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FLCスタッフエッセイ

2003.12.12 コミュニケーション
クリスマスのしあわせ

村本邦子

 12月に入ると、街はいっせいにクリスマスに衣替えする。いっときは、11月に入ると同時にクリスマス戦略が始まっていたが、不況のせいか、最近また、12月を待つようになったようだ。クリスマスの雰囲気は、なぜだか、しあわせな気分をもたらしてくれる。
クリスマスと言えば、家族の暖かい思い出と結びつくからだろうか。私が子どもの頃、ケーキを食べるのは、誕生日とクリスマスくらいだった。ショートケーキがなかったわけではないが、デコレーション・ケーキに火をつけ、家族で切り分けて食べるというのは、特別に楽しいイベントだった。それからクリスマス・プレゼント。誕生日は自分だけがプレゼントをもらうわけだが、クリスマスはもらうだけでなく、あげるのも楽しみのひとつだ。「今年は誰に何がいいかな~」と考えるだけで、わくわくしてくる。そういう意味で、クリスマスは、大切な人々のことを思いやり合う、愛に満ちた日でもある。これに加え、サンタクロースの物語は、もっと普遍的な愛の感動を与えてくれる。クリスチャンでなくても、そんな愛を感じることができるからこそ、なんだか、しあわせな気持ちが呼び起こされるのではないだろうか。
 裏返すと、そんな愛を感じることができない状況にある人たちにとって、クリスマスは苦痛に満ちた時期となる。自分が悪いわけではないのに家族とうまくいっていなかったり、孤独だったり、いろんな事情で、クリスマスを祝う余裕がない状況におかれている場合などだ。クリスマス商法に煽られて、クリスマスとは恋人に高価なプレゼントをあげるものだ、カップルで洒落たレストランに行かなければならないと信じ込まされている場合も、プレッシャーだろう。クリスマスが辛いという相談はたくさん聞いてきた。
 宗教心抜きにクリスマス行事に乗っかることには賛否両論あろうが、私には、身近な人、あるいは、名も知らぬ人、誰か他の人のことを思う愛の実践の日と捉えることができたら、それで十分に宗教的なんじゃないかな~と思える。クリスマスには、愛をもらうことより、誰かに愛をあげることを考えることができれば、ひょっとして、皆にしあわせが訪れないかな?プレゼントだけでなく、身近な人に暖かい言葉をかける、街で困っている人に声をかける、募金する、道行く人に笑顔を送る、一人で夜空の星に平和を祈るだけでも良いかもしれない。何でも良いから、他の誰かのことを思いやるのだ。
 暗いニュースが続く昨今、私も、クリスマスには、この美しい惑星の平和を祈って、しあわせな気分を味わえたらなと思っている。

(2003年12月)

2003.12.10 子ども/子育て
子どもに学ぶ~人とのつながり、そして平和

西 順子

 先日、子どもの友達の母親から、中学生の娘が学校で「喧嘩の仲裁にはいった」という話を小耳にはさんだ。えっ、何のこと?と、早速、家に帰って娘に聞いてみた。「学校で喧嘩をとめたって聞いたけど、何があったの?」と。

 娘から聞くところによると、教室で男子二人が殴りあいの喧嘩をしていたという。周りにいた子たちはそれを見ている状況だったらしい。喧嘩に気づいた娘は、咄嗟に「あんたら、何してんの~!」と二人の中に割って入ったと言う。同時に、他の男子も止めに入り、そこで喧嘩は終わり、あとは皆で教室を片付けたという。

 その話を聞いて、えっ、なんでそんなことができるの?と驚いた。娘に「怖くなかったん?」と聞いてみた。娘は「自分も殴られるかと思ったわ~」と、あっさり。それを聞いて、また驚く。自分が殴られると思っても、喧嘩をとめに入れるものなのか・・と。思うに、娘は頭で考えている暇もなく、咄嗟に体が動いたのだろうと。しかも、そのことを特別のことと思うのでもなく、ただ淡々と日常の出来事として話してくれたことにも驚く。そしてまた、喧嘩していた生徒はその後先生に怒られたと言うが、その生徒に対して「でも、友達やからな~」と、声をかけたと言う。それにもまた驚いた。

