1. ホーム
  2. トピックス by村本邦子

トピックス by村本邦子

2014.04.20
「わたし」に立ち戻って

 この春、23年半続けてきた女性ライフサイクル研究所の所長を降り、大学の方でも、5年間背負っていた役職を降ろした。娘はパートナーとともに家を出、フルタイムの仕事を見つけて頑張っている。息子は仕事をやめ、またもや新しい世界へ旅立とうとしているところだ。いっぺんにいろいろな責任をおろし、しみじみと、久しぶりに「わたし」に戻った気分である。もちろん、いろいろな役割を背負う自分も「わたし」には違いないのだけど、純粋に「わたし」のための「わたし」とでも言おうか。

 ずいぶん前のトピックで紹介したが、『愛着からソーシャル・ネットワークへ~発達心理学の新展開』(マイケル・ルイス/高橋佳子編、新曜社)という本がある。精神分析やボウルビィの愛着理論では、乳幼児期の母子関係を基盤にして他者との関係や自己概念を徐々に発達させていくことになっているが、ソーシャル・ネットワーク理論によれば、新生児は多数のネットワークからなる社会に生まれ、その中で発達し、社会化される。つまり、さまざまな関係性のなかで、異なる「わたし」が立ち現れる。多様なネットワークを持てば、多様な「わたし」と出会えるだろう。
 

 ケネス・ガーゲンは同じことを「関係的存在」(relational being)という言葉で表し(Gergen, 2009)、小田博志さんは、これに「縁」という語を当てている。実は、ガーゲンの同タイトルの本をキンドルで買って、この2年ほど、思い出したように持ち歩いて、少しずつ読んでいた。どこかに「本当の私」があるのではないかなどと考えて探し求めるのでなく、幸せの青い鳥は眼の前にいたように、「わたし」は、今ここにいて、新しい可能性を待っている。息苦しくて生きにくい「わたし」は、たぶん自分の関係性を狭め固定してしまっているのだ。
 

 役割や責任も、ソーシャル・ネットワークに含みこまれているものだろうが、それが肥大化すれば、その他のネットワークを押しつぶしてしまうだろう。仕事も子育ても、自分で選び育ててきた大切な人生の一部ではあるが、その陰で、出会いそびれた関係と「わたし」がある。これから、「わたし」はどんな方向を向いて、どんなことと出会っていくのだろうかと考えると、何だかわくわくする。そんなに大きく違ったことをしようと思っているわけではないが、もっともっと柔らかく開かれたいと思うのだ。

2014.03.25
2014年3月 命の抵抗~福島「希望の牧場」のこと

 立命館大学国際平和ミュージアムで開催された「震災で消えた小さな命展」のオープニングイベントを手伝ったが、そこで上映されたドキュメンタリー「犬と猫と人間と2~動物たちの大震災」に登場する「希望の牧場」のことが強く印象に残った。福島第一原発から半径20キロ圏内にあたる警戒区域に指定された浪江町で2011年7月に発足し、「原発事故の生き証人」として、被ばくした牛350頭余りを飼養している牧場である。政府は殺処分の方針を出したが、代表の吉沢正己さんを中心に動物たちの命をつなぎ、積極的な情報発信を続けている。(http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/

 このドキュメンタリーは、あちこちで自主上映会が行われていて、5月にはDVDも発売される。(http://inunekoningen2.com/news/)。涙を流す牛や、見るも無残な動物たちの遺体が登場し、胸が締めつけられる場面が少なくないが、動物とのつき合い方や命の扱い方は、そのまま人間のあり方を表しているのだと思う。「なぜ、そこまで?」と問われ、吉沢さんは、「意地だね」と答える。牧場の維持は全国からの寄付と応援で成り立っているが、同時に、「もともと食用に生まれてきて、被爆して食べられなくなった牛を生かし続けるなんて、資源とエネルギーの無駄遣いだ。さっさと殺せ」といった批判が後を断たないという。命を経済的価値と置き換える思考は、原発と同じ論理であり、生き物の命を頂いて人間の命があることへの感謝とは別のものだ。「飼料が尽きた後はどうしますか?」という問いに、「そうだね、放つよ。ドドドドドーと街中に放たれて、おっかねぇぞぉ」という答え(表現は不正確だが)を聞きながら、「命の抵抗」という言葉が浮かんだ。

