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トピックス by村本邦子

2017.01.20
「自主避難者」のこと

 先日、原発事故で避難指示区域以外から福島県外に避難した「自主避難者」と支援者たちが、日本外国特派員協会で記者会見し、次々とネット・ニュースが流れてきた。http://www.huffingtonpost.jp/2017/01/17/fukushima-voluntary-evacuees_n_14216350.html など。「自主避難者」の数を正確に把握することはできないが、2015年10月で約1万3000世帯、2万5000人にのぼるとされている。福島県からの避難者は、発生直後、災害救助法の適用となったため、避難指示区域内外を問わず、仮設住宅が無償提供されてきたが、福島県はこれを2017年3月末で打ち切るとした。これは大変なことだ。一方的な被害であるにも関わらず、賠償もなく、二重生活を強いられ、そのうえようやく確保してきた住居までもが奪われようとしている。福島をのぞく46都道府県のうち9道府県が、打ち切り後も住宅の無償提供や家賃などの補助策を実施すると発表しているが、避難先によって支援に格差が生まれることになる。

 吉田千亜さんの『ルポ母子避難~消されゆく原発事故被害者』(岩波新書)も読んだ。そもそも「自主避難」という言葉自体がおかしい。政府が避難指示を出していない避難はあくまでも自主的なものだから、自己責任であるという論理になってしまうからだ。実際にそんな言葉を投げかける人々がいるようだ。本来、自分の家から好き好んで避難したい人はいないはずだ。危険を感じるから、さまざまな苦難を抱えながらも、避難せざるを得ないのだ。いくら安全だと言われようが、事故発生以後の経過を考えれば、自分で判断するしかない。そもそも、安全の基準値は事故前の年間1ミリシーベルトから20倍にもなっている。残ることを決めた人々だって、苦渋の選択である。

 立命館大学でやっている「東日本・家族応援プロジェクト」のまとめとして、毎年、年度末にシンポジウムを開催している。今年は、2月26日(日)を予定しているが、いつもの院生による東北4県についての報告に加え、福島のジャーナリスト藍原寛子さんを招いて、「自主避難者の今」として講演してもらうことにした。藍原さんは、自主避難者たちのことを、「『棄民』から『起民』へ」と言う。国から見捨てられた存在から、立ち上がり、自分たちのことは自分で決めるという選択をした人たちだという意味だ。だとすれば、事故以前と変わない生活を続けている私たちも、立ち上がって、自分たちのことを自分で決めていくという流れに連なる必要があるのではないか。そんな問題提起ができたらと思う。是非、ご参加ください。http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsshs/tirasi/20170226.pdf

2016.08.17
Girls Unlimited. 女の子の力は無限大!

   縁あって台湾の女性支援機関を訪問している。先日は財団法人「勵馨社會福利事業基金會」(英語名は "The Garden of Hope Foundation")というNGOで働く台中の支援者たちと交流させてもらった。性暴力の被害者や望まぬ妊娠をした女性のためのシェルターとカウンセリングサービス、面会交流支援(スーパーバイズ付き)、DV被害者の自立支援準備期間の職場であるリサイクルショップなど、知恵と工夫に富んだきめ細かなサービスが実現されていて感心した。

 そのなかでも、新しい発想だと思ったのが、1年前に立ち上がったばかりの「台中女児館」。台中市政府社会局の委託事業で、女の子たちのエンパワメントを支援する施設になっている。従来、女性は軽んじられてきたが、「女の子たちへの投資は、国の最大の投資になる」という考え方のもと、水曜から日曜の12時から21時までオープンし、女の子たちの自由な活動を支援する。とってもおしゃれな体裁のビルになっていて、展示室、マルチメディアルーム、グループカウンセリングルーム、コンピュータールーム、会議室、キッチン、ダンススタジオ、ジムなどさまざまな目的に使える部屋があり、予約すると無料で使用できる。毎日、盛況で、40人から100人が来場しているという。