 私には出来そうにもないこと、それをいつの間にか子どもは当たり前のことように淡々とやってのけていた。喧嘩を止めたのは、勇気を出したのでも、正義感からでもなく、ただ、子どもにとって、クラスの人は「友達」、ただそれだけのことだったようである。

 この話を聞いて、子どもは親が思っている以上に親から離れて、自分と人、世界とのつながりをつくり、そのつながりの中でしっかり生きているんだなと思った。私が子どもに繰り返し伝えてきたこと、「自分を大切に、人も大切に」を、子どもは親の意図を超えて、しっかりと自分のものにして生きているんだなと思うと、子どもがまぶしい。勉強、将来のことなど、まだまだ心配なところはたくさんあるけれど、それでもきっと、周りの人と共に、この世界にコミットして、何とか生きていけるだろう、と思えた。

でも、世界の情勢は不安定である。日本のイラク派遣、今一番気になる問題である。人の命が、ないがしろにされることに、憤りを感じる。命より重いものはない。子どもたちの未来の平和と安全を守りたい。私に何ができるのか、子どものような率直な行動力が私にはあるのか・・と問われているような気がする。

(2003年12月)

2003.10.10 コミュニケーション
ほっと一息の瞬間

西 順子

 「否定的な瞬間の7倍は肯定的な瞬間があること」、それは長続きしている夫婦の共通点だという(『もっとうまく怒りたい!~怒りとスピリチュアリティの心理学』より)。初めてその言葉に出会った時、「ああ、そうか」と腑に落ちる気持ちになった。親密な関係が長続きするためには、何かすばらしいこと、大きなことをしなくてはならないのではなく、肯定的な「瞬間」をもつという、ちょっとした日々の努力とその積み重ねが大事なんだ・・と教えられた。それは否定的な瞬間をなくすことではない。否定的な瞬間があることを認めた上で、肯定的な瞬間を大事にしようとすることだ。

 それは、夫婦関係に限らないと思う。人との関係もそうだし、日々の暮らしもそうなのではないかなと。幸せとは漠然としたものではなく、肯定的な瞬間そのものにあるのかもしれない。否定的な瞬間の7倍は無理でも、せめてその倍は肯定的な瞬間を感じていたい。

月曜日から土曜日まで、私の毎日は、ほぼ研究所と家との往復。毎日、好きな仕事ができるのは幸せなことだと感謝している。でも、ついつい仕事と生活、時間に追われそうになる。だからこそ、セルフケアのためにも、ほっと一息できる肯定的な瞬間を大事したいと思っている。

 自転車に乗りながら、気持ちいい風を感じるとき・・
 ほっと一息のコーヒータイムのとき・・
 好きな音楽を聴いて心なごむとき・・
 家族とふざけて冗談をいいあうとき・・
 好きなサイトや雑誌を見て、目の保養をするとき・・
 ふらふらと好きな雑貨店に立ち寄るとき・・
 普段よりちょっと凝った料理をつくって、おいしかったとき・・
 テレビのワンシーンに思わず泣けてくるとき・・
 もちろん、大笑いするときも・・

瞬間ではなく、ほっとできる、まとまった時間もあればもちろん嬉しい。

 先日、私の誕生日に夫と一緒に半日ぶらぶらと出かけた。用事のためではなく、ぶらぶらと夫と二人で出かけるのは何年かぶりだった。ほっと一息の瞬間を人と共有できると、ほっとした気持ちも倍になるんだなと感じた。

 面接室でも、ほっと一息の瞬間を共有できたらいいなぁ・・。今これを書いていて、ふとそう思う。
そんな時間が好きだ。
これからも、そういう瞬間を大切にしていきたいと思う。

(2003年10月)

