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トピックス by村本邦子

2010.02.15
2010年2月 男たちの化粧

今年もおもしろい修士論文がたくさんできた。チアリーダーやキャバクラなど、ジェンダーを考えさせられるものが複数あったが、そのなかから、今月は、男の化粧について紹介したい。

最近、身体や顔への手入れを日常的に行う男性が増え、男性のジェンダー役割が曖昧になり女性化してきていると考えられているらしいが、この学生は、むしろ、男の化粧行動の中核に「男らしさ」へのこだわりがあるのだという結果を出した。男たちは、「経験を積んだ一人前の男性と見られたい」「周りに振り回されない真の強さと頼もしさを持った男性に見られたい」など、「男性として好感を得られる」理想イメージを持ち、それに従った化粧行動を取る。とは言え、「男は見た目が大切」という考えと、「男は中身で勝負」という考えが共存しているため、内心、外見を気にしながらも、気にしていないそぶりをとる。

目指すのは、あくまで「周囲を不快にさせない清潔感とナチュラル感」。髪、眉、髭の手入れはOKであるが、やりすぎは嫌悪される。外見を気にしすぎる男は、「女々しく、オカマっぽく、気持ち悪い」と考えられ、男同士の関係から排除される怖れがある。たとえば、毛むくじゃらが気になる箇所の無駄毛処理は、完全にそり落としてしまわず、毛抜き、隙カミソリ、隙鋏などで毛の量を減らすに留める。ただし、外見を気にしていることを知られることは不名誉なことであるため、男同士での情報交換は避けられ、友達の家に行った時にこっそり使っているものをチェックしたり、家族や彼女などからさりげなく情報を入手したりする。

結局のところ、男たちが目指している理想イメージは、女の視線を意識したものである。彼女は、男の化粧に関する女の意識も調査しているのだが、どうやら、女たちは、実に身勝手に「男に許容できる化粧」と「許容できない化粧」を区別している。許容できるのは、ヘアーワックス、髭の手入れ、眉毛の手入れ、毛染めなど、毛に関するもの。化粧水、リップなど、身だしなみや肌の健康維持のために行うものも許される。許容できないのは、パック、エステ、美容液、色を使ったメーキャップやファンデーション。美を追求するのは良くないらしい。とくに、この傾向は身近な男性に適用され、自分と関係のない男性が化粧するのはいいが、父親、男兄弟、恋人だと抵抗が強くなる。

その理由として、「そこまで見た目を気にしてほしくない」「気持ち悪い」「外見ではなく、他のことに力を注ぐべき」など、まったく男性のなかにある制限と同じものが挙げられるが、その他に特記すべきものとして、「化粧する男性は女性の外見にも煩そう」「自分が化粧していないだけに、何か言われそうで嫌」などというものがある。美を装う化粧は女性の領域に属するものと捉え、その領域に男性が入り込んでくることを拒否しており、この研究をした学生は、これは女性による美の独占であると考える。女たちは、男に化粧のことをとやかく言われたくないが、男にはとやかく言いたいようだ。実に身勝手な話だ。かく言う私も、身近な男たちが、美を追求した化粧を始めたら、内心、困惑することだろう。おしゃれな男性は好きだが、スカートをはかれると嫌かもしれない。まっ、口出しはしないよう我慢すると思うけど。

男たちも大変だ。装うことに関して、男たちはより不自由な状態に置かれており、自由を阻止しているのは、合わせ鏡のように男女が互いに支え合っているジェンダー意識なのだろう。たしか、文化人類学的に見ても、男性が化粧する文化はあるが、それは、男性性の強調のために用いられる。男女は完全に二分割できるものでなく、むしろ白からグレーのスペクトラムなのだと頭ではわかっていても、これを超える文化を創り出していくのは、なかなか難しそうだ。

2010.01.31
2010年1月 売春防止法と婦人相談員

ここ5年間、私が力を入れてきた仕事に、婦人相談員たちの「カウンセリング研修」がある。これまで出会ってきた婦人相談員たちを尊敬し、好きだからということもあるが、経済的困難を抱え、なおかつ困難に出会っている女性たちのことを思えば、公的な相談機関の質が向上することは必須である。年末、たまたま書いたふたつの原稿で婦人相談員のことに触れ、その歴史など調べる機会があったので、少し紹介してみたい。

婦人相談員は、1956年に公布された売春防止法によって規定され、婦人相談所や福祉事務所で、「売春を行っている、あるいは売春を行うおそれのある女性を発見して相談・指導を行い、婦人保護施設への入所の必要性を判定する保護更生、関係機関への連絡、報告」などを行うのがおもな仕事とされた。林千代(『婦人保護事業50年』ドメス出版 2008)によれば、高度経済成長を背景にして、相談主訴は、70年代半ばを境に、「経済問題」が減少、「家族問題」(夫の暴力、酒乱、離婚、夫の問題など)が増加、売春歴なしの女性たちの割合が増え、90年代に入ると、今度は外国人女性の相談が3割近くになったという。2001年に「DV防止法」が成立すると、婦人相談所には「配偶者暴力相談支援センター」の機能が付加され、2004年、さらに人身取引被害を受けた外国女性の保護も新たな業務として加えられた。

