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トピックス by村本邦子

2012.08.31
2012年8月 アイヌモシリ・北海道〜脱植民地化のための平和学

 北海道大学で開催された日本平和学会第4回全国キャラバンというのに参加した。本州にいるとアイヌの問題はほとんど視野に入ってこないが、北海道に来ると、いつも何がしかアイヌのことを考えさせられる。先月は戦後開拓に触れたが、開拓記念館の展示を見て、開拓は侵略であることを体感し、衝撃を受けた。今回は、「植民地化」というキーワードが頭に入ってきた。

 明治政府が蝦夷地を北海道と改称し、「国郡制」が導入されたことは小学校の頃、教科書で2行ほど習ったような気がするが、考えてみればこれが「植民地化」だったわけだ。アイヌにとっては何千年も生活の場であったアイヌモシリを、持ち主のない土地だからと明治政府が勝手に官有地にして、大規模な和人の移住による開拓が進められた。

 初めて聞く話だったが、二風谷(にぶだに)というアイヌ民族が多く暮らす土地にダムが建設された。反対運動から訴訟となり、国も加わって、1997年、札幌地裁はアイヌが先住民族であることと、アイヌの文化享有権を認め、ダムの違法性が認定された。とは言っても、ダムは、今なお、あるわけだが、写真など見せてもらうなかで、ひとつのダム建設がどんなふうに致命的に、自然を、人々の暮らしを、文化を変えてしまうのか考えさせられた。おのずと原発のことが思い浮かぶ。

  基調講演をした貝澤耕一さんは、現在、NPO法人ナショナルトラスト・チコロナイを立ち上げ、寄付金で周囲の土地を少しずつ買い取って、森を作り始めているという。「本来の森はもはやどこにもない。木はみな切り倒されてしまったから、大木を見ようと思ったら、北大に来るしかないでしょう」と言っておられた。実は、会場へ向かいながら、「北大はなんて自然に恵まれた美しいキャンパスなんだろう」と感動していたのだが、実は、これこそ帝国主義のあらわれだったわけだ(実際、北海道帝国大学時代には「植民地学」が教えられていた)。

 シンポジストたちの話もいずれもおもしろかったが、コメンテーターの小田博志さんが、平和学の脱植民地化、研究と大学の脱植民地化、市民社会の脱植民地化ということを言っていた。植民地主義が意識に上らないという意味で、私たちは今も帝国主義の遺産のなかに生きているわけだ。

 今回の「平和キャラバン」は、「平和を定義する力」を平和研究に取り戻すという趣旨で全国を巡り、8回続けられるそうだ。平和学会も平和の定義を独占するのではなく、複数の平和の定義を許容して、多様な平和観が共存し、競合しながら切磋琢磨して個々の平和観を鍛える知的空間を学会内部に作り出すという。なかなかいいじゃないか。とても満足度の高い一日だった。

2012.07.27
2012年7月 家族の歴史を辿って

 先月は沖縄のことを書いたが、今月は北海道のことに触れてみたい。私自身の個人的なルーツである。私の母は子どもの頃、東京大空襲で焼け出され、家族とともに「開拓団」として北海道Kへ移り住んだ。子どもの頃からその悲惨な体験を聞かされて育ったが、今回、記憶としては初めて(生まれたばかりの頃、一度行ったことがあるはずなのだが)、その地を訪れ、親族11名が集合した。そもそもは、Kに開拓記念館があることを知って、一度行ってみたいと思ったのだが、子どもの頃から聞かされてきたその物語がどんなところで織りなされたのか、私のルーツのひとつである母たちの物語は大きな歴史の中にどんなふうに位置づけられるのか知りたいという関心があった。

 記念館に行ったが、初期の開墾者の苦難と成功の物語のなかに、母たち一家に関する記録はどこにも見つからなかった。とりあえず置いてあった資料のいくつかを買い求め、パラパラと見てみたところ、「戦後開拓」という小さな記録を見つけた。昭和20年から29年にかけて、引揚者、戦災者、復員者らが入植していた。北海道における地域の歴史の掘り起こし運動についてはかつて書いたことがあるが、北海道口承文芸研究会による資料集である。そこには、アイヌの人たちや強制労働者、性奴隷となった女性たちなどに関する悲しい歴史の物語も含まれていた。さらに調べていくと、戦後の開拓移民はKだけでなく、昭和20年7月から11月までに約1万7千人が北海道に入植していることがわかった。北海道における開拓(略奪)の歴史は想像を絶する厳しさだったようだ。

 現在は、北海道から沖縄まで散り散りに暮らしている母の親族である。もう亡くなってしまった叔母たちもあるが、今や年老いた叔母たちや従兄弟姉妹と緑に囲まれた青い空の下でジンギスカンを囲んで、おそらくは最初で最後であろう、しみじみとしたひと時を過ごした。叔母や母たちが語り合うのを見ながら、苦労を生き抜き、働き、子育てしてきた尊敬すべき先輩たちだと思った。そして、従兄弟姉妹や自分だって立派に育っているではないか。生きていさえすれば何とかなる、人間の力はなかなかに偉大なものだとある種の感動を覚えた。短い時間ではあったが、貧困と飢餓の中で幼かった叔父が命を落とした場所や社会的抑圧を象徴する地へも足を運び、当時を知る方とお話ししたりもした。また、同期に入植し、稀有なことに開拓に成功して今や広い農園を営む方を訪ね、甘いメロンをご馳走にもなった。