2003.09.12 トラウマ
トラウマ・キルト・プロジェクトの夢

村本邦子

 イギリス視察に先立って、アイルランド、スコットランドの友人を訪ねた。どちらも博士課程をしていた時の同級生でアメリカ人。ジニーは、現在、「フォト・セラピー」をやっていて、アイルランドの大学の先生と共同研究中、この8月から1年間、アイルランドに滞在している。「フォト・セラピー」とは、彼女が創ったグループ・セラピーの一種で、ジーナ・ケリーという女性写真家の写真(全部白黒で、少女と大人の女性のミステリアスな写真ばかり)を元にストーリー・テリングをするというものだ。一種の投影法でTATに似ているが、検査ではないので特別な分析をせず、アート、夢、箱庭のように、ストーリー・テリングをすること自体が治療的に働くという。ジニーは、もともと、ヒーリング・セレモニーをやっており、トーク・セラピーよりも、イメジネーションを使ったセラピーを好む。
 ダブリンでジニーと落ち合い、アバディーンのダンを訪ねる。ダンはインターナショナル・スクールの校長先生。ダンのパートナーであるキャロがパッチワークに凝っていて、自宅には素晴らしいキルトの数々があった。キルトとは、まさに芸術だということを思い知った。私自身、針仕事や編み物が好きで、かつてから興味あったが、いつも時間がないので小さなものしか作ったことがない。ところが、今回ばかりはすっかりキルティングの虜になってしまった。キャロの持っているキルトの本を見ているうちに、印象的なキルトの写真に眼がとまった。タイトルは「ブルー」。アメリカのキルト作家の作品で、解説を読むと、彼女は自分の夢からイマジネーションを得てキルト作品を作っていたが、あるトラウマティックな体験を機に、まったく夢を見れなくなってしまったのだという。再び夢が戻ってくることを祈って、この作品を作ったところ、本当に夢が戻ってきたのだそうだ。なるほど、そんなこともあるかもしれない。キルティングが心の傷を癒すことは容易に想像できる。チクチクと針仕事をすることは、瞑想的な意味を持っているし、さまざまな色や模様の布を組み合わせて表現すること自体が治療的に働くことだろう。トラウマの記憶は断片化し、それぞれの断片は、ひとつのものに統合されることを求めている。最後に大きな作品が出来上がることは、達成感や満足とつながるだろう。これを、トラウマを受けた女性たちの共同プロジェクトにしたらどうだろう。それぞれのキルトのピースをつなげてひとつの作品が出来ることは、女性同士のつながりや連帯を象徴するに違いない。
 話をしているうちに、ジニーも私も、このアイディアにすっかり夢中になってしまった。国境を越え、言葉の壁や文化の違いを越え、トラウマを受けた女性たちで大きな作品を作ったらどんなに素晴らしいことだろう!エイズのキルト・プロジェクトのように、作品自体が訴える力を持つことだろう。ジニーとは、このプロジェクトを近いうちに是非成功させようと誓い合って別れた。このプロジェクトに興味ある人、誰かいないかな?

(2003年9月)

2003.07.12 子ども/子育て
懇談の季節に・・・

村本邦子

 1学期の終わりは、子どもたちの懇談が相次ぐ。どちらかと言えば私は優等生タイプだったので、親は鼻が高かったろうと思うが(たぶん・・・)、自分の子たちが同じとは限らない。忘れ物が多い、提出物が出ていないなど学校側の苦情が多く、いつも親は平謝りという感がある。とくに、今回は、1ヶ月も前に渡したはずの海水パンツ代をやっと今日出したとか(本人は一時行方不明になってたと言うが、使い込んでいたのではないか!?)、お便りプリントを4月からかばんの中にためこんで、整理しなさいと怒ったら、「きれいになりました」と見せたはいいけど、すべて単純にゴミ箱にいっただけだったとか(注:せっかく毎月先生が発行してくださっていた学級通信を含む。本人はまったく悪気なし。この件では、こてんぱに叱られて帰ってきて本人もめげていたので聞き及んでいたが)。受験生というのに内申書はどうなることやら・・・。
 それでも、子どものことをよく理解し、本人の課題をきっぱりとわかりやすく伝えてくれたと思う。子どもたち2人を合わせると、すでに十数人の担任を経験してきたが、概して良い先生が多かった。これまで当たった先生方も、それぞれに、子どもたちの良いところを認め(いろいろあるけど、2人ともとっても良い子たちなのだ!)、乗り越えなければならない課題を示してもらってきた。困った教師の話を身近でも耳にすることはあるが、全般的には、まだまだ子どもたちのために頑張ってくれている先生方が多いのではないだろうか。今の時代、親世代が自分たちの経験により、すでに学校や先生に対して不信感が強いため、PとTがうまくいかないと聞く。私の場合は、自分が優等生タイプで先生に酷い目にあったことがないから、単純に受け入れているだけなのだろうか?
 学校に媚びるつもりはない。どうしてもおかしなことがあったら、異議申し立てをし、闘うつもりはある。必ず学校に行かなければならないとも思っていない。それでも、子どもたちに大きな責任を負っている親と教師が信頼関係を結び、地域で子どもを育てていく覚悟が必要なのではないかと思う。悲惨な事件があるたびに、親と教師が互いをバッシングするような中では、子どもたちが健全に育とうはずもない。中におかしな教師がいることは、仕事上よく知っているが、仕事で出会う先生方のほとんどは子どもたちのためにと一生懸命だ。心ある教員たちと一緒に、子どもたちの未来を考えていきたいと思う。

