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トピックス by村本邦子

2012.12.15
2012年12月 避難者たちのこと

 昨年、十年計画で立ち上げた「東日本・家族応援プロジェクト」も2年目となり、青森、宮城、岩手、福島と東北4県を巡った。加えて、今年は、8月に京都の避難者を対象としたプロジェクトを、今月は京都の支援者を対象としたセミナーも経験した。現地の人々との出会いには暖かく確かな手応えと力強さを感じるが、茫漠と拡がる被災地の光景には深いため息しか出てこないし、得体の知れない放射線と原発のこれからを考えると暗い雲の中にいるような気分になる。

 うわべだけを見れば、街は、これまでと変わらず、イルミネーションとクリスマス・ソングであふれている。しかし、そこには多くの避難者たちが含まれている。復興庁2012年12月12日の発表では、全国の避難者数は約32万1千人、全国47都道府県、1200以上の市区町村に散在している。たとえば、京都だと、千人以上の避難者がいて、京都府災害支援対策本部の調査によれば、7割強が福島からの避難者だが、茨城、千葉、神奈川など関東からの避難者もある。避難の理由の圧倒的多くは放射線の影響であり、うち半分近くが、それまで同居していた家族を被災地に残し、母子での避難者である。

 「内部被爆から子どもを守る会・関西疎開移住(希望)者ネットワーク」という会があって(http://kodomo-mamoru.net/index.html)、『避難移住者たちの手記』と、代表の中村純さんの詩集『3.11後の新しい人たちへ』を読んだ。「新しい人たちへ」は、次のように始まる。
 
 あなたたちに詫びなければならない
 素足で歩ける大地
 思い切り倒れ込める雪原
 せせらぎに飛沫をあげて歩く浅瀬の川
 木漏れ日にふり注ぐ森
 色とりどりの落ち葉のプール
 大地のエネルギーを蓄えた安全な作物
 それらすべてを奪ってしまったことを

子どもたちの未来のためにと、家や家族やふるさとを後にして来た避難者たちは、当然と言えば当然であるが、真剣に放射線と向き合い、闘い続けている。他方、さまざまな事情を抱えて避難できない人々は、腹を括って、被災地に日常を築こうと闘い続けている。多くの人にとって、それは見ようとしなければ、すでに見えなくなりつつある現実だ。それどころか、原発再稼働と放射能拡散に反対する市民運動家たちは逮捕されているのだ(阪南大学経済学部准教授・下地真樹さんが留置所から出した声明文を参照のことhttp://blog.goo.ne.jp/garekitaiho1113/e/79c68fd4e86da4ec02b2e01a5188052b)。

この二重性は、さながらジョージ・オーウェル『1984』のようではないか。見たくない人々は、正気を狂気と呼ぶ。3.11以降、日本は取り返しがたく変わってしまった。私たちの身近にいる避難者たちの声に耳を傾けながら、希望を探して生き延びていく道を模索したい。 

2012.11.30
2012年11月 心理療法は政治的か?

  エリカ・バーマンの『発達心理学の脱構築』(ミネルヴァ書房)をチームで翻訳出版した。英国において、発達心理学がどんなふうに国家政策に関与してきたかを明らかにした興味深い著書で、考え込まされた。出版を記念して、青野篤子さんが、エリカ・バーマンとパートナーのイアン・パーカーを招き、日本社会心理学会で、「社会問題・社会政策と心理学の親しき関係を問い直す〜日本と英国の比較を通して」というワークショップを企画してくれた。私は、「日本の児童・女性政策と心理学」の話題提供が担当で、「バックラッシュ、ナショナリズムと心理学」というサブタイトルをつけて発表した。正直なところ、付け焼刃で勉強したようなところがあるが、あらためて、心理学(私自身は臨床心理学)がどんなふうに政治的存在であるのかを痛感することになった。

終了後、イアンを経由して、英国の雑誌から「心理療法は政治的である、さもなければ心理療法ではない〜パーソン・センタード・アプローチは本質的に政治的な冒険である」(Schmid, P. F., 2012)という論文を入手した。著者の所属はウィーンの「ジクムンド・フロイト大学」となっていて、まずそんな大学があることに驚いたが、内容はロジャーズのパーソン・センタード・アプローチであることも意外だった。とは言え、前にも紹介したことがあるように(2011年7月)、ロジャーズは、世界平和のために、政府のリーダーたちをメンバーとしたエンカウンター・グループを試みているのだから、たしかに、心理療法が政治的であることを自覚していたはずである。