 今回、いろいろ調べながら、少しずつ歴史の掘り起しがなされていることを知った。以前、すみだ郷土文化資料館学芸員である田中禎昭さんの「語りうる戦争体験、語りえない戦争体験」という講演を聞いたことがあるが、東京大空襲の被害者によって描かれた絵は、広島や沖縄戦の被害者による絵と比べ、社会でいまだ被害として位置づけられていないことの表現、周辺性が特徴的であると言われていたことが印象に残っている。東京大空襲については訴訟も行われているが、二審も棄却されている。自分たちの苦しみが歴史や社会の中に位置づけられない無念さはどんなだろうか。福島の問題とも重なる。近いうちに東京にある東京大空襲・戦災資料センターへも行ってみたい。

2012.06.25
2012年6月23日 「慰霊の日」に沖縄を訪れて

 平和学会があって、久しぶりに沖縄を訪れた。最後に来たのはモノレールができる前だったから、十年ぶりくらいなのではないだろうか。建物も街の雰囲気もなんだかずいぶん変わったような気がする。高さの高い新しい建物が多くなっている。

 折しも「6・23慰霊の日」。よく知らなかったが、沖縄戦を指揮した第32軍牛島満司令官が自決したとされる6月23日を、県が1974年に「戦没者追悼、恒久平和を希求する日」と条例で定め、1991年に正式な休日となったそうだ。沖縄戦では、激しい地上戦で子どもを含む住民9万4千人、日米軍人含め、20万人以上が犠牲になった。4人に1人が亡くなったというのだから、沖縄の人々がどれほどの被害を蒙ったかは想像を絶する。

 慰霊の日には、糸満の摩文仁の平和祈念公園で沖縄前線戦没者追悼式が開催され、県内外、国内外から5500人もの人々が参列した。学会プログラムの関係上、追悼式には出席できなかったが、担当の分科会を終えるや否やタクシーを拾って、平和祈念公園に行った。タクシーの運転手さんの話では、この日は、早朝からたくさんの人々が家族で祈念公園を訪れ、ピクニックのようにお弁当を拡げてゆっくりと過ごすのだという。「ピクニックのように」というのは光景としてイメージしにくかったが、かつて経験したバリの村の火葬ガベンで出店が並び、子どもたちが風船や飴を持ってお祭りのような雰囲気だったことを思い出す(http://www.f-lifecycle.com/muramoto/2007/08/000197.php)。

 行ってみると、たしかに、家族、それも多世代からなる拡大家族が食べ物やお酒やお茶を慰霊碑の前にたくさん並べて捧げ、平和の礎(いしじ)に刻まれた名前を指でなぞりながら祈っていた。そして、それぞれに芝生にお重を拡げ、歓談しながら食べていた。以前、沖縄のお盆を経験したことがあるが、お盆には死者が家に帰ってきて、家人は死者に話しかけ、たくさんの食べ物やお酒を捧げる。お盆に死者が戻ってくるというのは、私の子ども時代の記憶にもあるが、それにしても、死者の存在をリアルに実感する。沖縄戦の遺族たちは、「沖縄戦の遺族」というつながりのなかで、この日、青い空と海が広がる緑豊かな美しいこの空間に集い、あの世に逝った人々と再会し、一緒に同じ食べ物を食べ、語り合うことで、家族のつながりを確認し、平和を誓うのだろう。大きすぎて抱えきれない歴史と現在のトラウマを抱えながらも、逞しくしなやかに生き抜く人々の知恵には感嘆させられる。

 また、「パレットくもじ」の歴史資料館では、ちょうどWAMとの共催で「沖縄戦と慰安婦展」をやっていて、朝いちばんに行ったが、朝からたくさんの人々が来ていることに驚いた。いくらか会話が耳に入ってきたが、展示と自分の記憶(体験や親や祖父母から聞いた話)を照らし合わせているようだった。沖縄の人たちにとっては、これらの内容がそのまま自分のこととつながっている感覚を持っているのだろう。本土で展示をやっても、これほど興味を持って人々がくるかどうか。本当はそうではないのに、多くの人はこれらの内容が自分のことではなく他人事だと思っているのだろう。

 学会では、基地と原発をテーマにしたシンポジウムをのぞいたのだが、NHKの七沢潔さんという人が「メディアは構造的暴力の一部である。そして、視聴者は無自覚なままそれに加担している」と言った。森口豁さんは「本土のメディアは沖縄の人々が死ぬのを待っている」と言い、七沢さんは「大手メディアは原発事故の直後しか報じない」と言っているそうだ。そんなこともあって、今日は「沖縄タイムズ」と「琉球新報」を買って隅々まで読んでみたが、この日の新聞は、慰霊の日とオスプレイ(米空軍の輸送機)がほとんどを占めていた。加えて、沖縄タイムズ(2012年6月24日朝刊)の社説には、原子力基本法に「我が国の安全保障に資するため」という目的が密やかに追記されたことへの批判が書かれていた。知らなかった私は仰天した。本土でこれらのことはどれだけ報じられているのだろうか。

