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トピックス by村本邦子

2010.12.27
2010年12月 「女性国際戦犯法廷」10年を迎えて

 立命館国際言語文化研究所ジェンダー研究会主催で、「バックラッシュ時代の平和構築とジェンダー〜『女性国際戦犯法廷』10年を迎えて」と題するシンポジウムが開催された。第 I 部が「戦時性暴力/日常の性暴力」、第 II 部が「歴史と言説〜『慰安婦』問題と関連して」、そして第III部が「全体討論」から成り、朝から晩まで盛りだくさんの企画だった。

 「女性国際戦犯法廷」とは、ラッセル法廷に倣った市民法廷であり、尹貞玉(韓国挺身隊問題対策協議会)や故・松井やより(元朝日新聞記者、VAWW-NETジャパン) らを中心に、国際的な女性のネットワークによって2000年に東京で実行された。戦争犯罪には時効はないという国際社会の考え方に基づき、アジア太平洋戦争中の性奴隷制など女性に対する戦争犯罪、人道への罪について、軍人や官僚など個人の刑事責任と国家の戦争責任を裁き、戦後日本政府への戦後責任を問うた。ヒロヒト天皇を有罪としたこともあり、日本ではほとんど報じられなかった(NHK放映の改ざんでは裁判となっている)。市民法廷なので法的拘束力をもたないものの、責任の所在を明確にしたことで、被害者の名誉回復の一助になったはずだし、貴重な歴史資料を膨大に掘り起こし記録を残した意味は大きい。当時、私も東京まで傍聴に通い、正義を回復しようと国境を超えて立ち上がった女性たちのつながりに感動したものだ。

 私は第 I 部で南京の取り組みについて報告した。同セッションの報告者たちは、沖縄問題をやっている宮城晴美さん、在日慰安婦裁判を支える会の梁澄子さん、性暴力禁止法をつくろうネットワーク呼びかけ人の鄭暎惠さん。みんな個人的には知らない人たちだったが、話を聞けば、「あ〜、あの・・・」という女性たちだ。皆、何らかの形で90年代から性暴力に関わる運動に関わってきた女性たちであり、彼女たちがどんなに大変なことを数々くぐりぬけてきたかは、自分の体験からも容易に推測できる。どの話も興味深く根底に深い共感を感じるし、そのパワフルな語りと姿にあらためて感銘を受けた。心理臨床家として私は結構タフなつもりでいたが、彼女たちといると、自分はまだまだヤワなんだと思えた。タフとは、感じない鈍感さではなく、深く感じながらも、なおかつしっかりと前を見て立つことのできる強さである。なにより、皆、ユーモアのセンスにたけていて、人生を愛おしんでいることがうかがえる。

 第 II 部はどちらかと言えば、理論的なセッションであったが、どれも自分自身の関心とつながり、考えさせられた。宋連玉さん(青山学院)、イ・ナヨンさん(韓国中央大学社会学)、ヤン・ヒョナさん(ソウル国立大学法学)、岡野八代さん(同志社大学)というメンバーだ。植民地主義とジェンダーというふたつの要因の重なり具合と多次元の支配について考え始めると世界は突然複雑さを増す。現実とは複雑なものなのだ。そして、過去と向き合うことや償いの意味について。2時間にわたるシンポジスト全員が舞台に上がっての討論はいったいどんなことになるのだろうかと途方に暮れる思いだったが、これもなかなか充実しており刺激的だった。今回、どちらかと言えば、理論派フェミニストたちのグループに、心理学的観点がどんなふうに受けとめられるのか、られないのかが気になっていたが、十二分に理解や関心を示してもらったと思う。一人で法廷に通っていた頃の自分と比べれば、大きなつながりのなかに受け入れられてある自分というのは格段の進歩だ。もとより、この問題は孤立しては取り組めないものである。

 そして、10年、女性たちの正義は実ったのだろうか。愛し合う行為は本当はとても素敵なもののはずなのに、なぜそれが最強の武器として用いられてしまうのか。なぜ、人類は愛し合う方法を学ぶより、競い合い支配する方法を学んでしまうのだろう。そう考えるといつも悲しくなる。それでも、10年、女性たちは声を上げ、つながり、行動してきた。前進あるのみだ。

