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トピックス by村本邦子

2008.06.23
2008年6月 記号としての父親!?

 おととし、父親のことをテーマに修論を書いた娘がいたが(2007年2月のトピック「中年男性の人間模様」を参照)、今年は、父親のことをテーマにしている息子がいる。おととしの彼女も、父親のことがわからない娘だったが、今年の彼も、父親のことがわからないという息子だ。どちらも、家庭で、ほとんど自己表現をしておらず、つかみどころのない父親だった。ゼミで、あれこれ話しているうちに、「記号としての父親」というキーワードが出てきた。

 折りしも、「象の背中」という映画を観た。相変わらずの男の夢物語に軽く失望もしたが、まさに、「これも記号としての父親パターンじゃないかしら」と思い出した。正確に言えば、記号だった父親が、不治の病、余命6ヶ月という事態を境に、グイグイと存在を主張し始めた物語なのではないか。家族の絆が結ばれ直すが、実際には、生身の出会いは適わず(誰一人、やったことがないから)、どこか「優しさごっこ」「家族ごっこ」の印象がぬぐえない。去年の修論の「家族を大切にしながら不倫をしている男性たち」(2008年2月のトピック「家族万華鏡」を参照)と同じ人種だ。私には信じられないが、これが成立する家族は一定程度あり、ある種、恵まれた社会階層とも言えるのだろう。実は、この映画に出てくる妻も、こっそり外に愛人がいたという裏物語を作ってしまったくらいだ。

 この映画でも、上記の娘が分析したとおりに、家庭においては、「自分が家族を守るという役割意識、感情表現は抑圧される」の特徴が見られる。この役割意識は、長男である息子に受け渡される。「お母さんと妹を頼んだぞ」の遺言だ。年齢的には自分自身と重なるが、大学生の息子に自分のことを託されると考えると、まったくもって侮辱だ。大学生と言えば、これから家を出て、自分の人生を築く大切な時期。父親の代わりに家族を託された息子は、役割意識(責任感と言ってもよいが)を受け継ぎ、感情表現を抑圧して生きていくのだろう。なんだか切ない。そして、健気とも言える男のナルシスティックな夢物語を成立させるために、妻も娘も、自分の役割を演じるのだ。カップルや親子が生身で出会えるはずがない。

 ところで、最近の私は、大きな組織に属し、しばしば、男ウォッチングを楽しんでいる(不謹慎だったら、ごめんなさい・・・)。先の娘の分析によれば、社会においては、「飾らず、素の自分をさらけ出せる」友達関係と、「他者は人脈、利害関係、感情表現は抑圧される」仕事関係がある。職場ではあるが、ここではなぜか、この両面を見ることができる。職場にいて、ある時、ふと、「子どもにとっては遊びが仕事、大人にとっては仕事が遊び」、あるいは、「遊び場としての仕事場」というフレーズが浮かんできたのだが、ここでは、生の男たち(セクシュアルという意味ではなく、限りなく人間的な姿)を感じることができる。相談のなかで、妻を通じて感じる男たちとは違う男たちの顔だ。

 そんなことを考えていたら、高3の娘が「父よ、母よ」の一行詩が載ったクラス通信を持ち帰ってきた。

「父よ、おっさんだけどお父さんはメル友。母よ、尊敬とか絶対したくないけどなんかすごいと思う」「父よ、もっと家庭に関心向けてください。母よ、子どもに相談する前に、親同士で話し合って」「父よ、車を運転しましょう。母よ、犬の散歩させて申し訳ない」「父よ、あきらめないで。母よ、体を休めて」「父よ、あなたが頑張ってること、今とってもしんどいこと、こんな僕でもわかってるつもり。だからあのとき我慢して諦めたんだ。それやのにあんなひどいこと言うて傷つけたうえにやつあたりして悲しかったよ。苦しかったよ。自分は生まれて良かったのかと不安になった。母よ、進路のことだけじゃなくて、受け入れられないようなことも受けとめる努力を続けてくれてありがとう。あなたが私を産んだこと、あなたのところへ生まれたこと、そんなどうしようもないことを一番感謝しています。お弁当を作ってくれて毎日一生懸命なあなたを永遠に誇りに思います」「父よ、最近、背中小さくなったと思う。もうちょい仕事続けて。母よ、定期健診行って」「父よ、会ったことないからわからない!母よ、心から本当にいつもありがとう!」「父よ、もう少し、母を気遣ってあげてください。母よ、意味のわからない理由でキレるのやめてください」「父よ、高校生の息子にくっつかないこと。母よ、風呂上がったら服着てください」「親よ、離婚するなら結婚しなければよかったのにネ。結婚式には招待していいんですか?笑い」「親よ、大学落ちても怒らんといて」・・・などなど。

 子どもたちはなんと繊細で寛大であることか。必ずしも記号ではない父親の姿を捉えているようにも見える。そういう意味で、この企画はおもしろかったし、匿名とは言え、こんなに素直に表現できるクラスの信頼関係って素敵だなと感心もした。ちなみに、娘が書いたに違いない一行詩は、「父よ、勉強教えてくれてありがとう、尊敬してるよ。母よ、お母さんといるとめちゃ楽しいし、おちつくよ」。ふ~ん。意外なコメントだったけど、そう思ってるんだ。親たちこそ、子どもを記号にしてしまわず、生の子どもの姿を見るべきなのだろう。

