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トピックス by村本邦子

2013.12.21
2013年12月 ローカリティ(地域性)再考

 先月、東北を訪れた時に出会った運転手さんが、偶然、同郷の人で、「この辺りでは珍しいですね」と故郷話に花を咲かせていたところ、「会津の人たちの前で薩摩と言わない方がいいよ。今でも恨まれているからね」と言われた。その時は冗談で受け流したのだが、その後、繰り返しこのテーマと出会うことになった。

 ひとつは、日本平和学会から送られてきた『「3・11」後の平和学』(早稲田大学出版部)の「日本近代国家建設における『東北』~軍国主義と経済成長の時代をこえて」(篠田英郎著)である。近代の国民国家建設は度重なる戦争への対処という政策的課題のなかで進展したが、明治政府が中央集権体制を強化して近代化を急速に進展させることができたのは、戊辰戦争によって薩長など西南諸藩出身者を中心とする新政府への反対者が駆逐されていたからだという。「敗戦地」として「後背地」とならざるを得なかった東北は、台湾出兵の際の台湾やイギリスに対するインドなどになぞらえられながら、資源と人材の「供給地」としての位置づけを梃子に、日本の軍国主義と高度経済成長の過程を通じて発展の道を見出してきた。福島第一原発が建った土地は、1938年に陸軍練習飛行場とする目的で強制買収された後、1945年8月の空襲で焼け野原となったところである。本論の示唆は、「市町村主体の復興」を提示しながら「基本方針」を定めるのは「国」という中央集権的体制に過度に依存した復興計画は、今や限界があるというものである。

 もうひとつは、やはり先月、同じく日本平和学会でご一緒した名嘉憲夫さん(東洋英和女学院大学)の「紛争解決論の視点から尖閣諸島、竹島、北方四島問題の解決を考える~"帝国の残滓"の後始末としての国境画定問題」という報告である。「固有の領土」という考え方を批判し、問題を「国境画定問題」として定義し直そうというもので、「日本国」の領域と国境は、古代、中世、近世、近代にわたって変化してきたことに眼を向ける。近代における国境の変化は、①1867年の王政復古、戊辰戦争から始まる集権国家成立期、②1874年台湾出兵から始まる国境画定期、③1894年日清戦争に始まる対外膨張期(帝国の拡大期)、④1945年敗戦後からの対外縮小期(帝国の解体期)に区分され、領土問題は第3期の帝国の拡大期に起こった戦争に関係して発生した問題であるという。
 名嘉さんによれば、アイデンティティには4つの次元があって、①ローカル②日本国民 ③東アジア人 ④世界市民 なのだそうだ。会津の人にとって、次に来るのは、福島でなく東北人だという。伝承やわらべ歌の研究をしている同僚と話したところ、会津人にとって「前の戦争」とは戊辰戦争を指し、東北のわらべ歌には戦に負けた悔しさや敵への憎しみを密かに織り込んだものがあるのだという。そう言われてハタと思い出したが、薩摩人にとって「先の戦争」とは関ヶ原の合戦かもしれない。地元には妙円寺詣というのがあって、薩摩の子どもたちは、毎年1回、負け戦で敵の陣営に敵中突破した島津勢の勇気を称え、24番まである歌を歌いながら、島津義弘公眠る妙円寺まで何十キロも練り歩く。

 アルマンド・ボルカスによれば、歴史のトラウマは伝承を通じて世代間伝達され、文化的・国家的アイデンティティに影響を及ぼすというが、まさにそういった類の話ではないか。もっとも、震災を過去の戦と結びつけて捉えている人はいないだろう。原発は東北にだけにあるわけではない。それでも、強く印象づけられることは、私たちがどれほど歴史によって規定されている存在であるかだ。南京のHWHでは国民アイデンティティにフォーカスしてきたが、振り返りの中で、多様なアイデンティティの構築と解体に着目する必要性を考えていたところだった。ハンナ・アレントによれば、国民国家とは文化的同一性に立脚した統一的集団として確立されたものである。

 上述した論文の中で篠田は、復興計画には日本における国民国家と地域社会との関係の問い直しが強く求められているとしているが、ローカルを変革の主体にする鍵はどこにあるのだろうか。境界の問題とともに政治状況はますます厳しいが、文化はとっくに国境をないものにしている。その一方で、歴史に根指した文化的区分が今なお私たちに沁み渡っている部分があるということだ。グローカルなどという言葉も生まれているが、地域発信の文化を興していくと同時に、各地から発信された情報が出会い反発したり融合したりしながら、もっと豊かな境界領域を形成していくような世界を作っていけないものか。

2013.11.15
2013年11月 クレイジー・ライク・アメリカ

 今月は、前々から紹介したいと思いながらしそびれていた『クレイジー・ライク・アメリカ~心の病はいかに輸出されたか』(イーサン・ウォッターズ著 / 阿部宏美訳、紀伊國屋書店)を紹介しよう。アメリカ人である著者は、世界中どこへ行ってもマクドナルドやナイキショップがあること以上に、アメリカ人が精神疾患の概念をせっせと輸出し、その定義や治療法を世界の標準とすることで、世界が狂気にいたる道筋を均質化してしまっていると指摘する。例として取り上げられているのは、香港の拒食症、スリランカのPTSD、ザンジバルの統合失調症、そして日本のうつ病である。