著者によれば、政治(politics)という言葉は、ギリシア語のポリス(都市国家)に由来し、アリストテレスは、人間は本質的に共同体に依存し成長していく社会的・政治的存在であるとした。人間は共同体においてしか十分に可能性を実現することはできないのであり、共同体の知的、文化的、法的枠組みにおいてこそ、自己実現に向かっていくことができる。人間は誰しも政治的存在であり、政治は人間存在のイメージの帰結である。だとすれば、心理療法家は政治的行動をとる倫理的責務を負っているのであり、妥協は許されない。「無条件の肯定」は、社会構造とヒエラルキーに挑戦し、抑圧、全体主義、自己満足、ナルシシズム、怠惰を打ち破らなければならない。政治に関心を持たず、社会に声をあげない心理療法家はクライエントのことを真剣に捉えておらず有害である。個性化は必然的に政治的プロセスであり、政治的なプログラムなのだ。ロジャーズは、「もっとも個人的なことは、もっとも普遍的なことである」と言ったが、それは、「もっとも政治的なことである」と。

シンポジウムのまとめで、司会をした青野さんが「心理学は社会的営みである」と言ったが、心理学に従事しながら、その社会的・政治的意味を自覚しない者は、非常に危険な立場にある。過去を振り返れば、全体主義の時代に、無自覚なままそれを積極的に支えた人々は数限りない。そんな方向に向かいつつあるかもしれない時代に生きる心理療法家として、ますます注意深くありたい。

2012.10.11
2012年10月 「人間彫刻/家族造形法」の魅力

 もう十年近くになるだろうか、早樫一男さん(同志社大学)を研究所にお招きして、「人間彫刻/家族造形法」を使ったスタッフの勉強会を続けている。言葉で説明するのは難しいが、人間を粘土の塊になぞらえ、家族の彫刻を作ることで、家族理解を深めようというものだ。このたび、早樫さんが「家族造形法の深度〜二日間家族造形法ざんまい」というワークショップの企画を立て、ゲストスピーカーを頼まれたので、自分自身も丸二日、フルで研修に参加してきた。私に与えられたテーマは、「家族造形法の魅力を語る」というものだったが、四点にまとめてみた。

 その一は、「絶対」をひっくり返す面白さだ。たとえば、「鈍感で自分勝手なDV夫」や、「男にペットのようにかわいがられて嬉しい女」など、「絶対に理解できない!」と思う人であっても、自分がひとたび粘土でその役をやれば、不思議とその気持ちがわかってしまう。一度など、DV夫の「認知の歪み」さえ経験した(自分に微笑みかけていると見えたものが、実は妻の方は恐怖を感じていたという。今なお、狐につままれたような気持ちだ)。つまりは、あらゆる人への共感性を養う訓練になるということ。とくに駆け出しの対人援助者に有用だろう。

 その二は、システム論的視点を身につけることができることだ。人は人である限り、特定の構造のなかに置かれてみれば、似たり寄ったりの反応をするものである。きょうだいの順番によってある程度まで性格が規定されるというのは、このためである。もちろん個別性は大きいが、同時に普遍性も存在する。そして、「風が吹けば桶屋がもうかる」というように、小さな変化が全体に影響を与え、一見何の関係もないように見えるところにも変化をもたらすということが実感できる。これはシステム論的視点だ。

 その三、特定の家族について援助方法を考えるうえで役立つ。基本的に粘土を置くだけなので、個人情報はいらないし、準備もいらない。チームのメンバーで力を合わせ、それぞれの家族メンバーに共感的な気持ちを寄せながら家族理解をしようと努力すること自体がその家族への暗黙の応援メッセージになる。最後に粘土の衣装を脱ぐ時、「この先、この人によりよい人生が開かれますように」と自然と心のなかで祈るものだ。同時に、援助チームの凝集性をも高める。

 その四、人間彫刻は家族だけでなく、職場や組織、また構造的力関係を理解するうえでも役立つ。先月、平和ワークショップの研究会で、高さを違えた三人の人物の彫刻を置くワークをしたが、これは暴力・抑圧構造を理解するうえで驚くほど有効だった。システム論がミクロからメゾ、マクロまでつなぐものであることを示すのだろう。

 体を使った非言語情報でのコミュニケーションであることも特徴である。人は言語レベル、意識レベルとは違う次元で多くのメッセージを発しているものだ。人間彫刻/家族造形法をやるたびになんだか人間が愛しくなるからおもしろい。

2012.09.15
2012年9月 大学生のジェンダー意識と教育

今 月は、「大学教育におけるジェンダー・ファミニズム」というシンポジウムの話題提供を頼まれて、日本心理学会に初参加した。とても面白かったので紹介したい。

 上野淳子さんの報告によれば、若者の保守化傾向は高まっているそうだが(20代、30代で専業主婦志向や性別役割分業の賛成が増加している)、「保守的」の内容はこれまでとちょっと違っているという。少なからぬ女性たちが「夢ある専業主婦」を目指し、「子育てはしたいけれど、家事は手伝ってね、稼ぎはお願いね、私は好きなこともしたいから」と考え、男性の方は、将来に不安や自信のなさ、危機感をもっており、仕方なく仕事中心の生活をして、「できる範囲で家事育児を手伝いたい」と考えているらしい。ちなみに、25-34歳の男性で、年収600万以上稼ぐのは6%ほど、平均は250~500万である。