(2003年7月)

2003.05.10 いのち
自然の声に耳を傾ける

西 順子

最近、「自然」ということについて考えることが多い。一人で、「自然」についてあれこれと、いろんな思いを巡らしている。

「自然」について考えるようになったきっかけは何だろう、自然の力のすごさを実感するようになったのはいつだろう・・と振り返ってみると、思い出すのは三年前と一年前のアートセラピー体験である。三年前は大学院の授業で、一年前は芸術療法家によるワークショップであったが、いずれも自然の声に耳を傾け、自然との対話によって感じたままを絵に表現するというものであった。今から思えば、その時の自分のなかにある、言葉では言い表せない何かを表現することで、実感をもって「自己」を感じられた体験だったといえるだろうか。三年前は、桜の木と対話し、桜の花びらが散る様子に悲しみを感じながらも、大地からひこばえが育ちゆく姿に喜びを感じ、それを木の絵で表現した。それは、自分の人生のサイクルの一つが終わり、また新たなサイクルへと踏み出す、人生の節目にいる「私」を実感させてくれるものであった。新たなものとの出会いは、何かとの別れでもある。一年前は、京都鞍馬の山のなかでの体験だが、ふかふかした落ち葉の柔らかさとその下にある土の湿った暖かさ、そしてその大地のパワーを吸収している木を感じて、それを表現した。暖かいエネルギーを吸収している木のイメージによって、自分自身のなかにも暖かく、わき出るエネルギーを感じることができた。自然の声に耳を傾け、対話することで、自然は私たち人間を癒してくれるだけでなく、力を与えてくれるものであると実感した。自然とは、生命であり、エネルギーである。自然は私たちに生命のもつ力を教えてくれる。

また、自然は、私たち人間そのものでもあると、最近、実感している。カウンセラーとして仕事をするなかで、人間のもつ自然の力、生命の持つ力に感動する。自然のもつエネルギーが何らかの要因でせき止められる時、生体に何らかの弊害が生じても不思議ではない。それは症状であったり、何らかの病気であったりするかもしれない。しかし、それも自然だからこそ、である。人間のエネルギーがせき止められる時とは、ショックな出来事との遭遇であったり、ストレスが溜まりすぎていたり、「~あらねばならない」と自分を縛ったり、「自分は駄目だ」「自分が悪い」と自己否定しまうような時だったりするだろう。でも、生命のエネルギーが自然に、あるがままに流れるとき、生体はもっとも生命力を発揮する。そのためには、あるがままの流れ、自分のなかにある自然を信じ、大切にすることが必要だ。カウンセリングでは、自然な流れの回復のために、ちょっとしたお手伝いをしているにすぎない。もともと、自然がもつ力、生命がもつ力は誰もに備わっているのだから。

自然とは、循環そのものでもある。季節は巡る。木が育ち、木の葉はまた落ち葉となって、大地にもどっていく。そしてまた、その大地からエネルギーを吸収して木は育つ。自然の循環によって生態系が保たれる。人間という生体も、血液、体液、呼吸・・と循環によって生命が維持される。東洋医学では、エネルギーを「気」と呼ぶようだが、生体のなかでエネルギーも循環している。と同時に、人間と自然、人間と人間の間にも循環があるのではないだろうか。人は自然からエネルギー、パワーをもらうが、人からもエネルギーをもらうものである。私も、人からたくさんのエネルギーをもらっている。それは、生命がもつ力への感動、成長し育ちあうことの喜び・・であったりする。自然から人へ、そして人から人へ、人から自然へと、プラスのエネルギーや力が伝えられ、与えあって、よりよい循環ができれば、自然も人もあるがまま生きやすい生態系になるのではないか・・と夢想する。

あるがまま、自然の声に耳を傾けることを大切にしたいと思う今日この頃である。

(2003年5月)

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