 たとえば、うつ病はこんなふうに日本に輸入された。20世紀後半、日本には英語のdepressionと同じ意味を持つ単語はなかった。80年代、DSMのうつ病の診断が世界的に広がりつつあった時でも、日本では深い悲しみの感情は好ましいものとされ、愁いに沈んだ様子は尊ばれていた。したがって、気分を高揚させる薬物がマーケットに乗せられるはずがなく、90年代初頭、アメリカの大手薬品会社は日本に進出しないことを決めていた。ところが、バブル崩壊後、状況が変わり始める。過労自殺の裁判で原告が勝訴し、日本で初めてうつ病と自殺が関連づけられた。1995年の阪神淡路大震災は、日本のメンタルヘルスの取り組みが遅れているという世論を高め、1996年、NHKスペシャル「脳内薬品が心を操る」が放映された(この番組は私も記憶している。かなりの違和感をもって観た)。複数の大手薬品会社が競って日本に進出し、某製薬会社は2000年、臨床実験の被験者募集に見せかけた新聞の全面広告を何度も出し、インターネットを使って、クイズ形式で自分がうつ病かどうかを確認し、うつ病となれば精神科に行って薬をもらうというルートも確立された。2008年、あっという間に、日本は年間10億ドル規模以上の市場となった(メンタルヘルス領域にいる者として、これは十二分に実感できるものである)。

 次にPTSD。2004年、スリランカを津波が襲ったとき、アメリカのメンタルヘルス協会の常任理事がバカンスでそこにいた。9.11への対応をした経験を持つ彼女は、PTSDについて啓蒙するために全力を尽くし、情熱的な欧米人たちが次々と支援に駆け付けた。コロンボ大学の教授陣は、生存者の体験を「心の傷」だけに絞り込み、彼らを「心理学的な犠牲者」として単純化する見方をしないよう、トラウマは脳内で自動的に起こる生理的反応ではなく、むしろ文化を伝える情報であると訴えた。しかし、トラウマ・セラピストたちは、現地の教師たちにそれぞれが信じている方法をレクチャーして修了証書を出し、トラウマ研究者たちはPTSDのチェックリストを配って、データ収集を行った。スリランカ生まれの心理学者によれば、スリランカ人はトラウマに対してPTSDの症状チェックリストにあるような心の状態を示さず、むしろ、それは社会的な関係性を壊すものである。恐怖体験にずっと後まで苦しみ続ける人は、社会的つながりから孤立した人や、親族のなかでうまくやっていけなくなった人である。欧米のPTSD観においては、トラウマが精神的ダメージを引き起こし、結果として社会的問題が起きると考えるが、スリランカ人にとって、集団のなかで自分の立ち位置を見つけられなくなることが苦しみを引き起こすのであって、自らの心の問題に起因するわけではない。

 著者の主張は、自分の心理的苦痛を表現しようとする人は、その時代にある症状の貯蔵庫から無意識に行動を選択する。精神疾患が類型化されると、症状の貯蔵庫に新しい行動様式が加わる。アメリカ生まれのDSMが世界中に拡散することで、様々な文化における症状の貯蔵庫が均質化していく。こうして、世界中の人々がアメリカ人と同じように狂っていくのだというのがタイトルの意味である。かつて拒食症について研究していた頃に感じていたことである。これは決して、苦痛を否定する議論ではない。もっと多様な仕方で豊かに悩み苦しむことを拓こうとするものである。

2013.10.31
2013年10月 台湾におけるアートセラピー

 今月は台湾へ行ってきた。以前、中国蘇州での国際表現性心理学会のことを書いたが(2011年8月アートセラピーと文化 )、そこでシンポジストとしてご一緒した台湾の頼念華先生より、是非、台湾でも南京の話をしてほしいと言われていたものだ。その時は、日本の精神医療や臨床心理のなかで生まれた「芸術療法」と、アメリカのクリエイティブ・アーツ・セラピーとの違いに触れ、心理療法と芸術のどちらをより包括的な概念と捉えるかと書いた。でも、今回よくわかったのは、本来のアートセラピーでは、心理療法と芸術を対等に統合するものなのだということである。ニューヨーク大学のイクコ・アコスト先生の講義を受けたが、私たち(つまりは臨床心理から浮かれた芸術療法をやってきた者)に欠けているのは、アートの理論である。

