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トピックス by村本邦子

2011.10.19
2011年10月「南京を思い起こす2011〜戦争のトラウマと和解修復の試み」を終えて

 10月5日から8日までの4日間、南京セミナーを無事に終えた。このセミナーについては、すでに繰り返し紹介してきた(「2007年11月南京を想い起こす」;「2009年10月南京セミナーを終えて」)。2007年、2009年と、今回で3回目の南京訪問となった。参加メンバーは必ずしも一緒ではないものの、中核メンバーが一緒であるため、回を重ねるごとに信頼や絆が深まってきたことを感じている。

 今回は40人という大グループのワークショップだったが、遊び心たっぷりのプレイバッカーたちの存在に助けられ、私たちの表現の幅も拡がったような気がする。アルマンドの指揮のもと、日本と中国のプレイバッカーたちが協働でシアターを提供してくれたのは圧巻だった(プレイバックシアターについては、プレイバッカーAZさんのHP参照のことhttp://www.playback-az.com/playbackaz/pt/index.html)。初日のオープニングから惜しみなくシアターが展開され、3日目の夜には、プレイバックシアターが公開された。アルマンドは、芸術や創造の力によってトラウマを昇華すること、また社会に働きかけていくことを狙っているのだが、あらためてアートはパワフルなツールであると実感。実は、ほとんどの参加者たちは知らないが、これが日中のプレイバッカーたちの初めての共演だったため、1日のワークショップが終わってから、皆くたくたに疲れていただろうに、彼らは、毎夜、熱心にリハーサルを行っていた。プロの仕事とはこうあるべきだと、その姿勢にも胸を打たれたものである。

 絆の深まりとプロによる先導によって、私たち、加害者側と被害者側の子孫も、少しずつ心を開き、礼儀や遠慮を越えて、本音を分かち合うという難しい課題に挑戦することができた。表に見え、聞こえる中国人の声、日本人の声の裏側に、それぞれ傷ついた子どもの声が隠れている。これを、アルマンドは、中国の椅子、日本の椅子という舞台設定を使い、時にダブリング(セラピストが影として声を補強すること)によって、表現を促していった。加害者側と被害者側の子孫たちの悼みや哀しみが身体レベルで痛かった。みな愛おしい傷ついた小さな子どもたちだった。なぜ世の中から大人たちがいなくなってしまったのか、戦争という狂気のもたらした結果である。こんななかで、大人として成熟していかなければならないというのは途方もなく大変なことだ。

 もう一方で、今回、私は、日中の溝だけでなく、男女の溝をあらためて思い知ることになった。日中関わらず、男たちは(厳密に言えば、記号としての男と言えるだろう)、今なお強さにこだわり続けている。要するに、強い方が正義なのである。勝つか負けるかしかない。そして、男たちが、自分に属する女や子どもを大切に思い、守ろうと思えば思うほど、それだけ、敵を侮辱するには、その大切な女や子どもを破壊し尽くすことが効果的であるということになる。もっと言えば、女たちが男に保護を求め、強くあることを求めれば求めるほど、男たちは、この強さのシナリオから降りられなくなるのだ。戦争をするのは男だが、背後でけしかけるのは女である。どうしても、こんな構造を打ち破らなければならない。

 中国の若い男性が、自分の友人たちは、イラク・アフガン戦争に行っているという。アメリカに留学して、軍に志願したのだそうだ。19歳にして戦場で銃を撃っている。そうでなければ撃たれる。「自分だってそこにいれば同じことをするだろう、矛盾している」と、彼はシニカルに言い放った。経済的な事情なのか、グリーンカード(永住権)を得るためなのか、正確な事情はよくわからないが、留学生たちが軍に志願するのだということを私はこれまで認識していなかった。少なくとも、日本の留学生で、軍に志願して戦場に行ったという学生の話は聞いたことがない。なんだかんだ言って戦争は遠い過去の話だと思っている日本の若者たち(もう若くはない私たちも含め)と、戦場が今現在もリアルなものである世界の若者たち。

 こんな世界において、私たちのワークショップがいったいどのように影響し得るのか、正直言って不確かである。確かなことは、こうして中国の人々とともに、時間とエネルギーを惜しまず、互いに手を差し伸べ、歴史の闇と光を分かちあうことを通じて、どんな状況下にあっても、私たちは殺し合うことなどできないという感覚を強めていることだ。どんなことが起こるかわからない時代である。どんなことが起こったとしても、大きな流れに流されることなく、抵抗し続ける力を増す努力を続けたい。

2011.09.30
2011年9月 東日本・家族応援プロジェクトを立ち上げて

 東日本大震災以後、自分に何ができるのかと考えたとき、年齢から言っても、経験から言っても、阪神淡路大震災のときより、もう少し大人らしい関わりができないものかと思ってきた。あの時は、被災直後から半年、せっせと現地に通い、秋には、研究所の年報で「阪神大震災〜女の視点から捉え直す」の特集を組んだ。自分なりには頑張ったつもりだけれども、1年も経つと、ほとんど何もしなくなった。神戸に行くと、外から見る者の眼には、みるみるうちに、街は復興し、震災の爪痕は消えて行った。それでも、よく眼をこらして見れば、そんなことはまやかしであることに気づく。加えて、5年、10年、15年と経つなかで、神戸とは関係のないところで、時間が経ってさまざまな要因と複雑に絡み合った震災の影を見るようになった。

 きっと、戦後復興もこんなふうに進められてきたのだと思う。そして、今回の震災で露呈したのは、戦後日本の建て直しの失敗だった。大都市が周辺にある地域を踏み台にして、貪欲に表面的な繁栄を追求してきた結果が原発事故である。「原発事故は、広島、長崎に原爆を投下された日本にとって2度目の大きな核被害であり、今回は自らの手で過ちを犯した」と言った村上春樹は正しいと思う。そして、大阪という大都市で便利な暮らしを送りながら、54基もの原発が日本に作られていたことを知らなかった自分は加害者側にいる。