 おもしろいのが、「女の子の夢をかなえるプロジェクト」。女の子のグループが自分たちの夢とその実現をプレゼンして、選ばれたグループには賞金が出る。シェルターの女の子たち(16歳から18歳まで)も応募して、旅を企画実現したのだそうだ。シェルターを訪れた際、彼女たちのプレゼンを聴かせてもらう機会にも恵まれたが、その冒険と挑戦には感動させられた。詳しい背景は知らないものの、おそらくは運命に翻弄されてきた女の子たちにとって、自分たちの夢を考え、実現に向けて具体的な計画を立て、それを社会に支援してもらいながら実現させ、成果を手にするというプロセスは、文字通りエンパワメントに違いない。

 日本だとすぐに「男の子差別だ」なんて声が上がりそうだが、"Ladies First, but for Everyone!" で、女の子が3分の2以上であれば男の子もOKだそうである。LGBTのための「ジェンダーサロン」も定例で開催されている。そして、年齢制限は設けられていないので、私だってGirlを名乗ることができるのだ。

 あちこちに、"Girls Unlimited."(女の子の力は無限大!) というポスターが貼られていて、「そうだそうだ!」と嬉しくなった。街のサイズが手頃というのもあるのだろうか、全体的にアットホームで、そこに一緒にいるだけで温かい気持ちになったし、私自身がエンパワーされた旅だった。

 

2016.06.11
歴史は私たちの足元に層を成してある~ナポリ・ソッテラネアから

 ナポリ旧市街は、歴史地区として世界遺産になっているが、その下には、古代地下都市(ナポリ・ソッテラネア)が広がっている。歴史は5千年前に遡る。古代ギリシャ人が植民都市として、碁盤の目のような都市計画のもと「ネアポリス(新しい都市という意味)」を建設した。ギリシャ人たちは、地下の石(Tufoという凝灰石)を切り出して、地上に引き上げ、城壁や劇場を築いた。空洞は、死者の埋葬や倉庫として使われた。古代ローマの支配下に入ると、ローマ人たちは、この空洞を利用して、巨大な地下水路と貯水槽を建設。ローマ法のもとで整備・拡大され、市民生活を支える貴重な水源となっていった。ところが、19世紀末から20世紀初めにかけ、コレラが大流行し、閉鎖される。第二次世界大戦中には4000人を収容する防空壕として活用され、戦後はごみ処理場として使われていたらしい。

  地上には所狭しと家が建ち並び、そんな地下世界があることなど思いも及ばない。ナポリの人たちは、その存在を封印し忘れかけていたが、1979年、地下で火災が起こった。消防士たちは住民を避難させ、数日間、地下への入り口を探したが見つからず、ある人が、子どもの頃、地下へ続く階段を収納した壁を記憶していたことから、ようやく入口が発見され、消火活動を終えることができた。この時の証言者が後にNPOを立ち上げ、ボランティアの手によって発掘と研究が進められ、今では観光客にも紹介されるようになったが、まだ謎は十分に解明されていない。

 入り口は、サン・パオロ・マッジョーレ教会の脇にある。長い階段を下り、地下40メートルほどのところから狭い迷路のような地下通路の一部を見て回ることができる。貯水槽に通じる通路はほぼ肩幅で、ろうそくの火を頼りに進んでいく。迷い込めば二度と戻れないかもしれない複雑な迷路となっているため、ツアー以外で見学することはできない。さらに、いったん地上に出て、狭い路地を入った民家へ入り、ベッドを蹴飛ばすと、秘密の通路と階段が隠れていて、下りていくと、今度はローマ劇場の遺跡の一角に行きつく。度重なる地震で崩れ、使われなくなって、そのうち埋もれていったものだ。数年前まで、この家には人が住んでいて、足元にそんな遺跡があることを知らなかったそうだ。

 今なお、たくさんの人々が暮らしているため、地下世界の全体像を見ることはできず、想像するのも困難だが、ローマ劇場の一部を地上の建物と建物のあいだに見ることができるし、グーグル・アースで見ると、ネアポリスに添って家々が立ち並んでいることがうっすらとわかるようになっている。まるでSF冒険映画のようだが、自分たちの足元に、長い人類の歴史が積み重なっているのだということを象徴的に、いやむしろ文字通り示す事実に強い衝撃を受ける。そして、その事実に目を向けることをしなければ、足元は脆い空洞が巣くっているだけかもしれないのだ。そして、歴史は一層ではない。

