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トピックス by村本邦子

2010.09.27
2010年9月 戦争の痕跡を辿る北海道の旅

 9月21日から24日、学部のゼミ生を連れ、4日間の北海道フィールドワークに行ってきた。北海道フォーラムの人たちの話は、これまでも何度か紹介してきた(今月のトピック「2008年7月市民による和解をめざして」、「2009年6月ドイツの和解に学ぶたび」、「2010年6月撫順の奇跡〜人道主義に基づく加害兵の修復モデル」など)。もとはと言えば、2008年に札幌で開かれた国際シンポジウムで殿平義彦さんの「遺骨を届ける〜強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」の話を聞いて感動し、すぐに臨床社会学の授業で紹介したところ、それを聞いて同じく感動した学生が中心になって今回のフィールドワークの企画を進め、実現にこぎつけたものだ。もちろん、ドイツや日本の戦争責任と戦後世代については、ことあるごとに伝えてきたので、私のゼミ生たちは全般的に関心を持ってくれていたと思う。世界各地で重い過去に眼を向けながら平和のために活動する人々と若い人たちを出会わせたいという私の夢が実現し、とても嬉しい。総勢10名、大所帯の旅だった。

 初日、千歳空港で皆と落ち合い(時期的に安い飛行機がいっぺんに取れずで、4便に別れて集合)、今回、マイクロバスを調達して4日間ボランティアの運転手を引き受けてくださった(なんとも太っ腹!)空知民衆史講座(http://homepage3.nifty.com/sorachi/)のYさんの運転で北大へ。北大では小田博志さんが迎えてくださって、クラーク食堂でスープカレーを食べた後、「撫順の奇跡を受け継ぐ会北海道支部」のお世話もあって、中帰連元副会長の大河原孝一さんのお話を聴かせて頂いた。岩見沢に生まれた少年がどんなふうに戦地へ赴くことになり、どんなふうに人を殺し、撫順の戦犯管理所でどんなふうに変化していったかという話である。私にとって印象的だったのは、当時、自分がいかに「素直」で、先生や偉い人たちに言われるままを受け入れていたかという話、人を殺すというのはどういうことなのかという話だ。今でも素直な子は良い子と言われるけれども、素直なのは決して美徳ではなく、批判的視点や自律的思考を身につけることがどんなに重要か、教育の役割を再認識させられる。また、大河原さんが、自分には子どもがおり、孫もいるが、自分が殺した中国人にはそれがなくなった、自分がすべての可能性を消してしまったと語るのを聞き、殺したことの意味を抱えて生きることはどんなに重いことだろうかと苦しくなる。残念ながら時間の関係で十分に聴き尽くすことは適わなかったが、若者たちにも多くを投げかけたようだ。

 その日のうちに高速で5時間、幌加内ルオント温泉経由で、朱鞠内にある光顕寺の庫裏(くり)に宿泊する。一部の学生たちは近くのロッジへ。「笹の墓標展示館」館長さんの田中さん、殿平さん、小野寺さんが合流してくださる。2日目、まるで別荘地のように雄大な大自然の中にあるお庭にテーブルと椅子を並べ、差し入れのMOMO牧場の牛乳とヨーグルト、バタートーストにゆで卵、北海道特産ソーセージ、フルーツなどを学生たちに食べさせ、フィールドワークへ。

 朱鞠内湖は戦時中に作られた国内最大の人造湖で、雨竜ダムと呼ばれる。1938年から43年まで王子製紙の資本で作られ屋水力発電用のダムで、工事は飛鳥組が請け負った。北海道入植時の過酷な囚人労働の流れを汲む「タコ部屋」労働者を中心に、数千人の日本人労働者と少なくとも三千人の朝鮮人労働者が動員され、多くの犠牲者を出した。1976年、殿平さんが偶然、光顕寺に引き取り手のない位牌と出会ったところから、「空知民衆史講座」が生まれ、朱鞠内の笹藪の下で埋められたままになっている犠牲者の遺骨発掘作業が始まる。役場に保存されている「埋火葬認許証」と光顕寺の「過去帖」などの調査から、ダム工事と共に行われた鉄道工事を合わせて214人の犠牲者があったことが確かめられている(殿平義彦「遺骨と出会う〜強制連行犠牲者と足もとの戦後」『春秋』2010.8.9号参照)。証言によれば、過酷な労働や虐待による犠牲者の遺体は濡れたまま次々と光顕寺に運び込まれ、本堂の畳は腐って床が抜けたという。遺骨発掘は、 その後、東アジア共同ワークショップとして、韓国人、在日韓国・朝鮮人、日本人などの若者たちによって現在に至るまで続けられている。犠牲者の身元を調べ、遺骨を遺族のもとへ届けることもやってこられた。