 警戒区域のなかに牛たちと暮らしながら、命の抵抗をしている吉沢さんとはいったいどんな人なのだろうと関心を持った。吉沢さんの父親は満州開拓団の一員だった。満州開拓団が入植した時、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦する情報をつかんだ関東軍は満州開拓団を見捨てて大陸から逃げ出した。「棄民」となった父親は何とか帰国し、日本で開墾を始め、その土地を売ったお金で牧場の土地を手に入れた。牧場は父の形見でもある。吉沢さんには今回の事が満州開拓団とだぶり、そんな国に従えるかと、殺処分反対・原発反対運動を始めたのだそうだ。なるほどと思った。私自身、動物たちの亡骸を見ながら、日中戦争を思い浮かべていた。

 ほとんど報じられないが、反原発運動は今も活発に行われている。3月9日、国会議事堂周辺で3万人以上の大規模な反原発デモが展開され、3月15日、日比谷野外音楽堂には5500人の脱原発集会が開かれたそうだ。あちこちで根強い抵抗が繰り広げられていることを知ることは希望だ。小さくても継続できそうな何かを自分もと思う。今、考えているのは、ささやかな抵抗としての「命のキルト」である。ずいぶん前に、トラウマ・キルトのことを書いたが(2003/9/12)、祈りをつなげて形にするムーブメントだ。もう少し具体的にイメージできるようになったら呼びかけたい。

2014.02.28
2014年2月 「からのゆりかご」と児童移民

 イギリスの児童福祉、とくに児童移民についての調査でイギリスに来ている。映画「オレンジと太陽」、本『からのゆりかご~大英帝国の迷い子たち』(日本図書刊行会)の話だ。イギリスで、子ども移民は17世紀以来周期的に行われてきた。1900年から30年代までは、カナダへ、第二次世界大戦後は、オーストラリア、ローデシア(ジンバブエ)、ニュージーランドなどの植民地へ、施設の子どもたちを送っていたのである。時代や受け入れ先によって違いはあるものの、子どもや親の同意なく、だますような形で子どもたちを移民させ、その多くが強制労働や虐待、性的虐待の対象となった。イギリス政府主導で、名高い慈善団体や教会がこれを行ってきたため、1970年を最後に、その歴史は闇に葬られた。ショキングな事実ではあるが、手厚い児童福祉で知られるイギリスの影と言える。

 養子に出された子どものルーツ探しに関わっていたソーシャルワーカーのマーガレット・ハンフリーズさんが、1986年、オーストラリアの女性から受け取った1通の手紙をきっかけに、この政策について知るようになり、身を危険に晒しながら事実を明るみに出した。児童移民の数は13万人を上回ると推計され、あまりに遅すぎると言えるが、2009年にオーストラリア政府が、2010年にイギリス政府が事実を認め、正式謝罪をしている。マーガレットさんは1987年、元児童移民たちの家族探しの援助をするために「児童移民トラスト」を立ち上げ、オーストラリアとイギリスを往復しながら、今なお活動を続けている。

 ノッティンガムにある「児童移民トラスト」のオフィスを訪ねた。引っ越したばかりという閑静な住宅街の一軒家で、小さいけれど美しい庭とサンルームがあり、室内には無数にと言いたくなるほどたくさんの元児童移民と家族の再会の写真が飾ってある。一枚一枚にドラマがあり、長かったであろう道のりにほんの少し思いを馳せるだけで胸が熱くなる。映画のなかでも、元児童移民であるクライエントに家族の事実を伝える部屋はどうあるべきかと、窓から見える風景や家具の配置、花の飾り方まで心を尽くしてチェックするマーガレットさんの姿が出てくるが、家庭的で暖かな雰囲気のなかで支援はなされるべきだという信念がいたるところに感じられる。ノッティンガムのオフィスは、マーガレットさんと、元ソ-シャルワーカーで今はマネージャーを務めるパートナー、2人のソーシャルワーカー、事務職員の5人でやっておられるが、その仕事たるやほとんど奇跡のように思える。

 バナードスというエリザベス・サンダーホームのモデルともなったイギリスのもっとも古く大きな慈善児童支援機関で(つまりは、児童移民にも関わっていたということになる)、これまで保護してきた子どもの情報開示サービスを行っている「メイキング・コネクション」のソーシャルワーカーたちの話も聞いたが、一人ひとりの出自を知る権利やその伝え方をどれほど大切にし、時間とエネルギーを注いでいるかには想像を絶するものがあった。児童移民のような闇があった一方で、一個の人間として子どもを尊重しようとする伝統が着実に根付いてきたことをも表している。ワーカーたちのプロ意識や社会正義感は新鮮で感動的でもあった。是非、DVDと本を観てほしい。