 昨年、私のなかで一番ヒットした言葉は、白永端さん(韓国・延世大学歴史学教授)の「核心現場」だった。東アジアにおいて、帝国主義、植民地主義、冷戦が重なりあって及ぼした影響の下で、空間的に大きく分裂され、葛藤が凝縮された「歴史の交差点」を指す。それは地理的範囲にありながらも、その範囲を越え「自らの脚で経っている大地に刻まれた傷と記憶を他人と共に共感/共苦できる場」を拓こうとすること、場を占拠する立場のパラダイムではなく、場を開き現す「現場」のパラダイムを要請することである。自分の足元にある歴史の層に眼を向けること、そしてそこから世界へと眼を転じること、そんな作業を始めたところである。

[関連記事]
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2016.06.10 総目次
総目次

トピックスby村本邦子


2016年06月11日  歴史は私たちの足元に層を成してある~ナポリ・ソッテラネアから
2016年04月15日  古代ハワイアンの教えに学ぶ
2016年01月23日  米軍基地のこと

2015年
2015年11月17日  命をつなぐ
2015年09月26日  土のこと
2015年07月17日  団士郎家族漫画展
2015年05月14日  「聴く」ことから始まる抵抗
2015年04月19日  鋼鉄のシャッター
2015年01月31日  マイケル・ホワイト~ナラティブ・ポリティックス

2014年
2014年12月29日  吉里吉里国
2014年10月13日  
避難者たちのこと
2014年09月10日  お話の力
2014年08月24日  学校のなかのジェンダー
2014年08月18日  『閉じられた履歴書』
2014年06月24日  遺言~原発さえなければ 福島の3年間、消せない記憶の物語
2014年06月22日  フェミニスト・アクション・リサーチ
2014年05月10日  最後の母系制社会モソ
2014年04月20日  「わたし」に立ち戻って

今月のトピックby村本邦子

2014年03月  命の抵抗~福島「希望の牧場」のこと
2014年02月  「からのゆりかご」と児童移民
2014年01月   心理療法は政治的である。でなければ、心理療法ではない

2013年
2013年12月  ローカリティ(地域性)再考
2013年11月  クレイジー・ライク・アメリカ
2013年10月  台湾におけるアートセラピー
2013年09月  死者たちの声に耳を澄ます
2013年08月  テレジンを訪れて
2013年07月  女と原発
2013年06月  女性ホームレスのこと
2013年05月  「ドラムカフェ」とコミュニティの心理社会的支援
2013年04月  ナチになっていく〜ナラティブ・ネットワーク・モデル
2013年03月  東日本大震災から二年が経ち・・・
2013年02月  物語が立ち上がるとき
2013年01月  アートの力

2012年
2012年12月  避難者たちのこと
2012年11月  心理療法は政治的か?
2012年10月  「人間彫刻/家族造形法」の魅力
2012年09月  大学生のジェンダー意識と教育
2012年08月  アイヌモシリ・北海道〜脱植民地化のための平和学
2012年07月  家族の歴史を辿って
2012年06月24日  「慰霊の日」に沖縄を訪れて
2012年05月  「私」のなかの他者・社会・歴史と出会う〜HWHのトレーニングを受けて
2012年04月  湧水から平和の大河へ〜国際シンポジウム「人間科学と平和教育」を開催し
2012年03月  ドイツにおける子どもの面会交流支援を視察して
2012年02月  世界の結婚と家族
2012年01月  イスラムの模様

2011年
2011年12月  コミュニティのレジリエンスを尊重する
2011年11月  物語る力〜遠野の地を訪れて
2011年10月  「南京を思い起こす2011〜戦争のトラウマと和解修復の試み」を終えて
2011年09月  東日本・家族応援プロジェクトを立ち上げて
2011年08月  アートセラピーと文化
2011年07月  ロジャーズの平和ワークショップと「歴史の傷を癒す」
2011年06月  復興の物語を創る
2011年05月  原発事故とトラウマ
2011年04月  被害者からサバイバーへ
2011年03月  災害の襲うとき・・・
2011年02月  街頭紙芝居と「子ども溜まり」
2011年01月  アメリカにおける「赤ちゃん避難所法」