 カタストロフィの後、どのように新しく社会が立ちあがっていくのか、誰かの利権のためにいつの間にか自分が加害者側に回されていないか、相当に注意深く慎重に見張っていなければならないのだと思う。思考停止して、目先のことに振り回されるのでなく、時間的にも空間的にも、常に大きな文脈のなかにおいて現実を見ながら、一市民としての感性を磨いていかなければならない。これに、ある主の専門家としての責任も負荷されるだろう。そんなわけで、今回は、距離的遠さや自分の年齢も考慮に入れ、ゆっくりと穏やかに現地とのつながりを作り、育てていきたいと考え続けてきた。

 結局、大学の方に東日本・家族応援プロジェクトを立ち上げ、団士郎さんの家族漫画パネル展、地域の子どもや家族に楽しんでもらえるようなワークショップ、支援者支援のイベントをしていくことにした。現在、青森県むつ市での開催(9月19〜24日@むつ市図書館)を終え、岩手県遠野市(11月1〜6日@遠野市市民ギャラリー&図書館)での開催準備をしているところである。

 下北のむつは、直接被害は少なかったものの、原子力船むつだとか六ヶ所村に代表されるように、原発との関係が深く、日本原燃が本社を置く。さらに、陸海空の自衛隊基地が配備され、アメリカ空軍の三沢基地まである。よって、災害復興のために被災地に赴く自衛隊や原発関連の仕事に従事する人が多く、子どもや家族がさまざまな影響を受けている。むつは下北地域県民局との共催で、児童相談所の方々を中心に大きなお力添えを頂いた。ただでさえ忙しい業務のなかで、さらに仕事を増やすことになるのは心苦しいが、皆で力を合わせて仕事をすることで、自分たち自身がエンパワーされるといいなと願っている。

 他方、遠野は、柳田國男の遠野物語の舞台となり、座敷わらしや河童の伝承で知られる小さな街である。沿岸と内陸を結ぶ交易拠点として発展した経緯から、相互扶助の意識が強く、大槌から陸前高田まで沿岸部に半径50キロに位置し、車で1時間という条件にあることから、震災直後から後方支援の中核地となっており、官民一体となった「災害救援のモデルケース」として注目を集めている。先週、情報収集やご協力のお願いのために、複数の機関を訪れた。どの機関も被災地支援でお忙しそうだったが、親切に対応して頂き、機関同士の太いパイプを実感した。今後の出会いを楽しみにしている。

 他の開催地はまだ探しているところだが、今回の企画は、眼に見える大きな被害を受けたところよりは、少しはずれた地点で、地域の人々と10年に渡る細く長い関係を続けながら、人々や家族が創っていく復興の物語の証人(witness)になりたいと考えている。次世代のためにも、過去と同じ過ちを繰り返してはいけないのだ。「東北から日本が変わる!」ことを夢見て。

2011.08.15
2011年8月 アートセラピーと文化

 8月6〜9日、中国蘇州にて開催された第三回国際表現性心理学会に出席した。そもそもは、今回のテーマが「トラウマと表現」であったため、南京セミナーに関する講演とワークショップを頼まれたからだ。繰り返し紹介してきたように、このセミナーは、「Healing the Wounds of History(歴史の傷を癒す)」という手法を使うが、これは「クリエィティブ・アーツ・セラピー」の部類に入る。意味内容としては「芸術療法」とほとんど同じだが、実は、このふたつはずいぶんと違っている。

 アメリカから来た友人が驚いていたが、私自身は、アメリカでドクター論文を書いていた頃に、「トラウマとクリエイティビティ」をテーマに先行研究をするなかで学んだことだ。アメリカの「クリエィティブ・アーツ・セラピー」は、アートセラピー、ミュージックセラピー、ダンスセラピー、ムーブメントセラピー、ドラマセラピー、表現アーツセラピーなど、 芸術行為を通して自己表現を行うことを治療に結びつけていく。2005年にニューヨーク州で「クリエイティブ・アーツ・セラピスト」の州認定資格制度が始まって以来、国際的組織もでき、このような流れは当然ながら日本にも入ってきて、現在では、アメリカで資格を取ったセラピストたちによるトレーニングも行われている。

 他方、ずいぶん前から日本に存在する「芸術療法」は、精神医療や臨床心理のなかで生まれたもので、絵画療法、コラージュ療法、箱庭療法、音楽療法などからなる。アメリカのクリエイティブ・アーツ・セラピストたちは必ずしも精神医療や臨床心理の領域の人々ではなく、むしろアートの専門家であるのに対して(臨床心理士などの資格と両方持っている人々もいるが)、日本で「芸術療法」を行う人は基本的に精神科医や臨床心理士であることを考えると、ずいぶんとその位置づけは違うように感じられる。つまり、アートセラピーと心理療法のどちらをより包括的な概念と捉えられるかという問題だ。

 そう考えると、日本の心理療法は、戦後、アメリカから輸入されて発展したとされるものの、戦前の下地に加え、文化の影響を受け、アメリカ型の心理療法とは少し違うものとして発展してきたことがあらためて感じられる。典型的には、今回の学会で紹介されていた山中先生の「MSSM+C」(相互スクリブル物語法)や森谷先生の「九分割統合絵画法」など、画用紙に枠づけをして小さな絵を描くようなやり方は、アメリカ人にはあまり受け入れられないかもしれない。小さな枠があるからこそ安心して自由に表現できるという日本型のもの、ちょうど盆栽や箱庭のようなものかもしれない。

 本来、芸術には治療的側面が含まれ得るが、治療が芸術の目的なわけではないし、逆に、狂気へ向かう芸術もあるかもしれない(たとえば、私は、ヒトラーが芸術をこよなく愛したことを考えている)。セラピーと言うからには、セラピストの意図と操作(コントロール)が入り、その善し悪しは別にして、技法化されればされるほど、目的はより焦点化されるはずである。別の言い方をするならば、「心理」や「精神」への変化を狙うのか、それを越えるもの(たとえば「身体」や「霊性」)を見ているのかという違いを指摘することもできる。とは言え、日本の芸術療法家なら、「心理」や「精神」を窓口にして「身体」や「霊性」にも働きかけると言うに違いない。それは、曖昧さを許容する日本ならでの捉え方と理解することもできる。