2014.01.09
2014年1月 心理療法は政治的である。でなければ、心理療法ではない

 同タイトルはペーター・シュミットによる論文で(Schmid, P.F., 2012)、著者はウィーンにあるジクムント・フロイト大学の所属である。そんな大学があることにも驚いたが、サブタイトルは「パーソン・センタード・アプローチは本質的に政治的な冒険である」で、内容はロジャーズなのである。しかも、結論は、第二派フェミニズム運動の主張だった"The Personal is political."(個人的なことは、政治的なことである)をもじって、"The most personal is the most political." (もっとも個人的なことは、もっとも政治的なことである)となっている。なんておもしろい。先行き怪しい日本社会と日本の心理療法界を憂える新年早々のトピックにふさわしいのではないかと思って紹介する。

 ロジャーズは、70年代後半より「静かなる革命」という言葉で、PCA(パーソン・センタード・アプローチ)の政治的側面を主張するようになる。彼は政治をパワーとコントロールの問題だと考え、セラピストを専門家の位置に置きながらクライエントの自己決定を強調する諸アプローチの一貫性のなさを批判した。彼にとって、人間存在のイメージそれ自体が政治的なものであり、人が未来を構成していく傾向から疎外されたところに苦しみが生まれると考える。PCAの歴史を通じて政治的テーマを扱った人々は少なくないが、シュミットによれば、政治的気づきだけでなく、政治的行動に結びつけることが重要である。

 マキアヴェリからウェーバーに至るまで、古典的政治理論では、政治がパワーの問題に還元され、政治は政治家の問題になってしまった。本来、"Politics"、「政治(学)」はギリシャ語の「ポリス」(都市)に由来する。アリストテレスの理解のように、人間は「本質的に市民的コミュニティに依存する」ポリスを志向する。人はコミュニティにあってこそ、その可能性を十分に実現し人間たり得、政治とはその目標達成のための秩序の創造である。政治には、政策(規範)、政治活動(過程)、政治組織(形式)の三つの次元があり、政治とは、政治組織を基盤に政治活動を通じて政策を実現することである。

 何人も政治と無関係にあることはできず、心理療法も政策、政治活動、政治組織と切り離すことはできない。心理療法の政治において、政策、すなわち、それぞれの流派が何に価値を置いているのかが問題にされることは少ない。今日、心理療法やカウンセリングで行われていることには、適応やリラクセーション、助言、危機管理、望ましい結果を得るための行動変容、コーチング、救済などが含まれているが、解放という意味における人格発達と結びついているかという点から言えば、これらは心理療法と呼ぶに値しない。全体主義なのか民主主義なのか、マインドコントロールなのか解放なのか、権力の濫用と支配なのか参加と分かち合いなのか、あるいは患者なのか人なのか。心理療法家は政治的にどちらかを選んでいかなければならないし、他の学派と議論していくべきである。政治的でない心理療法家は現状維持に加担し、クライエントに有害である。

 この論文に触発され、お正月はゆっくりとロジャーズを読んで過ごした。彼が個の尊重を徹底的に貫くなかで、各国政府要人たちのエンカウンターグループなど政治的行動へと導かれていったことがよく理解できた。海外から次々と新しい技法が紹介され、各種資格や認定は増える一方であるが、人が生きることはもっとシンプルなはずなのだ。専門家が活躍する社会は幸福ではない。政治家に政治を任せることなどできない時代だ。さしあたってなすべきことは、一人ひとりが自分の存在に含まれた政治性に目覚めることではないか。今年はその具体的方略を考えることを課題としよう。

2013.12.21
2013年12月 ローカリティ(地域性)再考

 先月、東北を訪れた時に出会った運転手さんが、偶然、同郷の人で、「この辺りでは珍しいですね」と故郷話に花を咲かせていたところ、「会津の人たちの前で薩摩と言わない方がいいよ。今でも恨まれているからね」と言われた。その時は冗談で受け流したのだが、その後、繰り返しこのテーマと出会うことになった。