こう書くと、女性にまつわる問題に社会が困れば、何でもかんでもそこに投げ込んだらよい便利箱のように使われているとも思えるが、実際には根拠がないわけではないとも思う。相談対象者は、一貫して「精神薄弱、性格異常、精神異常」であったそうだが、暴力被害を繰り返し受けたいわゆる複雑性PTSDを抱える女性たちの姿が浮かぶのである。おそらく、婦人相談員たちが支援してきた女性たちは、問題の表面化の仕方は違えども、共通のものを抱えてきたに違いない。根底には貧困と女性の地位の低さがある。ただし、そこにある権力構造は、必ずしも男対女だけでなく、国家、人種、社会階層などさまざまな次元の要因が複雑に絡んでいる。世界の成り立ちが複雑化するにつれ、解決は困難さを増すばかりである。

それなのに、である。婦人相談員の身分の低さはずっと聞いてきたが、ここ数年、あちこちでベテランの相談員の「雇い止め」が発生している。もともと、婦人相談員は、売春防止法によって「社会的信望があり、熱意と見識を持っている者に委嘱する非常勤」と規定されている。とても奇妙な規定である。私の勝手な推測であるが、おそらく、これは、伝統的な日本のコミュニティ支援モデルに基づいたものだったのだろう。つまり、力を持つ「地域の名士」と言われる人々が地域の弱者を助ける役割を果たし、妻がそれを蔭で支えるという構造である。「名士の妻」であるため、非常勤がちょうどよく、名誉職にも近いものだったのではないか。

今日もまた、よく知っているベテラン相談員が今年度で雇い止めを言い渡されたことを聞かされた。1年契約の最大5年と言うが、5年と言えば、先輩に助けてもらいながら経験を積んで、ようやくこれから一人前に歩み始める頃である。5年以上の人がいなくなったら、いったい誰が困難な事例に対処し、後輩を育てていくのだろう。大変な中、体を張って被害女性たちを助けてきた相談員たちのことを思うと腹立たしく悔しいが、今後も助けを必要とする女性たちのことを思うと、これからいったいどうなっていくのだろうと無力感さえ覚える。

これも女性への暴力に対する社会の無理解の表れなのだろうと思うが、売春防止法による規定が婦人相談員の専門性を曖昧にしていることは否めない。なるほど確かに、経験年数が長く、地域でリーダーシップを取ってきた婦人相談員たちに、「人格高潔、社会的信望、熱意と見識」を実感することは事実である。だからと言って、旧来の支援モデルに基づいたこんな女性労働のあり方はもはや時代にそぐわないものである。婦人相談員たちがよく言うことだが、自分自身が経済的自立を果たすことが困難な条件下で、女性の自立を支援するなんて、まったくもって矛盾である。本当になんとかならないものだろうか。婦人相談員たちの仕事の困難さと、そこでどんなに素晴らしい仕事を積み上げてきたかを直に知る者として、その専門性をあちこちに訴えていかなければと思う。

2009.12.21
2009年12月 愛着からソーシャル・ネットワークへ

毎年、この時期になると、学生たちの修論指導も山場となる。「他領域の連携と融合」を謳っているだけあって、うちの院生のバックグランドは広いの で、指導のために自分自身が新たに勉強しなければならないことが多い。お陰でさまざまな出会いがあるが、『愛着からソーシャル・ネットワークへ~発達心理 学の新展開』(マイケル・ルイス/高橋佳子編、新曜社)がなかなかおもしろかった。

この本は、要するに、三歳児神話の元にもなったボウルビィの愛着理論に対して、新生児は多数のネットワークからなる社会に生まれ、その中で発達し社 会化されるというソーシャル・ネットワーク理論を提示するものだ。母子関係は、その後のすべての人間関係の発達についての必要十分条件ではなく、母-子ど も関係と子ども-子ども関係は互いに独立し並行して存在するシステムである。もちろん、父親、きょうだい、祖父母、親戚、それ以外の大人などもすべて、子 どものネットワークの中の人々ということになる。

この考え方は、とても納得が行くし、自分自身のこれまでの実践にも近い。決して母子関係の重要性を否定するものではないが、それを相対化すること で、同時に、それ以外のさまざまな可能性を拡げてくれる考え方である。自我形成は必ずしも漸成的なもののでなく、連続することもあれば不連続にもあり得 る。人は生涯にわたり複数の重要な対象を同時に持ち、その中には家族以外の親しい者も含まれる。たとえば、母子関係に恵まれなくても、多様なネットワーク に生きることができれば、しっかりと育つことができるし、人生初期の愛着が不確かでも、途中で巻き返し可能ということになる。

この理論を展開することによって、複数のエゴ・ステイト(自我状態)や解離についても説明することができるような気がする。実践をすればするほど、 自我形成は文化や社会のありようによってまったく異なるのだということを痛感させられる。つまり、私たちが考えている母子関係や自我のあり方は多分に私た ちの時代を反映したものだということだ。