2008.05.19
2008年5月 今、親に聞いておくべきこと

 今年の年報は、「世代を越えて受け継ぐもの」をテーマにしているので、研究の前段階として、それぞれ親にインタビューを行い、自分のルーツを確認する作業をしている。一度で終わらないので、電話をしたり、実家に帰ったりして、何度も繰り返しインタビューしている人もいる。私自身もまだ途中だ。

 この話を日記に書いたところで、『今、親に聞いておくべきこと』というタイトルの本が出版されていることを教えてもらい、早速、注文した。上野千鶴子監修で序文を書いているが、実際には、田島安江さん、藤原ゆきえさんという2人のライターの思いから出来上がった本のようだ。2人は身内の死をきっかけに、「今、親が亡くなってしまったら、永遠にわからないことがあるだろう。私は親のことをどれだけ知っているだろうか」と聞くべきことが次々に浮かんできて、聞き書きによって子どもが1冊の本を作り上げるという形を思いついたのだという。

 章ごとにテーマがあって、聞いたことを書けるように白紙の部分が挟み込んである。1章は「今、聞かなければ間に合わない」、2章「親の生い立ちを知る」、3章「戦争と平和を語り継ぐ」、4章「親を通して自分を知る」、5章「親の現在を知る」、6章「聞きにくくても聞いておく」、7章「聞きたくても聞かない方が良いこと」、8章「今のうちに親と和解しておきたいこと」、終章「親のためにできること」で、うまく構成されているなと思う。

 かねがね、親にインタビューをするというのは良いアイディアかもしれないと考えてきた。これまでも、(家族問題を扱っている)大学院のゼミで、自分自身の家族問題から研究テーマを設定している学生たちには、まず、自分の親にインタビューするという提案をしてきた。日本の文化には、「語らず察する」という美学があるため、大切なことを言葉にして伝え合わない傾向があるが、インタビューという形式をとることで、互いに一定の距離を得て、あらたまって語り、聴くという関係が成立する。親へのインタビューを通じて、しばしば、親子関係の修復が始まるということが起こった。昨年、学部の授業でも、祖父母世代に対してだったが、インタビューの宿題を出してみたが、あちこちで面白いことが起こった。

 もちろん、無責任に聞けばよいというものでもない。聴かせて頂くからには、きちんと向き合って、受けとめるという覚悟が必要だし、そもそも、インタビューが成立するためには、インタビューを受けてみようという語り手の決意が前提である。親世代が心を開けないこともあるだろう。7章の「聞きたくても聞かない方が良いこと」の章は、「誰にでも墓まで持っていきたいことがある」の節からのみ成っているが、他者の心の扉を力づくでこじ開けようとしたり、土足で入り込むようなことはできない。それでも、ちゃんとした聴き手と機会を得たら、外に出たがっている記憶というものは、想像以上にたくさんあるのではないかという気がする。

もうひとつ、条件が必要かもしれないとも思う。インタビューというからには、聴いて終わりではなく、聴いたことを何かにつなげていくという、何がしかの目的があるはずだ。語る/聴くという二者関係を越えて拡がっていく回路が必要なのではないか。そういう意味では、この本を個人で使うのは難しく、共有できるグループがあった方がよいのかもしれない。つくづく、人間とは、歴史的存在であり、社会的存在なのだと思う。過去を無視した現在を生きようとすれば、浮き草であるしかない。これは、真空に浮かぶ「心」という現代にありがちなモデルに近い。根を張るためには、土壌を知ることが必要だ。個の歴史も、家族の歴史も、国の歴史も、そして、世界の歴史も互いに関係しあっている。縦のつながりと横のつながりを得て、はじめて安定した足場も持てるだろう。サイコロジストとしての自戒もこめつつ。

2008.04.11
2008年4月 フラ&チャンティング

 この春、ハワイ島でフラとチャンティングのワークショップに参加してきた。おもしろい体験だったので、今月はこのことについて。映画「フラガール」ですっかりブームになったフラダンスだが、フラとは、ハワイ語で「踊り」を意味するため、フラダンスという言い方は正しくないのだと知った。ハワイでは、みんな「フラ」と呼ぶ。

 フラには2種類ある。カヒコと呼ばれる古式フラは、古代から伝わってきたフラで、シンプルな太鼓とチャントに合わせて踊るもの。万物への祈りや感謝を表し、神々に向けて踊る。素朴で力強く、かっこいい踊りだ。一方、アウアナと呼ばれるフラは、ウクレレやギターなどモダンな楽器が入り、美しい色とりどりの衣装を着て踊られるモダンフラである。「フラガール」以前に私たちが共有していたフラのイメージはこっちの方だと思う。

 もともと、文字のなかった時代、原住民たちは、物語を踊りによって伝えていた。白人がハワイに上陸すると、全裸に近い状態で踊るのはふしだらであるとフラは禁止された。その後、カラカウアが王位についてから、フラは解禁となり、白人が持ち込んだ楽器も使用して、優雅に踊るモダンフラが生まれたという。

 そして、フラにはチャントがつきものだ。チャントとは、フラを踊る歌のようなものだが、単なる歌というより、「聖なる歌」に近い(「チャント」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは、お経だ)。あるクムフラ(クムとは師匠の意味で、フラの師匠を指す)は、「フラは踊りから始まるのでなく、まずは言葉だ。フラを学びたい人は、まず、ハワイ語を学び、チャントの意味を理解するように」と言っている。