 今回、中国で開催された「表現性心理学会」は基本的に日本の芸術療法を中心にしているが、香港や台湾など、アメリカで学んだクリエイティブ・アーツ・セラピストたちの仕事も混じっていた。日本でも若い人を中心に融合は起こりつつあるが、それぞれどんなところへ行きついていくのだろうか。そもそも、芸術そのものが、長い歴史において、陸を越え、海を渡り、その所々で影響を及ぼし合いながら独自の文化を作ってきたのだ。あの大仏の頭(パンチパーマ)はガンダーラを経てギリシャの影響を受けたのだと聞いて、その壮大な歴史のドラマに感動したことがある。最近、対人援助の場面でも、「技術移転」という言葉を耳にするが、人に関わることに単純な「技術移転」などない。アジア型のサイコセラピー、アートセラピーは、今後、形成されていくのか否か。

2011.07.26
2011年7月 ロジャーズの平和ワークショップと「歴史の傷を癒す」

今年の10月、南京にて、2回目となる国際セミナー「南京を思い起こす〜歴史のトラウマと和解修復の試み」を開催するので、現在、準備中である。これは、ホロコースト・サバイバー2世であるアルマンド・ボルカスによって開発されたHealing the Wounds of History(歴史の傷を癒す)の手法を使ったワークショップを核にしている(今月のトピック2009年3月を参照)。実は、このワークショップを説明する時に、これはいったい何なのかという理論的枠組みとして、どんなものを使えば、一番わかりやすいのだろうと悩み続けている。平和教育とも言えるが、教育と言うよりはセラピー・グループと言う方が良いようにも思えるし、そうは言っても、一種のアクティビズムを含んでいるという点において、単なるセラピー・グループでもない。

心理学の手法をアクティビズムにつなげていくという点において、一番近いのは、カール・ロジャーズが試みた平和ワークショップかもしれないと思ってみる。ロジャーズが、世界平和のために、政府のリーダーたちをメンバーとしたエンカウンター・グループを試みていたことは何度か耳にしていたが、いったいどこを調べれば詳細がわかるのか、情報を得られずにいた。ところが、このたび、偶然、ロジャーズ自身がこのワークショップについて書いた論文を見つけた(Rogers, C. R., The Rust Workshop: A Personal View, Journal of Humanistic Psychology, Vol.26, No. 3, Summer, 1986)。せっかくなので、ここに紹介したい。

ロジャーズは、1985年、オーストリアのルストにて、17か国の政府の要人ら50名を集めたパーソン・センタード・アプローチを用いた4日間のワークショップを開催した。これは、「ルスト・ワークショップ」と呼ばれ、「中央アメリカの挑戦」というサブタイトルがついている。中央アフリカの国際関係に影響力を持つ人々が、心理学的に安全な空間において個人レベルで出会い、自由に意見や態度や感情を表現できるように、記録なしに語り合うことを目的としたものだった。実際には、3日目の午前中、プレス・カンファレンスがあり、ロジャーズを含む11名がワークショップを抜けてそれぞれ個人的見解を述べ、プレスは、「類い稀な政治的・心理学的実験」であり、パーソン・センタード・アプローチは、「永続する平和プロセスの触媒」かもしれないと好意的に評したと言う。

残念ながら、1987年、フォローアップ・ミーティングをセッティング中に、ロジャーズは亡くなってしまう。1988年、仲間たちは、コスタリカにて、「第2回中央アメリカ対話」を開催したが、その後は基金が得られず、活動は途絶えてしまったらしい(Barfield, G. L., Nomination to the TIME 100 list of seminal thinkers)。資金の問題なのか、運営の問題なのか、ロジャーズという優れたリーダーを失えば続かなかったという事実は、とても残念なことだ。私たちの試みでは、2009年、2011年と、アルマンド自らがファシリテートしてくれるが、「次からは、自分たちで(中国人と日本人とで)やりなさい」と言われているので、来年は、アルマンドを日本に招いてファシリテーターの養成をやる予定である。実際、そうしていかなければ、アルマンドがいなくなったら、この流れは途絶えてしまうことになる。

ひとつの大きな課題は、セラピー的要因とアクティビズム的要因のバランスである。そういう意味では、むしろ、フェミニスト運動で用いられたCRグループ(意識覚醒グループ)と似ているかもしれない。HWHではパブリックイベントを置くことで、閉じられた親密な空間で醸成された共感と平和の文化を社会へと解き放つ。この段階をどの程度のバランスで行うかを現在、検討中である。ロジャーズの試みは、政府のトップたちが個人的出会いをすることで平和をもたらそうというものであるが、私たちの試みは市民レベルで出会い、それを同心円的にコミュニティへ、社会へ、国家へ、と拡げていこうとするボトムアップの平和ムーブメントなのだ。

2011.06.30
2011年6月 復興の物語を創る

 日経ビジネスon line(6月22日)で、「水俣に見る未来社会〜ブータンと水俣に学ぶ『被災地の復興』モデル」という記事を読んだ。ブータンでは、国民の97%が「幸せ」「まあ幸せ」と答えており、彼らが国家の目標とするモノサシは「国民総幸福」なのだそうだ。少し調べてみたが、「国民総幸福=GNH(Gross National Happiness)」とは、これまでの「国内総生産=GDP(Gross Domestic Product)」という経済至上主義に対して提唱されたもので、「公正な社会経済発展」「環境の保全」「文化の保存」「よい政治」という4つの柱から成っているという。ちなみに日本は、GNPこそ世界第2位だが、GNHは先進最下位なのだそうだ。そして、日本のGNHモデルとして紹介したのが水俣だ。

