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トピックス by村本邦子

2014.12.29
吉里吉里国

 震災以降、毎年、東北に通うようになったが、少しずつ馴染むほどに、東北の力に魅せられている。数々の心躍るエピソードがあるが、今回は、吉里吉里国のことを書いてみたい。 

 岩手県、陸前高田から宮古へ向けて、国道45号線を走っている途中、大槌町で「吉里吉里」という案内板を見かけた。実は、「きりきり善兵衛」というレストランに入り、「きりきり」とは何のことだろうと気になっていたのだが、どうやらこのあたりの地名だったらしい。そして、井上ひさしの『吉里吉里人』のことを知った。吉里吉里村が日本から独立するというこの小説は三十年以上前に書かれ、話題を呼んで日本SF大賞を取った。ちなみに、「きりきり善兵衛」とは、江戸時代の海の豪商・前川善兵衛のことなのだそうだ。地元の人は誰でも知っているのだろう。なんだか面白くなってきて、『吉里吉里人』を読んでみることにした。分厚い三巻本らしいが、キンドルで買ったため、厚さは感じられない。それでも、通勤時間に少しずつ読んで、ひと月近くかかったので、やはりかなりの分量なのだろう。 

 吉里吉里の駅は、震災の影響で運休しているJR山田線上にあるが、小説に出てくる吉里吉里村は、宮城県と岩手県の県境、東北本線沿線上にある。物語は、主人公・古橋を含む乗客808名を乗せた夜行列車「十和田3号」が一関手前で急停車し、旅券がない者は出入国管理令違反であると、子どもたちからなる入国警備官が銃を構えて乗り込んでくるところから始まる。全体的にドタバタ劇の体裁を取っているが、その内容は、まったく時代を先取りしている。やれ増産しろ、減反しろ、合併しろと国益のことしか言わない日本政府に愛想を尽かした吉里吉里人たちが、この日の朝、日本国から独立をはかったというのだ。吉里吉里国の人口は4200人、公用語は「吉里吉里語」(ズーズー弁)、金本位制を取り、食料自給率百パーセント、地熱発電まである。国民一人一人を大切にする農業・医療・平和立国として入念に独立の準備をしてきた。

  読み進むにつれ吉里吉里人たちへの思い入れが強くなっていくので、最後の最後に独立が失敗に終わったことを知って、いくらフィクションであるとわかっていても、残念で残念でたまらず、いまだにがっかりしている。今の日本の状況を思えば、どうしても吉里吉里国独立を果たして欲しかった。そうして、調べているうちに、実は、吉里吉里人たちの独立精神はいまだ健在であることを知った。

  大槌は大震災で大きな犠牲を受けたところのひとつだが、吉里吉里の住民はどの地区よりも早く復興対策を行ったそうだ。2011414日の毎日新聞によれば、住民たちは、「行政を待っていたら、いつまでたっても復旧しない」と、吉里吉里小学校の避難所に自分たちで災害対策本部を立ち上げ、食料班、医療班などを組織して活動を開始した。住民自ら行方不明者の捜索をしつつ、重機を使って国道や町道の瓦礫を撤去し、コンビニ在庫のパンや飲料水を救援物資として配った。防災用に準備した発電機を使い、医療用の電源を確保。重傷者や透析患者を運び出すため、吉里吉里中学校の校庭にヘリポートを示す"H"のマークを書き、自衛隊のヘリが患者を搬送した。震災5日後にこの地区に入った自衛隊員は、片づけられた瓦礫の様子をみて、「ここまで自力で復旧させるとは」と感嘆したという。

  そして、NPO法人「吉里吉里国」が誕生した(http://kirikirikoku.main.jp/index.html)。「先人の知恵に学び復興計画策定には、スピードが必要で、仮にこのまま国や県の決定を一方的に押し付けるようなことがあっては、被災者のあきらめ感を助長しかねない。我々が忘れていた先人達のこの知恵を再び取り戻し、我々住民自らリスクを管理できるような街づくりを目指し、次世代に残す事業を行わなければならないと思い、吉里吉里の住民有志自らが立ち上がって、その協力者達とNPO法人化にいたった」という。「復活の森」プロジェクト、自伐林業の普及、薪文化の復活・継承、森林教室の開催を事業とすることで、津波災害復興に向けて新たな雇用の創出と、経済復興に関わる地域主体の取り組みを地元住民と一体となって地域再生に取り組んでいる。