 頼先生のアートセラピーのワークショップを受けた体験についても書いたことがあるが(2013年1月アートの力)、たとえば画材の性質、技法などについての専門知識に基づいて、アートに馴染みのない人々でも気遅れすることなく、一歩一歩進んでいけば、いつのまにかアート自体が持つセラピューティックな力の恩恵を被ることができるような構造を準備することである。それで思い出したが、よく一緒に仕事をしているサンフランシスコのアート・セラピスト笠井綾さんに教えてもらって、東北のプロジェクトでも使ってみようと思っているものに、「タッチ・ドローイング」という手法がある。これなど、まさに、このように工夫され開発された手法だと思う。絵具を置いて、適当に指を動かしていると(リラックスして解放されていればいるほどよいと思う)、偶然性と必然性が相まって何かが生まれ、そうやって生まれてきたものに語りかけられるようにして、変容が起こっていく。

 さて、南京の話だが、長く植民地支配してきた台湾でなぜ南京の話なのかと葛藤を抱えながらも、頼先生が台湾の人たちに聞かせたいと招いてくださったとすれば、それには意味があるのだろうと思った。私の父は台湾で生まれている。今回、計算してみて初めて認識したが、父の生まれたのは、ちょうど日中戦争がはじまった年である。祖父は父が幼い頃に病死しているので、私自身は知らないのだが、その時代、支配者側の人間としてこの地にいたということが意味するものをあらためて考えた。東京大空襲の被害者としての母から始め、植民地支配の側の祖父と父について触れたうえで、南京での取り組みを紹介した。錯綜した文脈だが、現実とはそういうものだ。次のステップは、アートやドラマを使いながらHWH (2012年5月「私」のなかの他者・社会・歴史と出会う )でやってきたことを、学校教育や平和教育に入れていくことだと思っていると言ったら、「台湾でもそれに対応することをやりたい、是非一緒にやっていきましょう」という熱いラブコールがやってきた。頼先生の影響だろう、台湾のアート・セラピストたちは、とても活発のようだ。

 私にとっては特別な意味を持つ台湾の人たちに暖かく迎え入れてもらったことも嬉しかったし、今回、台湾、中国、アメリカでそれぞれに活躍しているパワフルで魅力的な女性セラピストたちと一緒に仕事できたこともとても力になった。アートは言葉の壁を越えるし、一緒に食べたり笑ったりしながら、女たちの力と連帯を感じる。そして、歴史に根付く作業を重ねるなかで、アジアの一員であることがとても心地よい私がいる。

2013.09.26
2013年9月 死者たちの声に耳を澄ます

 十年のプロジェクトとして立ち上げた東北巡業も3巡目に入った。プロジェクトは、毎年、9月のむつからスタートするが、ひょんな巡り合わせから、むつに入る前、まず恐山に入ることになっている。恐山と言っても、今や山道も整備されて大型バスが入り、ややテーマパーク化した感は否めないが、それでも、ひとたびそのおどろおどろしい空間に身を置けば、一種異様な感覚に包まれる。宇曽利湖の極楽浜に佇んで耳を澄ませば、風と波に乗って、死者たちの声が聴こえてくるような気がする。実際に何かを聴いたことはないが、誘惑的な空間であることは間違いない。境内にある湯小屋の温泉で身を清めて下山する。

 いとうせいこう『想像ラジオ』(河出書房新社)を読んだ。状況を掴むまでは少し混乱するが、死者たちの声と鎮魂の物語だ。そこに、死者たちの声に耳を傾けることについての議論が出てくる。「俺らは生きている人のことを第一に考えなくちゃいけないと思うんです。・・・その心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃないし、直接何も失ってない俺らは何か語ったりするよりもただ黙って今生きている人の手伝いができればいいんだと思います」「ガメさんが広島の慰霊碑の前で声を聴いたというのは、何か自分も役に立ちたいと考える側の身勝手な欲求ですよ」「亡くなった人の声を自分の心の中で聴き続けていることを禁止にしていいのかっていうことなんだよ」「行動と同時にひそかに心の底の方で、亡くなった人の悔しさや怖ろしさや心残りやらに耳を傾けようとしないならば、ウチらの行動はうすっぺらいものになってしまうんじゃないか」・・・。

 「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。この国はどうなっちゃったんだ」「木村宙太が言ってた東京大空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の数多くの災害の折りも、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。それはなぜか?」「声を聴かなくなったんだと思う」

 「この国」がかつては死者の声に耳を傾け、死者とともに国を作り直してきたとは思わない。もしも本当にそうであったなら、たとえ大きな地震や津波があったとしても、状況は違っていただろう。「この国」は、空襲や原爆の被害者たちの声に耳を傾けてこなかったばかりでなく、加害の結果として被害を与えてきたたくさんの人々の声にも耳を傾けてはこなかった。9月20日、南京セミナーの最終日、慰霊碑の前で追悼式を行った。今や恒例行事であるが、今回は若い世代を主役にしたので、個人的には十分な追悼をやり損ねた感じがする。何かが聴こえてくるわけではないが、もっともっと死者の声に耳を澄ます時間が必要だと感じたのだ。もちろん、それは、慰霊碑の前でなければできないことではない。自分なりにやれることはあるだろう。