 平和祈念資料館や慰安婦展を見て、いろいろと新しいことを学んだ。沖縄本島だけでなく、ダイバーには馴染の座間味や渡嘉敷、西表、宮古などのことも。「沖縄タイムズ」に紹介されていた証言では、摩文仁(激戦地だった平和祈念公園があるところ)のあたりでは、子どもの頃、海に潜ったら、ずいぶん長い間、そこかしこに白骨が見えたそうだ。たくさんの人々の無念さや苦しみに思いを馳せながら、構造的暴力の一部になることへの抵抗を模索したい。

2012.05.11
2012年5月 「私」のなかの他者・社会・歴史と出会う〜HWHのトレーニングを受けて

 このゴールデンウィークは、丸5日にわたってアルマンド・ボルカス氏によるHWH(歴史の傷を癒す)のトレーニングを受けた。初めの部分ではドラマセラピーの基礎を学んだが、これまで断片的に経験してきたことを体系立てて学び直し、あらためて腑に落ちるところもあったし、惜しげなくさまざまな技法を教えてもらいレパートリーも増えた。ドラマセラピーの技法については、受け入れの個人差や好き嫌いもあるだろうが、慣れも大きいように思う。私自身も、最初から受け入れやすいもの、ちょっと違和感のあるものなど差があったが、回を重ねて馴染むにつれて、だんだんと面白くなってきた。技法とは道具だから、自分の使いやすいもの、気に入ったものから使っていくのが良いだろう。

 今回、あらためて痛感したのは、アイデンティティの成り立ちについてである。これまでも、歴史のトラウマと直面するなかで繰り返し考えてきたことではある。HWHの技法のひとつに「アイデンティティのワーク」というものがある。グループの前に立って、「私は○○(名前)です。私は○人(国籍や民族)です」と言ってみると、どんな感情が沸き上がってくるかということを体験してみる。これを日本人でやると、いつも必ずと言ってよいほど戸惑いが先に立ち、「関西人です」「東北人です」といった具合に地域を言う人が多かった。さまざまな言語で試しもするが、"I'm Japanese."と英語で言う方がたやすい感じがする。

 きっと日本に住む日本人は日本語でこのような自己紹介をするチャンスが少ないからだろうと思っていた(別の言い方をすれば、日本のマジョリティである日本人はどこまでも無自覚にそれを前提として生きているという傲慢さの表れでもあるだろう)。ひとたび国外に出れば、そのチャンスは増える。それに比べて、アメリカのように多文化・多民族・多国籍で成り立っている国では、○人というアイデンティティは重要なものだろう。たとえばアルマンドなら、ユダヤ人、アメリカ人、フランス人、スペイン人というアイデンティティを持っている。そのどれを主張するかで感情状態が変化するだろうことは想像に難くない。使用する言語によっても違うことだろう。

 今回のグループで多くが体験したことは、むしろ誰に向かって言うのかによって感情が変化するということである。たとえば、日本人が日本人に向かって「私は日本人です」と言ってみてもあまり感情は動かないが、中国人や在日コリアンに向かって言えば、居心地の悪さや罪悪感が出てくる。加害・被害という歴史についてよく知らなかったり、よく考えていなかったりすれば、感情状態はまた違うかもしれない。アイデンティティが場面や文脈によって変化するのは当然のことだと感じていたが、多くのアメリカ人のアイデンティティは文脈によって変化したりしないのだそうだ。むしろ、文脈に関わらず確固たるアイデンティティを獲得することが求められるのだという。だが、少なくとも私たちは(正確には誰を指すのか、現段階では不明瞭であるが)、相手によって「私」の在り方が調整されることを経験する。つまり、「私」は社会的文脈や歴史的文脈によってその都度構築されるのだ。

 サイコドラマの手法を使って、乗り越えがたいわだかまりとなっている場面を再構成すると、「私」がいかに他者との関係性において構築され、他者の「声」によって縛られており、それをシンボリックに変容させることができれば、「私」も変化するのだということを体験する。「私」の脱構築、「私」の再構築である。二人がペアになって自己紹介した後、グループの前では、アイデンティティを交換して、相手を演じながら自己紹介するというワークがある。あるいは、誰かの心の中にある声を演じる「ダブリング」という手法がある。こういった体験を通じて、「私」のなかに「あなた」があり、「あなた」のなかに「私」があることを知る。理解し共感しあう行為は、「あなた」を受け入れ、「私」を拡大することなのだ。深く学ぶことや深く感じることを通じて、「私」は常に構築され続けるということになる。それは、演劇、映画、小説、音楽、絵画等による体験でもよいのだ。

 ウディ・アレンに「私の中のもうひとりの私」という映画があった。50歳になる哲学教授が疲れて居眠りをしていると、隣室の精神分析医のもとに通う患者の声が聞こえてくる。聞くともなしに聞いてゆくうちに、ずいぶん昔に切り捨ててきた自分の一部が立ち現われてくるという内容だ。他者の声を契機に、過去に忘れてきた私の断片を拾い集めながら、「私」が再構築されていく物語である。「私」の再構築が面接室の外で起こっていることが面白い。心理学ブームは、「私」があたかも閉じられたシステムであるような誤解を生みだしているが、サイコサラピーとは本来、他者の声を受け入れ、他者との関係性のなかで「私」を変容させていくプロセスではなかったか。HWHは明らかに心理学的手法を使うが、このように、「私」が実は社会や歴史に開かれてあることを明らかにするものであり、最終的なゴールとして社会変革が掲げられているところが素晴らしい。今後の展開の予感にわくわくしている。