  実に頼もしいではないか。ネット上の情報だけだが、来年度は是非、訪ねてみたいと思っている。

2014.10.13
避難者たちのこと

 大学でやっている震災プロジェクトの一環で、毎年、きょうとNPOと一緒に、京都でもプロジェクトをやっている。あまり知られていないが、関西にもたくさんの避難者たちがいる。復興庁によれば、2014年7月現在、全国の避難生活者数は31万人、うち約24万人は被災3県にいるが、約7万人は全国に散らばっている。京都には約880人とされているが、実際にはもっと多いはずである。自主避難の母子が多く、今年のセミナーでは「災害時に家族に起こること」として、避難者の体験談を聞かせてもらった。おひとりの方は、夫は故郷に残り、子ども三人を連れて避難してきたが、高校1年生の長男は自分の意志で帰郷したそうだ。仲間関係が重要な自立の時期である。自分の人生を選択した子どもと最終的に子どもの意思を尊重した母親を称えたい気持ちではあるが、母親としての苦渋は推して知るべしである。 

 たまたま「希望の国」を借りていて、台風仕事が休みになった折、観てみると、まさに避難者たちの物語だった。このノンフィクションは、2012年10月には公開されているから驚きだ。園子温監督は、2011年8月から取材を始めたそうだが、2011年3月11日20時50分に避難指示が出たときには半径2 km以内の住人で、だんだん避難指示範囲が拡大し、3月12日18時25分には半径20 km以内、3月15日11時には半径20~30 km圏内に屋内退避、3月25日には自主避難が要請され、4月22日には半径20km圏内が災害対策基本法に基づく警戒区域に設定され、民間人は強制的な退去となり、立ち入ることが禁止されている。 

 映画の中で、主人公小野は、避難指示が出ても、先祖代々の土地に留まる以外考えない。環境を変えることは妻の認知症に良くないし、牛たちもいる。他方、息子夫婦はこれから子どもを産み育てる人たちだからと説得されて、両親を残して避難を決意する。本当に切ない。それでも、この映画には「希望の国」というタイトルがつけられていて、最後には、しみじみとそれ以外のタイトルはないのだと納得するのである。実際、被災地に残って抵抗している人々もいる。警戒区域で、殺処分の対象となった牛350頭余りを飼養している「希望の牧場」については以前紹介した(http://www.flcflc.com/muramoto/index.html)。その後、絵本も出版されている。さらに、この映画で主人公を演じた夏八木勲さんは、膵臓がんの痛みと闘いながらの撮影で、公開前に亡くなられたという。 

 原発事故はまだ終わってなどいない。誰にとっても人事ではないはずだ。再稼働が言われている川内原発も、私の故郷から30Kmである。

2014.09.10
お話の力

 8月末、丸森で開催された「宮城民話の学校」という2泊3日の合宿に参加した。レジリエンスモデルで東北を見た時、際立って見えてくるのがお話の力だ。2011年11月、遠野を訪れて「物語る力」として書いたことがある(/muramoto/2011/)。語り継がれてきた民話は、先祖たちからのメッセージであり、苦難や回復の物語を含む宝でもある。避難所から来てくださった語り手さんたちを囲んで、地域のお話や被災のお話を聴いた。語り手と聴き手の呼吸が合うにつれ、場の凝集性が高まり、エネルギーが高まっていくのがわかった。とても良かったオマケの体験は、夜、同室になった遠野の語り手さんから寝物語を聞かせてもらったこと。子どものような気分で幸せに眠りについた。最終日はフィールドワークで、被災された地元の語り手さんたちにガイドをして頂いて、福島県新地町、宮城県山元町、名取市閖上を回った。 