 一方で、阪神淡路大震災の時の教訓がある。それは、死者たちにとらわれすぎて、自分にとって大切な生者たちのことを忘れてしまってはならないということだ。10月は多賀城へ行く。死者たちの声に耳を澄ましながら(それはつまり、何かを聴くということより、死者たちの存在を感じるということである)、生者たちとの時間を大切にしなければ。

2013.08.13
2013年8月 テレジンを訪れて

 アジア諸国を回るとあちこちで日本軍の蛮行の痕と出会うが、ヨーロッパを巡るとあちこちにホロコーストの痕が博物館となっている。あまりに大きすぎてなかなか全体像をつかむことができないが、機会があれば訪れ、少しずつ勉強するようにしている。アウシュビッツ、ビルケナウ、ザクセンハウゼン、ラーヘンスブリュックなど見てきたが、この夏は、チェコにあるテレジンを訪れた。

 チェコではハプスブルク家の支配下にあった四百年を「暗黒時代」と呼ぶそうだが(私たちには華やかに思われるハプスブルク家も、支配される側から見れば暗黒であることにあらためて納得する)、18世紀後半、オーストリアはこの地にプロイセンの侵入を阻止するための要塞を建設し、女王マリア・テレジアの名に因んで「テレジエンシュタット(テレジアの街)」と命名した。19世紀には、反ハプスブルグ運動の政治犯を投獄する刑務所の役割を担っていた。第一次大戦後、チェコスロヴァキア共和国としていったん独立するが、1939年、スロヴァキアは独立宣言をしてドイツと保護条例を結び、チェコはボヘミア・モラヴィア保護領としてドイツの支配下に入る。

 1940年6月、ナチス・ドイツはこの小要塞に拘置所を設置し、1941年11月、大要塞(テレジンの街)にユダヤ人ゲットーを作り、封鎖して、1942年半ばにはテレジンの街全体を強制収容所とした。そして、ユダヤ人絶滅政策をカモフラージュするため、ここでの文化活動を容認し、「美化キャンペーン」と称するプロパガンダに利用した。外観を整え、調査に訪れる国際赤十字を収容者によるオーケストラで迎え、宣伝用フィルムを製作するなどしていたのである。テレジンの資料館には、子ども達が描いた絵がたくさんあった。収容所の生活、かつての暮らしや将来の夢など生き生きと描かれており、プロパガンダとは言え、これはどういうことかと我が眼を疑った。

 実は、テレジンに収容されていた人々のなかには芸術家や文化人が大勢いて、苦痛と恐怖に怯える子どもたちに、たとえ限られた時間であっても人生は素晴らしいと伝えたいと、大人たちが決死の覚悟で教室を開いていたのだそうだ。絵を教えたのは、ウィーン生まれのユダヤ人、フリードル・ディッカー(1898〜1944)。彼女は売れっ子デザイナーで、迫害を逃れてプラハに移るが、やがてそこにもナチスの手が及ぶようになると、子どもたちを家に招いて絵を教えるようになる。逃亡を勧める友人の勧めを「子どもたちをおいて逃げるわけには行かない」と断り、ありったけの画材をスーツケースに詰めてテレジンに入った。

 「テレジンを語りつぐ会」HP(http://www.teresien.jp/)によれば、フリードルは、子どもたちに美しい花やかわいい犬の絵を描いてやり、子どもたちにも絵を描かせた。「明日、戦争が終わるかもしれないのよ。希望を捨ててはだめ。」「楽しかった日のことを思い出して絵を描きましょう。きっとまた、そんな日が来るわ」と励まし、絵に署名するように勧めた。生き残った子どもたちは、後に「テレジンの記憶には、楽しかったという言葉はあてはまらないですが、それでも、楽しかったと思える時間があるとしたら、それは、フリードル先生の絵の教室のときでした」 と語っているという。なお、子どもたちが遺した4千枚の絵と詩は20年後にようやく日の目を見、現在はプラハのユダヤ博物館にある。資料館のものはレプリカだそうだ。

 テレジンに送られたユダヤ人は、およそ14万4千人。4分の1が病気、飢え、過労、ドイツ兵による暴行で亡くなり、8万8千人が東へ、すなわちアウシュビッツなど絶滅収容所に送られた。1944年10月、フリードルも東へ送られている。テレジンでは、少年たちが秘密の雑誌を発行し、収容所の日々の生活の記録や楽しかった思い出、死への恐怖など書き記したという話もある(林幸子編著『テレジンの子どもたちから』新評論、2000年)。どのようにこんなことが可能だったか。人間の持つ力について、まだまだ学ばなければならない。チェコは歴史的に支配下に置かれていたため、指導的階層が存在せず、作家やジァーナリストなど文化人が政治の中心になり、その伝統は現在まで続いているという。どんな暴言を吐いても政治家として失脚することのない日本のことを考えると暗澹たる気分になるが、これらの話を日本でも語り継いでくれている人たちの存在に希望を持ちつつ学び続けたい。