興味深いことに、子どもと安定した関係を持つ母親は、子どもに仲間との相互交渉の機会を提供する傾向があるという。逆に、母親の不安が高いと、ある いは社会の不安が高いと、子どものソーシャル・ネットワークは非常に限定され頑ななものとなる。現代日本の子育てとそこで成長する子どもたちの問題を考え るとき、この視点を組み込むことで乗り越えていけるような気がする。

「わたし」という概念が広く多様でかつゆったりと統合されたものである時、人は、より自由に、のびのびと生きることができるようになるだろう。その ように「わたし」を拡大していくには、良質のソーシャル・ネットワークを持つことである。子ども時代には、偶然性に左右される条件が多くなるが、大人にな ると、選択の可能性はずっと大きくなる。大人になってからさえ、自我を発達させることができる。願わくば、早々と自己を限定してしまうことなく、大きく豊 かに成長していきたいものだ。

2009.11.30
2009年11月 トラウマからの回復とレジリエンス、そしてMTRR/MTRR-I

逆境を生きのびる力、レジリエンスについては、年報16号をはじめ、これまでもさまざまな機会に紹介してきた。そして、トラウマによる影響とレジリエンスを測るものとして、MTRR/MTRR-Iというものがある(これについては、「MTRR/MTRR-I導入のための予備的研究」参照)。メアリー・ハーベイさんらによって開発され、VOVプログラム(ジュディス・ハーマンさんらの暴力被害者支援プログラム)でずっと使用されてきたものだ。女性ライフサイクル研究所においても、必要に応じて使用してきた。

MTRRは、①記憶の再生への権限、②記憶と感情の統合、③感情への耐性と統制、④症状管理、⑤自己評価、⑥自己の凝集性、⑦安全な愛着関係、⑧意味づけという8つの領域のそれぞれについて、レジリエンス、トラウマによる損傷と回復を調べていくが、情報収集のためにMTRR-Iというインタビュー・フォームがある。基本的な考え方として、トラウマからの回復は、あきらかな精神症状の有無だけでなく、もっと多次元的に見るべきであるという立場に立つ。たとえば、①記憶の再生への権限の領域に関しては、トラウマによって損傷を受けているが、⑦安全な愛着関係の領域に関しては、あまり影響を受けていない(つまり、レジリエンスが見られるということ)という場合、この力をうまく利用して回復の可能性を模索するという方略が有効になる。

今月、メアリー・ハーベイさんが来日され、「回復初期におけるトラウマサバイバーのナラティブ見られる病理とレジリエンスを解きほぐす」というタイトルで講演された。現在、VOVでMTRRを使って行われている最新の研究の一部なのだけれど、トラウマからの回復初期にあるサバイバーのインタビューの語りに耳を傾けていくと、実は、レジリエンスと病理は絡まって共存していることがわかったという内容だった。つまり、レジリエンスは、白か黒か、そのあるなしを単純に論じられるものでなく、ひとつの現象のなかに病理とともにあるかもしれないということだ。たとえば、過酷なトラウマに曝された結果、精神病的な症状が現れ、ある種の超常現象を体験していたサバイバーが、同時に、自分を守ってくれる超越的な存在を感じることで自分を立て直し、現実的に機能していたなどの事例が紹介された。結局のところ、トラウマサバイバーと関わる臨床家が注意しなければならないことは、病理に眼を奪われてレジリエンスを見逃さないこと、逆に、レジリエンスに魅了されて病理を見逃さないことである。これは十分に納得のいく話である。

ここ数年、このMTRRの日本語版作成に挑戦してきたのだけど、実は、恥ずかしながら、途中で難航してストップしてしまっていた。今回、ハーベイさんにも助言を頂き、これを完了するために、MTRRのインタビューに協力してくれるモニターを募集したい(インタビューの後、MTRRの基準に従ってレジリエンスと回復の課題をフィードバックし、プライバシーに関わらない数値の部分を研究に使用させて頂くというもの)。関心のある方は、是非、お問い合わせください。
 
 

2009.10.23
2009年10月 南京セミナーを終えて ~戦争によるトラウマの世代間連鎖と和解修復の可能性をさぐる

10月7日から10日までの4日間、2年がかりで準備してきた南京セミナーを無事に終えることができた。元はと言えば、2年前、南京事件70周年を 記念する国際カンファレンスに出席し、そこで中国の人たちと交流するなかで、中国の学生たちから「日本の学生たちと交流したい、是非、学生たちを連れてき て」と強く訴えられ、何としてでもその思いに応えたいと思ってのことだった。私自身にとっても、南京の地を訪れ、自分たちの国が犯した罪に直面し、中国の 人々と交流した体験は、とても貴重なものだった。日本人としてのアイテンディディを初めて自覚し、自分を大きな歴史の中に位置づけ根付かせた時でもあった (2007年11月南京を思い起こす)。