2012.04.30
2012年4月 湧水から平和の大河へ〜国際シンポジウム「人間科学と平和教育」を開催して

 4月28日立命館国際平和ミュージアムで、国際シンポジウム「人間科学と平和教育」を開催した。南京でのHWH(歴史の傷を癒す)ワークショップについては繰り返し紹介してきたが、このプログラムに関わってきた人たちが集まって、今後の方向性を検討しようとするものである。私自身は2007年にHWHと出会って南京へ行き、2008年は京都で、2009年はサンフランシスコと南京で、2010年はカナダで、2011年は中国蘇州と再度、南京でという具合にHWHの試みを重ねてきた。

 今回のシンポジウムは、HWHとの出会いを作ってくれた村川治彦さんを司会に、創始者であるアルマンド・ボルカス、いつも南京の暖かい受け入れ先になってくださっている張連紅先生とともに報告を行い、立命館の同僚である中村正さんと加國尚志さん(平和ミュージアム副館長)にコメントを頂いた。合間に、紫金草合唱団のコーラスと作詞者である大門高子さんのコメントもあった。

 紫金草と紫金草合唱団については、メンバーの一人でもある北海道大学の小田博志さんがブログに書いている(http://odahiroshi.blogzine.jp/webessay/2012/01/post_093d.html)。紫金草の花は、侵略戦争への反省と平和への願いが代々受け継がれ、日本中に広がっていることを表すシンボルでもある。合唱団の方々が、ちょうど今満開に咲いている紫金草の花で会場を飾ってくださった。優しくはかなげな薄紫色の花だが、群生して逞しく広がっていく。この花と活動のことは、南京の虐殺記念館にあった少女の記念碑と小さな花壇で記憶していた。この記念碑は、1939年に南京からこの種を持ち帰って広めた山口誠太郎さんの息子・山口裕さんが日本で1千万の募金を集めて作ったそうだ。ちなみに、山口さんは帰国後、品川の星薬科大学初代校長に就任し、紫金草はこの大学の校花となったが、この大学の創設者星一はSF作家として有名な星新一の父なのだそうだ(ここでは深入りしないが、昔、愛読していた星新一を今度新たな視点から読み直してみたいと思う)。

 80人近い団員たちが全国各地から駆けつけてくれ、会場を美しい歌声で満たしてくれたのだが、お一人おひとりのお顔を見ながら、それぞれの方々の背景にあるどんな人生と想いがここまで連れてきたのだろうと想像すると胸が熱くなった。実は、このシンポジウムに集まってきた私たち一人ひとりにも、ここに辿りついたそれぞれの物語がある。小田さんは2012年発行の報告書に「平和は、小さな湧水が流れ出し、結びつきながらいつしか大河となって、最初想像もつかなかった海へと流れ込むところに実現するのではないか」と書いている。ご本人は覚えているかどうかわからないが、2010年に開催したシンポジウムでは、「アジアの中で湧き水はある。皆さんが南京に行ってワークショップをすることも一つの湧き水だと思います。それをいかに流れにしていって他の流れと合流して大きい平和という川にしていくのかということを考える、実践していくことが私たちの今後の課題ではないか」と言った。小田さんの中にも、きっと、川から大河へ、そしてその先に海を予感させるだけの歩みがきっとあったのだ。

 コメントやディスカッションを聞きながら、これから向かうべき可能性についてインスピレーションが湧いてきた。自然な流れに従って進んでいこう。まずは、明日から今度はアルマンドによる三日に渡る集中講義と二日のワークショップ、計五日のHWHトレーニングが始まる。私も今、基礎としてルネ・エムナーの『ドラマセラピーのプロセス・技法・上演〜演じることから現実へ』を読んでいるところだ。来月のトピックでは、たぶん、このトレーニングのことを紹介できるだろう。

2012.03.16
2012年3月 ドイツにおける子どもの面会交流支援を視察して

 10年近く前から法と心理の協働についての研究チームに加わっているが、大きなテーマのひとつが、離婚後の親子面会交流である。日本では、長い間、別れた親子は会わない方が良いという考え方だったが、最近では、共同親権の議論も沸き起こり、別れた親との面会交流が促進されるようになりつつある。別れる前から両方の親と子どもとの関係がよいとすれば、これは基本的に良いことだと思うが、その内実は複雑だ。親子の面会交流が子どもの権利ではなく、親の権利と捉えられていたり、親同士の権力争いが重ねられたりする。面会交流について、うまく合意が得られず、争いになった場合、そんな複雑な事情を誰が判定できるだろう。その中で翻弄されるのは子どもである。

 ドイツでは、1998年に親子法が改正され、両親が離婚しても、両親の「共同配慮」(共同親権のこと。親の権利というより、子どもを配慮する義務と権利である意味づけられたため、このように訳語が定着した)は持続することとなった。それで親権や面会交流を争う必要がなくなるはずだったが、実際には、相変わらず紛争が繰り広げられた。コッヘムの家庭裁判所は、さまざまな専門家(裁判官、弁護士、少年局、鑑定人、相談所など)が協働して、合意形成を迅速に進める手法を開発した。「コッヘム・モデル」と呼ばれるこの方法はそれなりの成果を上げ、2009年の「家事事件及び非訟事件手続法」改正では、このエッセンスが導入された。簡単に言えば、離婚後の面会交流に関して、裁判所で勝敗をつけるのでなく、当事者たちが少年局(児童相談所のようなもの)やメディエーション(日本とは違って裁判所とは別に存在する調停)、心理相談所を利用して合意形成できるようにするシステムである。