2013.07.12
2013年7月 女と原発

 原子力の平和利用。何度も耳にしたことがあるような気がするが、その意味を一度も考えてみたことはなかった。原子力の平和利用とは、具体的に何を意味しているのだろうか? もともとこの言葉は、1953年、アイゼンハウアーが大統領就任時の演説で、東西冷戦のなかで核戦争の危機と「原子力の平和利用(Atoms for Peace)」を訴えたことに遡る。単なる核削減や廃絶だけでなく、国連下に原子力機関(IAEA)を置き、電力の乏しい地域に電力を供給しようという内容だったが、電力供給イコール平和というだけなら、どう考えても、その根拠はあまりに脆弱である。

 加納実紀代さんの『ヒロシマとフクシマのあいだ〜ジェンダーの視点から』(インパクト出版会)を読んだ。これまでも、女たちの戦争責任を問う知的誠実さに感銘を受けてきたが、彼女自身が、5歳の時、広島の2キロ以内の地点で被爆した体験を持つこと、そして、ジェンダーの視点からしばしば核について語ってきたことを初めて知った。

 広島・長崎への原爆投下から十年経った1955年、広島で原水爆禁止世界大会が開かれ、女性平和運動の中心である母親大会の第一回大会が開催されている。その一方で、この年、原子力基本法が成立、東京で原子力平和利用博物会が開催された。この博物会は、その後、名古屋・大阪・広島など全国十か所を巡回したが、広島の会場は原爆資料館である。この1年のパワー・ポリティクスは、田口ランディ『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ〜原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書)に詳しい。

 敗戦直後、昭和天皇は疎開先の皇太子に手紙を出し、敗因を「我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである」と綴った。「つくる会」元会長・西尾幹二は、学校の作文に、「・・・原子爆弾はすごい爆発力があって、その爆弾を使えば二、三日すると日本の本土の人員はなくなるそうです。・・・今、降伏しておいて又、敵と戦争し勝利をえるのだそうです。今度の戦争は科学戦だから、理数科をしっかりやって発明するのです。その任務は僕たちです・・・」と書いた。そして、元主計中尉・中曽根康弘は1951年、日本を訪問したダレス特使に原子力研究の自由を認めるよう文書で依頼、54年には原子力開発を国策として起動させる。戦争責任を問うことではなく、科学力の掌握こそが目標となった。『鉄腕アトム』は1952年〜1968年に雑誌連載、1963年〜1966年、テレビ・アニメ化されている。

 皮肉なことに、「母性」と結びついた平和運動がこれをバックアップすることになるが、そこには女性解放への夢ものせられていた。「明るい原子力」のイメージとともに、「アメリカ文化=電化生活=女性解放」という等式が成り立っており、1948年の『アサヒグラフ』に載った芝浦電気(現・東芝)の洗濯機のコピーは「女性を解放する」、富士電機の広告は「洗濯しながら本が読める」だったという。たしかに、「婦人公論」を舞台に「主婦論争」が起こったのは1955年で、電化製品の登場を背景に専業主婦無用論が唱えられ、原水禁など市民運動に立ち上がる主婦の存在から主婦有用論が展開された。電化生活が女性を家事労働から解放し、女性たちは原水禁と平和運動に盛り上がると同時に、原子力の平和利用を推進し、原発導入を図ろうと目論んでいた経済界を支持することになった。加納さんは、「女性たちは核兵器反対の平和運動をにないつつ、経済発展に突っ走る男たちの銃後を支えることになる」(p.214)と表現している。

 振り返って後から批判するのは容易い。自分だって「原子力の平和利用」の意味を一度も考えたこともなかったのだ。2011年より十年計画で立ち上げた「東日本・家族応援プロジェクト」では毎年9月に下北半島むつ市を訪れる。「原子力船むつ」というのも聞き覚えはあるもののその意味をほとんど認識していなかったし、実際に行ってみるまで、核燃料サイクル施設のこともほとんど理解していなかった。そんななかでも、「何かおかしい」という素朴な感性を頼りに、圧力に屈せず抵抗し続けてきた稀有な人々もいるのだ。鎌田慧・斉藤光政『ルポ下北核半島〜原発と基地と人々』(岩波書店)を是非読んで欲しい。気づいた者からほんの少しでも賢明にならなければ。

2013.06.29
2013年6月 女性ホームレスのこと

 女性ホームレスとDVについての勉強会の講師を頼まれ、行ってきた。最近では、あまりに忙しすぎるので、継続的に関わってきたものを除き、講師の類をすべて遠慮させてもらっているが、釜ヶ崎をフィールドに頑張っているゼミ生から頼まれたことと、前からずっと気になっていたテーマだったからだ。折しも、若手社会学者・丸山里美さんによる『女性ホームレスとして生きる〜貧困と排除の社会学』(世界思想社)が出たばかりだ。

 ずっと関わっている婦人相談員のネットワークで、女性ホームレスについて聞くことはあったが、女性ホームレスの全体像は見えにくい。一般的にホームレスは男性だと思われているし、実際、2012年の厚労省による調査では、女性ホームレスの割合は3・2%だという。私自身も女性ホームレスを見かけたことは数えるだけしかないが、たくさんの動物を飼っていたことが印象的だった。動物と一緒に暮らすことで気持が和むという側面もあるだろうが、女性にとって夜の野宿はとりわけ恐怖を伴うものだからではないかとも思った。