 続く松並知子さんの報告によれば、女性は男性以上に貧困化しやすく(賃金格差や高齢単身世帯増加などによる)、85%の女性が働いているにも関わらず貧困化しているという。そもそも女子大学生の金銭感覚は非現実的であり、将来のパートナーに依存する傾向がある。自分の初年度の年収と、結婚時のパートナーの年収を予測させると、自分の年収については現実的であったが、パートナーの年収についてはかなり高額に見積もっていた。とくに専業主婦希望層では600万近くを見込んでいる。上記のデータと突き合わすと、専業主婦希望層が6%の男性を奪い合うということになる。また、働くつもりの女性たちも、自分の退職年齢は46.75歳と予想しながら、パートナーの退職年齢は61.91歳と予想した。

 結局、女性たちは、若い頃は、自分に都合良く夢を見ているが、現実は厳しく、辛酸を嘗めることになるということか。松並さんの意見は、だからこそ、女性にファイナンシャル・リテラシー(お金や資産を主体的に判断し管理できる能力)が必要で、実際にこれをやってみると、女子大学生のジェンダー意識は向上したという。なるほど。若干、耳の痛い話だ。私自身は早くから自活してきたため、お金についてきわめて現実的であると思うが、貯金や資産云々の話にはアレルギーがあって、お世辞にも賢明とは言えない。

 荻野佳代子さんの話は、女子学生向けのキャリア教育についてだったが、国の施策や東京女子大の取り組みなど興味深かった。女子学生のキャリア教育は男女共同参画の組織的展開の一環として推進されることが大切であるという。私の報告は自分自身の取り組みを整理し直したものだが、今後の課題として男女協働型の組織運営とはどういうものかということを提起しておいた。20数年、女性のみの組織を運営してきて、女性ならではの関係性のあり方を含め、それなりに獲得してきたものがあったが、男女混合の大きな組織の中で、性別役割を越える男女の協働モデルの確立の難しさに、最近考え込んでいる。ジェンダー教育そのもの以上に、大学の隠れたカリキュラムとしての、男女教職員の態度・振る舞いは学生たちにジェンダーに関する何らかのメッセージを与えているはずだ。

 もうひとつ、全体を通して、経済優先主義と個人主義を乗り越えていく新しいジェンダー論が必要なのだということを考えている。決して現状が良いとは思わないが、特権主義フェミニズムになってはいけないと思う。昨年より、震災復興支援で継続的に東北に関わるようになったが、性別役割分業がある代わりに、助け合いやネットワークが生きていることを実感している。影の部分を乗り越えていかなければならないが、みんなが男になればよいというものでもない。最大の教育は良くも悪くも上世代の生き方を示すことである(悪い部分も反面教師にはなる)。心して新しい男女共生モデルを模索したい。

2012.08.31
2012年8月 アイヌモシリ・北海道〜脱植民地化のための平和学

 北海道大学で開催された日本平和学会第4回全国キャラバンというのに参加した。本州にいるとアイヌの問題はほとんど視野に入ってこないが、北海道に来ると、いつも何がしかアイヌのことを考えさせられる。先月は戦後開拓に触れたが、開拓記念館の展示を見て、開拓は侵略であることを体感し、衝撃を受けた。今回は、「植民地化」というキーワードが頭に入ってきた。

 明治政府が蝦夷地を北海道と改称し、「国郡制」が導入されたことは小学校の頃、教科書で2行ほど習ったような気がするが、考えてみればこれが「植民地化」だったわけだ。アイヌにとっては何千年も生活の場であったアイヌモシリを、持ち主のない土地だからと明治政府が勝手に官有地にして、大規模な和人の移住による開拓が進められた。

 初めて聞く話だったが、二風谷(にぶだに)というアイヌ民族が多く暮らす土地にダムが建設された。反対運動から訴訟となり、国も加わって、1997年、札幌地裁はアイヌが先住民族であることと、アイヌの文化享有権を認め、ダムの違法性が認定された。とは言っても、ダムは、今なお、あるわけだが、写真など見せてもらうなかで、ひとつのダム建設がどんなふうに致命的に、自然を、人々の暮らしを、文化を変えてしまうのか考えさせられた。おのずと原発のことが思い浮かぶ。