2010年
2010年12月  「女性国際戦犯法廷」10年を迎えて
2010年11月  死を準備する
2010年10月  多様性のなかの歴史構築
2010年09月  戦争の痕跡を辿る北海道の旅
2010年08月  エジプトの神々
2010年07月  傷ついた男たち〜「ラースとその彼女」から
2010年06月  撫順の奇跡〜人道主義に基づく加害兵の修復モデル
2010年05月  カップルの関係と社会的ネットワーク
2010年04月  リチャード・ガードナーと子どもの視点
2010年03月  「ナヌムの家」のこと
2010年02月  男たちの化粧
2010年01月  売春防止法と婦人相談員

2009年
2009年12月  愛着からソーシャル・ネットワークへ
2009年11月  トラウマからの回復とレジリエンス、そしてMTRR/MTRR-I
2009年10月  南京セミナーを終えて
2009年09月  プライバシー
2009年08月  村上春樹と戦争の痕跡その2
2009年07月  村上春樹と戦争の痕跡
2009年06月  ドイツの和解に学ぶ旅
2009年05月  アメリカにおけるDVの動向
2009年04月  タラソセラピー(海洋療法)を体験して
2009年03月  Healing the Wounds of History(歴史の傷を癒す)
2009年02月  職業を通じた社会階層の再生産
2009年01月  子どもの巣立ちと母親のアイデンティティ変容

2008年
2008年12月  ライフデザイン
2008年11月  対人援助学のすすめ
2008年10月  体の叡智
2008年09月  ドイツと日本〜過去との向き合い方
2008年08月  ドラマセラピー
2008年07月  市民による和解をめざして
2008年06月  記号としての父親!?
2008年05月  今、親に聞いておくべきこと
2008年04月  フラ&チャンティング
2008年03月  ラーヘンスブリュック〜女性と子どもの強制収容所
2008年02月  家族万華鏡
2008年01月  中国のシンドラー、ジョン・ラーベ

2007年
2007年12月  コミュニティ通訳のこと
2007年11月  南京を想い起こす
2007年10月  「こころとからだ」と代替医療
2007年09月  秘密
2007年08月  バリの火葬ガベン
2007年07月  特別支援教育
2007年06月  タッピング・タッチ
2007年05月  平和のための教育
2007年04月  体のモニタリング
2007年03月  場面緘黙
2007年02月  中年男性の人間模様
2007年01月  感情に言葉を与える

2006年
2006年12月  情報は力なり
2006年11月  失われた絆、つながりを求めて〜ナイト・シャマランの世界
2006年10月  言葉とコミュニケーション
2006年09月  韓国の「産後養生院」を視察して
2006年08月  魔女ランダのこと

2016.04.15
古代ハワイアンの教えに学ぶ

 どの子どもも、生まれた時から、完全な光の器を持っています。光の方を向けば、光はさらに強くなり、何でもできるようになります。さめと一緒に泳いだり、鳥と一緒に飛んだり、すべてを知り理解できるようになるでしょう。でも、他の人をうらやましがったり、妬んだりすると、器のなかに石が入ってきます。そうすると、その分だけ光は消え、弱くなってしまいます。光と石は一緒に入れないのです。光の器に石を入れ続けると、光は消え、その人は石になってしまうでしょう。石は成長せず、動きません。もしも、石でいることが嫌になったら、いつでも器をひっくり返して石を捨ててしまえばいいのです。光は戻り、再び輝き始めるでしょう。 

 これは、モロカイ島に口頭で伝承されてきた古代ハワイアンの教えのひとつで(Willis & Lee, 1986)、ハワイアンの子どもたちや若者を支援する機関で紹介されている。子どもたちに、ココナッツの殻で作った小さな器と蝋燭を渡し、羨望や嫉妬を感じたら石を入れ、石が一杯になって嫌になったら、ひっくり返して石を捨てようと言う。

 教育者・支援者たちには、石でいっぱいの器を抱えた子どもを想像してみるように呼びかける。ひとつひとつの石はその子どもの経験の一部であり、被虐待や非行や薬物から来ているかもしれない。そんな器を抱えているのではどんなに重いことか、それを隠すのはどんなに難しいことか。知らない大人から、それぞれの石を勝手に取り出され、非難されたり、説明を求められたりするのはどんな気持ちがするだろう。本当は光こそがその子どもであり、器を置き、心準備ができたものから石を取り出し、捨てていけるよう時間とサポートを与えることが重要だという。