2010.11.19
2010年11月 死を準備する

 夏に友人を亡くした。末期癌でホスピスに入院したと聞いてすぐに駆けつけ、家族の人がおっしゃるには、一番良い状態の日に一緒にひと時を過ごすことができた。お葬式には行けなかった。お葬式は生き残った人たちのためにあると思っているので、せめてご家族にメッセージを届けられたらと思ったが、お花の受け取りはしないとのことで、結局何もすることができなかった。きっと故人の遺志だろう。形式的なことが嫌いな人だったから。それでも、告別式やお別れ会の様子はネット上で公開され、後で個人的に参列することができた。これもきっと故人の遺志だろう。とても楽しそうな心温まるお別れ会だった。

 この秋、昔、お世話になった先生より、パートナーを亡くしたことを聞いた。黄金のひと月を海外で過ごした後だったそうである。こちらはずいぶんご年配だったが、死の準備を重視しており、そんな本を書いたり、活動をされていた。ご自分のお葬式の準備もしっかりとなさっていて、お別れの集い用のCDが送られてきた。音楽とご本人からのお別れのメッセージである。「天国からごあいさつを」と始まり、ご自分の人生を振り返り、残された者たちにメッセージを投げかけるという内容だった。聞いている側にも人生を問い直すことを促すと同時に、ユーモラスな感じがして「なんだかいいなぁ」と思った。

 エジプトやバリの埋葬についてはこれまでも書いてきたが、宗教的文脈のなかでそれぞれの葬儀の形がある。日本では火葬が一般的だが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、儒教などの考え方によれば、火葬はもともとタブーだったようである。昔、「ガンジー」の映画で観たことがあるが、水葬というのもある。バリの小さな村や宮古島などの風葬というのも聞いたことがある。火葬の特徴は即座に遺体をなくしてしまうことなので(どこまで残すかは焼き加減による)、土地の少ないところでは火葬が選ばれやすい。土葬や水葬では遺体が徐々に腐敗していくので、段階を追って消えていくし、ミイラはそれを永遠に保存しようとするものである。社会主義国では過去のリーダーをミイラにして残しているし(宗教を否定するわけだから、これはまったく政治的理由と言える)、即身仏などというのもすごい発想だなと思う。

 私自身は特定の宗教を持たないので(宗教心はあると思っているが)、遺体について格別なこだわりはないが、残された者たちにとってより良い形を選びたいし、それが信じられることが心安らかに死ねることにつながるのだろう。多分に心理学的発想と言えるが、上記に紹介したお二人は、それぞれに信仰を持ち、残された者たちに対するきめ細かな配慮が行き届いた準備をされたことに感心するし、敬意を覚える。

  若い頃、死について考えるのが怖かった。遺体について想像するだけでパニックになりそうだった。もともとは医学部を目指していたが(精神医学をやろうと思って)、人体解剖のことを考えるだけで恐ろしく、文系で心理学が学べることがわかって本当に救われた気がしたものである。それでも、長く生きてくるなかで、だんだんと生のなかに死を受け入れることができるようになってきた。時々は、できれば長く生きたいけれども、途中で途絶えたとしても本望ではないかと思う。それなりに十分に生きてきたし、個としての自分が失われても命は続いていくだろう。エリクソンの世代性や統合の課題が実感される瞬間である。

 一方で、今もなお、考えていると怖くなる時もある。「こんなことを考える自分は近く本当に死ぬんじゃないだろうか」という考えに襲われ、突然、それまでの死についての達観が消えて、生への未練と執着でいっぱいになる。今年は家族でそれぞれの葬式の希望について話し合うなど、少しずつ考え始めてはいる。ボチボチにと思っているが、願わくば準備が整うまでの猶予が欲しいものだ。もしも間に合わなかったら、残された者たちには、おっちょこちょいの私らしいと笑ってもらうしかない。

 死を準備する行為は、残していく者たちと自分とのつながりをあらためて思い起こし、残された自分の命をどのように尽くすのかを心に刻むことと言えるだろう。

  