 ひとつは、日本平和学会から送られてきた『「3・11」後の平和学』(早稲田大学出版部)の「日本近代国家建設における『東北』~軍国主義と経済成長の時代をこえて」(篠田英郎著)である。近代の国民国家建設は度重なる戦争への対処という政策的課題のなかで進展したが、明治政府が中央集権体制を強化して近代化を急速に進展させることができたのは、戊辰戦争によって薩長など西南諸藩出身者を中心とする新政府への反対者が駆逐されていたからだという。「敗戦地」として「後背地」とならざるを得なかった東北は、台湾出兵の際の台湾やイギリスに対するインドなどになぞらえられながら、資源と人材の「供給地」としての位置づけを梃子に、日本の軍国主義と高度経済成長の過程を通じて発展の道を見出してきた。福島第一原発が建った土地は、1938年に陸軍練習飛行場とする目的で強制買収された後、1945年8月の空襲で焼け野原となったところである。本論の示唆は、「市町村主体の復興」を提示しながら「基本方針」を定めるのは「国」という中央集権的体制に過度に依存した復興計画は、今や限界があるというものである。

 もうひとつは、やはり先月、同じく日本平和学会でご一緒した名嘉憲夫さん(東洋英和女学院大学)の「紛争解決論の視点から尖閣諸島、竹島、北方四島問題の解決を考える~"帝国の残滓"の後始末としての国境画定問題」という報告である。「固有の領土」という考え方を批判し、問題を「国境画定問題」として定義し直そうというもので、「日本国」の領域と国境は、古代、中世、近世、近代にわたって変化してきたことに眼を向ける。近代における国境の変化は、①1867年の王政復古、戊辰戦争から始まる集権国家成立期、②1874年台湾出兵から始まる国境画定期、③1894年日清戦争に始まる対外膨張期(帝国の拡大期)、④1945年敗戦後からの対外縮小期(帝国の解体期)に区分され、領土問題は第3期の帝国の拡大期に起こった戦争に関係して発生した問題であるという。
 名嘉さんによれば、アイデンティティには4つの次元があって、①ローカル②日本国民 ③東アジア人 ④世界市民 なのだそうだ。会津の人にとって、次に来るのは、福島でなく東北人だという。伝承やわらべ歌の研究をしている同僚と話したところ、会津人にとって「前の戦争」とは戊辰戦争を指し、東北のわらべ歌には戦に負けた悔しさや敵への憎しみを密かに織り込んだものがあるのだという。そう言われてハタと思い出したが、薩摩人にとって「先の戦争」とは関ヶ原の合戦かもしれない。地元には妙円寺詣というのがあって、薩摩の子どもたちは、毎年1回、負け戦で敵の陣営に敵中突破した島津勢の勇気を称え、24番まである歌を歌いながら、島津義弘公眠る妙円寺まで何十キロも練り歩く。

 アルマンド・ボルカスによれば、歴史のトラウマは伝承を通じて世代間伝達され、文化的・国家的アイデンティティに影響を及ぼすというが、まさにそういった類の話ではないか。もっとも、震災を過去の戦と結びつけて捉えている人はいないだろう。原発は東北にだけにあるわけではない。それでも、強く印象づけられることは、私たちがどれほど歴史によって規定されている存在であるかだ。南京のHWHでは国民アイデンティティにフォーカスしてきたが、振り返りの中で、多様なアイデンティティの構築と解体に着目する必要性を考えていたところだった。ハンナ・アレントによれば、国民国家とは文化的同一性に立脚した統一的集団として確立されたものである。

 上述した論文の中で篠田は、復興計画には日本における国民国家と地域社会との関係の問い直しが強く求められているとしているが、ローカルを変革の主体にする鍵はどこにあるのだろうか。境界の問題とともに政治状況はますます厳しいが、文化はとっくに国境をないものにしている。その一方で、歴史に根指した文化的区分が今なお私たちに沁み渡っている部分があるということだ。グローカルなどという言葉も生まれているが、地域発信の文化を興していくと同時に、各地から発信された情報が出会い反発したり融合したりしながら、もっと豊かな境界領域を形成していくような世界を作っていけないものか。

2013.11.15
2013年11月 クレイジー・ライク・アメリカ

 今月は、前々から紹介したいと思いながらしそびれていた『クレイジー・ライク・アメリカ~心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ著 / 阿部宏美訳、紀伊國屋書店)を紹介しよう。アメリカ人である著者は、世界中どこへ行ってもマクドナルドやナイキショップがあること以上に、アメリカ人が精神疾患の概念をせっせと輸出し、その定義や治療法を世界の標準とすることで、世界が狂気にいたる道筋を均質化してしまっていると指摘する。例として取り上げられているのは、香港の拒食症、スリランカのPTSD、ザンジバルの統合失調症、そして日本のうつ病である。