 さて、今回は、友人である小田まゆみさんが師事するクム・ケアラのフラ&チャンティングのワークショップに何度かご一緒させてもらった。なにぶん初めてなので、まったくの見よう見まねだが、基本的にフラもかがみ腰で踊るようで、この姿勢はバリ舞踏とも共通するので、初めてにしては、もっともらしく踊れたような気もする(!?)。それに、どうもフラは、みんなできれいに揃えることより、それぞれが神と交わりながら踊ることが大切なようで、私には合っているのかも。自分を信じて踊ることが重要なのだそうだ。ある程度、振りを覚えた2度目には、楽しく(というか気持ちよく)踊ることができた。

 チャンティングの方は、はじめに英語でハワイ語の解説をしてくれるのだが、どうも難しい。音をまね、声を出すことはできるが(そして、これもとても気持ちがいい。ヨガの呼吸に近いのではないだろうか)、チャントの意味を理解するにはちょっと届かなかった。ハワイ語はとてもシンプルで、ひとつの言葉にたくさんの意味があり(たとえば、「アロハ」の意味を伝える子ども向きの絵本を買ったが、これだけでも20ほど違った意味がある)、おなじチャントを何重にも解釈することができるようだ。奥が深すぎる・・・。

 こうしてフラ&チャンティングを学びながら、クム・ケアラを囲む"Na Wai Iwi Ola Foundation"のファンド・レイジングのイベントに参加し、メンバーのフラを見たり、偶然にも、運よく年に1度ヒロで開かれる世界最大のフラのフェスティバルへも行くことができたので(それまでハワイ島ではほとんど日本人観光客を見かけなかったが、このイベントには、たくさんの日本人が来ていた)、結構、フラ体験を堪能した。

 クム・ケアラのチャンティングがあまりに魅惑的なので(何て言うのか、うまく表現できないが、魂に心地よいといった感じ)、無理を言ってCDを手に入れてきたが、驚いたことに家で聞くと、何かが違う。それで、ようやく理解した。きっと、フラは、海辺で、沈む夕日を背景に、ハワイの大自然に抱かれながら踊るものなのだ。何て言うのか、全体のなかに位置づけられて初めてフラなんだと思う。たまたまロミロミを習った人と一緒になったので、他のマッサージと比較してロミロミのロミロミたるゆえんは何なのか尋ねてみたが、どうも、ロミロミの講習の大半はハワイアンの哲学らしい。すべては、ハワイアンのビリーフ・システムのなかに有機的に存在するのだ。断片だけを取り出しても、その本質は見えてこないのだろう。

 それぞれの文化にはそれぞれのビリーフ・システムがあり、そこには伝統によって蓄積された知恵の宝庫がある。そんなことを改めて実感したフラ体験だった。初心者の印象を無責任に紹介しただけなので、無理解や間違いがあるかもしれません。その場合はご容赦を。なお、クム・ケアラのフラ&チャンティング・ワークショップが、近く日本にやって来る。5月21-30日、江ノ島と富士にて。日本の自然のなかにクムのワークショップがどんなふうに全体的にはまるのか興味津々。関心のある方は英語だけどHPで(www.nawaiiwiola.org )。

2008.03.24
2008年3月 ラーヘンスブリュック~女性と子どもの強制収容所

 今月は、縁あって、ドイツ視察の機会を得、日頃より関心をよせてきたホロコースト関連記念館をいくつも訪ねて歩いた。ベルリン市内にあるユダヤ博物館やユダヤ人虐殺記念館の斬新さにも驚かされたが(これらについても、ぜひ、どこかで紹介したい)、なかでも、唯一女性と子どもを対象とした強制収容所だったラーヘンスブリュックは、とくに印象深かった。

 ラーヘンスブリュック強制収容所は、ベルリンから北に80キロほど離れたあたかも避暑地かと見える湖を抱えた美しい街にあった。1938年、ザクセンハウゼン強制収容所から500名の囚人が動員され、建設されたのだという。ここは、女性解放運動家、女性の社会主義者、共産主義者、同性愛者、キリスト教者などの収容所だった。1939年5月最初に輸送されてきた囚人867人のうち、860人はドイツ人だった。こんなに多くのドイツ人女性たちが、ナチに抵抗して、強制収容所に入れられたという事実は初耳だった。まもなくポーランド侵略を開始し、第二次世界大戦が始まると、ヨーロッパ全土から女性囚人たちが集められ、1945年ソ連軍によって解放されるまでに、記録として残っているだけで13万3000人がこの門をくぐり、うち約9万2000人が飢餓、強制労働、チフスはじめさまざまな病気、拷問、ガス室送りなどで殺されたという(『母と子のナチ強制収容所~回想ラーヘンスブリュック』ショルロッテ・ミラー著、星乃治彦訳、青木書店)。ムチ打ちの刑、射殺のほか、人体実験、不妊手術も行われた。

 館内には、ラーヘンスブリュックの歴史とともに、「ラーヘンスブリュックの女たち」の展示があり、さまざまな背景で逮捕されここに収容された27名の女性の写真や経歴が紹介されていた。いろいろな女性たちがいるが、どの女性たちも、みな美しいことに驚いた。収容所に入れられる前の写真なのだが、よく見て、よく考えてみたが、その美しさの中にあるのは、まっすぐな眼なのだと気づいた。それは、彼女たちの信念や意志の強さの現われなのだと考えると合点がいく。同様に、別途、ここのサバイバーの女性たちの肖像を描くという企画が何年か前にあったようで、いくらか展示してあったが、そこに描かれている女性たちも、みなそれぞれに個性的で素敵だった。今やすっかり高齢となった女性たちではあるが、信念を貫いて生き延びた女性たちの気高さが見て取れるし、人生の酸いも甘いも味わいつくし、壮絶な人生を生き抜いてきた深みや知恵が伝わってくるようだった。同時に、サバイバーたちの肖像画を描くというのはいいアイディアだなと思った。絵を通じて、描き手のサバイバーへの敬意や愛情や示され、見るものにも影響を与えるのだ。