2010.10.04
2010年10月 多様性のなかの歴史構築

  トロントで歴史教育に関する国際会議に出席した。主催したのは、トロント・アルファというNGOで、第二次世界大戦で起こったアジアでの戦争犯罪を歴史教育に入れる必要性を訴えてきた機関だ。カナダは多民族・多文化の国であり、先住民、フランス系、東欧系・南欧系や中国系、インド系などによって構成され、百をゆうに超える言語が話されている。このような国で、学校の歴史教育をどのように教えるかは、当然ながら、非常に微妙で困難な課題となる。

  ヨーロッパにおいて、ナチ・ホロコーストの歴史は、加害国ドイツと被害諸国との長きにわたる葛藤と共同作業によって一定の共通基盤が作られてきた。ドイツの歴史教科書では、かなりのページがホロコーストに割かれている。ニュルンベルク裁判で有罪となったナチ外務次官の息子であり大統領でもあったヴァイツゼッカーが、二次大戦終結40周年の記念式典において、「過去に目を閉ざす者は結局のところ、現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、また新しい感染の危険への抵抗力を持たないことになるだろう」と演説した国である。とは言え、ドイツにおいても、ここに至るまでには、ヨーロッパ諸国からの圧力と葛藤に満ちた長い道のりがあったのだ。こういった世界情勢を反映して、カナダでも、ホロコーストについては歴史で扱われてきたが、アジアにおける第二次世界大戦の歴史は扱われてこなかった。当然のことであるが、そのことに納得できない中国の移民たちが声を上げたのがトロント・アルファの始まりだった。オンタリオ州で学校教育にアジアにおける第二次世界大戦の歴史が加えられるようになったのは2005年以降である。

 歴史とは国の神話であるという人々がいる。歴史は社会によって構築されるものであるという限りにおいて、たしかにいかようにも構築することができる。ただ、ひとつ言えることは、歴史を共有しない者同士は同じ世界に住めないということである。ここまで発達した情報網や交通機関、科学技術をすっかり放棄して、棲み分けをすることができるのなら、別々の神話を持つものが別々の場所に住むことは可能かもしれない。しかし、そんなことはできない以上、同じ地球に住む者同士が共通の歴史を構築していく努力が必要になる。移民の街トロントで、たまたま道で誰かとぶつかった時、お互いの文化的背景と歴史を紹介しあうとすれば、間違いなく相互理解が困難で、複雑な感情的葛藤が生まれる状況である。だからこそ、ダイバージョンということを掲げた教育が模索されてきた。歴史教育についても同様である。トロントという街は世界のミニチュア版なのだ。

 地球が小さくなればなるほど、共通の基盤を構築しつつ、多様性を尊重しあうという努力が不可欠になるだろう。トロントは先進的にそういう努力をし続けてきた街なのだ。それはまだまだ発展途上であるが、そんな街に敬意を感じるし、大きな魅力と可能性を感じる。決してたやすいことではないが、私たちが本当に多様性を受け入れることができたら、どんなにか人生は深く豊かになることだろう。歴史の問題に取り組みながら、自分自身のなかにも多様な声が存在することに気づく。どの声も排除されることなく耳を傾けられなければならない。それはチャレンジであるが。トロントにいると、小さな勇気が湧いてくる。今回、トロントという街がとても好きになった。

2010.09.27
2010年9月 戦争の痕跡を辿る北海道の旅

 9月21日から24日、学部のゼミ生を連れ、4日間の北海道フィールドワークに行ってきた。北海道フォーラムの人たちの話は、これまでも何度か紹介してきた(今月のトピック「2008年7月市民による和解をめざして」、「2009年6月ドイツの和解に学ぶたび」、「2010年6月撫順の奇跡〜人道主義に基づく加害兵の修復モデル」など)。もとはと言えば、2008年に札幌で開かれた国際シンポジウムで殿平義彦さんの「遺骨を届ける〜強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム」の話を聞いて感動し、すぐに臨床社会学の授業で紹介したところ、それを聞いて同じく感動した学生が中心になって今回のフィールドワークの企画を進め、実現にこぎつけたものだ。もちろん、ドイツや日本の戦争責任と戦後世代については、ことあるごとに伝えてきたので、私のゼミ生たちは全般的に関心を持ってくれていたと思う。世界各地で重い過去に眼を向けながら平和のために活動する人々と若い人たちを出会わせたいという私の夢が実現し、とても嬉しい。総勢10名、大所帯の旅だった。