 9月頭、今度は、長く「宮城民話の会」をまとめてこられた小野和子先生をお招きして、お話をお聴きした。45年も前から、宮城の各地を回ってお話を聴き集めてこられた方だ。最初のお話との出会いや経過のエピソードそのものが、また新たなお話となっているようだった。実は、震災の年、第7回目宮城民話の学校を予定していたが、会場自体を流され、お仲間たちも何人かは海の向こうへ行ってしまわれて、いったんは断念したものの、生き延びた語り手たちが互いの消息を確かめ合うなかで、あらためてお話の力を感じ、「被災の体験を語り継ごう」という企画として実行されたそうだ。何もなくなってしまっても、人が残れば、お話が残る。人の体のなかで、お話は語られ、聴かれるのを待っている。ひとたび口が開かれると、そこには別空間が広がっていく。この話は、東北記録映画三部作のなかの『うたうひと』に収められ、せんだいメディアテークでは、「民話 声の図書館」をスタートしているという。 

 今年は10月の多賀城でのプロジェクトに「多賀城民話の会」の方々を招いて、地元のお話を聴く企画を入れてみた。新しい出会いや新しい動きにつながっていくといいなと願いながら。

2014.08.24
学校のなかのジェンダー

 本当に久しぶりだったが、縁あって、学校の先生向けのジェンダー研修を引き受けた。スクールカウンセラーもやっているので、学校現場をまったく知らないわけではないのだが、最近の学校のなかはどうなっているのか、とくに、バックラッシュ以後、その影響はどうなったのかと思い、最近の本をいくらか読んでみた。一番、おもしろかったのが、今年の4月に出版されたばかりの『学校社会のなかのジェンダー~教師たちのエスノメソドロジー』(木村育恵著、東京学芸大学出版会)だ。 

 それによれば、既存のジェンダーを変革するような教師個人の実践が多様化する一方で、既存のジェンダーを維持・再生産するような旧来の価値観を打ち出すような動きも見られ、男女平等をめぐり錯綜した状況にあるようだ。学校教育における男女共同参画の推進は、2000年策定の第1次男女共同参画基本計画以降、とくに重点的に取り組むべき課題となっており、第2次基本計画では、2015年までにすべての教育レベルにおける男女格差を解消することを達成目標とする「ミレニアム開発目標」の実現に努めることが目指されている。私なりに整理すると、法令で男女平等が決められているので、旧来の価値観を打ち出すような動きは、「性別特性論」の形を取る。つまり、男女の特性を互いに理解し、尊重するというものである。 

 木村さんは、なぜそうなるのか、それをどうやったら克服していけるのかを探るうえで、ジェンダー論だけでなく、教師文化の分析が不可欠であるという。これはなかなかに説得力のある論だった。教師文化は重層性を持ち、制度化された文化とその対抗文化を含んでいる。ひとつは官僚化と民主化の軸である。官僚化に向かう文化は、教育行政の文化であり、フォーマルな教師教育文化である。民主化に向かう文化は、教員組合の文化であり、自主的研修やインフォーマルな研究会を基礎とした専門的文化である。官僚化に向かう文化は、管理や体制維持、形式的に皆同じといった形を取るため、「性別特性論」に向かいやすく、論理的に言っても当然だが、ジェンダー問題に取り組んできたのは民主化に向かう文化であったので、これと拮抗することになる。ジェンダー問題から、なぜ、更衣室が男女一緒になるとかいう話になるのか奇妙に思っていたが、官僚化の文化から見ればそうなるのはわからなくもない。要するに、「男女共同参画」には二つの相反する男女平等理解が混在している。 

 ここを解きほぐさなければ、先へ進めないのだなと思って話してみたが、ジェンダーフリーとバックラッシュに関する意識は必ずしも高いわけではないようだ。もうちょっとそこを丁寧に話す必要があったかなと反省しつつも、「性別特性論」は男女二分法に基づく考え方であるところに大きな問題があり、ジェンダー教育は管理主義でなく、一人ひとりを見る多様性に開かれていく民主化を目指すものであることに気づかなければならないということは伝わったかと思う。そして、そのためには、自らが埋め込まれている教師文化を相対化しなければならないこと。そこで、大学の卒業生で、背の順整列をやめた小学校の先生のことを思い出し、話してみた。私たち自身が疑うことなく受け入れてきた学校のなかの常識はまだまだたくさんあることだろう。そしてそれが知らず知らずのうちに社会へ持ち出されていくのだ。

