- 2018.09.16 コミュニティ
- フィンランド便り③ーオープンダイアローグに触れて
朴希沙
2018年6月半ば~9月頭まで、私はフィンランドの中部に位置する大学の街、ユヴァスキュラで過ごしました。3回連続のフィンランドからの便り。最終回は、フィンランド発祥の精神医療、オープンダイアローグについて紹介します。
◎ はじめに
オープンダイアローグという言葉を聞いたことがあるでしょうか?
これは、フィンランド発祥の投薬に頼らず平等で開かれた対話によって治療を行う精神医療の実践のことで、その民主的でユニークな手法や治療実績から現在世界中から注目が集まっています。
私は8月末~9月頭にかけて、オープンダイアローグが実践されているフィンランド北部の小さな町、トルニオを訪ねました。
今回は、実際にオープンダイアローグを創ってきた人たち、そして現在実践されている人たちとの交流を通して学んだことについて書いていきたいと思います。
◎ オープンダイアローグとは?
オープンダイアローグとは、日本語では「開かれた対話」を意味します。
その手法は、統合失調症という、従来は投薬治療が中心である心理的な病に対してさえ、対話の力によって結果的に治癒をもたらし、症状の再発をおさえることから、精神医療の世界では驚きを伴った注目が集まっています。オープンダイアローグは1980年代から着実に成果を上げ、現在はフィンランドの公的な医療サービスとして、西ラップランド地方のトルニオでは無料で治療が提供されています。
その過程は驚くほどシンプル、そして考え抜かれたものです。
*参加者に対して、オープンであること
まず、患者さんやその家族から、病院に相談の電話が入ります。
オープンダイアローグでは医師・看護師・心理士・ソーシャルワーカーといった医療に従事する人々との間での協同・対等・民主的な関係が非常に重視されています。この電話をとるのも、様々な役職の医療従事者ですが、電話をとった人が責任を持って治療チームを結成し、初回ミーティングに臨みます。そして24時間以内に、相談者が安心して話し合いを行える場所に、治療チームが出向きます。
そう、オープンダイアローグは1対1の、診察室やカウンセリングルームで行う治療とは根本的に構造が異なっているのです。それは基本的に2名以上の専門家がチームとしてミーティング(診察やカウンセリングとは呼びません)に参加し、相談者を(無理に)病院に連れて来ることなく、治療を進めていきます。重篤な急性の精神疾患であっても、この基本原則は変わりません。
そして、このミーティングには相談者本人に関わる重要な人物であれば、誰でも参加することが出来ます。家族でも、恋人でも、友人でも、学校の先生や近所の住民でも参加できるのです。まず参加者に対して、非常にオープンであるといえます。
またこの際結成された専門家による治療チームは、同じメンバーで継続的に相談者本人とその関係者を支えていきます。
*決定に対して、オープンであること
次に重要な点ですが、投薬や治療の進め方、入院等についての決定は、本人がいないところでは決して決めないし、そのことに関する話し合いも行いません。
治療に関するあらゆる決定は、本人を含む関係者全員が参加するミーティングで決められます。そこでは、ひとりひとりの意向が十分に尊重され、傾聴されます。
患者から必要な情報を聞き出し、医師が一方的に治療方針を決めたり、患者やその家族がいないところでカンファレンスを行ったりしません。代わりに、「リフレクティング」という手法を用いて、相談者やその家族の眼の前で専門家同士が話し合います。
その意味で、何かを決定することに対して、非常にオープンなのです。
*不確実であることに対して、オープンであること
オープンダイアローグは、「技法」や「治療プログラム」ではなく「哲学」や「考え方」であることが、しばしば強調されます。性急な結論や治療方針を決めるのではなく、対話それ自体が目的だからです。だから、「今後、どうなるんだろう?」という不確実さ、不安感にいつも耐えて進んでいかなくてはいけません。
それを可能にしているのが、継続的に、必要であれば毎日でも同じ専門家チームに支えられて開かれるミーティングです。
結果や今後の不確実さに対して開かれていること、これもオープンダイアローグにおいて重要な哲学です。
だからたとえ意見が対立していてもそれをすぐにひとつの意見にまとめようとしたり価値判断をしようとしたりしません。意見が異なる中で傾聴とやりとりを続けていくこと、それが重視されるのです。
そのために、1度のミーティングではなんの合意にも至らないこともあります。その場合は何も決まらなかったことが確認されます。
◎それは、どんな体験だったのか?