 水俣は明治時代から産業開発という国家戦略に乗り、農漁村に化学肥料工場を誘致して、安定した雇用が生まれた。しかし、長年にわたって汚染された廃水が海に流され、1956年、最初の水俣病が確認される。原因究明には長い時間がかかり、その間も健康被害が拡大、チッソと水俣病患者の間で激しい対立が起き、地域社会に深い亀裂が入った。1990年、14年間に及ぶ土壌浚渫作業が完了するが、将来を描き直さなければ自分たちの傷が癒えないことを感じ、行政と住民の両者が動き出す。行政からは「環境創造みなまた推進事業」、住民からは「寄ろ会みなまた」という市民グループが発足し、地元にある様々な資源・資産を調べていく過程で、水俣の自然や文化、歴史などの価値が再発見されていく。

 92年、水俣は日本初の「環境モデル都市づくり宣言」を行い、 94年、水俣市長に当選した吉井正澄氏は、行政を代表して水俣病患者に公式に謝罪し、「もやい直し」を提唱する。「もやい直し」とは、船と船をつなぎ合わせる「もやう」から作られた造語で、ばらばらになった人々の心のきずなを一つにつなぎ直すという意味だそうだ。市民主導の市政、「環境モデル都市」という選択、「地元学」の手法の導入が功を奏し、水俣は「汚染の町」から、2008年、政府が最初に指定した「環境モデル都市」の1つに選ばれるまでになる。こんな経過はまったく知らなかったが、水俣にはお世話になっている方がいて、数年前に仕事で訪れたことがあるが、とても印象の良い街で驚いた記憶がある。今更ながらに十分に納得のいく話である。

 「今月のトピック3月 災害の襲うとき・・・」で紹介したラファエロの本には、災害が社会にプラス面の変化を引き起こすことがあるとして、イギリスのアバーファン土砂崩れ災害とマナグアやペルーの震災が挙げられていたのだが、具体的に何がそうさせたかについての記載はなかった。そうこうするうちに、「軸ずらし」という考え方に出会った(『災害社会学入門』大矢根・浦野・田中・吉井編、弘文堂、2007)。災害に見舞われた地元住民が自分達の直面している難問から一時視線をずらして、多様な視覚で地域の良さを再発見しながら、地域への思いを語り復興の物語を紡ぎ出していこうという視点である。

 その例として、米国カリフォルニア州ロマプリエータ地震(1989年)の影響を受けた小さな観光地サンタクルーズが紹介されていた。各種利害が関係する復興の各論では必ず反対意見が続出するため、サンタクルーズでは、まずはどのような街にしたいのかという総論を共有しようと、絵や文学を用いて徹底した議論を行った結果、公共施設、たとえば市役所など大きな施設の建築は後回しにされ、倒壊した高速道路の再建も放棄されて、スペイン統治時代の古い街並みを再建することが主眼に据えられたそうだ。日本の災害復興では、原型復旧、大型公共事業導入が基本となり、被災の責任が追及される可能性のある「軸ずらし」の議論はなかなか定着しづらいが、水俣の例はまさにこれであろう。

 今回の東日本大震災を受けて、いったい自分に何ができるのか考え続けてきた。これまで長くトラウマに関わってきた者として、被害の規模とその複雑さ、時間的展望を考えるならば、遠方に生活しながらできることは限られている。現地に行って力仕事を提供するのは役立つだろうが、私たちが行くよりは、若者に行ってもらうとか、交通費を義捐金に回す方がたぶんずっと効率的だろう、自分たちだからできそうなことはないのだろうかと考えてきた。そして、ようやく、東北の家族やコミュニティがそれぞれなりの復興の物語を創っていくきっかけづくり、被災と復興の証人(witness)となることができるのではないかと思い至った。そして、今年の秋から少なくとも十年間、企画とともに東北を巡るプロジェクトを立ち上げた。

 原発のことを勉強するにつれ、これまで大都市に住む自分たちが、知らず知らずのうちに、東北やその他の土地に暮らす人たちを抑圧搾取する構造になっていた日本のありかたにあらためて大きなショックを受けている。ホロコーストを見ても、南京虐殺を見ても、犠牲になった人々の存在を忘れ去ることは犯罪者の意図に加担することを意味し、逆に、その存在を心に刻み、歴史の証人となることこそが抵抗を意味するのだと知っている。まだまだ予断を許さない原発のことを考えれば、復興を語る段階にないことは承知しているが、それでも、被災地の人々が、それぞれなりの復興の物語を創っていく過程を歴史の証人として見守ることができたら、私は私なりの復興の物語を創っていけそうな気がする。

2011.05.25
2011年5月 原発事故とトラウマ

 大阪市西成区60代の男性がだまされるようにして福島第1原発で働かされていた事件に続き、作業中に60代の男性が意識不明となり心筋梗塞で死亡したことが報じられた。1400人と言われる現場作業員たちは、いったいどんな状態で働いてくれているのだろうか。一時は、日当20万とか40万とも騒がれたが、本当のところ、手当も不当なものであれば、労働条件も不当なものであるに違いない。それでは、何が正当なのかと考えてみても答えは出ない。平時にだって常に起こっていることであるが、社会的・経済的弱者が命を犠牲にて働かざるを得ない現実を思うと、罪悪感と無力感にさいなまれる。

 少し前に、作業員を診察した福島原発の産業医が、作業員には、「危険な作業」「被災者」「肉親や友人の死」「加害者」の四重のストレスを感じている人もおり、早急に精神的ケアが必要であると言っている記事を見かけた。彼らに必要なのは本当に精神的ケアなのだろうか。作業中に亡くなった60代男性の死因は放射能によるものではなかったというが、無関係と言いきれるのかどうか。トラウマは心だけでなく体にも大きな影響を与えることがわかっている。以前、原爆とトラウマ、サリンとトラウマのことを調べていて、放射能や毒ガスのように被害が目に見えず、つかみどころがなく、正体を特定するのが難しいものの場合、その症状は、一層、心身の区別をつけがたいものになるのだと確信した記憶がある。