 2010年に続き、今回、このバリエーションであるシュトットガルトの「ベーブリンゲン・モデル」を視察し、関係機関の専門家たちと話をした。裁判で判決を出して終わりではない紛争解決には、多くの人々の多くのエネルギーが必要である。裁判官自ら子どもの声に直接耳を傾け、少年局や相談所スタッフは家族と何度も会い、また、メディエーターや手続き補佐人(かつては「子ども代理人」「子ども弁護士」と呼ばれていた)たちの仕事はほとんど社会奉仕的な位置づけにある。子どもを中心に置き、子どもの権利のために、地域の大人が皆で力を寄せ合おうという姿勢には、社会の成熟を感じるし、胸が熱くもなった。このようなモデルから何か学べることはないかというのが、私たち研究チームの課題である。

 他方、答えの出ない問題は残る。子どもにとって、親と会い続けるのが良いのかどうかをいったい誰が決められるだろうか。シンプルに両方の親と子の肯定的な愛着関係が形成されているケースであれば、第三者が口をはさむまでもなく、合意はなされるだろうし、そもそも紛争にならないだろう。一緒に暮らす親子であっても、関係を持たないケースもあるし、その方が良いという場合もあろう(極端には一方の殺害に終わる親子関係だってあるのだから)。一緒に暮らす親子が一定時期、疎遠になるというのもありがちなことである。親をまったく知らない子どもが、親に関心を持ち、会いたいという思いが高まることもあれば、むしろ、とくに関心もなければ、とくに会いたくもないということもあるだろう。それが、いざ離婚となれば、親子の交流が契約になるというのも奇妙な話である。

 DVや虐待など、子どもに被害があるケースはさらに複雑である。被害・加害の証明は難しく、そのようなケースであればあるほど、紛争性は高くなる。そもそも、そのようなケースでは、加害者が被害者を搾取しているわけだから、搾取先をそうやすやすと手放すはずがない。海外では、保護付面会などの制度が取り入れられているが、どこをどう調べても、十分に機能しているとは言い難い(もちろん、ないよりましであるが、修復に要する期間を考えれば、十分であることは不可能に近いとさえ思える)。子どもの気持と言っても、どこからどこまでが子どもの本当の気持なのかだって、にわかに判定しようのない話である。たとえば、自分の子ども時代を振り返ってみても、周囲が何と言おうと頑として譲れない自分独自の感覚というものもあったと思うし、当時は信じていたけれども、思い返せば周囲の影響だったり、子どもの思い込みだったりしたと思えるものもあるのではないだろうか。

 ドイツでは、今や、2人から2.5人に1人の子どもが親の離婚を経験し、今後はさらにこれが増えるだろうということである。日本でも同様であろう。先月のトピックに書いたが、結婚が制度モデルから関係モデルに変化すると、破局の可能性は高まり、親密な友人やサポート・ネットワークが重要となる。面会交流のシステムは、パートナー関係を制度で縛れなくなるから、親子関係を制度で保証しようという発想だと思うが、それもまた矛盾を孕んだものと言えなくもない。生物学的な父がいて、母がいてという形式が唯一絶対の親子関係というわけではないし、これに不妊治療技術の展開(あえて進歩という語を使わない)による親子関係の複雑化を加えれば、状況はますます迷宮と化す。

 私たちにできることは、そんな問いを開いたまま、子どもや親子関係のありかたの選択肢を増やすことなのではないだろうか。親が別れたら、二度と親子が会えないというわけではない。何らかの援助システムがあれば、子どもにとって親との良い時間が増やせるのなら、それもいいだろう。何より、親が、親として、いったんは自分のことを脇に置いて子どものことを考えられる視点を身につける方が良いし、それには、第三者のちょっとした手助けが役に立つこともある。結論は出ないが、子どもたちにとって緩やかで多様な関係性が保証されるシステムが重要だと思う。私たちのNPO活動であるViプロジェクトは、そんな思いで動いている。研究成果と照らし合わせながら丁寧な実践の蓄積を重ねることで、できる限りよい形で法システムの構築に示唆ができたらいい。

2012.02.27
2012年2月 世界の結婚と家族

 今年の年報の特集は「家族」である。大学院で、新たに「家族心理学」という科目も担当する。震災以降、家族に焦点が当てられ、家族の絆が言われる。家族に絆があればもちろん良いだろうが、絆がないのに、それを強調されると辛いものだ。こういう時だからこそ、あらためて家族を問い直したい。今回は、手始めに、世界の家族を見渡してみよう(宮本・善積編『現代世界の結婚と家族』放送大学テキスト、2008参照)。