 初日、千歳空港で皆と落ち合い(時期的に安い飛行機がいっぺんに取れずで、4便に別れて集合)、今回、マイクロバスを調達して4日間ボランティアの運転手を引き受けてくださった(なんとも太っ腹!)空知民衆史講座(http://homepage3.nifty.com/sorachi/)のYさんの運転で北大へ。北大では小田博志さんが迎えてくださって、クラーク食堂でスープカレーを食べた後、「撫順の奇跡を受け継ぐ会北海道支部」のお世話もあって、中帰連元副会長の大河原孝一さんのお話を聴かせて頂いた。岩見沢に生まれた少年がどんなふうに戦地へ赴くことになり、どんなふうに人を殺し、撫順の戦犯管理所でどんなふうに変化していったかという話である。私にとって印象的だったのは、当時、自分がいかに「素直」で、先生や偉い人たちに言われるままを受け入れていたかという話、人を殺すというのはどういうことなのかという話だ。今でも素直な子は良い子と言われるけれども、素直なのは決して美徳ではなく、批判的視点や自律的思考を身につけることがどんなに重要か、教育の役割を再認識させられる。また、大河原さんが、自分には子どもがおり、孫もいるが、自分が殺した中国人にはそれがなくなった、自分がすべての可能性を消してしまったと語るのを聞き、殺したことの意味を抱えて生きることはどんなに重いことだろうかと苦しくなる。残念ながら時間の関係で十分に聴き尽くすことは適わなかったが、若者たちにも多くを投げかけたようだ。

 その日のうちに高速で5時間、幌加内ルオント温泉経由で、朱鞠内にある光顕寺の庫裏(くり)に宿泊する。一部の学生たちは近くのロッジへ。「笹の墓標展示館」館長さんの田中さん、殿平さん、小野寺さんが合流してくださる。2日目、まるで別荘地のように雄大な大自然の中にあるお庭にテーブルと椅子を並べ、差し入れのMOMO牧場の牛乳とヨーグルト、バタートーストにゆで卵、北海道特産ソーセージ、フルーツなどを学生たちに食べさせ、フィールドワークへ。

 朱鞠内湖は戦時中に作られた国内最大の人造湖で、雨竜ダムと呼ばれる。1938年から43年まで王子製紙の資本で作られ屋水力発電用のダムで、工事は飛鳥組が請け負った。北海道入植時の過酷な囚人労働の流れを汲む「タコ部屋」労働者を中心に、数千人の日本人労働者と少なくとも三千人の朝鮮人労働者が動員され、多くの犠牲者を出した。1976年、殿平さんが偶然、光顕寺に引き取り手のない位牌と出会ったところから、「空知民衆史講座」が生まれ、朱鞠内の笹藪の下で埋められたままになっている犠牲者の遺骨発掘作業が始まる。役場に保存されている「埋火葬認許証」と光顕寺の「過去帖」などの調査から、ダム工事と共に行われた鉄道工事を合わせて214人の犠牲者があったことが確かめられている(殿平義彦「遺骨と出会う〜強制連行犠牲者と足もとの戦後」『春秋』2010.8.9号参照)。証言によれば、過酷な労働や虐待による犠牲者の遺体は濡れたまま次々と光顕寺に運び込まれ、本堂の畳は腐って床が抜けたという。遺骨発掘は、 その後、東アジア共同ワークショップとして、韓国人、在日韓国・朝鮮人、日本人などの若者たちによって現在に至るまで続けられている。犠牲者の身元を調べ、遺骨を遺族のもとへ届けることもやってこられた。