日本の若者たちにとっても、きっと良い体験になるだろうと考えたが、ひとつだけ問題があった。2年前、そこで想像を絶する残虐な歴史と直面すること によって、日本人参加者のほとんどが、あまりの衝撃に高熱、吐き気、体の痛みなど身体症状を出したことだった。今回は、アメリカからアルマンド・ボルカス 氏を招き、氏の開発したHWH(歴史の傷を癒す)のプログラムを試行することにした。これまでも、京都やサンフランシスコで試してきたが、とても有効な方 法だった。深刻な歴史の傷に直面し、それを表現し分かち合うことができれば、歴史の傷を変容させていけるというものだ。これまでも何度か紹介してきたが、 アルマンドはホロコースト・サバイバーの二世であり、ホロコーストの加害・被害関係にある二世代、三世代の共同ワークショップを実践してきた人だ (2009年3月Healing the Wounds of History)。プログラムの前夜、アルマンドは「私たちは歴史の傷によって二次受傷を受けるためにここに来たのではありません。それを癒すために来たのです」と言った。

1日目、今回のセミナーの背景になっている理論や自己紹介を終え、グループで南京虐殺記念館を訪れた。各々、自分のペースで記念館を回った後、芝生 の広場に集まり、アートワークを行った。好きな色画用紙にクレヨンで思い思いに色を塗るというものだが、秋晴れの美しい気持ちの良い広場で色を塗っている と、中国の人たちが興味を持って覗き込んでくる。なかには、自分たちも参加したいと一緒に絵を描き始める子どもたちも出てきた。子どもたちも含め、それぞ れの絵を見ながらシェアリングを行った。記念館を巡っている時には、日本人グループが来ていることを中国人たちはどのような思いで見ているのだろうと不安 もあったが、オープンスペースでアートワークを行うことで、暖かいつながりを感じることができた。

2日目は、室内でHWHのワークを行った。「戦争のことを最初に考えるようになったきっかけ」を分かち合い、ドラマセラピーの手法を用いて、それら のプロセスを行った。3日目、幸存者の話を聴いて交流し、人間彫刻のパフォーマンスを行った。4日目は燕子磯での追悼儀式、そしてプログラムのまとめとし て、粘土を使ったアートワークと振り返りを行った。追悼儀式はコミュニティワークのひとつでもあり、中国の老人や子どもたちとの触れ合いもあった。参加者 たちは、心を開いたり閉じたり、近づいたり遠ざかったりしながらも、グループとしての信頼感や凝集性を高めていったと思う。

帰ってから一週間、参加者の宿題となっていたレポートが続々と届きつつある。セミナー記録と参加者のレポートの整理と編集、日中英三ヶ国語への翻訳 など、まだたくさんの仕事が残っているが、今、深い満足感に包まれている。日中グループが一緒になって怒り、哀しみ、怯え、笑うことを通じて、私たちは、 戦争によるトラウマの世代間連鎖と和解修復の可能性を探る旅の大きな第一歩を踏み出したと思う。すばらしい通訳をしてくださった中国の先生が、これまで日 本の友人たちと長い信頼関係を築いてきたけれど、互いに戦争については触れないようにしてきた、今回、そのことをストレートに分かち合ったことで、たった 4日間だったのにこれまで経験したことのない深い絆を感じると言ってくださった。アルマンドの経験では、ここからまだまだ歩みは続く。道案内がいることは 本当に心強く、ありがたい。背景にあるより広い世界にも目を向けながら、これからも一歩一歩しっかりと歩んでいきたい。

2009.09.27
2009年9月 プライバシー

この夏、子育て番組に出る機会があって、「子どものプライバシー」をテーマに、企画段階や本番でいろいろな人たちと話した。現在、子育て中の親たちが、子どものプライバシーについてかなり混乱していることを改めて認識した。どうやら、多くの人はプライバシーを「子どもの秘密」という意味で捉えているようで、「子どもが秘密を持つことをどこまで許すか?」というのが議論のポイントになるらしい。前提として、秘密は良くないという価値観がある。

そもそもプライバシーとは、自分に関する情報をどう扱うか、他者に干渉されずに自分で決める権利のことだ。近代以降の個の概念と私的領域が前提となった話だが、子どもに関して言えば、それまで親の保護下にあった子どもが、親から独立した存在として個を確立する発達過程において、親の保護やコントロールから離れた領域を確保し、自分で扱うことを意味する。子どものプライバシーが尊重されない限り、子どもは個としての発達を成し遂げられないことになる。結果的に、プライバシーは、「秘密を持つ力」を意味することになる。

基本的に、信頼関係があれば、何でもオープンに話せることだろう。子どもに尋問し、説教をするといったパターンのコミュニケーションではなく、ふだんから楽しいコミュニケーションが持てていることがポイントである。本当に困ったときには、親に相談すれば助けてもらえるという信頼感も必要である。困ったことを親に相談したら余計に話がややこしくなるから、親には相談できないという子どもたちの声を聞く。それでもなお、秘密のない親子関係など、目指す必要はないことを強調しておきたい。どちらかと言えば、秘密の内容より、秘密を持つというそのこと自身に意味がある。