 たとえば、うつ病はこんなふうに日本に輸入された。20世紀後半、日本には英語のdepressionと同じ意味を持つ単語はなかった。80年代、DSMのうつ病の診断が世界的に広がりつつあった時でも、日本では深い悲しみの感情は好ましいものとされ、愁いに沈んだ様子は尊ばれていた。したがって、気分を高揚させる薬物がマーケットに乗せられるはずがなく、90年代初頭、アメリカの大手薬品会社は日本に進出しないことを決めていた。ところが、バブル崩壊後、状況が変わり始める。過労自殺の裁判で原告が勝訴し、日本で初めてうつ病と自殺が関連づけられた。1995年の阪神淡路大震災は、日本のメンタルヘルスの取り組みが遅れているという世論を高め、1996年、NHKスペシャル「脳内薬品が心を操る」が放映された(この番組は私も記憶している。かなりの違和感をもって観た)。複数の大手薬品会社が競って日本に進出し、某製薬会社は2000年、臨床実験の被験者募集に見せかけた新聞の全面広告を何度も出し、インターネットを使って、クイズ形式で自分がうつ病かどうかを確認し、うつ病となれば精神科に行って薬をもらうというルートも確立された。2008年、あっという間に、日本は年間10億ドル規模以上の市場となった(メンタルヘルス領域にいる者として、これは十二分に実感できるものである)。

 次にPTSD。2004年、スリランカを津波が襲ったとき、アメリカのメンタルヘルス協会の常任理事がバカンスでそこにいた。9.11への対応をした経験を持つ彼女は、PTSDについて啓蒙するために全力を尽くし、情熱的な欧米人たちが次々と支援に駆け付けた。コロンボ大学の教授陣は、生存者の体験を「心の傷」だけに絞り込み、彼らを「心理学的な犠牲者」として単純化する見方をしないよう、トラウマは脳内で自動的に起こる生理的反応ではなく、むしろ文化を伝える情報であると訴えた。しかし、トラウマ・セラピストたちは、現地の教師たちにそれぞれが信じている方法をレクチャーして修了証書を出し、トラウマ研究者たちはPTSDのチェックリストを配って、データ収集を行った。スリランカ生まれの心理学者によれば、スリランカ人はトラウマに対してPTSDの症状チェックリストにあるような心の状態を示さず、むしろ、それは社会的な関係性を壊すものである。恐怖体験にずっと後まで苦しみ続ける人は、社会的つながりから孤立した人や、親族のなかでうまくやっていけなくなった人である。欧米のPTSD観においては、トラウマが精神的ダメージを引き起こし、結果として社会的問題が起きると考えるが、スリランカ人にとって、集団のなかで自分の立ち位置を見つけられなくなることが苦しみを引き起こすのであって、自らの心の問題に起因するわけではない。

 著者の主張は、自分の心理的苦痛を表現しようとする人は、その時代にある症状の貯蔵庫から無意識に行動を選択する。精神疾患が類型化されると、症状の貯蔵庫に新しい行動様式が加わる。アメリカ生まれのDSMが世界中に拡散することで、様々な文化における症状の貯蔵庫が均質化していく。こうして、世界中の人々がアメリカ人と同じように狂っていくのだというのがタイトルの意味である。かつて拒食症について研究していた頃に感じていたことである。これは決して、苦痛を否定する議論ではない。もっと多様な仕方で豊かに悩み苦しむことを拓こうとするものである。

2013.10.31
2013年10月 台湾におけるアートセラピー

 今月は台湾へ行ってきた。以前、中国蘇州での国際表現性心理学会のことを書いたが(2011年8月アートセラピーと文化 )、そこでシンポジストとしてご一緒した台湾の頼念華先生より、是非、台湾でも南京の話をしてほしいと言われていたものだ。その時は、日本の精神医療や臨床心理のなかで生まれた「芸術療法」と、アメリカのクリエイティブ・アーツ・セラピーとの違いに触れ、心理療法と芸術のどちらをより包括的な概念と捉えるかと書いた。でも、今回よくわかったのは、本来のアートセラピーでは、心理療法と芸術を対等に統合するものなのだということである。ニューヨーク大学のイクコ・アコスト先生の講義を受けたが、私たち(つまりは臨床心理から浮かれた芸術療法をやってきた者)に欠けているのは、アートの理論である。