 このお話が採取されたモロカイ島は、ハワイ先住民の人口が多く、ハワイアンの伝統的文化が今なお多く残っている島で、2月、モロカイの人々のコミュニティのなかで1週間過ごすという幸運に恵まれた。初めて知り合った人々からたくさんのアロハ(今というこの瞬間を共にし、分かち合う喜びを伝えつながること)を頂いた。どうしてこんなに人々は寛大で無欲なのだろうと感嘆したが、元々、古代ハワイアンには所有という概念がなかったのだ。神々から与えられた自然の恵みを分かち合えることに感謝しながら、土地のケアをする。

 それぞれが生まれ持ってきた光が輝きこの世が照らされるならば、どんなに暖かく優しい気持ちで生きることができるだろう。実際には、そんな寛容さに付け込まれ、ハワイは西洋植民地主義に乗っ取られてしまった。今の世界は石ころだらけだ。ハワイ王朝転覆から100年以上過ぎてしまった現在、どんな形で文化を取り戻していけるのか、彼らは苦闘している。すべてはつながっている。私たち自身も、所有と共に境界線(バウンダリー)という概念を乗り越えていかなければと思う。まずは、経済効率優先の価値観を捨てることだろう。すべてはつながっているから、人種的にも多様に広がったハワイアンたちが、どんな形で前に進んでいくのか応援しながら、私たちも学び歩んでいきたい。

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2016.01.23
米軍基地のこと

 辺野古では緊迫した状態が続いているようだ。昨年末、沖縄で平和学会があり、地元の方に辺野古を案内してもらった。日本には米軍基地が133ヶ所あり、うち33ヶ所が沖縄にある。テント村にはたくさんの人々が集まり、交互にマイクを持ってスピーチしていた。大きな声で空虚なスローガンを掲げるものではなく、地に足のついた発言ばかりで、それぞれに胸に響いた。

 福島では4年も生まれ育った故郷に帰れないと言うが、自分は基地に故郷を奪われ、70年帰れないままだ。・・・本土の人たちは「平和だ、平和だ」と言っているが、沖縄にはいまだ平和は訪れていない。・・・沖縄が占領地だということは日本が占領されているということなのだが。・・・子ども時代、父親が基地の作業夫として働いていたため、軍のお蔭で生活していると思わされていた。返還後、軍がなくてもやっていけることがわかった。・・・子どもの頃、軍機墜落事故の火消しを手伝った。友達の親が死んだ。中学時代、少女が凌辱され、ごみ焼却場に捨てられた事件が近所であった。・・・

 沖縄戦で4分1もが殺されたという沖縄の人々にとって、切り捨てられ、道具として利用されてきた戦中・戦後はそのまま現在とつながっている。必ずしも知らなかったわけではない。実は沖縄に親戚がいて、中学生の頃、本土復帰記念に開催された海洋博覧会に行き、あちこち案内してもらった記憶がある。コカコーラやバリャリスオレンジ、ステーキとともに、軍のフェンス越しに見た戦車や兵士の姿は、そこがアメリカに占領された土地であることを強烈に印象づけていた。そして、そのもっと前には薩摩藩による搾取と支配があったのだ。

 平和学会のシンポジウムで、韓国の白永端氏がが、沖縄は東アジア分断構造解体の鍵となる契機になると言った。帝国・植民地主義、そして冷戦による重畳の影響の下、空間的に大きく分断された東アジアの葛藤が凝縮された場として発見することで、沖縄を「世界性」のなかで見、沖縄に限定されない場所に「沖縄」が表れるとする。

 日中の戦争トラウマの問題に関わり、東日本大震災を経由して、日米の関係を考えないわけにはいかないことを痛感している。三沢基地からも普天間からも、アフガンやイラクにアメリカ軍は出撃を繰り返してきたことを、どれだけの人が認識しているだろう。ハワイでも同様のことが起きている。真珠湾にあるミズーリ記念館では、今、知覧特攻隊の展示をやっているのだという。お正月には、知覧を訪れた。次は真珠湾だ。ひとつの地点から重層化した支配と抑圧の構造を見る視点を持つこと、特定の地点に「世界性」を見出すこと、今年の課題でもある。