誰にどの内容を伝えるかという識別も重要である。大学の授業を休むのに、「彼氏とUSJに行くから欠席します」と連絡をするような学生が出てきていると話題になった。背景には、「秘密を持つことはいけないこと、正直でオープンであるのがいいことだ」という大義名分があるらしい。こんな学生は、いったいどんな反応を期待しているのだろう?「良かったね。行っておいで」?授業をさぼってデートするなとは言わないが、面と向かってそんなことを言われたら、「そんなのは欠席の理由にならない!」と反応するのが全うだろう。親子関係の変化が、子どもたちのこんな変化を生んでいるに違いない。

身近な人々のプライバシーの扱いも難しい。その番組では、兵頭ゆきが「子どもに何をしゃべってよくて何をしゃべってはいけないか」、常に子どもに確認していると言っていた。それを聞いた高野優が「自分は子どものプライバシーをネタにしてきた」と青ざめていた。私も子どもたちをネタにして、子どもたちからクレームがついたこともあったが(やっぱり思春期だ)、最近では何も言わなくなった。それどころか、この頃では、子どもの方が私をネタにあれこれ書いていることが判明した。いったい何を書かれているのやら、ドッキリだが、まあ、お互いさまだ。

信頼関係のなかで聞いたり経験したりしたことを第三者に話すとき、「これは誰にも言ってくれるな」と言われたことは、もちろん言わない。「これは誰にも言って欲しくないだろう」と思うことも言わない。ただし、自分だったら言われてもいいと判断したことが、相手にとっては言われて嫌なことだったということは起こり得る。それぞれ、別の人間だから。でも、最終的にそういうことって仕方ないんじゃないだろうか。聞いた話のひとつひとつについて、人に話してOKか、そうでないかを確認するなんて不可能だ。そもそも人が自己完結して生きられない以上、秘密はどこかで漏れ出ていくだろう。それでもなおかつプライバシーの観点は重要だし、悪意をもってプライバシーを侵すようなことはあるまじきことだ。

2009.08.27
2009年8月 村上春樹と戦争の痕跡その2

先月に続き、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『国境の南、太陽の西』、『海辺のカフカ』、『1Q84』と読んだ。主人公たちには、どうやら共通項がある。いずれも親の愛情に恵まれず(春樹は、まるで、親子の情愛など信じていないかのようだ)、小さい頃より、自分で自分の面倒を見て、自己完結的なあり方で成長した少年、もしくは青年であり、世界にコミットして大人になるという課題を抱えている。ひどい虐待があるわけでなく、生活に困るような事態もないが、心の通い合う親子関係は見えにくい。どちらかと言えば、母親に対して、淡いセクシュアルな想いを抱いているが、母なるものは彼の手の届かないところにあって、その手の届かなさを父親と共有しているらしい。

世間の価値観からは遠いところにいるが、自分なりの倫理観があり、徹底的に自己コントロールして生きている。そんな彼の心を激しく揺さぶるのは、同じく一風変わった女性たちだ。同様に、親の愛情に恵まれず、欠損感を抱えている。幼児期に性的虐待を受け、どこか死の世界に近いところにいる感じがする。これらは、確かに、戦後第二世代の心象風景のようにも思える。互いに欠損感を抱えているから、ごくふつうの家族の形には馴染めない。たとえば、『国境』では、きわめて真面目で良い娘と思われる恋人イズミを裏切り、共に幸せな家庭を築いてきたはずの妻、有紀子を(そして、間接的に娘も)裏切る。決していい加減に生きているわけではない。パートナーたちに誠実でありたいと努力しているのにも関わらず、である。そこには、ある種、解離した日常のあり方が見え隠れする。

そして、小説のあちこちに、なぜ、どのように人は大きな悪を成すのかという問いが散りばめられている。『ねじまき鳥』(平成七年)では、悪を体現する綿谷ノボルという男が登場するが、それは、綿谷家の血筋の遺伝的傾向として説明される。ある種の人々は、「体の組成の中にどうしようもなく暴力的なものや獣的なものを抱えて」おり、「不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているもの」を引きずり出し、自分のために利用しようとする。それは、暴力と血に宿命的にまみれ、多くの人々を結果的に損ない失わせるのだという。綿谷家は中国侵略を推し進めた軍人や政治家とつながる家系である。これと闘うために、岡田亨は殺しを行わねばならない(結果的には、亨は綿谷ノボルを殺しきれず、久美子が最後の息の根を止めることになる)。

『カフカ』(平成十四年)においては、猫殺しのジョニー・ウォーカーが登場する。いったん戦争が始まれば中止するのはとても難しく、一度、剣が鞘から抜かれれば、血が流されなくてはならない。殺すか殺されるかだ。ジョニー・ウォーカーは、ナカタに自分を殺してくれと頼む。ナカタは、殺しなどしたくなかったが、猫を殺すのを止めようと思っただけなのに、「体が勝手に動いてしまって」、彼を殺してしまう。ナカタは、この時のことを、「ジョニー・ウォーカーがナカタの中に入ってきて、ナカタを望んだことではないことをさせたのだ。ナカタには中身がないから、逆らえるだけの力がなかった」と説明している。そして、源氏物語の憑依について語られ、この世のものではない何やら不気味な白いモノが人のなかに入った結果、抗いようなく、コトが起こるのだということがわかる。それは、「圧倒的偏見をもって強固に抹殺する」しかない。『1Q84』(平成二十年)においては、これは、「リトル・ピープル」と呼ばれる善悪を超えた力として登場し直す。ここでは、人は、この力の媒体でしかない。たとえ、それを媒介する人を殺したとしても、この力を消滅させることはできない。できることは、せいぜい「反リトル・ピープルの力を打ち立てること」だ。善と悪の拮抗を保つこと。光と影のように。そう言えば、『世界の終わり』(昭和六十年)では、影が切り離された世界について描かれ、その世界に留まることが選択された。そこからすれば、ずいぶん遠いところまで来たことになる。