 他方、別棟には、SSの手下となってラーヘンスブリュックの看守側に回った(つまり拷問する側だ)女性たちに関する展示があった。強制収容された女性たちの写真とまったく対照的だった。眼が死んでいるというのか、よどんでいて、エンパワーの反対というか、主体的な力を奪われてしまった悲しく無力で受動的な存在のように感じられた(もちろん、展示の意図もあるのかもしれないとも思うが)。実際のところ、ラーフンスブリュックでは、苦境において女性たちが互いに助け合っていたという証言がたくさん残されている。十分に調べていないので明言はできないが、もしかすると、強制収容所のサバイバーたちが多くの手記を残しているのがここなのではないだろうか。ナチに抵抗し、さまざまな背景から、信念を持ってここに収容された女性たちが助け合ったということは十分に納得のいく話だ。

 もうひとつ素晴らしいなと思ったこと。数ある強制収容所のなかでも、ここは子どもたちの学校教育の実践の場として頻繁に使われているということ。多くの強制収容所は刺激が強すぎて小学生は行かないようだが、ここに来るというのはなぜ?と疑問を持って行ったのだが、展示を見て納得した。抵抗に焦点を当てた展示となっているので、人間に希望が持てるのだ。そして、ドイツの子どもたちが、このように信念を持って自分の生き方を貫いた素晴らしい女性たちのモデルをたくさん知るということは、とても良いことだと思う。多くの場合、英雄はいつも男と決まっているから。

 この女性たちの存在を是非、日本の女性や子どもたちにも伝えたいという情熱がムクムク沸いてきて、見学を終えてから本を探した。あいにく27人の女性について書かれた冊子はドイツ語しかない。それでも、二十数年ぶりのドイツ語、頑張って読むぞ!と決意するに十分すぎる感動だった。

 どの収容所記念館に行っても、ドイツ人たちが、殺された人々の歴史の掘り起こしに多大なエネルギーを注いできたことがよくわかる。ナチの究極の目的は、彼らの存在を無にすることにあったわけだから、無にしないという決意こそが、絶対主義への抵抗になり得る。体制に抵抗した人々の存在をきちんと評価し伝えるということの意味は大きい。振り返って我が国を考えてみると、抵抗者の存在は無にされているよな・・・という気がする。ドイツで感じて考えたこと、少しずつ整理して紹介していきたい。

2008.02.21
2008年2月 家族万華鏡

 大学の方では、「家族クラスター」というゼミをチーム・ティーチングしている。毎年、この時期になると、学生たちの修論研究を通じて、現代家族のありようが浮かび上がって見えてくる。学生たちは、いわゆる「健康家族」(必ずしも臨床場面に上がってくるのではない一般的な家族)を研究対象にすることが多いので、専門的な援助場面で出会ってきた家族像を相対化する機会ともなる。

 まずは、「できちゃった結婚」をテーマにした学生が2人。統計によれば、10代後半から20代前半で妊娠した未婚女性の約4分の3は、中絶、シングルマザー、事実婚などの選択肢をとらずに「できちゃった結婚」を選択しているという。これにはあらためてびっくりしたが、彼女たちの研究を見ていると、なるほど、結果として、「できちゃった結婚」が多数派となるのも納得してしまう。今日、「婚前交渉」をタブーとする風潮はまずなくなった。若いカップルは、結婚していなくても、一緒に旅行することもできるし、一緒に暮らすこともできる。あえて結婚する必然性はない。妊娠してしまった時が、結婚し時なのだ。

 「できちゃった結婚」をした女性たちの多くは、妊娠に対する強い決意や選択があるわけではないが、どこかで妊娠を望んでいる。これを研究した学生は、これを「あいまいな戦略」と名づけた。一般に捉えられがちな無責任な親というイメージとは違って、よくも悪くも運命受容的な彼女たちは、妊娠・出産・子育てを人為的にコントロールしようと躍起になる層と比べ、ごく自然に子どもを受け入れ、よい母親になっていく可能性は少なくないようだ。とくに、「できちゃった結婚田舎バージョン」では、今なお昔ながらの相互扶助が生きている地域で子育てがなされ、若い母親たちは、周囲に助けられながら、どんどん母親らしく成長していく。これを研究した学生によれば、そのようなあり方に共感する女性たちが、田舎に残ったり、田舎に帰ってきたりして、それを再生産していくのだそうだ(彼女自身は、都会に出てしまった側)。

 それにしても、不思議なのは、妊娠・出産=結婚という等式だ。スエーデンに続き、フランスでも、未婚の母率は5割を越えたという。出生率を回復させた国々では、その要因として、結婚しないまま子供を産むことが社会的に認知されている点が指摘されるが、日本において、婚姻制度はまだまだ強固である。ただし、いったん結婚しさえすれば、離婚への許容度は右肩あがり。「母子家庭とひとり親家庭のあいだ」というテーマで研究した学生もいた。これも面白かった。

 その他、「良い夫婦関係を維持しながら婚外関係も維持する男性」を研究した男子学生もいた。私には、どうしても批判的な気持ちがぬぐえないが(だって、彼らは、もしも自分の配偶者が、自分と良い夫婦関係を維持しながら婚外関係を持っていたとしたら、それはやっぱり嫌なのだそうだ。一夫一婦制にこだわらない人たちというのならば、まだわかるが、それではあまりに身勝手じゃないか)、彼らは、一般の男性たちと比べ、関係重視型で、妻にも恋人にもいろいろな気遣いをするのだそうだ。