  基調講演をした貝澤耕一さんは、現在、NPO法人ナショナルトラスト・チコロナイを立ち上げ、寄付金で周囲の土地を少しずつ買い取って、森を作り始めているという。「本来の森はもはやどこにもない。木はみな切り倒されてしまったから、大木を見ようと思ったら、北大に来るしかないでしょう」と言っておられた。実は、会場へ向かいながら、「北大はなんて自然に恵まれた美しいキャンパスなんだろう」と感動していたのだが、実は、これこそ帝国主義のあらわれだったわけだ(実際、北海道帝国大学時代には「植民地学」が教えられていた)。

 シンポジストたちの話もいずれもおもしろかったが、コメンテーターの小田博志さんが、平和学の脱植民地化、研究と大学の脱植民地化、市民社会の脱植民地化ということを言っていた。植民地主義が意識に上らないという意味で、私たちは今も帝国主義の遺産のなかに生きているわけだ。

 今回の「平和キャラバン」は、「平和を定義する力」を平和研究に取り戻すという趣旨で全国を巡り、8回続けられるそうだ。平和学会も平和の定義を独占するのではなく、複数の平和の定義を許容して、多様な平和観が共存し、競合しながら切磋琢磨して個々の平和観を鍛える知的空間を学会内部に作り出すという。なかなかいいじゃないか。とても満足度の高い一日だった。

2012.07.27
2012年7月 家族の歴史を辿って

 先月は沖縄のことを書いたが、今月は北海道のことに触れてみたい。私自身の個人的なルーツである。私の母は子どもの頃、東京大空襲で焼け出され、家族とともに「開拓団」として北海道Kへ移り住んだ。子どもの頃からその悲惨な体験を聞かされて育ったが、今回、記憶としては初めて(生まれたばかりの頃、一度行ったことがあるはずなのだが)、その地を訪れ、親族11名が集合した。そもそもは、Kに開拓記念館があることを知って、一度行ってみたいと思ったのだが、子どもの頃から聞かされてきたその物語がどんなところで織りなされたのか、私のルーツのひとつである母たちの物語は大きな歴史の中にどんなふうに位置づけられるのか知りたいという関心があった。

 記念館に行ったが、初期の開墾者の苦難と成功の物語のなかに、母たち一家に関する記録はどこにも見つからなかった。とりあえず置いてあった資料のいくつかを買い求め、パラパラと見てみたところ、「戦後開拓」という小さな記録を見つけた。昭和20年から29年にかけて、引揚者、戦災者、復員者らが入植していた。北海道における地域の歴史の掘り起こし運動についてはかつて書いたことがあるが、北海道口承文芸研究会による資料集である。そこには、アイヌの人たちや強制労働者、性奴隷となった女性たちなどに関する悲しい歴史の物語も含まれていた。さらに調べていくと、戦後の開拓移民はKだけでなく、昭和20年7月から11月までに約1万7千人が北海道に入植していることがわかった。北海道における開拓(略奪)の歴史は想像を絶する厳しさだったようだ。

 現在は、北海道から沖縄まで散り散りに暮らしている母の親族である。もう亡くなってしまった叔母たちもあるが、今や年老いた叔母たちや従兄弟姉妹と緑に囲まれた青い空の下でジンギスカンを囲んで、おそらくは最初で最後であろう、しみじみとしたひと時を過ごした。叔母や母たちが語り合うのを見ながら、苦労を生き抜き、働き、子育てしてきた尊敬すべき先輩たちだと思った。そして、従兄弟姉妹や自分だって立派に育っているではないか。生きていさえすれば何とかなる、人間の力はなかなかに偉大なものだとある種の感動を覚えた。短い時間ではあったが、貧困と飢餓の中で幼かった叔父が命を落とした場所や社会的抑圧を象徴する地へも足を運び、当時を知る方とお話ししたりもした。また、同期に入植し、稀有なことに開拓に成功して今や広い農園を営む方を訪ね、甘いメロンをご馳走にもなった。

 今回、いろいろ調べながら、少しずつ歴史の掘り起しがなされていることを知った。以前、すみだ郷土文化資料館学芸員である田中禎昭さんの「語りうる戦争体験、語りえない戦争体験」という講演を聞いたことがあるが、東京大空襲の被害者によって描かれた絵は、広島や沖縄戦の被害者による絵と比べ、社会でいまだ被害として位置づけられていないことの表現、周辺性が特徴的であると言われていたことが印象に残っている。東京大空襲については訴訟も行われているが、二審も棄却されている。自分たちの苦しみが歴史や社会の中に位置づけられない無念さはどんなだろうか。福島の問題とも重なる。近いうちに東京にある東京大空襲・戦災資料センターへも行ってみたい。

2012.06.25
2012年6月23日 「慰霊の日」に沖縄を訪れて

 平和学会があって、久しぶりに沖縄を訪れた。最後に来たのはモノレールができる前だったから、十年ぶりくらいなのではないだろうか。建物も街の雰囲気もなんだかずいぶん変わったような気がする。高さの高い新しい建物が多くなっている。