日本にいたころ、私はオープンダイアローグについては本や論文を通して見聞きしていて、それは実際どのようなものなのだろうかととても興味を持っていました。今回、実際にトルニオの町を訪ね、実践されている人たちとお話していく中で、次のようなことを感じました。
*不確実さに耐えることを支えているもの
日本にいた頃、私が非常に難しいと感じていたことのひとつが、「不確実であることに耐える」というオープンダイアローグの基本的なスタンスでした。
話し合うこと、対話すること、それだけがまずは目的であるという在り方には非常に惹かれるものの、「それで、どうするの?」「何も決まらなかったら、相談者も治療者も不安じゃないかな?」と思っていました。ですが、実際に実践されている方々のお話を聞いていくうちに、それは「心のもちよう」とは異なるものだと感じました。
なぜ、不確実であることに耐えられるのか。それは、継続的に同じメンバーで話し合っていけるという確信があり、そのことに対するしっかりとした安心感があるからだということに気づいたのです。
継続的に複数の人々の間で話し合っていける、ということに対する信頼感が、不確実さに耐え、結論を急がずにいることを支えています。
また、「話し合い」と「不確実なものへの耐性」というこのふたつはコインの裏表のような関係であることも分かってきました。
つまり、話し合いが継続してできるからこそ不確実さに耐えることができるし、不確実なものに開かれているからこそ多様な人々の間での話し合いを継続できるのです。
そのためには、スタッフや専門家の間の関係性が非常に重要だと思いました。そこでの信頼関係や関係性が話し合い全体を支える土台になるからです。
チームで働くことの素晴らしさやその可能性について、改めて実感し、また驚いたのでした。
*100%の同意を求めないからこそ、話し合いを継続できる
次に私が驚いたのは、異なる意見、対立する意見に対して現地の方々が非常に落ち着いて反応されている、ということでした。
これは私の感覚ですが、日本では異なる意見を言うことそれ自体が難しく感じられたり、対立が避けられがちになったりすると思います。逆に対立や意見の相違が明らかになった場合、相手に対する怒りや「同じでないこと」に対する強い感情が湧いてきたりもするのではないでしょうか。これは、私は日本及びアジアの文化ではないかと感じています。
それに対して、オープンダイアローグを実践されている方々は「個人」というものが非常にしっかりと確立していると感じました。相手と自分とはそもそも異なる存在だし、100%同じ意見になることが重要でもない、という認識を根本的に持っておられると感じたからです。
皆で何かひとつのことに決めなくてはいけない時はあるでしょう。しかし、オープンダイアローグでは(事務的なことをのぞいて)話し合いの中で自然に答えがでることを待ちます。異なる意見を説得してひとつの意見に集約させなければいけない、とは考えられていません。
同じ意見になることは、重要ではないのです。それよりも重要なのは、意見が異なり、違う人間でありながらも互いに話を続けているという関係性なのです。
どんなに親しい間柄でも、互いの全てを知っているわけではなくそれぞれ大切な自分のスペースを持っていて、そうでありながらも深い関係性を持続している、ということが私には衝撃的に感じられました。これはひとつの、カルチャーショックのようなものだと思います。日本にいたころは、非常に親しい間柄といえば家族のようになんでも共有している、同じような意見である、というイメージがありましたから。
以上、非常にざっくりとですが、3つのオープンという視点からオープンダイアローグについて、そして実際にトルニオの町を訪ねて私が感じたことについて紹介させてもらいました。
またこの3ヶ月間、フィンランドでの生活で新しい価値観に触れ、多くの刺激を受けました。特にフィンランドの女性の在り方、生き方に対して驚きと憧れを感じました(これについてもまた書ける機会があれば、と思います)。
これからの問いは、この体験を今後の自分の実践にどのように活かしていけるか?とういうことです。
異なる文化や価値観に触れるということは、自分の中に新しい物の見方が生まれる、ということでもあると思います。これまで当然だと思っていたことが、実はそうではない。私達の社会で当たり前だと思われていることが、違う社会にいけば当たり前ではない。例えば私達の社会では「子どもは母親が育てるのが当たり前」と思われていますが、フィンランドではそうではないんです。むしろ「父親と母親が平等に育児を担当するのが当たり前」である社会でした。
短い期間でしたが、フィンランドで得た新しい物の見方を大切に、今後の日本での実践や生活に活かしていきたいと思っています。
【参考文献】
斎藤環著・訳(2015) 『オープンダイアローグとは何か』 医学書院