 ある統計によれば、婚外関係を持っている男性は罪悪感を持ち、女性は持たない傾向があるのだという。「なぜ!?」と不思議に思ったが、この学生によれば、男性は配偶者に不満がないのに婚外関係を持つのに対し、女性は配偶者に不満があるから婚外関係を持つのだからだそうだ。なるほど。そう考えると思いつくことは、男性は配偶者に大きな期待を抱かず、女性は配偶者に大きな期待を持つのではないか。つまり、男性は、配偶者が妻役割を果たしてくれたらそれで不満はなく(なんだかさみしい・・・)、女性は夫役割だけでは満足できないのかもしれない。

 これらの男性の場合、婚外関係の存在が、夫婦関係の維持に貢献しているという。個人的には、婚外関係の存在は、夫婦関係の現状維持に貢献しているのであって、関係の変化や成長を妨害しているのではないかと疑っているが、いずれにしても、そういうバランスが成り立っている関係があることは受け入れざるを得ない。これは来年の研究になるが、「社交ダンス」を研究テーマに選んだM1の学生がいて、どうやら、このふたつの研究は背中合わせになりそうな予感。つまり、女性は「社交ダンス」という合法的な装置を使って、直接的な性関係ではない婚外関係を持ち、これが夫婦関係の維持にも貢献するようなのだ。いずれにしても、彼らもやはり婚姻制度を重視している。

 そのほか、働き盛りで倒れ、障害を抱えた夫と妻の障害受容や、成人してからの母娘関係などもあった。家族のありようは社会とともに刻一刻と変化している。学生たちの研究を見ていると、まるで万華鏡を覗いているような気分になる。

2008.01.23
2008年1月 中国のシンドラー、ジョン・ラーベ

 昨年末、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・南京』(同時代社)が翻訳出版された。1997年、アメリカで出版されるや否やベストセラーになり、日本でも翻訳され店頭に並ぶはずだったが、寸前のところで出版停止になった幻の名著である。原著は持っていたし、パラパラと見てはいたが、じっくりと読まないままだった。今回、訳書を読んで、いろいろな点で興味深かった。アイリスは中国系アメリカ人だが、この事件を、「羅生門的視点」から描き出そうとしたという。つまり、日本人の視点、中国人の視点、第三者としての欧米人の視点だ。日本人によって描かれたのとはまた一味違って新鮮である。

 なかでも、南京安全区国際委員会のことが詳しく知れたのは良かった。この安全区については、断片的には日本の本で知っていたし、南京で写真や胸像を見て、具体的イメージもあったが、彼・彼女らの物語を知ったのは初めてだった。南京安全区国際委員会とは、日本兵の侵略から逃れた南京市民たちを保護するために自発的に中立地帯を設置した20人あまりの欧米人たちのことである。彼らは、南京から退去するようにという警告を断り、1人でも多くの中国人を助けようと命懸けで戦い、日本軍の暴虐を記録し、世界に訴えた。

 その代表を務めていたのが、ドイツのビジネスマンであり、南京のナチ党指導者であったジョン・ラーベという男である。アイリスは、ラーベを「中国のシンドラー」だったと言う。彼は、20代で中国に移り、ジーメンス社のビジネスマンをしていたが、南京のドイツ人社会の重鎮となり、ドイツ人学校の運営をするようになった。やがてナチズムの忠実な支持者になるが(彼は、ナチ党を社会主義組織と見ており、ドイツにおけるユダヤ人や他の少数グループへの迫害を支持しなかった)、中国人の部下たちの安全への責任感から南京に残ることを決めた。アイリスは、ラーベのほか、ロバート・ウィルソン、ミニー・ヴォーリントンという3人の人生を調べて描いている。彼らの活躍ぶりについては是非、本で読んで欲しい。

 南京のことを調べていると、日本兵のなかにもごく少数ながら良心ある行為を示す者があったことを知る。ホロコーストのなかでも、ごく少数の良心ある行為を示したナチ党員がいたことが証言されている。方向を誤った大きな潮流の中でも流されず、個として賢明な行動をとることのできる力は、いったい何に裏付けられているのだろうか?いつも思うが、絶対的な悪人と絶対的な聖人というのは、いるかもしれないが、圧倒的多数は、流れによって悪人になったり聖人になったりするのではないだろうか。絶対的な聖人は、どんな状況下でも、善い行いを成すのだろうが、多くの人は、ちょっとした偶然の積み重ねによって方向づけられ、善くも悪くもなる可能性があるのではないか。

限界状況のなかで、自分は、いったいどう振舞うのか? まったく自信がないが、願わくば最後の瞬間まで人間らしさを捨てたくない。そのために、日常、どのような心がけをしたら良いのか?私にとっては、仕事を通じて、人間の光と闇を知ること、これは助けになると思う。今回、南京に行って、もうひとつわかったことがある。加害者の子孫として、存分に恥じ、悲しみ、怒り、悔いること。自分のために生きる人間は脆い。愛する者を守ろうとする力は強い。だからこそ、多くの兵士たちは、家族や祖国を守るために命を投げ打つのだ。ただし、ここで間違ってはいけない大事なことは、良心に恥じないよう生きることこそが愛する者を守ることになるのだと理解することである。限界状況で野獣と化すことが、愛する者をどこどこまでも傷つけることになるのだと理解するためには、文化的な成熟が求められるのだと思う。これは、私たちが身をもって学ぶしかない。限界状況で、自分のために正気を保つことは難しいが、愛する者のことを思い浮かべることさえできれば、正気を保つことは可能かもしれないと思えるのだ。