 犠牲者のお墓や笹の墓標展示館にある遺骨を前に黙祷するが、胸の奥底から哀しみなのか怒りなのか、何とも名づけようのない熱い感情が湧きあがってきて泣きたくなる。南京に行った時と似た感情だと思う。知らないだけで、実は自分たちの足元にはたくさんの人々の犠牲が今現在も生のまま残されており、私たちはその上で育ち生きてきたのだ。戦争加害の責任は決して過去のものではなく、自分たちと無関係ではない。

 お昼は、そば打ち職人がやってきて、手打ちそばを頂いた。なんと贅沢なこと。田中さん、殿平さんのお話を聞いた後、夕方は、朱鞠内湖でカヌー遊びをし、夜は、ジンギスカンを食べ、日向温泉へ。食事やお風呂に出かけることで、地元の人々と触れ合い、お話を聴かせてもらう貴重な機会を得る。3日目は出し巻き卵を焼いて和食。簡単なものだが、みんなで賑やかに食べるとやけにおいしい。このあたりは「きのこ」が豊富に採れるとのことで、私はきのこ鍋を楽しみにしていたのだが、今年は暑かったためにきのこが出ないという。とりあえず、殿平さんと一緒に、朝、周辺を探してみるが、やっぱり見つからず、残念。それにしても広大な土地だ。この土地は、森村誠一が、ここを舞台に『笹の墓標』を書いて、その印税を寄付して購入したものらしい。この土地があることで、共同ワークショップをはじめとした出会いの場が生まれてきたのだ。場があることで何かが始まるということがある。感謝を込めて、森村誠一の本も読んでみよう。

 ちょうどこの日、アイヌの聖地である旭川の神居古潭でアイヌの文化を伝える「こたんまつり」があると誘って頂き、旭川へ移動。その昔、多くの舟が神居古潭の激しい激流に飲み込まれていったことから、人々の安全を祈願するセレモニーが行われていたそうで、今なお、年に1度、この伝統儀式「カムイノミ・イナウ式」が行われている。伝統楽器ムックリの演奏や踊り、アイヌの衣装を着て、アイヌのティータイムを経験するなどのお楽しみもあった。見慣れぬグループが積極的にお祭りを楽しんでいるものだから、すごく目立っていたらしく、会場で紹介されたり、マスコミの取材を受けたりした。都会から来た若い人たちがアイヌの歴史に関心を示し、伝えてくれることをとても喜んでくださっているようで、たくさんの方が暖かく話しかけてくれた。

 ご招待くださった塚田さんに「蜂屋」に連れて行ってもらい、旭川ラーメンを食べた後、東川の発掘現場に案内して頂く。殿平さんたちの活動に触発されて、3年前から江卸発電所・忠別川遊水地の朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る活動をなさっているそうだ。どうやら北海道では地域の歴史を掘り起こす運動が盛んなようで、感銘を受ける。ドイツの小さな村にもそんなエピソードがたくさんあったが、自分たちの町の歴史を掘り起こそうという運動は素晴らしいと思う。彼らの働きがなければ、すべては葬り去られていた歴史なのだ。

 その後、川村力子トアイヌ記念館へ行き、まつりでセレモニーを取り行った川村さん直々に案内して頂く。ここは、上川地方アイヌを代表する旧家川村家第八代目川村カ子ト氏がアイヌ民族文化を伝承するために私財を投じて建設した北海道最古の資料館だそうだ。長い抑圧と搾取の歴史の延長線上に強制連行・強制労働があるわけだ。その夜は、学生たちは旭川のキャンプ村へ、私とYさんは宿に泊まり、最終日は旭山動物園と美瑛へ。旭山動物園は初めてだったが、たしかに工夫された展示で、自然に対する人間の傲慢を戒めてもある。

 今回の旅では、本当にたくさんの北海道の方々のご厚意に支えられた。学生たちには、先輩方の好意をありがたく感謝しながら受け取ること、それをしっかりと受けとめて、自分なりの仕方でいいから社会に還元していくこと、そのことを通じて先輩方にお返しすることができることを学んでほしい。上の世代にとって、若者たちは希望なのだから。これから学生たちがお世話になった方々へのお礼状や報告書を作成する。最後の夜は学生同士で大いに語り合ったようだが、この旅で彼らが何を受け取り、何を考え、何を表現するのか、興味津津である。

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