 丸山さんによれば、海外ではホームレスの概念は日本より広く、シェルター居住者を含んでいるという。どう考えても、女性ホームレスとDV、性暴力など暴力被害との重なりは大きいはずだ。比較的社会階層の高い家庭であっても、暴力を逃れるために、一時的に公園や車上、ファミレスやネットカフェで過ごしたというような例はいくらもあるし、ましてや、経済格差が拡大し、女性の貧困化、とくに母子家庭と単身高齢女性の貧困化が指摘されている昨今である。丸山さんの調査では、①夫の失業によって夫婦ともホームレスになる ②単身女性が本人の失業をきっかけにホームレスになる ③女性が夫や家族との関係性を失ってホームレスになるパターンがあるという。

 支援についてであるが、女性ホームレスが入所し得る施設は、おおざっぱに言って、生活保護による救護施設、更生施設、宿所提供施設、婦人保護による婦人保護施設、母子福祉による母子生活支援施設、無料低額宿泊所や民間シェルターなどがある。縦割り行政と援助者の知識や関心の違いによって、たまたまどこにたどり着いたかによって、その後の結果には大きな違いが生じる。これは個別の支援者の問題なのではなく、制度がうまく設計されていないために多くの支援の場で起きていることである。使いやすい実質的なシステムを構築するうえでも、女性ホームレスとはどういう人たちなのかという視点を持つことは意味があるだろう。

 今回の勉強会は、ホームレス支援をするなかで、たまたま暴力被害を抱える女性と出会い、支援がまずかったのではないか、もっと勉強が必要なのではないかという現場の悩みから企画されたものだった。その専門ではない男性たちが、とても親身に支援しておられることには励まされた。その女性に何がしか暖かいものが伝わって、未来の力につながってくれたらいいなと願う。こうやって、関連機関が集まって、一緒に勉強しあったり、情報交換したりしながら、ネットワークを固めていくのはとても良いことだし、地域の力になっていくだろう。今後、このような視点での支援や研究が発展していって欲しいし、自分でもできることを意識的にしていきたいものだ。

2013.05.30
2013年5月 「ドラムカフェ」とコミュニティの心理社会的支援

 今月、学会があって、山形大学の上山真知子先生による「大震災における心理社会的支援について〜東日本大震災での支援者の経験の交流から考える」に参加したが、途中、ちょっとしたサプライズで、昨年から話に聞いていた「ドラムカフェ」を体験させてもらった。映像で見て興味を持っていたが、実際にやってみる体験は、想像をはるかに超えるおもしろさだった。一流のアーティストたちによる太鼓のリズムにリードされながら、参加者それぞれがひとつずつ太鼓を持って叩き、全員が一体となってドラミングを楽しむのだ。

 「ドラムカフェ」は、アパルトヘイト政策で絶望に陥っていた南アフリカ共和国で誕生した。当時、南アフリカでは、各企業が人種の違う人々を平等に雇用し始めたものの、共に働ける職場作りや社員同士の相互理解の促進に苦心していた。創業者は、趣味で始めたドラムによって人々が互いを理解し尊重することを体感できるのではと考え、優秀なチームビルディングの専門家や南アフリカのトップドラマーとともに、世界規模でエンターテインメントを行うチームを結成した。こうして、1996年、「ドラムカフェ・インターナショナル」が誕生し、12年後、この活動は「フォーチュン」の世界トップ500企業に受け入れられ、現在、世界20ヶ国以上、20,000回以上にもおよぶパフォーマンスを行なっている。

 星山真理子さんは、2009年5月、「ドラムカフェ」の代表と出会い、翌月、南アフリカの本社を訪ね、日本でも「ドラムカフェ」を通じて企業組織、地域社会や教育現場に絆を取り戻す事が出来ればと「ドラムカフェジャパン」を立ち上げた(http://www.drumcafe.jp/)。その後、東日本大震災を受け、「にこにこスマイルプロジェクト」を立ち上げ、2011年5月から被災地を回る活動を展開している(http://www.2525smile-p.jp/index.html)。実は、昨年、立命館でやっている「東日本・家族応援プロジェクト」で宮城県多賀城市を訪れたとき、上山先生ご夫妻とご一緒して、たまたま真理子さんと出会い、「ドラムカフェ」の話を聞いた。上山先生が真理子さんとプランジャパンをつなぎ、このプロジェクトが可能になったのだ。