安全区に残った数少ない女性の1人であるミニーは、アメリカ帰国後、鬱を病み、自死している。アイリスもどのような事情からか、4冊目の著作に取り組んでいる最中に、乳児を残して、自死したと聞いた。どう考えてもやりきれない。闇の大きさに圧倒されるばかりだ。それでもなお、光を探し続けたいものだ。

なお、『ザ・レイプ・オブ・南京』は、歴史学的な過ちが含まれていることのみ大きく取り上げられ、批判されてきたが、今回、訳書と同時に、過ちの部分への解説書が同時に発売されたことを付け加えておきたい。

2007.12.17
2007年12月 コミュニティ通訳のこと

 立命館の大学院で教えた卒業生たちが、あちこちの分野で活躍している。今日は対人援助学会(準備会)の例会で、4期生の飯田奈美子さんにコミュニティ通訳の現状と課題について話してもらった。彼女は福祉事務所で中国語の通訳をしてきた経験をもとに、中国帰国者についての貴重な修論を書いた。私たち教員もとても勉強させてもらった。卒後は、対人援助場面で通訳を行う通訳者のネットワークmcinetを立ち上げ、全国規模の活動を展開している。この会には、私も初期、2回ほど招かれて行ったが、今日の発表を聞いて、1年かけて積み上げてきたことの重みを感じた。

 コミュニティ通訳とは、病院、学校、福祉機関、裁判、警察、その他、さまざまなコミュニティにおける対人援助場面で、言語的・文化的マイノリティとして通訳を必要とする在住外国人に対して通訳サービスを行っている人たちのこと。結果的に、対象となるのは、高齢者や子ども、生活困窮者、DV被害者、外国人労働者、難民など社会的弱者が多いことになる。かれらが日常生活で問題に直面したとき、援助を受けるために必要な交渉や手続きを行わなければならないが、その間に入って、コミュニケーションをつなぐ役割を果たす。

 仮に、私たちが、このような状況に陥ったとき、たとえ言葉に問題がなくても、自分の権利を主張し、援助を受けるには大変な力とエネルギーを必要とするだろう。ましてや、言葉や社会制度についてまったくわからなければ、正当な権利を主張することなどできるはずもない。そう考えれば、そこをつなぐコミュニティ通訳の人たちが、どんなに難しい役割を果たさざるを得ないか想像することができるだろう。単に中立的な通訳者であるだけでは不十分で、場合によっては、援助者であり、アドボケイトであることが求められる。

 いくらかの事例についても聞かせてもらったが、虐待やDVの相談だとか、場面に応じて、相当程度、専門知識が必要になる。この人たちの専門は言葉なのに、場面に応じてさまざまな専門知識を身につけていなければならないというのは大変すぎる。ましてや、今のところ、このような領域での通訳は、ほとんど身分保障もなく、ボランティアでやられている場合が圧倒的に多い。マイノリティのために働くわけだから、どこかが経済的援助をしない限り、どうしようもない(マジョリティから成る社会の側としては、本当のところ、なるべくなら援助したくない=切り捨てたいという思いがあるのだから)。

 昔の田舎では外国人というだけで珍しかったけど、ふと気がつくと、私たちの社会にたくさんの外国人が住んでいて、どこに行っても珍しくない。いまや本当に多文化共生社会だ。なかでも、搾取され過酷な状況に暮らしている外国人たちは、出身国のなかでも恵まれない状況から来日に到ったわけだし、サバイバルのための逞しさはもちろん持ち合わせているだろうが、それでも、権利保障からは程遠い状況に生きている。彼らの権利保障をどのようにしていくのか。現在はコミュニティ通訳という人たちの善意や努力に頼っているわけだが、国レベルで保障していかない限り、私たちの社会は貧困な社会に留まることになるだろう。

 立命館にはアジアからの留学生も多いので、最近、授業を通じて、彼らと交わるようになり、それによって多様な視点に開かれ、私たち自身が豊かになっていくのを感じる。言語的マイノリティの権利保障の問題は、気の毒な人たちへの慈善事業ではなく、私たちの社会にこそ必要なことなのではないだろうか。mcinetの人たちは、各援助場面での専門家たちが、まったく、言語的マイノリティについても、コミュニティ通訳の役割についても無知で無理解であることに苦労しているようだ。これらの問題にどう対処していくのか、私たちが成熟した文化社会をつくっていくことができるのかどうかの分かれ道だ。

2007.11.28
南京を想い起こす

11月20日から1週間、南京に行ってきた。国際会議「南京を想い起こす~南京の悲劇70周年記念」に参加するためだ。このタイトルは日本語バー ジョンだが、中国語では「南京記憶~南京大屠殺70周年学術会議」、英語では"Bearing witness to the past, living together in the future: Remembering Nanjing(過去の証人となり、ともに未来に生きる~南京を忘れない)"である。垂れ幕の「大屠殺」の文字を見るたびに、胸が締め付けられる。英語の タイトルのとおり、南京であったことを想い起こし(私たち戦後世代にとっては学び直すことを意味する)、その証人となり、中国側と日本側の対話を試み、と もに生きる未来を模索しようという初めての試みだ。