 

2014.08.18
『閉じられた履歴書』

 女性支援を始めた90年初め、兼松左知子さんによる同タイトルの本を読んだことが、強烈な記憶として残っていた。時々、思い出しては、もう一度、読み返してみたいと思いながら、どこにいってしまったのかわからず、そのままに月日が経った。婦人相談員の歴史を調べようと思い立った機会にと、改めて購入することにして、読んでみた。売春防止法の成立によって誕生した婦人相談員として、新宿を担当地区として受け持ち、女性支援を続けてきた著者の三十年の記録であり、時代が変わり、形が変わっても、性風俗に翻弄され、抑圧・搾取され続けてきた女たちの歴史でもある。 

 著者の兼松さんは、ソ連、朝鮮の国境に近い旧満州にて、二十歳で敗戦を迎え、無法地帯となったその地に攻めてきたソ連軍戦車隊の兵士たちが女を求めるため、何か月も天井裏に潜んで生活した。外から連れて行かれる女たちの慟哭が聞こえ、その声はなかなか耳から離れず、その体験が、帰国後、弱い立場の女性の側に立つ、婦人相談員の仕事を選ばせたのだそうだ。 

 売春防止法が公布されたのは昭和31年(1956年)、二年かけて段階的に施行されることになっており、昭和33年(1958年)には、新宿二丁目で赤線解散式が行われたという。婦人相談員たちは、それに便乗して仕事の説明と協力を訴え、その場で相談業務を始めた。当時、「売春婦」の推定は五十万人だったが、本人たちの当初の希望に反して、舞い戻る結果になった者が多く、昭和35年(1960年)には、飲食店を装った赤線復活を思わせる盛り場が大都会に目立つようになった。婦人相談員の相談対象は、「街娼」へと変化していき、家族ぐるみの更生、麻薬中毒者の更生、それに付随する住宅問題、ヒモそのものの就職あっせんと生活指導等、複雑多岐にわたり、間口を広くする必要に迫られていく。 

 高度経済政策がスタートすると、大型消費財の大量生産時代に入り、他人への無関心と欲望への抑制を失い、刹那的に行動する風潮が拡がり、「売春」も大幅に多様化した。その動機も失業、生活苦といった従来の型に加え、ローンの返済、子どもの教育費、より豊かな生活のためなど、高度成長下の相対的貧困感によるものが目立ち、「主婦売春」や地方からきた若い女性が、ふとした機会に「転落する」ケースが増え、売春防止法制定時とは異なった傾向が見られるようになったという。 

 本著では、そのような時代背景に添いながら、たくさんの女性たちの物語を重ねていく。これこそ、「歴史の証人」であり、同じことを長年続けてきたからこそ開けてくる視点である。こんなふうに大きな視点で売買春の歴史を眺めてみると、「私たちが闘うべき敵はいったい何なのだろう?」との問いが沸いてくる。個別の女性相談では、加害者と言うべき男性が特定されるが、歴史的視点から見た場合、相手が個人ではなくシステムであることは確かだ。そこには性別役割や女性蔑視のようなものが含まれているが、大量消費社会や新自由主義など、もっと多くの力が働いている。 

 個人の力でそれを変えることはできないかもしれないが、兼松さんのように、それに抵抗し、記録し、情報発信していく人がいることの意味は大きいと改めて思う。今も全国で女性たちのために頑張ってくれている婦人相談員たちがいる。本著は1987年に書かれたものであり、2009年には『街を浮遊する少女たちへ~新宿で<待つ><聴く>を続けて五〇年』(岩波書店)も出版されている。合わせて読んでみたい。

 

2014.06.24
遺言~原発さえなければ 福島の3年間、消せない記憶のものがたり

 同タイトルのドキュメンタリー、是非、観なければと思いながら、4時間に及ぶ長編なので、なかなか時間が作れず、大阪での上映を見送ったが、今日、たまたまふたつの予定がキャンセルになったので、思い切って京都シネマへ向かった。 