 犠牲者のお墓や笹の墓標展示館にある遺骨を前に黙祷するが、胸の奥底から哀しみなのか怒りなのか、何とも名づけようのない熱い感情が湧きあがってきて泣きたくなる。南京に行った時と似た感情だと思う。知らないだけで、実は自分たちの足元にはたくさんの人々の犠牲が今現在も生のまま残されており、私たちはその上で育ち生きてきたのだ。戦争加害の責任は決して過去のものではなく、自分たちと無関係ではない。

 お昼は、そば打ち職人がやってきて、手打ちそばを頂いた。なんと贅沢なこと。田中さん、殿平さんのお話を聞いた後、夕方は、朱鞠内湖でカヌー遊びをし、夜は、ジンギスカンを食べ、日向温泉へ。食事やお風呂に出かけることで、地元の人々と触れ合い、お話を聴かせてもらう貴重な機会を得る。3日目は出し巻き卵を焼いて和食。簡単なものだが、みんなで賑やかに食べるとやけにおいしい。このあたりは「きのこ」が豊富に採れるとのことで、私はきのこ鍋を楽しみにしていたのだが、今年は暑かったためにきのこが出ないという。とりあえず、殿平さんと一緒に、朝、周辺を探してみるが、やっぱり見つからず、残念。それにしても広大な土地だ。この土地は、森村誠一が、ここを舞台に『笹の墓標』を書いて、その印税を寄付して購入したものらしい。この土地があることで、共同ワークショップをはじめとした出会いの場が生まれてきたのだ。場があることで何かが始まるということがある。感謝を込めて、森村誠一の本も読んでみよう。

 ちょうどこの日、アイヌの聖地である旭川の神居古潭でアイヌの文化を伝える「こたんまつり」があると誘って頂き、旭川へ移動。その昔、多くの舟が神居古潭の激しい激流に飲み込まれていったことから、人々の安全を祈願するセレモニーが行われていたそうで、今なお、年に1度、この伝統儀式「カムイノミ・イナウ式」が行われている。伝統楽器ムックリの演奏や踊り、アイヌの衣装を着て、アイヌのティータイムを経験するなどのお楽しみもあった。見慣れぬグループが積極的にお祭りを楽しんでいるものだから、すごく目立っていたらしく、会場で紹介されたり、マスコミの取材を受けたりした。都会から来た若い人たちがアイヌの歴史に関心を示し、伝えてくれることをとても喜んでくださっているようで、たくさんの方が暖かく話しかけてくれた。

 ご招待くださった塚田さんに「蜂屋」に連れて行ってもらい、旭川ラーメンを食べた後、東川の発掘現場に案内して頂く。殿平さんたちの活動に触発されて、3年前から江卸発電所・忠別川遊水地の朝鮮人強制連行・動員の歴史を掘る活動をなさっているそうだ。どうやら北海道では地域の歴史を掘り起こす運動が盛んなようで、感銘を受ける。ドイツの小さな村にもそんなエピソードがたくさんあったが、自分たちの町の歴史を掘り起こそうという運動は素晴らしいと思う。彼らの働きがなければ、すべては葬り去られていた歴史なのだ。

 その後、川村力子トアイヌ記念館へ行き、まつりでセレモニーを取り行った川村さん直々に案内して頂く。ここは、上川地方アイヌを代表する旧家川村家第八代目川村カ子ト氏がアイヌ民族文化を伝承するために私財を投じて建設した北海道最古の資料館だそうだ。長い抑圧と搾取の歴史の延長線上に強制連行・強制労働があるわけだ。その夜は、学生たちは旭川のキャンプ村へ、私とYさんは宿に泊まり、最終日は旭山動物園と美瑛へ。旭山動物園は初めてだったが、たしかに工夫された展示で、自然に対する人間の傲慢を戒めてもある。

 今回の旅では、本当にたくさんの北海道の方々のご厚意に支えられた。学生たちには、先輩方の好意をありがたく感謝しながら受け取ること、それをしっかりと受けとめて、自分なりの仕方でいいから社会に還元していくこと、そのことを通じて先輩方にお返しすることができることを学んでほしい。上の世代にとって、若者たちは希望なのだから。これから学生たちがお世話になった方々へのお礼状や報告書を作成する。最後の夜は学生同士で大いに語り合ったようだが、この旅で彼らが何を受け取り、何を考え、何を表現するのか、興味津津である。