 私自身は過去にも勉強してきたし、出発前の2週間は、あらためて勉強し直したので、生存者の方々の話を聞き、記念博物館で写真を見ても、事実とし てはほとんどが知っていたことだった。たったひとつ、初めて聞いたことがある。それは、向こう岸に渡るために、日本兵は、何千何百という中国人の遺体を川 に敷き詰め、橋として利用したということ。3月になり、少し暖かくなり始めた頃には、一帯にひどい臭いが立ち込めたと言う。このイメージには「予防接種」 がなかったので、さすがの私もやられてしまった。実際のところ、日本人側の参加者のほとんどが、多かれ少なかれ、頭痛、発熱、吐き気、嘔吐、身体の痛みな どの身体症状を呈していた。残虐行為を知ることだけでも、十分にトラウマになる。予防接種と免疫がなければ、これはきついだろう。

 日本の家庭の中で密かに行われてきた女性や子どもへの暴力被害、残忍な性犯罪に長く関わるなかで、私のなかで、その根っこは南京にあるのではない かという思いが強くなっていった。薬害エイズの問題が明らかになったとき、ミドリ十字と731部隊との連関に虫唾が走った。日本軍の性奴隷制度(従軍慰安 婦)のルーツを調べていても、上海から南京への道に行き着く。南京へ行かなければならなんじゃないかという気持ちはずいぶん前からあり、時々、小さなグ ループがそのようなツアーを行っていることを知って、参加したいと思いながら、なかなか時が熟さなかった。今回、不思議な力に導かれるように、ようやく時 が整い、このプロセスに自分のすべてを委ねる決意をした。

 今回、私自身の一番の目的は、頭でしかわからないことを胸に落とすこと、つまり、自分のなかの感覚麻痺を少しでも解くこと、そうすると、その後、 いったい何が起こるのかを確かめることにあったが、その目的は十分すぎるほど達成した。上海から南京に向かう列車の窓から、広大な大地のあちこちに、蟻の ように群がる日本兵を見、残虐行為に焼き尽くされた中国人の遺体の山を見た。生存者の証言のあと、「その時の日本軍は、すごくすごく悪かった」「悪い悪い 日本軍」という言葉が耳について離れず、耳を覆いたくなった。でも、私たちは聞かなければならない。

 記念館の残忍な写真(バラバラにされた身体のパーツ、刃物を突き刺され、切り刻まれた女性性器、裸の死体の山)のなかに映っている晴れやかな笑顔 の日本兵たち。これが、私たちの父であり、祖父であり、曽祖父である。彼らが、焼け野原となった日本に帰ってきて、戦後の日本を建て直し、そこに私たちは 生まれ、育ったのだ。私の頭のなかで、パチンと音を立てて、最後のピースがはまった。自分が紛れもなく日本人であることを受け入れた瞬間だった。加害者側 の恥と怒りと悲しみを、ようやく自分の胸の中に入れる通路が開いた。翌日、追悼のために「燕子磯」という虐殺記念場を訪れた。揚子江のほとりの、信じられ ないほど美しい場所だった。一緒にいる日本人たちと、泣いて泣いて謝った。日本人としてのつながりを感じた。心のなかの氷が溶けていくようだった。感覚麻 痺の時代が終わり、小さな小さな緑の芽生えの気配に気づいた。私には、本当にわかった。やわらかい心で命を愛せない日本人たち、感覚麻痺の苦しみから、自 らを切り、大量の薬を飲まなければ生きていけない若い人たちを癒すことができるのは、やっぱりこれなのだと身をもって知った。

 中国の人たちは、暖かくやさしかった。南京大虐殺を否定したり過小評価したりする今の日本の方向性については過敏になっているようだったが、それ に抵抗しようとしている私たちを敬意でも接してくれ、心を開いていろんなことを話してくれた。歴史を学ぶ若い大学院生の男性は、「今日の日まで、僕は日本 人を憎んできた。でも、気持ちが変わった。日本の若い人たちと話をしたい。交流したい。手紙を書いたら、若い学生たちに渡してくれるだろうか。文通をした い。事実を認めてくれて、話をしたら、友達になれる」と言った。

 辛く重い旅だったけれど、クリアで気持ちの良い帰り道を帰れたのは幸いだった。なんて滋養に満ちた旅だったことだろう。今回はささやかな一歩だっ たが、たしかな前進だった。これから、この方向を歩んでいくために力を尽くせたらと考え始めている。若い人たちを連れて、定期的に、南京を訪れ、向こうの 人たちと交流するというプロジェクトを思案中だ。かなりの準備がいるだろう。知的にも心理学的にも。そのためのトレーニング・プログラムやフォローアップ のプログラムも必要だろう。中国語も勉強しなくちゃ。日本の社会が幸福に向かえるように残る半生を捧げたい気持ちだ。

2007.10.23
2007年10月 「こころとからだ」と代替医療

 友人の村川治彦さんが主催する「イーストウエスト対話センター」と立命の共催で、2日にわたる「21世紀統合医療フォーラム~心身医学と一人称のからだの出会い」があった。私も司会に駆り出されたので、全スケジュール、みっちり参加した。1日目の午前が、基調講演とシンポで問題意識の提起、1日目午後と2日目午前が、代替医療のワークショップでそれぞれ体験をして、2日目午後は、また全体で集まり、研究報告と全体討議で、考えたことや学んだことを皆で分かち合うという構造だった。なかなかよくできた暖かなフォーラムだったなぁと思う。今後、時代の流れは、間違いなく、代替医療に移っていくだろう。企業もストレスマネジメントの波が終わったら、そちらにお金が移っていくと予測される。