 頼先生のアートセラピーのワークショップを受けた体験についても書いたことがあるが(2013年1月アートの力)、たとえば画材の性質、技法などについての専門知識に基づいて、アートに馴染みのない人々でも気遅れすることなく、一歩一歩進んでいけば、いつのまにかアート自体が持つセラピューティックな力の恩恵を被ることができるような構造を準備することである。それで思い出したが、よく一緒に仕事をしているサンフランシスコのアート・セラピスト笠井綾さんに教えてもらって、東北のプロジェクトでも使ってみようと思っているものに、「タッチ・ドローイング」という手法がある。これなど、まさに、このように工夫され開発された手法だと思う。絵具を置いて、適当に指を動かしていると(リラックスして解放されていればいるほどよいと思う)、偶然性と必然性が相まって何かが生まれ、そうやって生まれてきたものに語りかけられるようにして、変容が起こっていく。

 さて、南京の話だが、長く植民地支配してきた台湾でなぜ南京の話なのかと葛藤を抱えながらも、頼先生が台湾の人たちに聞かせたいと招いてくださったとすれば、それには意味があるのだろうと思った。私の父は台湾で生まれている。今回、計算してみて初めて認識したが、父の生まれたのは、ちょうど日中戦争がはじまった年である。祖父は父が幼い頃に病死しているので、私自身は知らないのだが、その時代、支配者側の人間としてこの地にいたということが意味するものをあらためて考えた。東京大空襲の被害者としての母から始め、植民地支配の側の祖父と父について触れたうえで、南京での取り組みを紹介した。錯綜した文脈だが、現実とはそういうものだ。次のステップは、アートやドラマを使いながらHWH (2012年5月「私」のなかの他者・社会・歴史と出会う )でやってきたことを、学校教育や平和教育に入れていくことだと思っていると言ったら、「台湾でもそれに対応することをやりたい、是非一緒にやっていきましょう」という熱いラブコールがやってきた。頼先生の影響だろう、台湾のアート・セラピストたちは、とても活発のようだ。

 私にとっては特別な意味を持つ台湾の人たちに暖かく迎え入れてもらったことも嬉しかったし、今回、台湾、中国、アメリカでそれぞれに活躍しているパワフルで魅力的な女性セラピストたちと一緒に仕事できたこともとても力になった。アートは言葉の壁を越えるし、一緒に食べたり笑ったりしながら、女たちの力と連帯を感じる。そして、歴史に根付く作業を重ねるなかで、アジアの一員であることがとても心地よい私がいる。

2013.09.26
2013年9月 死者たちの声に耳を澄ます

 十年のプロジェクトとして立ち上げた東北巡業も3巡目に入った。プロジェクトは、毎年、9月のむつからスタートするが、ひょんな巡り合わせから、むつに入る前、まず恐山に入ることになっている。恐山と言っても、今や山道も整備されて大型バスが入り、ややテーマパーク化した感は否めないが、それでも、ひとたびそのおどろおどろしい空間に身を置けば、一種異様な感覚に包まれる。宇曽利湖の極楽浜に佇んで耳を澄ませば、風と波に乗って、死者たちの声が聴こえてくるような気がする。実際に何かを聴いたことはないが、誘惑的な空間であることは間違いない。境内にある湯小屋の温泉で身を清めて下山する。

 いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)を読んだ。状況を掴むまでは少し混乱するが、死者たちの声と鎮魂の物語だ。そこに、死者たちの声に耳を傾けることについての議論が出てくる。「俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。・・・その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きている人の手伝いができればいいんだと思います」「ガメさんが広島の慰霊碑の前で声を聴いたというのは、何か自分も役に立ちたいと考える側の身勝手な欲求ですよ」「亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けていることを禁止にしていいのかっていうことなんだよ」「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや怖ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいものになってしまうんじゃないか」・・・。

 「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折りも、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」「声を聴かなくなったんだと思う」

 「この国」がかつては死者の声に耳を傾け、死者とともに国を作り直してきたとは思わない。もしも本当にそうであったなら、たとえ大きな地震や津波があったとしても、状況は違っていただろう。「この国」は、空襲や原爆の被害者たちの声に耳を傾けてこなかったばかりでなく、加害の結果として被害を与えてきたたくさんの人々の声にも耳を傾けてはこなかった。9月20日、南京セミナーの最終日、慰霊碑の前で追悼式を行った。今や恒例行事であるが、今回は若い世代を主役にしたので、個人的には十分な追悼をやり損ねた感じがする。何かが聴こえてくるわけではないが、もっともっと死者の声に耳を澄ます時間が必要だと感じたのだ。もちろん、それは、慰霊碑の前でなければできないことではない。自分なりにやれることはあるだろう。

 一方で、阪神淡路大震災の時の教訓がある。それは、死者たちにとらわれすぎて、自分にとって大切な生者たちのことを忘れてしまってはならないということだ。10月は多賀城へ行く。死者たちの声に耳を澄ましながら(それはつまり、何かを聴くということより、死者たちの存在を感じるということである)、生者たちとの時間を大切にしなければ。