2015.11.17
命をつなぐ

 このところ、ナチス・ドイツの占領下にあったヴィシー政権時代と戦後のフランスについて調べていた。直接的には、11月2日、3日とフランスの精神科医ボリス・シリュルニクを招くシンポジウムが予定されていたためである。彼はトラウマとレジリエンス研究の権威であり、ユダヤ人検挙によって両親を失い、自身も6歳の時に逮捕され、強制収容所行の寸前で逃亡して生き延びたという経験を70歳代になって語り始めた人だ。パリのショアー記念館を訪れたことはあったが、フランスにおけるホロコーストについて十分な知識がなく、ボリスが70代になるまで語れなかったという空気を知りたかった。

 ボリスの体験は、『憎むのでもなく、許すのでもなく~ユダヤ人一斉検挙の夜』(ボリス・シリュルニク著、林昌宏訳、吉田書店)として出版されている。本題は、"Sauve-toi, la vie t'appelle"(自分を救え、命があなたを呼んでいる)。1942年7月16日、1万3千人のユダヤ人が検挙され強制収容所に送られたヴェル・ディヴ事件を扱った「黄色い星の子供たち」という映画とそのまま重なるのだが、実話に基づいたこの映画にも、検挙後、脱走して生き延びた子どもたちが登場する。11歳のジョーは、家族と引き離される時、「逃げて。生き延びるのよ。約束して!」と叫ぶ母親に「約束する」と誓い、おそらくはそれゆえに強靭な精神力で生き延びる。自分が子どもだったら、一人だけ生き延びることができるだろうかと疑う一方で、自分が母親の立場なら、たしかに子どもだけは生き延びて欲しいと願うことだろうなどと考えていた。

 話は変わるが、その後、東北のプロジェクトで宮古を訪れ、田老の「学ぶ防災」に参加した。昨年も参加したのだが、一年の変化と不変化を感じると同時に、おそらくは時間経過のなかでようやく聴くことができるようになったガイドさんの被災体験を聴いた。震災後、「津波てんでんこ」が話題になった。「津波が来たら取るもの取りあえず、各自てんでんばらばらに高台へ逃げろ。自分の命はそれぞれ自分で守ること」という意味なのだが、ガイドさんも、「子孫を絶やさぬように、家族の絆を信じて、自分の命を守れ」というこの言葉を思い出して逃げたそうだ。そうなのだ。命をつなぐことこそが大切なのだ。これまで、「合理的だけれど厳しいな・・・」と感じるところがあったが、生き抜くことは厳しいことなのだと改めて背筋が伸びる思いがした。生き延びた人々を励ます言葉でもあるのだろう。ガイドさんは、次の世代の命を守る抜くために、体を張って仕事を続けていらっしゃる。

 「自分を救え、命があなたを呼んでいる」とは、そういうことなのだろう。単に個としての自分が生き延びることではなく、個を越えた命を守り抜くことなのだ。シラク大統領が初めてフランス政府の責任を認め、「守るべき国民を敵に引き渡した」と謝罪したのは、1995年だった。ヴェル・ディヴやドランシー収容所の跡地を訪れ、記憶と忘却の政治を感じる一方、フランスにとって、日本の敗戦は戦争の終わりを告げる喜ばしい日だったことをも知った。カンの平和記念館前には、解放70年の記念として、水兵が看護婦にキスしている大きな人形が置かれており、これは、米国タイムズスクエアで撮った「無条件降伏」というタイトルの写真をモデルにしたものだそうだ。錯綜する現実のなかで命の呼び声を聴き取ることはなんて難しいことなのだろう。溜息をついていたところに飛び込んできたのは、パリでのテロのニュースだった。

2015.09.26
土のこと

 9月11日の豪雨で、除染の廃棄物を詰めた大型袋が、福島県飯舘村などの河川に流出し、環境省は24日、流出総数は439袋、41袋が未回収で、うち人が近づけない場所で見つかった36袋については「回収は困難」と発表した(毎日新聞 2015年09月24日)。この豪雨の時期、特別警戒下にあった宮城にいて、飯館村のフレコンバッグ(除染した土を入れる袋)が流れ出したニュースを知り、いったいどうなるのかと心配していたところ、次に飛び込んできたニュースは、回収した398袋のうち239袋で中身が流出、16袋が破損していたというものだった。環境省によれば、「草木類が大多数で、事故後4年半が経過しているため、放射線量は低いとみられる。環境への影響は少ないと考えている」とのことだが、それにしてもひどい話だ。