2010.08.20
2010年8月 エジプトの神々

エジプトへ行って、一番驚いたことは、古代エジプト人たちが、死後の世界にどれほど多くのエネルギーを注いで生きていたかということだ。そう言えば、バリの人たちも、一生、懸命に働いてお金を貯め、葬儀に莫大な費用をかけるのだという話を思い出した(2007年8月のトピック「バリの火葬」ガベン参照)。死後の生を信じない人々にとっては馬鹿げた話だろう。死後のことより、「今、この時」を充実させるように生きるべきだと考えるかもしれない。

現存するパピルスの中に『生活に疲れた者の魂との対話』と呼ばれる文書がある。すっかり厭世的になった男が、悪がはびこる現生には価値はない、来生だけが救いをもたらしてくれると主張するのに対して、彼自身の魂が、人間の生命力の担い手として、これに反対し、生きることの価値を主張するという内容らしい。考えてみれば、古代エジプト人たちは、死んでもまた生き返って、同じように生活できるようにと、あらゆる努力を重ねていたわけだから、必ずしも現世を否定していたわけではない。緻密なミイラの作成法は研究と試行錯誤の結果であり、それは成功して、今なお遺体が保存されているわけだが、イヌや鳥などペットまで、ミイラとして見事に保存されていることに驚く。正確に言えば、古代エジプト人たちがエネルギーを注いでいたのは、「蘇り」なのだろう。それは、神話にも見て取れる。

ヒッタイトは、「エジプトには千の神がいる」と書き残したが、ミイラの棺や神殿には多種多様な神々が描かれている。なかでも心惹かれるのは、やはり女神たちだ。オシリスの妻でホルスの母であるイシス、太陽円盤を持つ牛の女神ハトホル、ネコの頭を持つバステト、死者の守護神で翼を持つイシスの妹ネフティス、天界の女神ヌゥト、宇宙の秩序を司るマアト・・・。ここでは、イシスとヌゥトについて紹介してみたい。

原祖の神アトゥムは、空気や大気の神シュウとともに天界の女神ヌゥトと大地の神ゲブを創造した。ヌゥトとゲブの間には、オシリス、ハロエリス、セト、イシス、ネフティスが生まれ、オシリスはイシスを、セトはネフティスを娶った。オシリスは地上の王となって善政を行い、エジプトの人々に敬われていたが、それを妬んだ弟セトが陰謀を企み、オシリスを箱に閉じ込め、ナイル川に投げ込んで殺してしまう。嘆き悲しんだイシスは夫の遺体を探し当て、祈りによって彼を蘇らせた。そして、息子ホルスを産む。セトはまたしてもオシリスを14に切り刻んでナイル川にばらまく。イシスは、その断片をひとつひとつ探し出し、つなぎ合わせて、再度、オシリスを蘇らせた。以来、オシリスは冥界の王となった。この後は、王位継承を争うセトとホルスの戦いになるが、イシスは、息子をも同様に蘇らせている。

イシスの母親にあたる天界の神ヌゥトは、体が天空を形作る裸の女性の姿で表現され、この体の中を太陽が航行する。ヌゥトは、夕方、太陽を飲み込み、朝これを生み出す。ラムセス六世王墓には、天の女神ヌゥトに生み出された太陽が天空を東から西に進み、夕方、女神に飲み込まれるまでを描いた「昼の書」と、飲み込まれた太陽が女神の体内を東に向かって進み、再び生み出されるまでを描いた「夜の書」が描かれており、宇宙と一体になった当時の宗教観を表している。これがとても魅力的な図なので、「夜の書」を描いた小さいパピルスを買ってみたが、次回は、ぜひ「昼の書」も買ってみたい。女神たちの物語には、死と再生、命の循環、つまりはライフサイクルが中心的なテーマになっているように感じられる。