 たしか、どこかにチェルノブイリのトラウマについて書かれた論文があったはずだと思い出し、本棚から古い本を探し出して、読み返してみた(van den Bout,J., Havenaar, J. M., & Mrijler-Iljina, L. I, 1995)。チェルノブイリからはや25年。あのときも、住民の被爆の恐怖が続いたが(今なお続いているが)、著者たちによれば、住民のストレスは、強制避難によってコミュニティの絆が破壊されたこと、安全基準の混乱(3ヶ国で基準が違ったこと、時間経過とともに基準が変わったこと)、社会階層の高い人々(医者を始めとした知的金持ち)が次々と街を去ったこと、生活変化、とくに子どもたちの生活変化(生活圏、遊び場、食べ物の制限など)、食べ物の安全性の不確かさからきていた。人々の反応は、信頼感の喪失と不信感の蔓延、不安と抑うつだった。

 核災害の心理的影響はPTSDの概念にはあてはまりにくく、むしろ、HIVや末期癌の告知などに近い。住民たちは、常に健康のことが気になって、さまざまな不調を訴え続け、日常的なちょっとした不調にも放射能の影響ではないかと怯えている。放射能は人間の体に悪影響を及ぼし、長い時間経過とともに現れるかもしれないことがわかっているのに、実際の影響は自分の感覚を通じて測ることができないし、実際にどこからどこまでが放射能の影響なのか科学的にも不明確であるといった内容だった。

 現在の日本における状況とまったく同じではないか。福島の小学校の校庭で遊び、牛乳を飲む子どもたちの姿と、祈りながらそれを見守るしかない親たちの気持ちを想像するだけで胸が潰れそうである。このような事態が起きるに至った経過と責任を問い続けることは言わずもがなであるが、せめて、正確な情報を提供し、安心感や安全感、社会への信頼と絆、コントロールの感覚が回復できるような支援をすべきである。

 そんななかで、現役を引退したシニアの元エンジニアたちが「福島原発暴発阻止行動プロジェクト」を立ち上げたことが伝えられた。いわゆる「シニア決死隊」であるが、放射線感受性の低くなった60歳以上で現場作業に耐えうる体力と経験を持っている者たちで行こうじゃないかという人たちである。自己犠牲の精神が美化されるのは善いことではないが、それでも、持てる者がさっさと逃げ、社会的弱者を犠牲にする社会よりは、持てる者が率先して世の中のために尽くそうとする志ある社会の方が、ずっと希望を持てる。前者をイメージすると、胸が締め付けられ息苦しくなるが、後者をイメージすると、胸が拡がり暖かさに満たされる感覚を経験するのは私だけだろうか。放射能の直接的影響はもちろんであるが、それを取り巻く社会的状況がどれほど人々にダメージを与えているのか押して測るべしである。

2011.04.25
2011年4月 被害者からサバイバーへ

 先月は、災害の衝撃と波紋の拡がり、そして被害者化について触れた。波紋の静まり具合は、当然ながら衝撃の大きさと距離による。まだまだ予断を許さない被災の中核的な地域ではさざ波のように今なお波紋が生まれ続けているはずだが、物理的・心理的距離のあるところでは、いっときの激しい興奮状態は静まりつつある。これから先、時間経過とともに、状況による温度差は大きくなっていくことだろう。災害による衝撃が大きければ大きいほど、また、社会的パワー(経済力や人的資源、知識や情報など)が小さければ小さいほど、立て直しは困難であり、孤立感や無力感は強まるものだ。

 被害者がサバイバーになっていくプロセスは、一般に、(1)破局 (2)安堵と混乱 (3)回避 (4)再考 (5)適応 の5段階に分けられる。破局の段階では、被害者が破局はまだ終わっていないと感じている限り、つまり、安全感を得られるまで続く。安堵と混乱の段階とは、とりあえず破局が終わったことを知り、文字どおり安堵すると同時に、なぜこんなことが起こったのか、その結果をいったいどうやって受け入れればよいのかに混乱するのである。不安とストレス症状を減らすための対処法のひとつとして、回避の段階がくる。回避が一時的なものであれば、次に再考の時期がきて、衝撃と喪失に直面する心準備が整い、ようやくサバイバーへと変化していくことができる。

 安堵と混乱を経て、止まってしまった時間を再び前へ進め、何とか立て直しを試みようと努力するとき、立ち止まって振り返ることはできない。回避と再考を行きつ戻りつしながら歩んでいければよいが、回避の段階に留まってしまうことも少なくないだろう。再考の段階へと進むことは、時に生涯にわたる闘いであり、最終段階の適応までいかず、回避段階に留まって生涯を終えるという場合もある。とくに、今回のように、コミュニティのつながりが物理的に断ち切られ、人々がバラバラにされて距離感の違う生活空間に投げ込まれ、見えないところへ埋め込まれていくことが多くなるとすれば、孤立のなかでの再考はますます難しいものとなるだろう。

 災害には政治的側面がつきまとう。きっかけは天災とは言え、根本にあるのは人災である。情報が錯綜し、強いリーダーシップが求められるなかで、私たちはこれから何を考え、何を成していくべきなのか。さなかにいる私たちは、まだまだ暗中模索である。ビバリー・ラファエルによれば、災害は結果的に大きな社会的変化を引き起こすが、災害後のあり方によって、ネガティブな変化もあれば、ポジティブな変化もあり得る。時間経過とともに、衝撃が小さかった者ほど、パワーが大きい者ほど、その社会的責任が問われることになる。まずは、ここにいる人々こそが、我先にと進むのでなく、振り返りつつ、進めないでいる人々に心を寄せることだろう。戦後の立て直しのツケもまだ残っている。最終的に私たちはサバイバーになることができるのだろうか?願わくば、懸命に慎重に思考し、行動することができることを。