『1Q84』では、さらに、歴史の記憶について語られる。「僕らの記憶は、個人的な記憶と集合的な記憶を合わせて作り上げられている。その二つは密接に絡み合っている。そして、歴史とは集合的な記憶のことなんだ。それを奪われると、あるいは書き換えられると、僕らは正当な人格を維持していくことができなくなる」「やった方は適当な理屈をつけて行為を合理化できるし、忘れてもしまえる。見たくないものから目を背けることもできる。でもやられた方は忘れられない。目も背けられない。記憶は親から子へと受け継がれる。世界というのはね、青豆さん、ひとつの記憶とその反対側の記憶との果てしない闘いなんだよ」。春樹は、歴史の記憶と闘い続けているようだ。

まだ、ざっと読んだだけの印象であるが、掘り下げて分析してみたい点がいろいろある。残りの小説を読み進め、すでにたくさん書かれている春樹研究もある程度、読んでいかなければ。

2009.07.12
2009年7月 村上春樹と戦争の痕跡

先月の「ドイツに学ぶ和解の旅」で一緒になったフランス在留中の文学研究者と、戦後の文学に見る戦争の痕跡についての共同研究をすることにした。「犬も歩けば棒に当たる」じゃないが、私がどこかへ行くと何かに出会う。そもそも、この旅自体が、アルマンド・ボルカス→ASFのクリスチャン・シュタッファ→小田博志→北海道フォーラム・・・(個別の説明は、トピック原稿のどこかに見つかるはず)という具合に、出会いが重なるなかで実現したものだ。さらに、矢印は、今後、パリの他、ナヌムの家にもつながる予定だ。出会いというのは面白い。

手始めに村上春樹を取り上げることにしたので、今、春樹を読みふけっている。通勤電車でしか読む時間はなく、眼がかすんでしょうがないのは問題だが、かなり面白いので、寸暇を惜しんで読んでいる。『ねじまき鳥クロニクル』を読み、『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』を読み、『ノルウェーの森』を読み、今は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいるところだ。話題の『1Q84』はじめ多くの作品をすでに入手したが、読む順番に私なりのこだわりがあって、ジグザグしながら読んでいる。

現段階でわかったことは、登場人物の性格は作品を超えて共通しているということ、おそらくは時代を追って、そこに成長発達が見られるのだろうということ。それは村上春樹という著者自身のあり方と、彼にとって重要な意味を持ってきた他者のあり方と密接に関わっているだろうということ。今のところ、意図的に著者の生育史に眼を向けず、ブライイド・アナリスをしようとしているが、どこかの時点で、彼の個人史を調べ、突き合わす作業をやるつもりである。現在の文学研究では、禁欲的にテキストを著者個人から切り離して分析するという姿勢が一般的であるそうだが、私はサイコロジストだから、そこのルールに従わなくてもよいだろう。彼の作品は、ユング心理学の理論にぴったり符合する。彼が河合隼雄に関心を持って接近したのは無理もない。とは言え、あまりに理論に合いすぎていては面白くないので、私としては、それこそ禁欲的に心理学理論を使いたくないような気がする。

彼の作品のテーマの中心は、「解離」と言っていいだろう(おっと、これも心理学的理論だ・・・)。記憶の不確かさと忘却、自己同一性のゆらぎ、複数の世界がつながりを持たずに並列すること、社会からの離脱。そして、それらの断片をつなぐのは、地下世界と巨大な闇の力なのだ。性と暴力は、その表出である。戦争のエピソードは、さりげなくあちこちに散りばめられており、とくに『ねじまき鳥クロニクル』では、戦争加害のトラウマの世代間連鎖がそのまま取り上げられている。春樹の人気は、きわめて現代的な社会、しかも一定の条件を満たす特定の文化圏の特定層に支えられているのだろう。逆にいえば、現代社会をそのまま表現しているとも言える。本人はデタッチメントとコミットメントという言葉を使っているが、たしかに、そこに回復の手掛かりがあるだろう。現実に眼を向け、問題にコミットすること、それを支えるものとして、何気ない日常生活の営みがある。