2013.08.13
2013年8月 テレジンを訪れて

 アジア諸国を回るとあちこちで日本軍の蛮行の痕と出会うが、ヨーロッパを巡るとあちこちにホロコーストの痕が博物館となっている。あまりに大きすぎてなかなか全体像をつかむことができないが、機会があれば訪れ、少しずつ勉強するようにしている。アウシュビッツ、ビルケナウ、ザクセンハウゼン、ラーヘンスブリュックなど見てきたが、この夏は、チェコにあるテレジンを訪れた。

 チェコではハプスブルク家の支配下にあった四百年を「暗黒時代」と呼ぶそうだが(私たちには華やかに思われるハプスブルク家も、支配される側から見れば暗黒であることにあらためて納得する)、18世紀後半、オーストリアはこの地にプロイセンの侵入を阻止するための要塞を建設し、女王マリア・テレジアの名に因んで「テレジエンシュタット(テレジアの街)」と命名した。19世紀には、反ハプスブルグ運動の政治犯を投獄する刑務所の役割を担っていた。第一次大戦後、チェコスロヴァキア共和国としていったん独立するが、1939年、スロヴァキアは独立宣言をしてドイツと保護条例を結び、チェコはボヘミア・モラヴィア保護領としてドイツの支配下に入る。

 1940年6月、ナチス・ドイツはこの小要塞に拘置所を設置し、1941年11月、大要塞(テレジンの街)にユダヤ人ゲットーを作り、封鎖して、1942年半ばにはテレジンの街全体を強制収容所とした。そして、ユダヤ人絶滅政策をカモフラージュするため、ここでの文化活動を容認し、「美化キャンペーン」と称するプロパガンダに利用した。外観を整え、調査に訪れる国際赤十字を収容者によるオーケストラで迎え、宣伝用フィルムを製作するなどしていたのである。テレジンの資料館には、子ども達が描いた絵がたくさんあった。収容所の生活、かつての暮らしや将来の夢など生き生きと描かれており、プロパガンダとは言え、これはどういうことかと我が眼を疑った。

 実は、テレジンに収容されていた人々のなかには芸術家や文化人が大勢いて、苦痛と恐怖に怯える子どもたちに、たとえ限られた時間であっても人生は素晴らしいと伝えたいと、大人たちが決死の覚悟で教室を開いていたのだそうだ。絵を教えたのは、ウィーン生まれのユダヤ人、フリードル・ディッカー(1898〜1944)。彼女は売れっ子デザイナーで、迫害を逃れてプラハに移るが、やがてそこにもナチスの手が及ぶようになると、子どもたちを家に招いて絵を教えるようになる。逃亡を勧める友人の勧めを「子どもたちをおいて逃げるわけには行かない」と断り、ありったけの画材をスーツケースに詰めてテレジンに入った。

 「テレジンを語りつぐ会」HP(http://www.teresien.jp/)によれば、フリードルは、子どもたちに美しい花やかわいい犬の絵を描いてやり、子どもたちにも絵を描かせた。「明日、戦争が終わるかもしれないのよ。希望を捨ててはだめ。」「楽しかった日のことを思い出して絵を描きましょう。きっとまた、そんな日が来るわ」と励まし、絵に署名するように勧めた。生き残った子どもたちは、後に「テレジンの記憶には、楽しかったという言葉はあてはまらないですが、それでも、楽しかったと思える時間があるとしたら、それは、フリードル先生の絵の教室のときでした」 と語っているという。なお、子どもたちが遺した4千枚の絵と詩は20年後にようやく日の目を見、現在はプラハのユダヤ博物館にある。資料館のものはレプリカだそうだ。

 テレジンに送られたユダヤ人は、およそ14万4千人。4分の1が病気、飢え、過労、ドイツ兵による暴行で亡くなり、8万8千人が東へ、すなわちアウシュビッツなど絶滅収容所に送られた。1944年10月、フリードルも東へ送られている。テレジンでは、少年たちが秘密の雑誌を発行し、収容所の日々の生活の記録や楽しかった思い出、死への恐怖など書き記したという話もある(林幸子編著『テレジンの子どもたちから』新評論、2000年)。どのようにこんなことが可能だったか。人間の持つ力について、まだまだ学ばなければならない。チェコは歴史的に支配下に置かれていたため、指導的階層が存在せず、作家やジァーナリストなど文化人が政治の中心になり、その伝統は現在まで続いているという。どんな暴言を吐いても政治家として失脚することのない日本のことを考えると暗澹たる気分になるが、これらの話を日本でも語り継いでくれている人たちの存在に希望を持ちつつ学び続けたい。