 避難所のお年寄りたちが、アフリカ人のドラマーたちと一緒に全身笑顔で太鼓を叩いている映像には驚かされたが、実際にやってみると、本当に楽しくて、だんだん皆の体が開き始め、部屋全体にエネルギーが充満し、最後は一体となって親密な暖かさで包まれ、解放されるのを感じた。アーティストが大きな太鼓を叩き、私たちが自分の太鼓に手を置いて掛け合いの順番を待っていると、アーティストの叩く太鼓の振動を私たちの小さな太鼓が拾って、太鼓に置いた手から大きな太鼓の振動が私たちの体に伝わってくる。私たちの体は離れているけれど、つながっている不思議を感じた瞬間だった。トラウマは人々の心身を閉ざし、エネルギーの交流を拒否させるが、ドラムは体を開き、人々のつながりを促すのだ。この小さな太鼓「ジェンベ」という名前は、平和を意味するのだそうだ。

 上山先生によれば、災害後の心理社会的支援として、「見る・聞く・つなぐ」の3つのキーワードが重要だという。確かに、上山先生がプランジャパンと真理子さんをつなぎ、ドラムカフェが東北を巡るようになったことの意味は、とてつもなく大きい。真理子さんは多賀城の人で、「ドラムカフェ」は多賀城の貴重な社会資源だったのだ。そう考えれば、自分のやっている「東日本家族応援プロジェクト」も、「見る・聞く・つなぐ」なのだと思う。これによって、自分のいる所と被災地をつなぎ、団士郎さんの家族漫画や院生たちを現地につなげているのだ。そこからいろいろなものが生まれていく。「応援プロジェクト」と名付けているものの、本当のところ「支援」をしているつもりもなかったのだが、そう考えれば、「心理社会的支援」と言えなくもない。太鼓はパワフルなツールだが、つなぐものは、必ずしも太鼓でなくてもいい。東北にいる日常と関西にいる日常は、すでに大きく離れている。今年は、もっと意識的に「つなぐ」ことを拡げていきたいと思った。

2013.04.30
2013年4月 ナチになっていく〜ナラティブ・ネットワーク・モデル

 文化人類学者の友達小田博志さんの勧めで、同タイトルの論文を読んだ(Bearman, P. S. & Strovel, K., 2000. Becoming a Nazi: A Model for narrative networks. Poetics 27, 69-90)。ナラティブ・ネットワーク・モデルという質的研究法について例示したものだが、扱っているテーマが興味深い。

 ドイツにおいて、1919年1月に設立されたドイツ労働者党は、1920年に国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)に改称した。アドルフ・ヒトラー率いるナチスのことだが、1933年に政権を獲得し、後に独裁体制を敷くようになるまで、少なくとも1930年以前、これは標準だったわけではなかった。政権獲得後にナチのアイデンティティを持つことは実用主義的だったかもしれないが(つまり何らかの利益が得られる)、それまでは、ナチになることには代償やリスクを伴った。それにも関わらず、ナチのアイデンティティを持つ人々が増えていったからこそ、第三帝国が誕生したことになる。

 初めて知った話だが、1934年、ナチの権力が強固になり、「最終解決」(大量虐殺)の考えが拡がる前、コロンビア大学の社会学者テオドール・アベルによる「ナチ運動支持者の最高のライフ・ストーリー」を募集するコンテストがあったのだそうだ。NSDAPとSA(結党から政権獲得までの闘争時代、反対政党に対する武闘組織としての突撃隊)がスポンサーになって賞金が出たので、600ものストーリーが集まった。そのほとんどが、まだナチ党員の少ない1930年より前からその運動に参加していた男女である。

 著者たちは、ナラティブ・ネットワーク・モデルを使って、それらのストーリーを分析することで、人々がどのようにナチになっていくのかを解き明かそうとした。彼らは、アイデンティティを「世界における行為者としての主観的自己感覚」であり、「その表現として、またそれを構成するものとして行為の根底をなすもの」とするが、通常、アイデンティティは、関係性が増幅していくなかで形成されていく。ところが、「マスター・アイデンティティ」(自分は主であるというアイデンティティ)は文脈を無視した行為をもたらす。つまり、これを身につけると、関係性と行為というペアなくして、行為のみがアイデンティティの基礎となる。

 集まったストーリーを分析していくと、「ナチになっていく」ストーリーと「ナチである」ストーリーに分けられるが、「ナチになっていく」ストーリーは、濃密に関連する物語性を帯びているのに対して、「ナチである」ストーリーは、小さく断片的で孤立していた。また、ストーリーの要素はマクロレベルの要素(外の社会や世界に関すること、たとえば大戦や暴動、経済不況など)、ローカル・イベントの要素(身近な日常で起こった出来事)、認知(本人の意味づけや結論)に分けられるが、「ナチになっていく」「ナチである」のどちらにおいても、マクロレベルの要素はほとんどないに等しく、ローカル・イベントの要素が大半を占め、残りは認知だった。