村上春樹をめぐる私の旅は、まだ始まったばかりだが、取り組んでいる問題へのコミットメントと日常生活の営みのなかで、どんな行き先に連れて行ってくれるのか、楽しみだ。

2009.06.28
2009年6月 ドイツの和解に学ぶ旅

「ドイツの和解に学ぶ旅」というのに参加してきた。もとはと言えば、昨年の7月に札幌であった「国際シンポジウム~市民がつくる和解と平和」を主催したメンバーの企画であり、私も仲間に入れてもらった形だ。昨年のシンポが素晴らしく(2008年7月のトピック参照)、また、メンバーたちの運動体としてのありかた(メンバー相互に個人的な信頼の絆が結ばれ、なおかつ外部にオープンであるという)に共感を覚え、このメンバーと一緒にドイツの和解に学ぶというのが魅力的で、スケジュールをやりくりし、かなり無理をしての参加だった。

関空からヘルシンキ経由でワルシャワに入り、バスで5時間、オシフィエンチム(ドイツ語名はアウシュビッツ)にある「国際青少年センター」に宿泊して、アウシュビッツとビルケナウを見て回った。昨年の9月にも来たばかりだったので、日本人公認ガイドの中谷剛さんがビックリしていたが、1~2度訪れただけでは、とても体験を消化しきれない。少なくとも、もう数回は通いたいと考えている。前回来た時も、アウシュビッツのあまりの美しさに衝撃を受けたが、今回はポプラの綿毛が一面に舞い、何とも幻想的な光景に出合った。信じがたい美しさがあまりに悲しい。

今回は、強制収容所生存者スモーレンさんの話も聞くことができた。88歳のとても元気なおじいさんだが、これから双子の孫を見にアメリカへ行くところなのだと言う。生き延びるコツは、「眼と耳を使って、できるだけ働かないようにする」ことだったと言うが、レジリエンスを感じる。抵抗運動に加わり、ユーモアとともに、生きる意志、希望と信念を持ち続けることが力の源だと感じた。逆説的ではあるけれど、死を覚悟でリスクを取ることが、自分の生を手放さずに生き続けることにつながったのだと思う。

「国際青少年センター」の宿泊は初めてだったが、これは、ドイツのASF(行動と償いのしるし)のイニシャティブによって、1986年に開設された出会いと交流のためのセンターである。教育部門があって、海外からのスタディツアーを受け入れ、ポーランドの若者と交流しながら学ぶ1週間ほどのセミナーを企画する。アウシュビッツという苦痛に満ちた出来事から学び、他の文化や人々について学び、知り合い、歴史を扱うことで、恐怖、偏見、敵意を克服し、より良い未来を築くことができるということを前提にしている。いつか、うちの学生たちを連れて来たいものだ。

私たちが宿泊していた期間、ちょうど、フォルクスワーゲン社の新入社員研修で、若者たちがたくさん来ていた。フォルクスワーゲン社は、アウシュビッツ近くに大きな工場を持ち、強制労働によって発展したナチ時代の象徴でもあるが、補償のための基金を出しているばかりでなく、和解の活動に積極的に取り組み、社員教育に自社の闇の歴史を取り入れている貴重な会社だ。センターのマイクロバスも、寄付によるフォルクスワーゲン車だった。フォルクスワーゲンを見直したが、日本企業では想像もできないことだ。

クラクフとワルシャワを回り、ユダヤ人地区、ゲットー跡、ワルシャワ蜂起記念館などを見学し、少しずつ、ポーランドとドイツの複雑な関係について理解し始める。それから、列車で移動、ベルリンに入り、関連施設見学とインタビュー、ASFとの交流集会を持った。

ASFは先にも登場したが、50年にわたって、ナチ加害の罪を認め、贖罪のための平和奉仕活動を続けてきた団体である。設立者ルーターさんは、プロテスタント信者であり、裁判官だったが、戦時中、政府が障害者を虐殺していることに気づき、抗議し訴訟を起こして、追放された人である。自らは、有機農業を始め、農園にユダヤ人を匿い、逃亡の手助けをしていたにも関わらず、ナチに抵抗できなかった教会の失敗体験を自分のことと受けとめ、何百万という大量虐殺に共謀した自らの罪を認識し、具体的で実践的な行動によって許しを請い、和解を求める希望を表現することが不可欠であるとASFを設立した。

具体的には、ドイツから長期ボランティアを派遣し、ベラルーシ、ベルギー、チェコ、フランス、ドイツ、イギリス、イスラエル、オランダ、ノルウェイ、ポーランド、ロシア、ウクライナ、アメリカ、とくにナチスによって苦しめられた国や人のために働けるように支援している。ボランティアたちは、ナチ被害にあった高齢者や障害者の介護、関連施設の掃除やガイドなど、地域サービスに従事すると同時に、継続的な異文化交流と理解を深め、歴史の証人となることが期待されている。今回、あちこちの施設で、ASFのボランティアやスタッフたちの働きぶりを実際に見ることができたことは大きな収穫だった。最近は、ドイツ国外からのボランティアも受け入れており、ヴァンゼー会議博物館で、イスラエルから来たボランティアと出会ったのは驚きだった。ASFの活動も今や世代を経て、国際的なものとなっているようだ。