 まず、統計的に言えば、どの国でも、平均すると、男性より女性の方が早く結婚する。アフリカ(北部と南部をのぞく)や中央・南部アジアの国々では、15歳〜19歳の女性の30%以上が結婚している。女性の結婚年齢が低い国においては、妻と夫の年齢差が大きい傾向があり、配偶者間に大きな不平等をもたらすことが多いと指摘されている。逆に、女性の平均結婚年齢が最も高い地域はカリブ海地域、北欧、北部アメリカとなっているが、これらの国々では法的手続きを取らないパートナー関係が増加していることをも示している。法的手続きを取らない親密なパートナー関係は、ラテンアメリカ・カリブ海地域では「合意ユニオン」と呼ばれ、教育水準の低い女性や農村部に多く、別れる時に女性が金銭的不利益を被ることが多いという。これだけ見ても、結婚が愛情よりも経済と密接に関係していることがわかる。

 家族とは社会制度であり、時代とともに変化してきた。「愛情によって結ばれた結婚と家族」というイメージは、「近代家族」と呼ばれ、日本においては、第二次世界大戦後に拡がったものである。その根底には、①男女のロマンティック・ラヴに基づく当事者間の結婚の合意 ②一夫一婦婚主義のもとで婚外性関係の排除 ③婚内子の正統性 ④法律婚主義 ⑤性別役割分業 という特徴があり、欧米では、こうした結婚観は、1970年頃から①性別役割分業への批判 ②国家による性関係の管理への批判 ③婚外子差別に対する批判 ④異性愛強制社会への批判 を受けるようになる。かくして、結婚の力点は、制度から関係性へと移行しつつある。結婚が制度モデルから関係モデルに変化すると、パートナー選択の自由度は上がり、対等性やセクシュアリティが重視されるようになる。つまり、パートナー関係は固定的でなく、破局の可能性を常に内包するものとなる。家族の「純粋な関係性」が増すほど、親密な友人やサポート・ネットワークが重要となり、この傾向が強まれば、結婚の意義は弱まっていく。

 このような変化を共有しつつも、結婚行動には文化的特徴がある。アメリカ、韓国は結婚を積極的に評価するが、フランスは結婚にこだわらずパートナーを必要とする。スウェーデンでは、結婚生活に「家事・育児の公平な分担」と「情緒的な結びつき」を重んじ、アメリカ、フランスでは、「性的魅力」「情緒的な結びつき」を、日本や韓国では、「収入」「経済的安定」が求められる。日本や韓国においては、結婚前後の生活に大きなギャップがあり、女性のM字型就労と男性の長時間労働が特徴であり、非婚率が高くなっている。

 ここからはデータに基づかない私の勝手な憶測だが、日本においては、結婚に求めるものの順位として「収入」「経済的安定」が一番に来るとしても、女性たちは、「家事・育児の公平な分担」「性的魅力」「情緒的な結びつき」のどれをも捨ててはいないような気がする。それでいて、欧米と比べると、自立した個としての家族成員というよりは、どこか共同体としての役割分担を求めている。男性はどうなのだろう?結婚は絵に描いた餅となりつつあるのだろうか。結果的に、親元に同居する未婚者が増加している。もちろん結婚しなければならないものでもないが、高齢化した親子が閉鎖系をなしていけば、子育てと一緒で、虐待的な状況が生まれる。中年期を迎えた「ひきこもり」の息子による介護の破たんや、母娘密着型の娘が母親の介護のために仕事をやめて孤立し、追い詰められていくパターンが、極端なケースではあろうが、事件を通じて耳に入ってくるようになった。これでは未来が拓けていかない。

 子どもにとって家族の居心地が良すぎるのも、むしろ問題なのではないだろうか。家族を解放し、ゆるやかな絆を結んでいくこと。そのためには、制度に頼りすぎず、かと言って、家族に「純粋な関係性」を求めすぎない方が良いのかもしれない。家族以外の親密な友人やサポート・ネットワークを大切に。家族はこれからどこへ向かっていくのだろうか。年報の成果を楽しみに。

2012.01.22
2012年1月 イスラムの模様

 スペイン旅行でもっとも心を魅かれたものがイスラム文化であり、なかでも、その模様である。壁、天井、窓枠、庭の石畳にいたるまで、ありとあらゆるところに、繊細で美しい模様が散りばめられている。あまりの美しさに言葉を失った。イスラム文化についての知識はないが、それが何かスピリチュアルな意味を含んだものであることは想像できた。辛うじて思いついたことは、イスラムは偶像崇拝を禁じるために、抽象的でシンボリックな図柄が高度に発達したのだろうということだ。

  帰ってから、少し勉強してみたいと思って調べたが、あまり情報はなく、1冊だけ『イスラム芸術の幾何学〜天井の図形を描く』(ダウド・サットン著、武井摩利訳、創元社)という本を見つけた。さっそく注文したが、小さな絵本のようなきれいなものだった。情報量は少ないが、初心者にはちょうどよくて、まだ十分には理解しきれていないが、とてもわくわくする内容だった。

 この本によれば、宗教美術は、物質を使って霊的世界を表現し、その場を訪れた人々の霊的生活を支え、世界をどう理解すればよいか、世界の背後にある捉えにくい現実をどう把握すればよいかを教えるものである。イスラムのデザインの視覚構造には、アラビア文字のカリグラフィーと抽象的な装飾模様というふたつの面がある。後者、つまり、装飾模様には、さらにふたつの中核要素があり、ひとつは幾何学パターン、もうひとつは理想化された植物模様(アラベスク、唐草、葉、蕾、花など)である。