 折しも「6・23慰霊の日」。よく知らなかったが、沖縄戦を指揮した第32軍牛島満司令官が自決したとされる6月23日を、県が1974年に「戦没者追悼、恒久平和を希求する日」と条例で定め、1991年に正式な休日となったそうだ。沖縄戦では、激しい地上戦で子どもを含む住民9万4千人、日米軍人含め、20万人以上が犠牲になった。4人に1人が亡くなったというのだから、沖縄の人々がどれほどの被害を蒙ったかは想像を絶する。

 慰霊の日には、糸満の摩文仁の平和祈念公園で沖縄前線戦没者追悼式が開催され、県内外、国内外から5500人もの人々が参列した。学会プログラムの関係上、追悼式には出席できなかったが、担当の分科会を終えるや否やタクシーを拾って、平和祈念公園に行った。タクシーの運転手さんの話では、この日は、早朝からたくさんの人々が家族で祈念公園を訪れ、ピクニックのようにお弁当を拡げてゆっくりと過ごすのだという。「ピクニックのように」というのは光景としてイメージしにくかったが、かつて経験したバリの村の火葬ガベンで出店が並び、子どもたちが風船や飴を持ってお祭りのような雰囲気だったことを思い出す(/muramoto/2007/08/000197.php)。

 行ってみると、たしかに、家族、それも多世代からなる拡大家族が食べ物やお酒やお茶を慰霊碑の前にたくさん並べて捧げ、平和の礎(いしじ)に刻まれた名前を指でなぞりながら祈っていた。そして、それぞれに芝生にお重を拡げ、歓談しながら食べていた。以前、沖縄のお盆を経験したことがあるが、お盆には死者が家に帰ってきて、家人は死者に話しかけ、たくさんの食べ物やお酒を捧げる。お盆に死者が戻ってくるというのは、私の子ども時代の記憶にもあるが、それにしても、死者の存在をリアルに実感する。沖縄戦の遺族たちは、「沖縄戦の遺族」というつながりのなかで、この日、青い空と海が広がる緑豊かな美しいこの空間に集い、あの世に逝った人々と再会し、一緒に同じ食べ物を食べ、語り合うことで、家族のつながりを確認し、平和を誓うのだろう。大きすぎて抱えきれない歴史と現在のトラウマを抱えながらも、逞しくしなやかに生き抜く人々の知恵には感嘆させられる。

 また、「パレットくもじ」の歴史資料館では、ちょうどWAMとの共催で「沖縄戦と慰安婦展」をやっていて、朝いちばんに行ったが、朝からたくさんの人々が来ていることに驚いた。いくらか会話が耳に入ってきたが、展示と自分の記憶(体験や親や祖父母から聞いた話)を照らし合わせているようだった。沖縄の人たちにとっては、これらの内容がそのまま自分のこととつながっている感覚を持っているのだろう。本土で展示をやっても、これほど興味を持って人々がくるかどうか。本当はそうではないのに、多くの人はこれらの内容が自分のことではなく他人事だと思っているのだろう。

 学会では、基地と原発をテーマにしたシンポジウムをのぞいたのだが、NHKの七沢潔さんという人が「メディアは構造的暴力の一部である。そして、視聴者は無自覚なままそれに加担している」と言った。森口豁さんは「本土のメディアは沖縄の人々が死ぬのを待っている」と言い、七沢さんは「大手メディアは原発事故の直後しか報じない」と言っているそうだ。そんなこともあって、今日は「沖縄タイムズ」と「琉球新報」を買って隅々まで読んでみたが、この日の新聞は、慰霊の日とオスプレイ(米空軍の輸送機)がほとんどを占めていた。加えて、沖縄タイムズ(2012年6月24日朝刊)の社説には、原子力基本法に「我が国の安全保障に資するため」という目的が密やかに追記されたことへの批判が書かれていた。知らなかった私は仰天した。本土でこれらのことはどれだけ報じられているのだろうか。

 平和祈念資料館や慰安婦展を見て、いろいろと新しいことを学んだ。沖縄本島だけでなく、ダイバーには馴染の座間味や渡嘉敷、西表、宮古などのことも。「沖縄タイムズ」に紹介されていた証言では、摩文仁(激戦地だった平和祈念公園があるところ)のあたりでは、子どもの頃、海に潜ったら、ずいぶん長い間、そこかしこに白骨が見えたそうだ。たくさんの人々の無念さや苦しみに思いを馳せながら、構造的暴力の一部になることへの抵抗を模索したい。