交流集会では日本での取り組みについて報告し、私も南京のプロジェクトについて発表した。先駆的なドイツに学びつつ、私もできることを積み重ねていきたい。ASFを始めた頃は、何の見通しもお金もなかったが、ルーターさんは、「お金は十分にある。ただ、間違った財布の中に入っているだけ」と言ったという。今回の旅で、志を同じくする日本や海外の人々と触れ合えたことは今後の大きな力になった。北海道という個人的なルーツについても情報を得ることができ、それもまた貴重なことだった。まだまだ話は尽きないけれど、そろそろ紙面は尽きてきたので、またの機会に。

2009.05.21
2009年5月 アメリカにおけるDVの動向

「最近のアメリカでは、シェルターに対して批判が出ている」、「シェルターは、実際に機能しなくなっている」と小耳にはさむことがあって、どんな状況なんだろうと内心、疑問に思っていたが、ちょうど、アメリカにおける動向をまとめるという機会をもらったので、いろいろ調べてみた。

ご存知のように、アメリカでは、日本より一足早く(と言っても、日本には、古くから、文字通りの駆け込み寺が存在していたわけだが)、1970年代の女性解放運動のなかから、シェルター運動が起こり、70年代後半から80年代初頭にかけて、全米にシェルターが拡がった。シェルターに駆け込んできたDV被害者の実態が明らかにされるにつれ、支援者たちは、その関心を法システムに向けるようになる。草の根的なロビー活動の結果、1983年には、ほとんどの州にDV防止法ができ、1984年の「家族虐待防止サービス法」、1994年の「女性への暴力防止法」が制定され、2000年には、これを大幅に強化する「女性への暴力法2000」が成立し、2005年に更新されている。

最近の動向のポイントのひとつは、日本ではDVとして概念化されたものが、アメリカでは、急激に、IPV(Intimate partner violence:親密なパートナーの暴力)という言葉で統一されつつあることだ。もともと、バタリング、ファミリー・バイオレンス、ドメスティック・バイオレンス、配偶者虐待など、さまざまな用語が使われてきたが、1999年、CDC(米国疫病予防対策センター)が、一貫性のある用語を使うよう推奨し、多様な関係のバリエーションを含むものとして、IPVを採用した。これは、単なる呼び名の変更に留まらず、DVについての理解が大きく変化したことを意味する。

家庭内暴力の先駆者として著名な社会学者ストラウスの最新の研究によれば、200以上の研究において、男女の加害率はほぼ同じであり、ほとんどの場合、相互的な暴力であるという。親密な関係における暴力には、人種、文化、階級など多様な背景が関わっており、支援を考えるうえでも、多様性を視野に入れるべきであるというDV研究の洗練とその成果があり、IPVという用語への統一によって、「男性から女性へ」という単純な定式が崩壊し、ジェンダーの問題は、多様に存在する抑圧構造のひとつとして相対化された(もちろん、フェミニストたちからの批判はある)。

これと連関するが、2000年代に入ると、人種、文化、階級など被害者の多様な背景を視野に入れたDV支援と研究が展開されるようになる。たとえば、吉浜美恵子さんの「バタード・ウーマンのコーピング戦略と心理的苦痛~移住の立場による違い」という2002年の研究では、同じ日系アメリカ人であっても、日本で生まれた女性たちは、DVに対する「アクティブ」な戦略は有効でないと考え、用いない傾向があり、それが有効であると考える人ほど苦痛は増加していた。アメリカ生まれの日系アメリカ人はその逆であった。DVがもたらす影響は複雑であり、文化的要因に眼を向けることが欠かせない。暴力に直面した時、助けを求めるかどうかに影響を与える要因は、個人的要因、対人関係的要因、社会文化的要因など、さまざまな要因が複雑に影響しあった多層構造になっており、当事者のニーズに合わせた柔軟で適応的な選択肢が用意されている必要がある。「DVがあれば、逃げるのが一番」という単純な考えは、女性たちの主体性を無視した支援者中心の考えであり、女性たちが暴力から自由になるためには、どんな支援があれば、逃げることが可能になるのか、逃げないという選択肢を取っても、暴力を逃れることを可能にするには何が必要なのかという視点を支援者が持たなければならない。

このようなことが言われる背景には、2000年代に入り、法的にも政治的にもDV対策に多大なエネルギーがつぎこまれ、DVに関する理解も支援も洗練され、高度に専門化されたことで、ヒエラルキーと専門主義が強化され、支援が画一的にサービス提供者側によって規定される傾向が出てきたことがある。かつては草の根的な運動の中心にいたシェルターのスタッフたちも、今では専門家たちであり、提供されるサービスが父権的なものとなっている。グッドマン&エプシュタインは、今こそ、DVへのフェミニスト的アプローチに戻り、①個別のサバイバーたちの声に耳を傾けること ②被害者の安全を支える関係とコミュニティを尊重すること ③経済的なエンパワメント が重要であると提起している。

私なりの結論は、今後、ジェンダー以外の差別抑圧構造にも眼を向けながら、フェミニズムの蓄積を活かしていくことが大切になっていくだろうということである。多様化する日本においても同じことが言えるだろう。

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