 幾何学パターンは、もっともシンプルな円から出発する。まず、ひとつの点を思い浮かべて欲しい(文字で説明するのは難しいので、興味があれば、是非、作図してみてください)。点を拡張すると線になる。この線を最初の点のまわりに回転させると円ができる。円は、「一」「単一性」「唯一性」の完璧なシンボルである。この円の円周上の1点を中心にして、最初の円の中心を通る第二の円を描く。できた交点を中心に順々に次の円を描くと、中央の円のまわりに計6個の円が描かれる。これは、コーランに記された天地創造の6日間の理想表現だという。この構造を無限に広げていくと、平面を充填する正六角形のタイリングが作り出される。これ以上の説明は無理なので、関心があれば本を読んで頂くとして、ここに「ソロモンの印章」(6つの角がある星)が現れてくる。

 このように、コンパスと定規を使って、一定の規則に従い、単純なパターンから数限りない複雑な抽象模様ができる。アラベスクのデザインは、幾何学パターンを補完する。アラベスクは、植物のリズムや生長のエッセンスを視覚的に抽出し、原型としての「楽園の庭」を想起させることにあるという。アラベスクモチーフの基本である渦巻は、原初的かつ普遍的なシンボルで、生命およびそのサイクルと結びつき、カリグラフィーとともに用いられたり、空いたスペースが花や葉で埋められたりする。

 一定のパターンを習得すれば、おそらく自分で新たなデザインを創りだすこともできるはずだ。もちろん、宗教性抜きには無意味なのだろうが、それでも、仮に、偶然、美しいデザインを創りだすことに成功したとすれば、そこには深い象徴的意味を見出すことができると言われれば、信じてしまうだろう。アルハンブラ宮殿(グラナダ)やアルカサル宮殿(セビリア)、モロッコで本当にたくさんの美しいタイルや透かし模様を見た。もう少し知識を身につけて、世界中を旅することができたら。異なる他者を理解し、尊敬するところから、平和は始まる。これを機会に、もっとイスラムの人たちのことを知りたいものだと思った。

2011.12.22
2011年12月 コミュニティのレジリエンスを尊重する

 すでに何度も書いてきたが、「東日本・家族応援プロジェクト」を立ち上げ、東北を巡っている。今月は福島に行ってきた。チェルノブイリのトラウマ研究について紹介したが(今月のトピック2011年5月「原発とトラウマ」)、原発の問題は、津波被害とは違って、問題の正体が曖昧模糊としてつかみ難く、災難の始まりと終わりがはっきりしない。しかも、これから先まだ何が起こるかわからない不安を抱え、その影響は、無力感と抑うつであるという。

 福島で漫画展とワークショップをやって、大人も子どもも支援者も、誰も彼もが互いに思いやりあっている姿に胸を打たれると同時に、胸が痛み、これをどのように理解すればよいのか、ずっと考えていた。支援者たちは、陰で苦しみ泣きながら、自分たちが支援すべき子どもや家族には笑顔と安心を与えられるよう、精いっぱい努力していた。親は子どもたちにずっと付き添い、暖かく見守り、子どもたちは子どもたちで、終始ニコニコとよい子にしていた。価値基準や行動選択の違う家族同士も、互いを尊重しあっていた。間違いなく、ケアリング・コミュニティというのがぴったりの光景である。皆が不安な状況だからこそ、肩を寄せ合って温かさを分かち合っているのだろう。

 チェルノブイリの研究では、強制避難によってコミュニティの絆が破壊されたことがもっとも大きなストレスになっていたが、少なくとも、現在、福島で暮らしている人々は、コミュニティの絆を保持していると言える。インドネシア、パキスタン、ソロモン諸島、ケニア、ミャンマーでの自然災害における人々の行動を調査した研究によれば(Ride, A. & Bretherton, D., 2011, "Community Resilience in Natural Disasters, Palgrave Macmillan)、レジリエンス(逆境を跳ね返して生き延びる力)の根源は、生き延びるために、人々が身を守り、互いに助け合い、団結することにあるという。外部からの支援団体はこれを認識し、尊重することから始めるべきで、「命令と統制」による中央集権的な支援はコミュニティの絆を破壊し、格差や差異による構造的暴力を進行させる。

 「災害ユートピア」という言葉がある。阪神淡路大震災のときも、今回も、災害後、日本人がどれほど礼儀正しく互いに助け合っているかが報道で強調されていたが、これは、本当のところ、どんなコミュニティにも見られる現象である(ソルニット, K.『災害ユートピア--なぜそのとき特別な共同体が立ち上るのか』、亜紀書房)。そして、この一時的なユートピアは、国家による救援態勢と管理が進行するとともに消えていくのであるが、秩序がなくなった途端、人は他者とつながりたい、他者を助けたいという欲望に駆られることを示している。経過を知らないので必ずしも自信を持って言うわけではないが、震災後9か月近く経っても、この状態が維持されているのだとしたら、それは逆に、安心できる日常が戻ってきていないことの表れなのかもしれない。

 いったい、この力を今後どのように生かしていけるのだろうか。先の研究では、インタビューをしたさまざまなコミュニティの住民たちは、決して、回復や復興という言葉を使わなかったことを強調していた。彼らはコミュニティを災害前の状態に戻すことを望んでおらず、繰り返し災害の記憶を語り、共有し、コミュニティがそれを生き抜いたことに誇りを持っていた。福島のコミュニティのレジリエンスの行方を見守りながら、原発に責任ある存在としての自分の行動について考えなければならない。一方で、コミュニティから離れ、バラバラになってしまった人々のことが気にかかる。