 2011年3月12日、福島第一原発事故の取材現場に駆けつけた2人のフォトジャーナリストが、いち早く撮影を開始し、2013年4月まで、飯館村を中心に、福島の人々と過ごした日々を記録したものだ。以前、「命の抵抗~福島『希望の牧場』のこと」を書いたが、

/muramoto/2014/03/000169.php 

 今回のドキュメンタリーも、酪農家の家族と仲間を中心に据えながら、いのちを問うたものだ。「希望の牧場」の吉沢正巳さんたちは殺処分に抵抗し続けたが、本編の長谷川健一さんたちは、避難命令に対して、子や孫や人の命とは引き替えにできないと苦渋の選択をした。殺処分するのかしないのか、避難するのかしないのか、選択は一見、真逆のように見えて、実は、人生の価値という意味では、まったく同じものを選択しているようにも思える。 

 いろいろなことを考えさせられたが、大きなインパクトとして残ったことは、震災前には名も知らなかった福島の小さな村に、こんないい男たちがいたのだという発見だった。映画の中で、大の男たちが、惜しげもなくボロボロ泣く。なかには自死した者もあり、その遺言がタイトルの「原発さえなければ」なのだが、仲間たちと支えあい、何とか知恵と希望を絞りだし、冗談をとばして笑いながら、しぶとくサバイバルしている。ただし、目を凝らしてよく見てみると、その陰には、それを支える妻の姿があるか、もしくは、姿がない。映画にそのことは描かれていないが、おそらくは「嫁不足」の問題があったのだろうと推測させる手がかりがある。このことが突き付けている事実に考え込まされる。 

 酪農家の女も一人登場する。札幌の大学で酪農を学び、スイスでの酪農研修を経て、両親とともに家族経営の小さな酪農を営み、自給自足的なエコライフを実践していた。彼女は、スイスの農家には核シェルターがあったが、別世界のことだと思っていた、ここにも核シェルターを作っておくべきだったと後悔する。酪農の力を買われて、今は、横浜の小野ファームで働くが、「都会暮らしは楽だが、楽はよくないね。やっぱり福島に帰りたい」と語る。 

 2012年5月、福島復興牧場がオープンした。これまでの酪農は家族経営が通常であるため、経営規模は小さく、新規参入が困難、後継者不足といった問題を抱えていたが、この牧場は共同経営を採用、土地や整備などの規模を拡大し、酪農教育プログラムや牧場体験プログラムといった活動を行うことで、学生や一般の人々の理解を促進してゆくのだという。 

 これからどんな世の中になっていくのか、とても楽観できるような状況ではない。これまでは、どんな状況にあっても希望を持ち続けることができたらと願ってきたが、今回は、むしろ、絶望のなかにあっても生きていく力を持ちたいと思うようになった。未来に希望があるのかどうかわからない、それでも、仲間たちと一緒に、人生の大切な価値を見失わず、できることをコツコツと重ねていくということだ。福島でこんなふうに生きている人たちがいることに感謝だし、その証人として存在し続けようとする良心的なジャーナリストたちがいることにも感謝である。最後の方に、「伝えて終わり、聞いて終わりではダメで、次の一歩につなげないと」という言葉が出てくるが、私も小さなできることを続けたい。

2014.06.22
フェミニスト・アクション・リサーチ

 コミュニティ心理学会第17回大会を立命館大学で主催した。ちょうど十年前にもやったので、二度目となる。大会長を二度もやった人はいないのだけど、成り行きからつい引き受けてしまったので、やるからには自分が楽しいことをやるぞと決めていた。そのひとつが、フェミニスト・アクション・リサーチのワークショップ。ずいぶん昔からその研究手法に注目していた吉浜美恵子さん(ミシガン大学)と、昨年、たまたまご一緒することがあって、ラブコールを投げかけておいたのだ。フェミニスト・アクション・リサーチの手法を身につけたくて、何冊か本を買ってみたこともあるが、一人では意欲が沸かなくて、そのままになっていた。たぶん、日本でやっている人はほとんどいないのではないだろうか。元気な研究をやるには仲間がいるのだ。一緒に学び合える場を創りたかった。