フロイトの最後の著作『モーセと一神教』(拙著『援助者のためのフロイト入門』三学出版参照)には、エジプトが世界帝国になる頃(紀元前14世紀)、一時的に、太陽神崇拝のアートン教が一神教として確立されたことを説明している。絶対権力を持つ若い王アメンホーテプIV世は、魔術的思考の誘惑に対抗し、伝統的な死後の生命という幻想を切り捨て、太陽光線を神の力の象徴として崇拝し、創造の歓びとマート(真理と正義)に生きることを誇りとするアートン教を国教とした。これは王の死とともに忘れ去られるが、フロイトの仮説によれば、王の身辺にいたモーセを介して、ここからユダヤ教が成立し、結果として、キリスト教も誕生したのだ(フロイトの説は歴史学的に否定されており、むしろ、彼の神話と捉えるべきだろう)。

死と再生、多神教と一神教、父権支配と女性について考えてみたいテーマがいろいろある。学生時代、ユングの著作に没頭していたが、そのなかにはこれらのテーマがふんだんに散りばめられていた。ルクソールでは、ナイル側の東岸から、死者の国である西岸(王家の谷を初め、たくさんの墓がある)に沈む夕日を眺めながら、自分も人生後半に入るにあたって、そろそろ、あの世のことを考え始めるのも悪くないだろうと思った。今のところ、まだとりとめもない次元だが、もう少し学びを深めてみたい。
 

2010.07.26
2010年7月 傷ついた男たち〜「ラースとその彼女」から

立命館の朱雀キャンパスで、公開講座「シネマで学ぶ人間と社会の現在シリーズ5:ひとりだけどひとりじゃない、虚構というリアル」を開催中である。映画上映と講師のトーク。7月は「ラースとその彼女」で、中村正さんと私とで対談をした。

中村さんによれば、「傷ついた男」というテーマは男性学においてもなかなか上がってこないのだと言う。「へぇ、そうなのか」と初めて知った。男らしさは無敵の強さなのだから、考えてみればそうなのかもしれないけれど、それならなおのことテーマになってもいいような気がする。とは言え、私から見れば、男たちは傷ついている。ダラダラ血を流しながら、自分の怪我に無頓着なだけだ。そんなふうに育てられてきたから。このシリーズの1本目で扱った「空気人形」でもそんな男たちの姿が辛かった。空気人形が痛々しいのは間違いないが、その向こうに男たちの哀しさが透けて見える。

自分の子どもを産むために妻を死なせてしまった男は、どのような気持ちを抱えて生き続けるのだろう?成長していく子どもの中に妻を見るのか、自分を見るのか?そして、そんな父親に育てられた子どもは、どんな自己像を作り上げていくのだろう?

ラースは小さな田舎町に住む27歳。毎日、きちんと仕事をし、日曜には教会に通い、町の人々に挨拶をする。親切で礼儀正しい青年なのだが、実は、誰とも近づかないよう心を閉ざし一人で生きている。隣に住む兄夫婦には間もなく子どもが生まれるのだが、不安をかき立てられるラースはますます無口に遠ざかり、義姉は心配でたまらない。強引に接近してくるこの義姉に追い詰められる形で、ラースは「妄想」の世界に入り、ビアンカという名前のリアルドール(いわゆる「ダッチワイフ」)を彼女だと信じ込む。驚いた兄夫婦は心理学者でもある医者に相談するが、最終的には、彼の世界を受け入れるしかないことを果敢にも受け入れ、町の人々の理解を求め行動する。

こうして、ビアンカを介在させる形で、ラースは少しずつ街の人々と関わりを持つようになる。おそらくは自分の存在を罪だと感じてきたラースにとって、他者に何かを期待したり、欲望したりすることは許されないことだったのだろう。ビアンカの存在によって、初めて、自分の感情を受け入れ、表現し、他者と交わることができるようになる。義姉とラースが言い争う場面は感動的だ。ぶつかることができなければ、交わることもない。現代の若者たちが苦手とするものでもある。