 さらに見ていくと、「ナチである」ではほとんど常に認知が先行する要因の結果であるのに対し、「ナチになっていく」では、無関係の要素をつなぐために認知が重要な役割を果たしていた。「ナチになっていく」のナラティブの特徴は関係性や伝統的なアイデンティティの基礎となるもの(親族、教会、学校、仕事など)がナラティブの進行とともに減少し、さらには拒絶されていくことである。世界の流れに流されて社会的関係をはぎ取られ、単純な認知的抽出に捉われるようになり、経験を二者択一に位置づけ、バラバラの出来事を結び付けていくことからナチという新しい自己が生まれ、流れのなかでNSDAP支持者と出会い、物語が好機や運命の色合いを強くしていく。これが初期のナチの特徴だった。反ユダヤ主義はほとんど前面に登場しない。プロセスが完了し、ナチになってしまうと自己は消える。物語を作動させるものが何もなくなり、機械的な窓口が残るだけである。何を語っても事実のレポート以上のものではない。それは物語ではなく、行為者のいない行為の陳腐な一般論であるという。

 社会の大きな流れに流されるのではなく、その正体を見定めること、身近な日常生活や関係性を手放さないように努力し続けること、単純な二者択一に捉われないことがポイントになるだろうか。「愛着からソーシャルネットワークへ」( /muramoto/2009/12/000093.php )でも書いたが、多様なネットワークのなかに生きることが重要だろう。

2013.03.23
2013年3月 東日本大震災から二年が経ち・・・

 東日本大震災から二年が経ち、続々と震災関連映画が公開されている。先月は「傍〜かたわら3.11からの旅」について書いたが、今月は、MBSが作成した「生き抜く〜南三陸町 人々の一年」を取り上げたい。これを観る一週間前、私はたまたま南三陸にいた。露天風呂から眼下に広がる瑠璃色に輝く海に感動し、夜、星空の下で白く輝いて浮かび上がる無数のウミネコが浮遊している光景にみとれた。わかめの養殖に集まってくるのだという。

 翌朝、ホテルの語り部ツアーに参加し、二年後の街を見た。そのままに残った建物、マスコミで有名になった鉄柱だけが残された防災センター、壊された建物とその瓦礫、人手のない新しい水産工場、プレハブのコンビニ、トラックの給電所、新築された家、切り倒された杉林、塩分で死んでしまった田んぼ・・・。語り部のおじさんからは、町の人口がどんどん減っていく寂しさ、助からなかった命への無念さ、生き延びた命への誇り、これまで応援してくれた人々への感謝、それでもなかなか先が見えない焦りと不安、まだまだ助けが必要だからと南三陸の体験を伝えながらも、それを生業にすることへの罪の意識や辛さなど、複雑な気持ちがひしひしと伝わってきた。観洋というこのホテルは、町が生き延びるために、こうやってお客を呼び込み、南三陸のことを訴えていこうと決意したのだ。

 ここは、津波で1・2階が浸水、露天風呂は壊滅状態、水道も止まり、長期休業を余儀なくされたが、残った部屋を避難所として提供し、数か月、宿泊客、従業員、地域の人々、復旧作業員が水と食べ物を分かち合い、肩を寄せ合うように暮らしていたようだ。まだ水道も使えなかった7月、常連客に呼びかけて、一部営業再開に踏み切ったが、水は給水車から支給される1日80トン、食器を洗う水もないので、紙コップや紙皿で料理を出していたという。後で知ったことだが、逞しい女将が切り盛りしていた。

 ドキュメンタリー「生き抜く」は、この街の一年目を描いていた。ああ、この一年を経て、あの二年目があったのだと、空白の隙間が少し埋められる感じがした。登場人物の一人である漁師は、防災センターで娘を失くした。避難所から仮設に移り、毎日、テレビばかり見て過ごす。テレビを見ないでいると、目の前にあの時の光景が浮かぶのだそうだ。それが、ある時から、海に出るようになる。「きっかけは?」との問いに、「もしかしたら、娘が網に引っ掛かってきてくれるかも・・と」と答える。娘さんはまだ行方不明のままだ。ああ、そうなんだと思う。船を失った漁師たちは、共同で漁を再開するという組合の提案に何度も何度も話し合い、ようやく漁が再開される。養殖のわかめや魚の向こうには、こんな1年があったのだとあらためて思う。
MBSの井上里士さんの話では、震災直後、3つの取材班を別ルートから東北へ派遣して、1つは途中で道を閉ざされ、残る2つの取材班が偶然、同じ南三陸町に入ったことから、ここで長期的な記録映像を撮ることになったという。そう言われてみると、南三陸で、その撮影隊に違いないと思われる人たちを見たことを思い出した。このドキュメンタリーの上映会は、あのホテルでやったそうだ。たまたま、「遺体〜明日への十日間」も観たのだが、二年を経て、ようやく、私たちは(それも距離のある私たちだ)、あの頃のことを振り返って捉えることができるようになりつつあるのだと思う。自分の生きる社会のできごととして、しっかりと振り返り、捉えなおし、建て直しに力を尽くさなければならない。

 3月11日、「いのちのつどい」の追悼式にたくさんの人たちが集まったことに励まされながら、しかし、集まっているのは何らかの形で被災地に関わっている人々であるということにも気づいている。これをどのように関わっていない人々にもつないでいけるのだろう。3.11の捉えなおしには、まだまだ長い時間がかかるにちがいない。

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