 15種類もあるワークショップのうち、3種類を選べたので、気功、アロマ、操体法を選んだ。気功の講師は津村喬さん。お名前はよく知っているものの、お目にかかるのは初めてだったが、まるで宮崎駿のアニメにそのまま登場できそうな、ほんわかムードのキャラ。気功をやると、こんなふうになれるのかしら!?気功はまったく初めてで、想像とはまったく違って(どうしても手かざしの怪しいイメージが・・・)、とっても気持ちよかった。北村幹男さんの操体法というのも初めてだったが、これもよかった。私のバリダンスの先生は、最近、フェルデンクライスの資格を取り、準備体操にも取り入れられているが、どれにも大きく共通するものがありそうだ。参加できなかったが、ロルフィングのワークショップをやった安田登さんは能のプロで、能を通じて心身に起こることを説明するのにロルフィングの枠組みが使えるのだそうだ。心身の真実に関する知恵は、このあたりにあるのだろう。

 アロマは、ホリスティックケア総合学院の学院長である相原由花さん。医療現場でアロマを実践されているので、さすがプロ。私は通信で勉強したので、こうやって講習を受けるのも大事なことだとあらためて思う。人の説明を聞くことで、自分の理解をまた少し視点を変えて見直すことができる。ターミナルケアなどにもアロマを使っているそうだが、たしかに、自分自身が難病や末期で苦しんでいるとき、こんなふうにアロマで優しくケアしてもらえるとしたら希望が持てるだろうなと実感した(そうなりたくないが、万が一、そうなったら、絶対やってもらおうっと)。

 今回、いちばん新鮮だったのは、「ツボ」というのが何なのかを体感レベルで納得したこと。「ツボ」っていったい何なんだ!?と長く疑問に思ってきたが、言葉で説明できないものの、疑問が解決した。ただし、私の理解では、「ツボ」と言われているものは、多くの人がそこにあると言えるだけで、実際には一人ひとり違うものだと思う。「こころとからだ」が全体であること、それが自然や社会、世界や宇宙とつながっていることもなんとなく実感できた。

 東洋と西洋という二分割をして東洋を理想化するような態度には胡散臭いものを感じるし、医療と言ってしまうより、健康であって、もっと教育に近いんじゃないかしらなどと思っていた私の疑惑も、最後の全体討論でフロアからたくさん提示されていたし、私としてはとても満足。参加者の半分は医者だったにも関わらず、暖かく皆がつながりを感じることのできるフォーラムだったことも良かった。そうそう、基調講演は日本心身医学会理事長の中井吉英先生だったが、彼の「身を診る」診療実践にはとっても感心させられた(これまで知らなかったことを恥ずかしく思う)。最後に、村川さんが長く暖めてきたことが、こんな形で少しずつ形を成していくこと、友人として嬉しく誇らしく思う。私も、少しずつ勉強して、深めていきたい。

2007.09.30
2007年9月 秘密

 「お母さんは口が軽すぎるって!」時々、子どもたちからクレームがくる。「FLCのお客さんの秘密は守るくせに、子どもたちの秘密は守らへん」。「秘密にしてって言われたら秘密にするけど、そうじゃなかったら、秘密にする必要性感じへんもん。秘密にして欲しいことは、そう言ってくれるか、話さへんかどっちかにして~」。

 成長の過程で秘密を持てるようになることは、大人になるための大切な第一歩だ。とくに、親との関係において、どこか共生的に生きてきた子ども時代から脱出するためには、秘密を持つことで親と距離を作る必要がある。そういう意味で、思春期の子どもをもつ親は、子どもの世界、子どもが秘密をもつことを尊重してやらなければならない。

 秘密は大切な誰かと共有することで、絆が深まる。思春期の子たちは、仲間集団で秘密を分かち持つことで、大人たちから自由な世界を持とうとする。一種のレジスタンスである。それは価値ある秘密だ。

 選択の余地なく、1人で抱える秘密は重い。誰かと共有する暗く苦しい秘密もある。何らかの事情で、人と分かち持つことができない秘密、持てば持つほど、自分を蝕んでいくような秘密もある。秘密を守るために、嘘偽りを重ねた結果、自分自身でさえ、いったい何が本当だったのかわからなくなることさえある。これらは悲しい秘密だ。

 大人になると、自分に関する情報を誰に話したいか、話したくないかを選ぶことができるようになる。話したことを悪意でもって利用されると思えば、誰しも話す気にはならないだろう。ネット上の中傷をはじめ、人の情報を悪意で利用して楽しむ人たちは必ずいるものだ。人から聞いた話を、今度は、聞いた人が、話し手として判断して、誰かに話したり、話さなかったりするだろう。その判断基準は、最初に語った人、つまりその情報の発信者のそれとは違うかもしれない。それはそれで仕方がない。自分の責任の範囲を超えた話だ。

 信頼して話した相手が悪意なしに誰かに伝え、それを聞いた誰かが、悪意でもって利用することも起こらないわけではない。それはそれで仕方がない。自分の情報は自分のものであるというのは奢りではないか。人が人として生きている以上、透明な存在になることはできない。人は、互いに影響を及ぼしあって生きている。そういう意味で、自分に関することは自分だけがコントロールできる所有物ではない。

 話さないことは秘密ではない。話せないことが秘密を形成する。大人になって、はっきりと境界線を引けるようになれば、噂話や他者の思惑に振り回されなくなる。人が何を言おうが思おうが、自分に責任のないことは流せばよい。そう腹が括れれば、不要に秘密を持たずにすむ。秘密を持たずに生きることができれば、その方がずっと楽だ。
  

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