2012.05.11
2012年5月 「私」のなかの他者・社会・歴史と出会う〜HWHのトレーニングを受けて

 このゴールデンウィークは、丸5日にわたってアルマンド・ボルカス氏によるHWH(歴史の傷を癒す)のトレーニングを受けた。初めの部分ではドラマセラピーの基礎を学んだが、これまで断片的に経験してきたことを体系立てて学び直し、あらためて腑に落ちるところもあったし、惜しげなくさまざまな技法を教えてもらいレパートリーも増えた。ドラマセラピーの技法については、受け入れの個人差や好き嫌いもあるだろうが、慣れも大きいように思う。私自身も、最初から受け入れやすいもの、ちょっと違和感のあるものなど差があったが、回を重ねて馴染むにつれて、だんだんと面白くなってきた。技法とは道具だから、自分の使いやすいもの、気に入ったものから使っていくのが良いだろう。

 今回、あらためて痛感したのは、アイデンティティの成り立ちについてである。これまでも、歴史のトラウマと直面するなかで繰り返し考えてきたことではある。HWHの技法のひとつに「アイデンティティのワーク」というものがある。グループの前に立って、「私は○○(名前)です。私は○人(国籍や民族)です」と言ってみると、どんな感情が沸き上がってくるかということを体験してみる。これを日本人でやると、いつも必ずと言ってよいほど戸惑いが先に立ち、「関西人です」「東北人です」といった具合に地域を言う人が多かった。さまざまな言語で試しもするが、"I'm Japanese."と英語で言う方がたやすい感じがする。

 きっと日本に住む日本人は日本語でこのような自己紹介をするチャンスが少ないからだろうと思っていた(別の言い方をすれば、日本のマジョリティである日本人はどこまでも無自覚にそれを前提として生きているという傲慢さの表れでもあるだろう)。ひとたび国外に出れば、そのチャンスは増える。それに比べて、アメリカのように多文化・多民族・多国籍で成り立っている国では、○人というアイデンティティは重要なものだろう。たとえばアルマンドなら、ユダヤ人、アメリカ人、フランス人、スペイン人というアイデンティティを持っている。そのどれを主張するかで感情状態が変化するだろうことは想像に難くない。使用する言語によっても違うことだろう。

 今回のグループで多くが体験したことは、むしろ誰に向かって言うのかによって感情が変化するということである。たとえば、日本人が日本人に向かって「私は日本人です」と言ってみてもあまり感情は動かないが、中国人や在日コリアンに向かって言えば、居心地の悪さや罪悪感が出てくる。加害・被害という歴史についてよく知らなかったり、よく考えていなかったりすれば、感情状態はまた違うかもしれない。アイデンティティが場面や文脈によって変化するのは当然のことだと感じていたが、多くのアメリカ人のアイデンティティは文脈によって変化したりしないのだそうだ。むしろ、文脈に関わらず確固たるアイデンティティを獲得することが求められるのだという。だが、少なくとも私たちは(正確には誰を指すのか、現段階では不明瞭であるが)、相手によって「私」の在り方が調整されることを経験する。つまり、「私」は社会的文脈や歴史的文脈によってその都度構築されるのだ。

 サイコドラマの手法を使って、乗り越えがたいわだかまりとなっている場面を再構成すると、「私」がいかに他者との関係性において構築され、他者の「声」によって縛られており、それをシンボリックに変容させることができれば、「私」も変化するのだということを体験する。「私」の脱構築、「私」の再構築である。二人がペアになって自己紹介した後、グループの前では、アイデンティティを交換して、相手を演じながら自己紹介するというワークがある。あるいは、誰かの心の中にある声を演じる「ダブリング」という手法がある。こういった体験を通じて、「私」のなかに「あなた」があり、「あなた」のなかに「私」があることを知る。理解し共感しあう行為は、「あなた」を受け入れ、「私」を拡大することなのだ。深く学ぶことや深く感じることを通じて、「私」は常に構築され続けるということになる。それは、演劇、映画、小説、音楽、絵画等による体験でもよいのだ。

 ウディ・アレンに「私の中のもうひとりの私」という映画があった。50歳になる哲学教授が疲れて居眠りをしていると、隣室の精神分析医のもとに通う患者の声が聞こえてくる。聞くともなしに聞いてゆくうちに、ずいぶん昔に切り捨ててきた自分の一部が立ち現われてくるという内容だ。他者の声を契機に、過去に忘れてきた私の断片を拾い集めながら、「私」が再構築されていく物語である。「私」の再構築が面接室の外で起こっていることが面白い。心理学ブームは、「私」があたかも閉じられたシステムであるような誤解を生みだしているが、サイコサラピーとは本来、他者の声を受け入れ、他者との関係性のなかで「私」を変容させていくプロセスではなかったか。HWHは明らかに心理学的手法を使うが、このように、「私」が実は社会や歴史に開かれてあることを明らかにするものであり、最終的なゴールとして社会変革が掲げられているところが素晴らしい。今後の展開の予感にわくわくしている。

