのだとか)。すごいリラックス効果だと、自分の眠入りの早さからも実感。
 他のアロマオイルは、効能に応じて、マッサージオイル、手作りクリームを作って、お試し中だが、アロマオイルの調合具合によってこれまでの経験にない様々な香りが楽しめる。私はすっきりさわやか系が好み。アロマオイルは植物性だが、自然界にこれだけの香りがあるなんて、自然の力は凄い。夜は、香りに包まれてリラックスモード。

 体感覚・・触覚含めて体感覚について。体感覚で今一番気持ちいいのは、ストレッチ。体の筋肉を伸ばすと、うーん、気持ちいい。エアロビを続けているが(もうすぐ一年だ! 一年も続いたなんて自分でも驚き)、エアロビのなかにはストレッチ的な動きが含まれている。あちこち筋肉伸ばして、「今日も一日お疲れさん」と自分をいたわる感じ。次に好きなのは、跳躍。エアロビのなかで、飛び跳ねると体が喜ぶ感じ。子どもに戻ったような無邪気な気持ちになれる。次に、最近はセルフ・アロママッサージがお気に入り。特に足のマッサージが気持ちいい。これは触覚の気持ちよさだけでなく、香りとの相乗効果で心地よさが増す。これも、体に「お疲れさん」のいたわりの感覚。

 視覚・・これはうーむ、何かな。緑を見るのは、一番好き。都会暮らしではあるが、近くには川が流れているので、その周りの木々と共に結構自然を身近に感じている。大阪に住み始めた当初は、山に囲まれていないということで不安だったが(生まれ育った故郷は、盆地。山に囲まれていたので、都会に出てみて、山が見えないことには違和感があり、不安に感じたものだった。山に囲まれていることで、「守られている」感覚があったことがわかった)、今は平野暮らしにも慣れた。時には郊外に足を伸ばして、自然を満喫し、自然のエネルギーをたっぷり吸収したいけれど、日々の暮らしでは難しい。今は、インテリアのグリーン、公園の木々や花々、住宅周りの木々を見ることで、ちょっとした安らぎを感じている。

 私の日頃の五感の経験を振り返ってみて、「視覚」の肯定的経験が一番とぼしいかなと気づいた。他の四つは積極的に取り入れているが、視覚は意識的には取り入れていないかなと。あっ、でも「色」は好き。きれいな「色」を見るのは心地いい。緑色はもちろん、柔らかくて、あたたかい色も好き。イラストレーター伊藤尚美さんの色の感覚、雰囲気が好きで、サイトは「お気に入り」に入れて、時々チェックしている。

 皆さんは、どんな感覚が好きですか? 
肯定的な感覚を大事することは、ストレスへのケアだけでなく、体のなかから、「いきいき感」を生み出してくれる。「いきいき」としたエネルギーを蓄えて、さあ明日も一日、自分らしく、頑張ろう。

(2006年6月)

2006.03.12 子ども/子育て
巣立ちの予感・・・

村本邦子

 今年は娘の高校受験だった。無理せずとも、とずっとのんびり構えていたが、11月末に説明会に行った学校がとても気に入って(生徒たちがそれぞれ生き生きしてて、オーラが出ていると)、娘が、いきなり頑張りだした。年末の懇談では、「偏差値10点足りないから無理」と言われたが、とにかく挑戦すると頑張り、見事、合格。我が子ながら、なかなかの根性だ。途中、たまたまテレビに出ていた「挑戦してダメなら納得するが、挑戦せずに諦めたら後悔だけが残る」という言葉に、「ほんまにそうや」と、自分に言い聞かせるように頷いていたことが印象に残っている。本当のところ、とっても不安だったのだろう。

 合格発表の日、娘はワンワン泣きながら、出張先に電話をかけてきた。そして、「今日は、うちの人生で一番いい日」と。自分で決めて、自分で努力して、自分で手に入れた喜び。「ああ、大人への第一歩だ」、親として、頼もしく誇らしく思う一方、自分の心のなかに一抹の寂しさがあることに気づく。これまで、親として、いろんなことをしてやってきたつもりだし、一緒にたくさんの素晴らしい時間を共にしてきたつもりもある。それでも、「人生で一番いい日」は、やっぱり自分の力で獲得したものなのだ。こうやって、子どもたちは、だんだん、親を必要としなくなっていく。

 子どもは未来に眼を向けて生きていくべきだという私のポリシーから言えば、これは喜ばしいことなのだ。先日も、ミュージカルに娘を誘ったら、「うち、忙しい。お父さんと行ったら?」と断られてしまった。「それもそうだな」と思って、夫を誘うことにしたが、私も、そろそろ子離れの準備をしていかなければ。思えば、娘はダイビングのバディだったので、絆は深い(バディは互いの命を預け合うので、必然的に絆が強くなる)。ピアノの連弾も、息子とともに、十年以上、一緒にやってきた。私に頼っていた小さかった子どもたち。年月とともに成長して、だんだん、関係が逆転しつつある。親子というより、良い仲間になりつつあるかも。

 息子とも一緒に暮らすのは、あと1年だ(うちは、高校卒業したら、3匹の子ブタのように、家を出すことにしている)。「ちょっとは料理も覚えな」と台所に立つようにもなった(小さい頃はよく料理もしてくれたが、思春期になって、めっきり台所に立たなくなっていた)。娘も来年は短期留学で家を空ける。その間は夫婦2人きりだ。あと、子どもにしてやれることは、とにかく経済的なバックアップと、本当にいざと言う時の精神的応援だけだろう。最後に、もうひとつ嬉しい娘の言葉。「うち、ほんま、たくさんの人たちに支えられて頑張れたわ~」「ほんまやな。みんなに感謝して、ちゃんと生きな」「うん!」。人生に感謝しながら、しっかりと自分の人生を歩んで行って欲しい。そして、親は、子どもに心配をかけないように。

(2006年3月)

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