2011.03.31
2011年3月 災害の襲うとき・・・

 信じがたい惨事だ。しかも、まだ進行中である。ポスト・トラウマ(トラウマ後)にはなかなかならないだろう。こんな状態を私はミドスト・トラウマ(トラウマの最中)と呼ぶが、私たちはトラウマのなかを生き続けていかなければならないのだ。長い長い時間がかかることだろう。

 今回、私自身は自分のことで精いっぱいの時、揺れを京都で体験した。歩いていたので地震とは気づかず、過労でめまいがしているのだとばかり思っていたが、夕方、どうやら大変なことが起こっているらしいと知った。状況もよくわからないまま、その後すぐアメリカに旅立たなければならず、成田で津波の映像を見ながら大きな余震に耐え、飛行機に跳び乗った。日本から遠く離れて、毎日毎日、明らかになっていく惨状と、共感的なアメリカ人たちからのお見舞いとねぎらいの言葉。自分や自分の身近な人たちは大丈夫だったことに罪悪感さえ持ってしまう。しかも、今回は1日だけ帰国して、すぐにまた、休みを取って国外にいる息子を訪ねることになっていたのだ。罪悪感はさらに大きくなったが、旅行をキャンセルしたからと言ってどうなるものでもなく、とにかくまずは自分自身を取り戻さなければと旅立った。

 出発するときに、ビバリー・ラファエルの『災害の襲うとき』(みすず書房)をスーツケースに入れ、読み返してみた。阪神淡路大震災の時に「なるほど」と思いながら読んだものだ。ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』(みすず書房)のように情動に訴えエンパワーしてくれる類いの本ではないが、深い人間理解に基づきながら、網羅的に、しかし淡々と客観的に記述してあるので、自分のいるところを位置付けるのに良いだろうと思ったのだ。いくらか紹介してみたい。

 まずは「被害者化」の分類。①第1次被災者(災害自体と災害の心身両面および社会・文化的影響による損失と苦難をこうむった者) ②近接被災者(災害の結果によって直接・間接に影響を受けた者。給水の汚染・断絶など公共サービスの破綻、食糧など必需品の不足その他の影響を受けた人たちがこのカテゴリーに含まれる。被災した地域社会で対処し生活しなければならない人たちである) ③周辺被災者(被災地と強い関係をもち、その結果として影響を受けた者。被災地に家族や友人・知己が住んでいた場合などが含まれる) ④侵入被災者(非常事態の続く被災地に外部から集まってきた者。たとえばボランティア救援者、親類縁者を探しにきた者、専門的な災害救援組織のメンバーなど)(p.343)。

 ラファエロの比喩によれば、ある地域社会を災害が襲うことは、ある意味では池のなかに石を投げ込むようなものである。つまりその波紋がその地域社会全体に拡がって、さまざまなところに時間的にずれて到着し影響を及ぼすのである。この波紋はすでに影響を受けている部分をさらに揺さぶったり、中心に近くてその力がまだ衰えていない場合には、大きな衝撃を生むことになる。そして池のなかでと同様、災害の波紋も収まるまでには時間がかかるだろう。地域社会という池の大きさ、それに投げ込まれた石の大きさとその衝撃度によって、池のなかの状況は最終的に変化したり、しなかったりする(p.344)。

 今回の災害の場合、投げ込まれた石は巨大であり、しかも投げ込まれた場所は1ヶ所だけでない。時間差はあるが、あちこちに大きな石が投げ込まれ、ひょっとするとこれからも投げ込まれないとは言い切れない。あちこちの中心から拡がった波紋が互いに影響を及ぼし合い、増長し複雑化している。この波紋の影響下にいない人がいるのだろうか。今回の災害では①②④に該当する人々がたくさんいるし、ほとんどすべての人々が③に該当するのではないかと思う。影響を受けていない人がいるとすれば、ほとんど人づきあいをせず、マスコミの影響を完全にシャットアウトして生きている人だろう。そういう意味において、多くの人々が大きな衝撃を受けていると思われるが、①の人たちをはじめ中心部に位置する人たちの被害があまりに大きすぎて、自分たちが受けている影響を云々することなどとてもできないと考えてしまったりするだろう。

 災害は覚醒と興奮をもたらしサバイバルを助けると同時に、周囲の者に対しても強い吸引力(この本では「魅力的」と訳されているが、若干の違和感がある)を持って影響を及ぼす。ラファエロによれば、災害にともなう死傷と破壊は比類ないほど恐ろしいものであるが、人はこのような状況を観察し現認することによって、自らの生命と力を再確認し代償的な死の克服をしようとするし、また、身の安全を確保したままで死と破壊の現場に臨むことが攻撃性を空想という形で代償的に充たす側面もある。さらに、災害は人間の無力感を強めることから、災害に対処して行動することで、手の施しようがない事態になんとか対処することで無力感を克服しようとする(p.46)。つまり、人によってさまざまな意味を持ちながらも、災害の中心近くにいればいるほど、人は災害の吸引力に否応なく引き込まれていく。もちろん、「中心」というのは物理的距離だけでない。心理的距離をも含む。

 震災数日後、アメリカ在住の日本人たちと会ったが、彼女らはずっとテレビの前に釘付けで、ボランティアで被災地に駆けつけるべきではないかと思っていた。家族や友人、大切な人々を遠くに置いて出てしまった自分に罪悪感があったり、一方的に入ってくる情報に無力感や孤立感があるのだ。自分自身が否応なく引きこまれてしまう中心近くにいると思うのなら、それはひとつの選択肢だと思う。現地に駆けつけるボランティアがたくさんいるから助けられることも多い。ただ、選択の余地のあるところにいるのなら、急性期に中心部に跳び込むだけでなく、長期戦で後方支援をすることもできる。みんなが中心部に跳び込んでしまったら、支援体制はすぐに力尽きて壊れてしまうだろう。中心部にいる人たちには選択の余地がない。中心部に跳び込むからこそ見えるものもあり、中心部に跳び込まなければ理解できないことはたくさんある。逆に、距離があればこそ見えるもの、できることがないわけではない。