2012.04.30
2012年4月 湧水から平和の大河へ〜国際シンポジウム「人間科学と平和教育」を開催して

 4月28日立命館国際平和ミュージアムで、国際シンポジウム「人間科学と平和教育」を開催した。南京でのHWH(歴史の傷を癒す)ワークショップについては繰り返し紹介してきたが、このプログラムに関わってきた人たちが集まって、今後の方向性を検討しようとするものである。私自身は2007年にHWHと出会って南京へ行き、2008年は京都で、2009年はサンフランシスコと南京で、2010年はカナダで、2011年は中国蘇州と再度、南京でという具合にHWHの試みを重ねてきた。

 今回のシンポジウムは、HWHとの出会いを作ってくれた村川治彦さんを司会に、創始者であるアルマンド・ボルカス、いつも南京の暖かい受け入れ先になってくださっている張連紅先生とともに報告を行い、立命館の同僚である中村正さんと加國尚志さん(平和ミュージアム副館長)にコメントを頂いた。合間に、紫金草合唱団のコーラスと作詞者である大門高子さんのコメントもあった。

 紫金草と紫金草合唱団については、メンバーの一人でもある北海道大学の小田博志さんがブログに書いている(http://odahiroshi.blogzine.jp/webessay/2012/01/post_093d.html)。紫金草の花は、侵略戦争への反省と平和への願いが代々受け継がれ、日本中に広がっていることを表すシンボルでもある。合唱団の方々が、ちょうど今満開に咲いている紫金草の花で会場を飾ってくださった。優しくはかなげな薄紫色の花だが、群生して逞しく広がっていく。この花と活動のことは、南京の虐殺記念館にあった少女の記念碑と小さな花壇で記憶していた。この記念碑は、1939年に南京からこの種を持ち帰って広めた山口誠太郎さんの息子・山口裕さんが日本で1千万の募金を集めて作ったそうだ。ちなみに、山口さんは帰国後、品川の星薬科大学初代校長に就任し、紫金草はこの大学の校花となったが、この大学の創設者星一はSF作家として有名な星新一の父なのだそうだ(ここでは深入りしないが、昔、愛読していた星新一を今度新たな視点から読み直してみたいと思う)。

 80人近い団員たちが全国各地から駆けつけてくれ、会場を美しい歌声で満たしてくれたのだが、お一人おひとりのお顔を見ながら、それぞれの方々の背景にあるどんな人生と想いがここまで連れてきたのだろうと想像すると胸が熱くなった。実は、このシンポジウムに集まってきた私たち一人ひとりにも、ここに辿りついたそれぞれの物語がある。小田さんは2012年発行の報告書に「平和は、小さな湧水が流れ出し、結びつきながらいつしか大河となって、最初想像もつかなかった海へと流れ込むところに実現するのではないか」と書いている。ご本人は覚えているかどうかわからないが、2010年に開催したシンポジウムでは、「アジアの中で湧き水はある。皆さんが南京に行ってワークショップをすることも一つの湧き水だと思います。それをいかに流れにしていって他の流れと合流して大きい平和という川にしていくのかということを考える、実践していくことが私たちの今後の課題ではないか」と言った。小田さんの中にも、きっと、川から大河へ、そしてその先に海を予感させるだけの歩みがきっとあったのだ。

 コメントやディスカッションを聞きながら、これから向かうべき可能性についてインスピレーションが湧いてきた。自然な流れに従って進んでいこう。まずは、明日から今度はアルマンドによる三日に渡る集中講義と二日のワークショップ、計五日のHWHトレーニングが始まる。私も今、基礎としてルネ・エムナーの『ドラマセラピーのプロセス・技法・上演〜演じることから現実へ』を読んでいるところだ。来月のトピックでは、たぶん、このトレーニングのことを紹介できるだろう。

2012.03.16
2012年3月 ドイツにおける子どもの面会交流支援を視察して

 10年近く前から法と心理の協働についての研究チームに加わっているが、大きなテーマのひとつが、離婚後の親子面会交流である。日本では、長い間、別れた親子は会わない方が良いという考え方だったが、最近では、共同親権の議論も沸き起こり、別れた親との面会交流が促進されるようになりつつある。別れる前から両方の親と子どもとの関係がよいとすれば、これは基本的に良いことだと思うが、その内実は複雑だ。親子の面会交流が子どもの権利ではなく、親の権利と捉えられていたり、親同士の権力争いが重ねられたりする。面会交流について、うまく合意が得られず、争いになった場合、そんな複雑な事情を誰が判定できるだろう。その中で翻弄されるのは子どもである。