 この夏、飯館村を訪れた。国道114号線を下り、川俣を通って飯館村へ向かうと、あちこちの田んぼに緑の丘があるように見えるが、近づいてみると、黒い袋が高く積み上げられ、その上に緑色のシートをかぶせてあるという光景を多く眼にした。昨年は、福島の除染プラザにも行ったが、基本的に除染作業はとても原始的な方法のように思える。土で言えば、土を剥いで袋に入れ、「仮置き場」に積んでカバーを被せるというもの。

 前から気になっていた殺処分に抵抗して旧警戒区域内で牧場を続けている細川牧場と希望の牧場を訪問した。講談社ノンフィクション賞を取った『牛と土~福島、3.11その後』(眞並恭介、集英社)には、こんなことが書かれている。「生物の生育をささえる土壌ができるまでには、膨大な時間がかかる。1グラムの土の中には、微生物が1億から10億も存在するといわれる。」(p.94) 牛は大地そのもので、「牛が排泄した糞はやがて土になり、植物を育て、その植物がまた牛を育み育てるからであり、牛にとっての命は自然の循環のなかにあるのだ。また、それは、牛が死んで土に還る、つまり、自らを土に返すという生と死の循環のなかにあるのだ。また、それは、牛が死んで土に還る、つまり、自らを土に返すという生と死の循環を意味する。」(p.253)

 水が雨となり、川を通って山から海へと流れだし、雲となって雨になる・・・という循環については、昔、学校で習ったように思うが、土にも循環があることを知って、自然の偉大さに感動する。そう言えば、前に「汽水域」のことを書いたが(http://www.f-lifecycle.com/info/2014/12/000357.php)、それは水と土の話だった。南三陸から石巻、多賀城と沿岸部を車で走ると、あちこちで復興のためのかさ上げ工事が行われていた。東日本大震災以後、いったいどのくらいの土がどこからどこへ移動しているのだろう?「津波で海岸線がすっかり変わってしまった」との声を耳にしたものだが、その後の地形も大きく変わってしまったことだろう。

 膨大な土が移動させられていることは、自然の命の循環にどんな影響を及ぼしていくのだろうかとため息をつくしかない。

2015.07.17
団士郎家族漫画展

    大学の方に立ち上げている「東日本・家族応援プロジエクト」は、2011年の東日本大震災を受け、十年にわたって毎年、東北4県を巡業するというものである。同僚である団士郎さんの「木陰の物語」漫画展を中心に、現地の家族や支援者向けの週末プログラムをセットしている。私にとっては、この漫画展がコミュニティ介入のツールであり、舞台設定なのだが、5年目を迎え、漫画自体の影響がジワジワと感じられるようになった。

    今回、JR西日本あんしん社会財団の助成を受けられることになり、「東日本・家族応援プロジェクト」スピンオフ企画として、京阪三条駅で2015627日~75日、「未来のための思い出 ココロかさなるプロジェクト:団士郎家族漫画展」を実施した。東北を巡っている漫画展を京都でやり、漫画展を見てくれた東北の方々の声を紹介することで、すっかり報じられることが少なくなった震災のことを思い起こしてもらうとともに、災害は決して人事ではないこと、他者の痛みに想いを寄せることを通じて、自分の痛みのさなかにも他者の想いに思いを馳せることができるようになることが、心の防災につながるのではないかと思ったのである。

   研究助成を頂いたので、今回はスタッフがインタビューをして、この漫画が見る人の心に何を呼び起こしているのか、漫画展の意味を明らかにする研究をしてみることにした。20人もの院生や卒業生たちがスタッフとして働いてくれ、たくさんの方々のご協力を得て、250を越える声が集まった。とても豊かな声である。また、つながりに気づくことから一歩進め、困難を乗り越える力に関する知恵を集めようと、レジリエンスを特定する質問項目を加えてみたのだが、これにもたくさんの興味深い反応を頂いた。これから分析に入っていくが、どんな結果が出るか楽しみである。