 そう助言しながら、今回の自分は少し遠くにいてできることをしようと考えていた。阪神淡路の時には、大阪にいながら地震の心理的体験はもっと中心近くにいたので(マンションの最上階に住んでいたため、30分ほどビルの揺れは収まらず、本棚から本が次々落ちて、まだ小さかった娘が本の下敷きになり、一応、いざという時の覚悟までしたのだ)、いても立ってもいられず、直後から毎週、神戸に通った。当時はまだ多くなかったトラウマ支援者としての使命感のようなものもあったかもしれない。地獄絵のような歪んだ世界は今も目に焼き付いて忘れられない。侵入被災者というわけだ。

 人が他者の身に起こった惨事をとても人ごととは思えず、何かしたい、何かしなければ、と思うことはきわめて人間らしいことである一方で、究極的にはそれは自分のためであるし、そんなふうに思えない状況があることも事実である。単に想像力が欠如しているというだけでなく、たとえば、自分の体験は世界中の誰にも理解してもらえないと信じるだけの体験をしてしまった人たちがいる。「自分の体験に比べたら・・・」と思ってしまうのだ。原爆の影響を調査したリフトンは「死の痕跡」と名付けたが、世界から完全に疎外されてしまうほど大きなトラウマ体験を背負った人たちである。

たった1人とでも世界を共有することができれば希望のかけらを見つけることができる。さまざまな研究によって、サバイバルのための最も重要な要件のひとつは愛着(自分が大切に思う人との絆)と愛着の心象化(大切な人をイメージのなかで持ち続けること)であることがわかっている。願わくば、みなの絆がバラバラに破壊されてしまわないことを。ただし、災害後の一体化は一時的な助けになるが、ある時期を過ぎると、互いの違いに気づくようになり、孤立感や疎外感の方に振り子が向かうようになるかもしれない。物理的距離だけでなく心理的距離も含めて、ひとそれぞれの体験とその影響はみな個別であり違うものだ。できる限り自分のいるところを知り、選択の余地があるのならば、選択することだ。とりとめもなく、自分を戒めながら・・・。

2011.02.05
2011年2月 街頭紙芝居と「子ども溜まり」

 今年もおもしろい修士論文がたくさん出来上がってきた。その中から、今月は街頭紙芝居の研究を紹介したい。娘が幼稚園の頃、よく楽しい手作り紙芝居を作っていた。私がではない。娘がである。紙芝居を作るのは意外と難しい。文字と絵がずれないように、そして、めくり方の工夫で場面がうまく展開するように考慮する必要がある(つまり、少しずつ抜いたり、一気に抜いたりなど、現在の場面と次の場面の関係性を考えて絵を描く)。「よくこんな高度なことができるもんだなぁ」と感心して見ていたものだ。

 大阪に暮らしていると、たまに公園でおじさんが自転車でやってきて子どもたちを集めて紙芝居をしている光景を眼にすることがある。こんな光景が公園で見られるのは、大阪だけらしい(もしも、どこかよそでもやっていることをご存知の方があればお知らください)。この学生の調査によれば、紙芝居の源流は平安時代にまで遡り、1930〜1936年、子どもたちの娯楽として大きな発展を遂げたが、1937年より戦機高揚のための「国策紙芝居」が登場し、政府は街頭紙芝居を取り締まった。戦後はGHQの取り締まり下で、非教育的な内容が排除された「民主主義紙芝居(平和紙芝居)」が復活したが、テレビの出現や教育紙芝居が主流となったことで、街頭紙芝居はほとんど見られなくなってしまったという。

 きっと皆さんの頭の中で、「教育紙芝居と街頭紙芝居ってどう違うの?」という疑問が沸いただろう。私も知らなかったが、要するに、今、私たちが幼稚園や学校の図書館で見かけるのは教育紙芝居だ。教育紙芝居は教育目的なので、人が殺されたり、人を馬鹿にしたり、下ネタ的な描写は一切ないのに対して、街頭紙芝居は、もともと「街頭」で行われていただけに、自由奔放で娯楽中心である。昭和20年代、30年代の街頭紙芝居の絵はすべて絵師による1点もので、街頭紙芝居は基本的に手書きだったが、昭和40年代以降、絵師がほとんどいなくなり、学校で教育紙芝居が利用されるようになってから、紙芝居は印刷されるようになった。手書きの紙芝居には裏書きがなかったり、あっても適当な下書きだけだったりしたようだ(自分で作ってみるとわかるけど、絵と字を合わせるのは案外、難しいのだ)。

 要するに、街頭紙芝居は観客とのやりとりが中心で、途中で野次や質問が飛び交う。そして、駄菓子つきだった。現在、街頭で子どもを集めて紙芝居をやるなんていうのは危険だし、非現実的なので(昔の子どもたちは街頭=道端で遊んでいたものだが)、東京や仙台はじめ今でも盛んに行われている街頭紙芝居は、そのほとんどがイベントや室内での公演である。その理由は、ほとんどの都道府県で「外でお菓子等を売る」ことが条例レベルで禁止されているからだそうである。また、東京ではヘブンアーチスト制度(公共空間で活動するにはアーティストのライセンスが必要)というのがあって、路上でのパフォーマンスが厳しく規制されている。というわけで、大阪で見ることができる公園紙芝居は昔の街頭紙芝居に限りなく近い形で残っている貴重な存在である。つまり、パフォーマンス型の紙芝居ではなく、駄菓子やクイズなど紙芝居師と子どもたちとの関わりあいが大きな比重を占めている。

 この学生は、公園紙芝居によって作られる空間を「子ども溜まり」と名づけた。紙芝居師の拍子木の音で子どもたちが集まり、だんだん溜まっていく。駄菓子やら、クジやら、カタヌキやら、子どもたちは頭を使いながら持っているお金を使い、おマケの交渉し、お金のない子はクイズに挑戦する。紙芝居師が子どもたちに売る駄菓子はかなり怪し気である。タコせんにソースとチョコレート、その上から天かすや練乳をかけるなどバラエィ豊かで、スーパーやコンビニ、駄菓子屋では買えないユニークなものである。買ってもいいし、買わなくてもいいし、紙芝居さえ、見てもいいし、見なくてもいい。そこでは、子どもたちが思いのままに過ごしている。格別に教育的意図を持たない大人である紙芝居師が子どもたちに暖かい眼を向けるなかで、異年齢の子どもたちが教え・教えられ、助け・助けられる関係が存在する。強制がなく守られた空間が現代の子どもたちにとって、どんなに貴重であることか。