 ドイツでは、1998年に親子法が改正され、両親が離婚しても、両親の「共同配慮」(共同親権のこと。親の権利というより、子どもを配慮する義務と権利である意味づけられたため、このように訳語が定着した)は持続することとなった。それで親権や面会交流を争う必要がなくなるはずだったが、実際には、相変わらず紛争が繰り広げられた。コッヘムの家庭裁判所は、さまざまな専門家(裁判官、弁護士、少年局、鑑定人、相談所など)が協働して、合意形成を迅速に進める手法を開発した。「コッヘム・モデル」と呼ばれるこの方法はそれなりの成果を上げ、2009年の「家事事件及び非訟事件手続法」改正では、このエッセンスが導入された。簡単に言えば、離婚後の面会交流に関して、裁判所で勝敗をつけるのでなく、当事者たちが少年局(児童相談所のようなもの)やメディエーション(日本とは違って裁判所とは別に存在する調停)、心理相談所を利用して合意形成できるようにするシステムである。

 2010年に続き、今回、このバリエーションであるシュトットガルトの「ベーブリンゲン・モデル」を視察し、関係機関の専門家たちと話をした。裁判で判決を出して終わりではない紛争解決には、多くの人々の多くのエネルギーが必要である。裁判官自ら子どもの声に直接耳を傾け、少年局や相談所スタッフは家族と何度も会い、また、メディエーターや手続き補佐人(かつては「子ども代理人」「子ども弁護士」と呼ばれていた)たちの仕事はほとんど社会奉仕的な位置づけにある。子どもを中心に置き、子どもの権利のために、地域の大人が皆で力を寄せ合おうという姿勢には、社会の成熟を感じるし、胸が熱くもなった。このようなモデルから何か学べることはないかというのが、私たち研究チームの課題である。

 他方、答えの出ない問題は残る。子どもにとって、親と会い続けるのが良いのかどうかをいったい誰が決められるだろうか。シンプルに両方の親と子の肯定的な愛着関係が形成されているケースであれば、第三者が口をはさむまでもなく、合意はなされるだろうし、そもそも紛争にならないだろう。一緒に暮らす親子であっても、関係を持たないケースもあるし、その方が良いという場合もあろう(極端には一方の殺害に終わる親子関係だってあるのだから)。一緒に暮らす親子が一定時期、疎遠になるというのもありがちなことである。親をまったく知らない子どもが、親に関心を持ち、会いたいという思いが高まることもあれば、むしろ、とくに関心もなければ、とくに会いたくもないということもあるだろう。それが、いざ離婚となれば、親子の交流が契約になるというのも奇妙な話である。

 DVや虐待など、子どもに被害があるケースはさらに複雑である。被害・加害の証明は難しく、そのようなケースであればあるほど、紛争性は高くなる。そもそも、そのようなケースでは、加害者が被害者を搾取しているわけだから、搾取先をそうやすやすと手放すはずがない。海外では、保護付面会などの制度が取り入れられているが、どこをどう調べても、十分に機能しているとは言い難い(もちろん、ないよりましであるが、修復に要する期間を考えれば、十分であることは不可能に近いとさえ思える)。子どもの気持と言っても、どこからどこまでが子どもの本当の気持なのかだって、にわかに判定しようのない話である。たとえば、自分の子ども時代を振り返ってみても、周囲が何と言おうと頑として譲れない自分独自の感覚というものもあったと思うし、当時は信じていたけれども、思い返せば周囲の影響だったり、子どもの思い込みだったりしたと思えるものもあるのではないだろうか。

 ドイツでは、今や、2人から2.5人に1人の子どもが親の離婚を経験し、今後はさらにこれが増えるだろうということである。日本でも同様であろう。先月のトピックに書いたが、結婚が制度モデルから関係モデルに変化すると、破局の可能性は高まり、親密な友人やサポート・ネットワークが重要となる。面会交流のシステムは、パートナー関係を制度で縛れなくなるから、親子関係を制度で保証しようという発想だと思うが、それもまた矛盾を孕んだものと言えなくもない。生物学的な父がいて、母がいてという形式が唯一絶対の親子関係というわけではないし、これに不妊治療技術の展開(あえて進歩という語を使わない)による親子関係の複雑化を加えれば、状況はますます迷宮と化す。

 私たちにできることは、そんな問いを開いたまま、子どもや親子関係のありかたの選択肢を増やすことなのではないだろうか。親が別れたら、二度と親子が会えないというわけではない。何らかの援助システムがあれば、子どもにとって親との良い時間が増やせるのなら、それもいいだろう。何より、親が、親として、いったんは自分のことを脇に置いて子どものことを考えられる視点を身につける方が良いし、それには、第三者のちょっとした手助けが役に立つこともある。結論は出ないが、子どもたちにとって緩やかで多様な関係性が保証されるシステムが重要だと思う。私たちのNPO活動であるViプロジェクトは、そんな思いで動いている。研究成果と照らし合わせながら丁寧な実践の蓄積を重ねることで、できる限りよい形で法システムの構築に示唆ができたらいい。

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