   漫画展駅会場は終了したが、Web会場は2016530日までやっている。Web会場では、東北の方々の声を読むことができるし、みなさんの書き込みを見ることもできる。是非、訪れて、声を書き込んで頂けると嬉しい。

未来のための思い出:ココロかさなるプロジェクトWeb会場⇒こちら

2015.05.14
「聴く」ことから始まる抵抗

 組織的な変更を経て1年跳んでしまったが、『女性ライフサイクル研究24号:抵抗とレジリエンス~ぶれることなくしなやかに』が刊行された。そこに「心理療法家は抵抗者たりえるか?」を書いたのだが、もしも答えがYESだとすれば、それは、「聴く」ことを通じてでしかあり得ないというのが今のところの私の結論である。そんな時に、勧められて鷲田清一さんの『「聴く」ことの力~臨床哲学試論』を読み、ますますその思いを強くした。 

 鷲田さんによれば、語りは全身的な行為であり、「テクスト」(語られた内容)だけでなく、たとえば、ことばが胸に突き刺さる、ことばに棘がある、ことばが冷たい、荒い、重い・・・等々によって示させる「テクスチュア」(言葉のきめ)がある。誰かの声にはその人に特有なきめがあり、繰り返しそれに触れているうちに、その人の存在はほとんど<声>に還元されていると言っていいほどになる。「語る言葉」に意味の伝達と自己表出という面があるとすれば、「聞かれる言葉」にも表出がある。

  すなわち、聴く側は、他者を受け入れ(歓待)、自らをヴァルネラブル(傷つきやすい)な位置に据えなければならない。他者の経験をまるで我がことのようのように受容し理解すること(=他者の同化)と同時に、自分が自己自身にとってよそよそしいものに転化すること(=自己の他化)が起きる。「われわれが絶対的個体としての密度を手に入れることを妨げるある内的な脆弱さ」(メルロ=ポンティ)は、しばしば自己防衛のために過剰なまでに他者を排除する傾向を煽るのであるが、この脆弱さこそが逆に他者を<客>として呼び求める。<臨床>とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかで自分もまた変えられるような経験の場面と規定することができる。<歓待>とは、世界を自分の方から視る、自分の方へ集極させる、そういう感受性への抵抗としてあるのだという。

  アメリカ人が客を迎え入れる時、自分のベッドを客に差し出し、自分はソファで寝るよう子どもに教えるのは、<歓待>のレッスンなのだろう。カウンセリングにおいて、全身全霊をアンテナに届いてくる<声>に自分を晒し、わたしの中心にある玉座を差し出し相手を迎え入れるというイメージを持つことがしばしばあったが、このことを言っているのだと思う。いつもうまくやれるかと言えば、必ずしもそうでもなく、うまくやれているという瞬間はいともたやすく逃げていく。それは膨大なエネルギーを要する努力目標のようなものでもあるが、心理療法における「聴く」ことの本質を表していると思う。もちろん、「聴く」ことは心理療法においてだけあるわけではないし、心理療法を構成するものは「聴く」ことだけではない。それに、心理療法家が常に「聴く」ことができるかと問われれば、必ずしもそうではないだろう。理論や技法は、それを妨げる。それでも、「聴く」ことなしに心理療法は成立しない。

  実のところ、カウンセリングを通じて出会ってきた人々は、わたしとの距離において、自分を中心においた同心円上のどこに位置づけられるのか、長い間、疑問に思ってきた。職業として捉えるならば、中心部に近いプライベートな関係性の外側、すなわち周辺部分に位置づけられるはずなのだが、実際に起こっていることは、時によってはプライベートな関係性よりももっと内側、わたし自身の奥深いところでわたしに影響を与え続けてきたからだ。

 年報にも紹介したが、小田博志さんは、具体的な出会いと対話を通してステレオタイプな他者表象を解体し、具体的な顔と名前がある存在として自分と異なる他者を迎え入れることを平和の実践としている。<歓待>が世界を自分に集極させる感受性への抵抗としてあるのだとすれば、まさしくこれは全体主義への抵抗と言えるだろう。問題は、これをどのように拡げていけるかだ。

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