 あらためて考えてみると、私たちは、「教育的」という名の元に子どもたちの楽しみの多くを奪ってきたのではないだろうか。生活の知恵や生きる力は、必ずしも教育的営みから得られるわけではない。子どもたちが溜まり、エネルギーが湧き出てくるそんな場がこれ以上、消えていかないことを願う。

2011.01.24
011年1月 アメリカにおける「赤ちゃん避難所法」

 毎年、この時期になると、学生たちの卒論と修論の指導にかかりきりになるが、学生たちの眼のつけどころはそれぞれに面白く、こちらもとても勉強になる。今年、学部生が取り上げたアメリカの「赤ちゃん避難所法」については、私もまったく知らなかったので、驚きだったし、いろいろ考えさせられた。今回は、この学生の卒論を紹介したい。

 そもそもこの学生の関心は、世間を騒がせた熊本の赤ちゃんポストから始まった。これは、ドイツの例をヒントにしたものだが、保育器の中に赤ちゃんを安全に捨てて、安全に保護するという仕組みである。多くの国で類似した制度が導入されているが、アメリカでは、赤ちゃんを預ける特別な設備を作るのでなく、子捨てを免責する法律を定めているのだという。アメリカでも乳幼児遺棄や嬰児殺が多発して社会問題となり、テキサス州が、1999年、子捨てを免責する法律"The Baby Moses Law"を制定した。当時、テキサスでは年間100人以上の赤ちゃんが捨てられ、そのうち16人は発見されたときには既に亡くなっていた。そこで、子を捨てたり殺したりするよりも、子の命を守るために安全な子捨てができるよう、つまり、一定の条件を満たした子育ては免責されるように法律を定めたのである。

 その後、他の州でも次々と同様の制度が採択され、現在ではアメリカ全州とワシントンD.C.でこの法律が制定されている。法律名は州によって異なり、"Baby Safe Haven Law"や"Infant Safe Haven Law"などが多く使われている。"Safe Haven"とは安全な場所、避難所という意味であり、この学生は、「赤ちゃん避難所法」と訳している。通常、子どもを捨てた場合は犯罪とみなされ刑罰の対象になるが、各州の「赤ちゃん避難所法」に記された通りの場所、方法で子捨てを行った場合は刑罰の対象外とされる。子を保護した機関や人は、保護した子ができるだけ早く安全な家庭で育つことができるように、養子縁組斡旋機関等に子を保護した旨を報告する義務がある。どの州においても乳幼児の保護が目的とされるが、免責の条件や関係機関の義務は州ごとに違っている。こういった情報は日本ではまだ十分に紹介されておらず、文献らしきものはほとんどない。英語が堪能なこの学生は、各州のこの法律に関する情報サイトを自分で読み込み整理したのだからたいしたものだ。

 おもな相違点としては、まず、生後いつまでなら赤ちゃんを捨てて良いかという時間制限であるが、生後日数を3日以内にしている州がもっとも多く、最大で1年以内となっている(正確に子の生後時間を知ることは不可能であるが、確認方法を定める州もある)。それから、捨てることのできる人(つまり、子どもを捨てても免責される人)について、母、母の代理人、親、親の代理人、人(つまりは誰でも)の5パターンがある。親または親の代理人としている州がもっとも多い。子の預け入れについては、法律によって指定された預け受け人に直接渡す方法と、指定された場所に預け入れる方法の2種類に大別することができる。免責の法的手続きは起訴免除か裁判かに分けられ、裁判の場合には、適法化タイプ(検察側が行為者の免責事由不存在を証明する)と抗弁タイプ(行為者が免責事由を証明する)に分けられる。その他、特記すべき州として、子捨て行為者の匿名性を保証しないジョージア、預け受け時に子と親にそれぞれ同じ識別番号が記されているブレスレットが渡されるコネチカットが挙げられる。

 今やアメリカ全州で「赤ちゃん避難所法」が制定され、国をあげて子の保護に取り組んでいるわけであるが、州によって取り組みに対する姿勢にも差異があり、新しい法律であるために改正に改正が重ねられている(実は、この学生がサイト情報をまとめ上げた後で、子の預け入れ可能な生後上限日数が大きく緩和された)。州ごとに違う法律の根拠は、子どもの存在に対する社会の捉え方を反映し、私たちに答えの出ない根源的問いを突きつけていると言えるだろう。たとえば、生後1ヵ月の赤ちゃんならば捨てられて、1歳の赤ちゃんは捨てられないという根拠はどこにあるのか。子を捨てる権利がなぜ母親に限定されるのか、あるいは親に限定されるのか。それにしてもアメリカというのは合理的で大胆な国である。これらの議論をとりあえず置いても、とにもかくにも捨てられて命を落とす赤ちゃんが救われるべきであるという宗教的精神にも支えられているのだろう("Safe Heaven" という英語そのものが宗教的背景を感じさせる)。今後、「赤ちゃん避難所法」はどこへ落ち着くのだろうか。

 それにしても、赤ちゃんポストは「ただちに違法とはいえない」として消極的に設立が許可され、ひとつしか預け入れ場所がないために、全国各地からはるばる赤ちゃんを安全に捨てるためにそこまで行くという日本の現状には苦笑するしかない。赤ちゃんポストをめぐる議論もメディアによって煽られたセンセーショナルなものに留まり、私たちの社会において尊い命が経たれないよう私たちに何ができるのか、何をすべきなのかと自らについて考える状況にもない。もっと根源的な次元で、今一度、議論できたらと願う。

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