 前半は、グループに分かれて、与えられた課題についての研究デザインを考えて発表しあうという演習だった。私のグループに与えられたのは、予算削減で、刑務所における大学教育プログラム予算がカットされたので、地域にある女性が収容されている刑務所でこれを継続(再開)することを求めるためのデータを集めるという課題。刑務所に大学教育プログラムがあるということ自体驚きだが、とにかく、女性囚の力を活用したい。そこで、卒業生たちを講師に招いて女性囚とチームを作り、プログラムの効果を調査するという案を考えた。プログラム修了生たちの再犯率や効果についてのデータを集めるのだ。チームに呼ばれた卒業生たちは、このプロジェクトに加わることで、再犯率を下げる効果もあるに違いないし、女性囚たちの学びや意欲につながるだろう。 

 この例は、実際にあったそうで、ミッシェル・ファインというフェミニストによるチェインジング・マインド・プロジェクトというものだそうだ。クリントン政権下で予算カットされた刑務所大学教育プログラムに対して、ニューヨーク州で実施された。地域の大学の学長と刑務所のラインを巻き込んでプロジェクトを立ち上げ、小さな予算を提供しあって、大学教員のボランティアが刑務所に行き、カリキュラムを作成し、研究方法の上級講座を開設した。服役女性18名を含む15名のコミッティを作って、調査を計画。274人の卒業生とプログラムを受けていない人とのデータを比較し、経済学者に分析してもらうとともに、刑務所内の風紀や安全への影響についても調査した。4年かけて調査を実施し、大学があることで再犯率が29.9%から7.7%に減り、刑務所内にも良い影響を与えていることを明らかにした。残念ながら、予算は再開しなかったが、このデータはその後のさまざまな助成事業に大きな影響を与えたそうだ。 

 この他にもいくつか例を教えてもらったが、優れた研究例を知るに勝る勉強法はない。大学に勤めていながらこんなことを言うのはいかがなものかと自分でも思うが、この話を聞いて、自分がいかに大学の力を見損なっているかに気づかされ、反省もした。この研究に協力した大学は、女性が学長を務める小さな大学ばかりだったそうだが、それでも大学は社会の大きなリソースになり得るのだ。というより、なるべきなのだ。日頃、研究のための研究に没頭している人たちを見ると腹立たしくうんざりしてしまうが、こんなクリティティブな研究が主流となっていけば、きっと世の中も変わるだろう。もっと学んでいきたい。 

 午後の演習は、フォトボイスだった。これについても、また紹介しよう。

2014.05.10
最後の母系制社会モソ

 不思議なご縁があって、中国雲南省瀘沽湖(ロココ)の湖畔にあるモソ人の集落を訪れた。最後の桃源郷とも言われているようだが、母系制と通い婚で有名なところだ。上海乗り継ぎで3時間半、麗江へ。そこまでで1日がかりなので、麗江でナシ族の民宿に一泊して、朝まだ暗いうちに出発し、小さなチャーターバスに乗ってさらに250キロ。山を越え、谷を越え、でこぼこ道をえんえんと走り続け、途中、土砂崩れで1時間半ほど止まってしまったり、車の調子が悪くなって村の修理屋に寄ったりしながら、また1日がかりでようやく瀘沽湖に辿りつく。透明度が高く、青く静かに眠っているような美しい湖だ。入口には、「ようこそ女児国へ」の看板があって、100元(2千円弱)の入場料を払う。そして、そこからさらに20キロ、もっと厳しいでこぼこ道を山奥まで入って、ようやく目的地のワラビ村に辿りつく。大阪から丸2日の長旅だ。 