2011.11.11
2011年11月 物語る力〜遠野の地を訪れて

 9月のトピックにも書いたように、大学の方で「東日本・家族応援プロジェクト」を立ち上げ、今月初め、第二弾として、岩手県遠野市で「東日本・家族応援プロジェクトin遠野」を実施した。遠野は、柳田國男の『遠野物語』の舞台であり、座敷わらしや河童の伝承で知られる小さな街である。

 11月3日、文化の日に遠野入りしたが、たまたま宿と隣接した市民ホールで「遠野文化フォーラム」が開催されていた。せっかくなので参加してみたが、これがとても面白かった。第一部は「子ども語り部」で、小学六年生の女の子6名の語り部が、順番に、「むがす あったずもな」と語り出し、ひとつずつ物語を語って、「どんどはれ」と閉じていく。内容をすべて聴き取れるわけではないが、遠野弁を聴いているだけで耳に心地よい。第二部で『遠野物語』の朗読を披露した林隆三も、子どもたちの語りに気後れしていたほどだ。

 第三部は「遠野文化賞」の表彰式で、遠野小学校の全校表現活動「遠野の里の物語」が表彰された。これは30年に渡って受け継がれ、この秋、東京の国立劇場で開催された「文化による復興支援」シンポジウムにも出演したのだそうだ。映像を見たが、何とも素晴らしく、加えて、児童会長の男の子のスピーチには感動した。イメージとしては、全校生徒が出演するミュージカルなのだが、これが毎年毎年受け継がれ、30年も続いてきたというのだからたいしたものだ。実は、私たちのプロジェクトの「子どもワークショップ」には、遠野小学校の子どもたちがたくさん来てくれ、話を聞かせてもらったが、たとえば、河童の踊りは1年生といった具合に学年でパートが決まっていて、2年生が1年生を教え、2年生は3年生から新しいパートを教わるのだと言う。まさに伝承である。

 宿には水木しげるの漫画『遠野物語』が置いてあったが、何とも奇妙な物語が多い。林隆三が朗読した第99話も、津波で妻と子を亡くした男が、ある夜、妻が他の男と歩いているのを見かけ、後をつけて声をかけると、実はあの世でこの人と夫婦になった、それは、やはり津波で亡くなった男で、結婚前に心を寄せていた男だという。「お前、子どもがかわいくないのか」と男が責めると、妻は泣いて消えてしまったという話だった。オシラサマの話も奇妙な話だ。娘が馬と交わり夫婦になったことを知った父親が怒って馬を殺すと、娘も馬と一緒に天に昇って行ってしまったというのだ。

 水木しげるのコラムによれば、たとえば、座敷わらしは、飢饉の際に生まれてきた子を育てる余裕がなくて、間引いて、土間や台所に埋める風習があったことから、いないはずの子どもが見える話が生まれたのではないかという説もあるそうだ。遠野物語には災難の話が多い。女たちはしばしば山男にさらわれて妻にされ、子どもを次々と生まされて夫に喰われてしまう。思わず「DVか!?」と勘繰ってしまう。もちろん、男たちの災難も多い。時には幸運もふってくる。そう考えると、厳しい東北の地に生き、運命に翻弄され続けた人々が、何とか人生を理解し受け入れようと語り始めたのではないかと思えてくる。

 ふと思い出したことがある。阪神淡路大震災後、ボランティアに通って、避難所にある子どもの遊び場に入っていたことがある。5歳の男の子が大きな尻尾を持つ恐竜の絵を描いた。そして、得意げに話してくれた。「ボクね、どうして地震が起きたのかなって、ずっと考えていたんだよ。それでね、わかったんだ!地面の下に大きな恐竜がいてね、尻尾でドンドンってしたんだよ」。彼は、人智の及ばぬ世界に圧倒されるのでなく、想像力を駆使して、これを彼なりに掌握可能なものにしたのだ。そう言えば、文化フォーラム第四部は山折哲雄の講演「災害と文化」で、科学が自然をコントロールできるのかどうかについて触れられていた。地震学者寺田寅彦が、日本には地震が多く、自然は予測不可能なものであるから「無常観」が形成されたという話である。原発はコントロール幻想ではないかと仄めかされていた。

 私たちのプロジェクトも、「木陰の物語」という家族の物語の漫画展を中核に置いている。他者の物語を知ることで、自分のなかに沈殿していたさまざまな物語が浮上してくる。大きな喪失があったとしても、自分のなかに実はたくさんの物語、すなわち記憶がたくさん残っているのだということに気づくことができれば、それは力になるのではないかという発想がある。6月のトピックには、「復興の物語を創る」を書いた。災難を生き抜くためには物語る力が不可欠だ。私たちのプロジェクトの「支援者支援セミナー」に参加してくださった方の一人が、震災の「傾聴ボランティア」の体験として、「聴き方なんかより、とにかくそれを語られるその方の語りが素晴らしい。ものすごい体験を生き延びられ、語ってくださる、そのことに圧倒される」とおっしゃっていた。私たちも、これから十年、毎年、遠野に通うなかで、人々によって語られる物語の聴き手として、ひそやかに存在し続けることができたらと願う。

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