2013.07.12
2013年7月 女と原発

 原子力の平和利用。何度も耳にしたことがあるような気がするが、その意味を一度も考えてみたことはなかった。原子力の平和利用とは、具体的に何を意味しているのだろうか? もともとこの言葉は、1953年、アイゼンハウアーが大統領就任時の演説で、東西冷戦のなかで核戦争の危機と「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」を訴えたことに遡る。単なる核削減や廃絶だけでなく、国連下に原子力機関(IAEA)を置き、電力の乏しい地域に電力を供給しようという内容だったが、電力供給イコール平和というだけなら、どう考えても、その根拠はあまりに脆弱である。

 加納実紀代さんの『ヒロシマとフクシマのあいだ〜ジェンダーの視点から』(インパクト出版会)を読んだ。これまでも、女たちの戦争責任を問う知的誠実さに感銘を受けてきたが、彼女自身が、5歳の時、広島の2キロ以内の地点で被爆した体験を持つこと、そして、ジェンダーの視点からしばしば核について語ってきたことを初めて知った。

 広島・長崎への原爆投下から十年経った1955年、広島で原水爆禁止世界大会が開かれ、女性平和運動の中心である母親大会の第一回大会が開催されている。その一方で、この年、原子力基本法が成立、東京で原子力平和利用博物会が開催された。この博物会は、その後、名古屋・大阪・広島など全国十か所を巡回したが、広島の会場は原爆資料館である。この1年のパワー・ポリティクスは、田口ランディ『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ〜原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書)に詳しい。

 敗戦直後、昭和天皇は疎開先の皇太子に手紙を出し、敗因を「我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである」と綴った。「つくる会」元会長・西尾幹二は、学校の作文に、「・・・原子爆弾はすごい爆発力があって、その爆弾を使えば二、三日すると日本の本土の人員はなくなるそうです。・・・今、降伏しておいて又、敵と戦争し勝利をえるのだそうです。今度の戦争は科学戦だから、理数科をしっかりやって発明するのです。その任務は僕たちです・・・」と書いた。そして、元主計中尉・中曽根康弘は1951年、日本を訪問したダレス特使に原子力研究の自由を認めるよう文書で依頼、54年には原子力開発を国策として起動させる。戦争責任を問うことではなく、科学力の掌握こそが目標となった。『鉄腕アトム』は1952年〜1968年に雑誌連載、1963年〜1966年、テレビ・アニメ化されている。

 皮肉なことに、「母性」と結びついた平和運動がこれをバックアップすることになるが、そこには女性解放への夢ものせられていた。「明るい原子力」のイメージとともに、「アメリカ文化=電化生活=女性解放」という等式が成り立っており、1948年の『アサヒグラフ』に載った芝浦電気(現・東芝)の洗濯機のコピーは「女性を解放する」、富士電機の広告は「洗濯しながら本が読める」だったという。たしかに、「婦人公論」を舞台に「主婦論争」が起こったのは1955年で、電化製品の登場を背景に専業主婦無用論が唱えられ、原水禁など市民運動に立ち上がる主婦の存在から主婦有用論が展開された。電化生活が女性を家事労働から解放し、女性たちは原水禁と平和運動に盛り上がると同時に、原子力の平和利用を推進し、原発導入を図ろうと目論んでいた経済界を支持することになった。加納さんは、「女性たちは核兵器反対の平和運動をにないつつ、経済発展に突っ走る男たちの銃後を支えることになる」(p.214)と表現している。

 振り返って後から批判するのは容易い。自分だって「原子力の平和利用」の意味を一度も考えたこともなかったのだ。2011年より十年計画で立ち上げた「東日本・家族応援プロジェクト」では毎年9月に下北半島むつ市を訪れる。「原子力船むつ」というのも聞き覚えはあるもののその意味をほとんど認識していなかったし、実際に行ってみるまで、核燃料サイクル施設のこともほとんど理解していなかった。そんななかでも、「何かおかしい」という素朴な感性を頼りに、圧力に屈せず抵抗し続けてきた稀有な人々もいるのだ。鎌田慧・斉藤光政『ルポ下北核半島〜原発と基地と人々』(岩波書店)を是非読んで欲しい。気づいた者からほんの少しでも賢明にならなければ。

<前のページへ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

© FLC,. All Rights Reserved.