 モソ人たちは、「嫁を娶らず嫁がない」。母系制社会で、財産を女たちが引き継ぎ、カップルの関係は通い婚。成人式は男女ともに13歳だが、女たちは13歳になるとそれぞれ別棟の建物の1室が与えられ、互いの気持ちが確認されると、男が夜こっそりと彼女の部屋に忍び入り、朝まで一緒に過ごす。朝になると、男は実家に戻って働く。子どもが生まれると、母の属する大家族のなかで育てられ、男も女も自分の生まれた家で一生暮らすことになる。母屋にはかまどがあって、先祖が祀られ、それを見守るように家長(つまりはおばあさん)の寝床があって、その奥に生死門と呼ばれる小さな扉があって、その向こうには小さな部屋がある。家族はみな、その部屋で生まれ、その部屋で最後の息を引き取る。そういう意味では、一生というより、あの世でもずっと実家に属することになる。ちなみに、生死部屋以外で死んでしまった場合は、もう家族と一緒に暮らせないそうだ。

 知れば知るほど、よくできたシステムだと感心する。経済と恋愛を一緒にしないので、カップル関係は純粋に気持ちで成り立っていて、関係が破綻すれば、あっさりと別れる。しつこく聞いてみたが、そこでのトラブルはまったくないようだ。そこで引き摺るのはとても恥ずかしいことだし、また新しい出会いがある。ストーカーのようなこともないようだし、そもそも犯罪はない。一生、同じ相手と連れ添うカップルもあれば、相手が変わる場合もある。子どもは、経済という観点からも、養育という観点からも、父母の恋愛関係がどうあろうと変わりない安定した環境のなかで育つ。経済と恋愛をごっちゃにするから、愛はなくてもお金のために婚姻を続けたり、ひっついたり別れたりを繰り返しながら子どもがその間で振り回されることになるのだ。個人的には、モソのシステムがとても気に入って、世界中がこのシステムを採用すれば、戦争なんて起こらないのにと思う。要するに、競走というものがないのだ。

 と言っても、モソの人たちは新しく来るものにもオープンなので、違う部族との結婚もあり、外から入ってきた文化の影響で、さまざまなバリエーションがあり得る。以前は、麗江から瀘沽湖まで、車で1週間かかっていたというから、このシステムが今まで残ってきたのだろう。来年は瀘沽湖に飛行場ができ、3年後には麗江から瀘沽湖まで高速道路が通って2時間半で行けるようになるということだから、みなが訪れやすくなると同時に、この特別な家族形態を維持することは、とても難しくなっていくだろう。そのうえ、中国の一人っ子政策で大家族の維持、すなわち一家の働き手の十分な確保がだんだん難しくなっている。モソの人たちはとても寛容で争わないので、経済優先の価値観が押し寄せてくると、それに対抗する戦略を持つことがどのように可能なのかわからない。こんなふうに人類が現代社会を作ってきたのだと思うと哀しい気持ちになった。

 

2014.04.20
「わたし」に立ち戻って

 この春、23年半続けてきた女性ライフサイクル研究所の所長を降り、大学の方でも、5年間背負っていた役職を降ろした。娘はパートナーとともに家を出、フルタイムの仕事を見つけて頑張っている。息子は仕事をやめ、またもや新しい世界へ旅立とうとしているところだ。いっぺんにいろいろな責任をおろし、しみじみと、久しぶりに「わたし」に戻った気分である。もちろん、いろいろな役割を背負う自分も「わたし」には違いないのだけど、純粋に「わたし」のための「わたし」とでも言おうか。

 ずいぶん前のトピックで紹介したが、『愛着からソーシャル・ネットワークへ~発達心理学の新展開』(マイケル・ルイス/高橋佳子編、新曜社)という本がある。精神分析やボウルビィの愛着理論では、乳幼児期の母子関係を基盤にして他者との関係や自己概念を徐々に発達させていくことになっているが、ソーシャル・ネットワーク理論によれば、新生児は多数のネットワークからなる社会に生まれ、その中で発達し、社会化される。つまり、さまざまな関係性のなかで、異なる「わたし」が立ち現れる。多様なネットワークを持てば、多様な「わたし」と出会えるだろう。
 

 ケネス・ガーゲンは同じことを「関係的存在」(relational being)という言葉で表し(Gergen, 2009)、小田博志さんは、これに「縁」という語を当てている。実は、ガーゲンの同タイトルの本をキンドルで買って、この2年ほど、思い出したように持ち歩いて、少しずつ読んでいた。どこかに「本当の私」があるのではないかなどと考えて探し求めるのでなく、幸せの青い鳥は眼の前にいたように、「わたし」は、今ここにいて、新しい可能性を待っている。息苦しくて生きにくい「わたし」は、たぶん自分の関係性を狭め固定してしまっているのだ。
 

