- 2007.12.17
- 2007年12月 コミュニティ通訳のこと
立命館の大学院で教えた卒業生たちが、あちこちの分野で活躍している。今日は対人援助学会(準備会)の例会で、4期生の飯田奈美子さんにコミュニティ通訳の現状と課題について話してもらった。彼女は福祉事務所で中国語の通訳をしてきた経験をもとに、中国帰国者についての貴重な修論を書いた。私たち教員もとても勉強させてもらった。卒後は、対人援助場面で通訳を行う通訳者のネットワークmcinetを立ち上げ、全国規模の活動を展開している。この会には、私も初期、2回ほど招かれて行ったが、今日の発表を聞いて、1年かけて積み上げてきたことの重みを感じた。
コミュニティ通訳とは、病院、学校、福祉機関、裁判、警察、その他、さまざまなコミュニティにおける対人援助場面で、言語的・文化的マイノリティとして通訳を必要とする在住外国人に対して通訳サービスを行っている人たちのこと。結果的に、対象となるのは、高齢者や子ども、生活困窮者、DV被害者、外国人労働者、難民など社会的弱者が多いことになる。かれらが日常生活で問題に直面したとき、援助を受けるために必要な交渉や手続きを行わなければならないが、その間に入って、コミュニケーションをつなぐ役割を果たす。
仮に、私たちが、このような状況に陥ったとき、たとえ言葉に問題がなくても、自分の権利を主張し、援助を受けるには大変な力とエネルギーを必要とするだろう。ましてや、言葉や社会制度についてまったくわからなければ、正当な権利を主張することなどできるはずもない。そう考えれば、そこをつなぐコミュニティ通訳の人たちが、どんなに難しい役割を果たさざるを得ないか想像することができるだろう。単に中立的な通訳者であるだけでは不十分で、場合によっては、援助者であり、アドボケイトであることが求められる。
いくらかの事例についても聞かせてもらったが、虐待やDVの相談だとか、場面に応じて、相当程度、専門知識が必要になる。この人たちの専門は言葉なのに、場面に応じてさまざまな専門知識を身につけていなければならないというのは大変すぎる。ましてや、今のところ、このような領域での通訳は、ほとんど身分保障もなく、ボランティアでやられている場合が圧倒的に多い。マイノリティのために働くわけだから、どこかが経済的援助をしない限り、どうしようもない(マジョリティから成る社会の側としては、本当のところ、なるべくなら援助したくない=切り捨てたいという思いがあるのだから)。
昔の田舎では外国人というだけで珍しかったけど、ふと気がつくと、私たちの社会にたくさんの外国人が住んでいて、どこに行っても珍しくない。いまや本当に多文化共生社会だ。なかでも、搾取され過酷な状況に暮らしている外国人たちは、出身国のなかでも恵まれない状況から来日に到ったわけだし、サバイバルのための逞しさはもちろん持ち合わせているだろうが、それでも、権利保障からは程遠い状況に生きている。彼らの権利保障をどのようにしていくのか。現在はコミュニティ通訳という人たちの善意や努力に頼っているわけだが、国レベルで保障していかない限り、私たちの社会は貧困な社会に留まることになるだろう。
立命館にはアジアからの留学生も多いので、最近、授業を通じて、彼らと交わるようになり、それによって多様な視点に開かれ、私たち自身が豊かになっていくのを感じる。言語的マイノリティの権利保障の問題は、気の毒な人たちへの慈善事業ではなく、私たちの社会にこそ必要なことなのではないだろうか。mcinetの人たちは、各援助場面での専門家たちが、まったく、言語的マイノリティについても、コミュニティ通訳の役割についても無知で無理解であることに苦労しているようだ。これらの問題にどう対処していくのか、私たちが成熟した文化社会をつくっていくことができるのかどうかの分かれ道だ。