 役割や責任も、ソーシャル・ネットワークに含みこまれているものだろうが、それが肥大化すれば、その他のネットワークを押しつぶしてしまうだろう。仕事も子育ても、自分で選び育ててきた大切な人生の一部ではあるが、その陰で、出会いそびれた関係と「わたし」がある。これから、「わたし」はどんな方向を向いて、どんなことと出会っていくのだろうかと考えると、何だかわくわくする。そんなに大きく違ったことをしようと思っているわけではないが、もっともっと柔らかく開かれたいと思うのだ。

2014.03.25
2014年3月 命の抵抗~福島「希望の牧場」のこと

 立命館大学国際平和ミュージアムで開催された「震災で消えた小さな命展」のオープニングイベントを手伝ったが、そこで上映されたドキュメンタリー「犬と猫と人間と2~動物たちの大震災」に登場する「希望の牧場」のことが強く印象に残った。福島第一原発から半径20キロ圏内にあたる警戒区域に指定された浪江町で2011年7月に発足し、「原発事故の生き証人」として、被ばくした牛350頭余りを飼養している牧場である。政府は殺処分の方針を出したが、代表の吉沢正己さんを中心に動物たちの命をつなぎ、積極的な情報発信を続けている。(http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/

 このドキュメンタリーは、あちこちで自主上映会が行われていて、5月にはDVDも発売される。(http://inunekoningen2.com/news/)。涙を流す牛や、見るも無残な動物たちの遺体が登場し、胸が締めつけられる場面が少なくないが、動物とのつき合い方や命の扱い方は、そのまま人間のあり方を表しているのだと思う。「なぜ、そこまで?」と問われ、吉沢さんは、「意地だね」と答える。牧場の維持は全国からの寄付と応援で成り立っているが、同時に、「もともと食用に生まれてきて、被爆して食べられなくなった牛を生かし続けるなんて、資源とエネルギーの無駄遣いだ。さっさと殺せ」といった批判が後を断たないという。命を経済的価値と置き換える思考は、原発と同じ論理であり、生き物の命を頂いて人間の命があることへの感謝とは別のものだ。「飼料が尽きた後はどうしますか?」という問いに、「そうだね、放つよ。ドドドドドーと街中に放たれて、おっかねぇぞぉ」という答え(表現は不正確だが)を聞きながら、「命の抵抗」という言葉が浮かんだ。

 警戒区域のなかに牛たちと暮らしながら、命の抵抗をしている吉沢さんとはいったいどんな人なのだろうと関心を持った。吉沢さんの父親は満州開拓団の一員だった。満州開拓団が入植した時、日ソ中立条約を破ってソ連が参戦する情報をつかんだ関東軍は満州開拓団を見捨てて大陸から逃げ出した。「棄民」となった父親は何とか帰国し、日本で開墾を始め、その土地を売ったお金で牧場の土地を手に入れた。牧場は父の形見でもある。吉沢さんには今回の事が満州開拓団とだぶり、そんな国に従えるかと、殺処分反対・原発反対運動を始めたのだそうだ。なるほどと思った。私自身、動物たちの亡骸を見ながら、日中戦争を思い浮かべていた。

 ほとんど報じられないが、反原発運動は今も活発に行われている。3月9日、国会議事堂周辺で3万人以上の大規模な反原発デモが展開され、3月15日、日比谷野外音楽堂には5500人の脱原発集会が開かれたそうだ。あちこちで根強い抵抗が繰り広げられていることを知ることは希望だ。小さくても継続できそうな何かを自分もと思う。今、考えているのは、ささやかな抵抗としての「命のキルト」である。ずいぶん前に、トラウマ・キルトのことを書いたが(2003/9/12)、祈りをつなげて形にするムーブメントだ。もう少し具体的にイメージできるようになったら呼びかけたい。

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