この作品のおもしろさは、こんなふうに傷ついた男の生き直しが、カウンセリングルームのような閉ざされた空間ではなく、街という拡がりゆく空間のなかで繰り広げられることで、他者からの影響を受け、当人の意図せぬ結末へとたどり着くところにある。それは、ラースの生き直しにとどまらず、同じく傷を負っていた兄であるとか、街の人々の生き直しにもつながるものである。一見幸せな家庭を築きつつあるように見える兄だって、実際には深く傷ついていたのだ。母を亡くし、同時に、精神的には父をも失い、自分を守るために弟を見捨てた自分・・・。「大人になるってどういうこと?」という率直なラースの問いかけに応えるなかで、兄はラースに謝るチャンスを与えられてもいる。だからこそ、彼は、ビアンカの葬式の場面で「弟を見直したよ」と語るのだ。

ラースの回復の物語を推し進めるのは、女たちの力だ。それは、従来どおりの物わかりの良い受容的なケアではない。ある意味で、もっとアグレッシブで、アサーティブな女たちのパワーだ。単に敵対的であったり、告発的であったりするものでもない。自己抑制的で繊細な男と、ユーモアに満ち、主体的な、力強い女たちによって、新しい関係性が開けていくといい。
 

2010.06.24
2010年6月 撫順の奇跡〜人道主義に基づく加害兵の修復モデル

 敗戦後、中華人民共和国が建国された翌年の1950年、5年間にわたる過酷なシベリア抑留に続き、969人の日本人が中国戦犯として中国に引き渡され、撫順(中国遼寧省)にある戦犯管理所に拘禁された。戦犯たちは厳罰を覚悟していたが、そこには、周恩来の「戦犯とても人間である。その人格を尊重せよ」「ひとりの死者も出してはならない」という人道主義政策に基づき、強制労働がないばかりか、食事、運動、文化、学習などあらゆる面での保障があった。そこで6年の歳月をかけて反省と謝罪を行う機会が与えられ、1956年から軍事法廷が始まった。45名の受刑者を除く収容者は起訴を免除され、1956年に帰国した。死刑はゼロだった。最後の受刑者も1964年には帰国している。

 帰国後、彼らは、1957年に中帰連(中国帰還者連絡会)を結成し、証言活動を行ってきた。2000年に公開された証言映画「日本鬼子(リーベンクイズ)」や国際女性戦犯法廷で、私も彼らの証言を聞いたが、自らが犯した残虐な犯罪を告白し、懺悔するという行為がどれほど困難であるかは想像に難くない。DVやセクハラなどの加害者修復に関わるなかで、悪にはある一線を越えると引き戻せないラインがあって、あとはただただ自分のしたことを正当化するほかないという印象を持っている。戦時中、日本軍の兵士たちは、イニシエーションとして、まずは生きた人を殺すという行為が強いられたが、この一線を強制的に越えさせることによって、「鬼子」として突き進むしかない状態が作り出されたのだと考えている。中帰連の人たちは、一線を越えた後で、引き返そうと努力し続けた人たちである。なぜ、このようなことが可能だったのか。

 半世紀を経て、中帰連のメンバーは高齢化し、その多くが亡くなっていくなかで、2002年、中帰連は解散、その精神から学び、未来へつなげようとする若い世代が「撫順の奇跡を受け継ぐ会」を発足させ、全国で活動を続けている。撫順戦犯管理所は、今年の6月20日にリニューアル・オープンされ、「受け継ぐ会」によってツアーが企画された。残念ながら私は行くことができなかったが、参加した小田博志さん(北海道大学)を研究会に招き、話を聞く機会を得た。

 小田さんは文化人類学者で、これまでおもにドイツにおける市民レベルの和解について研究してきた人だが、彼に言わせれば、このように加害兵が自ら罪を告白し、悔い改めるという前例は世界でも稀ではないかという。ドイツは戦犯を時効なく処罰するという方針を取ったため、加害兵が罪を告白することは難しかった。南アフリカの真実和解委員会では、加害者が事実を供述すれば恩赦するという方針を取ったため、罪の告白はなされたが、心理的次元での変化は起こらなかったのではないか。アメリカの元米海兵隊員アラン・ネルソンさんは例外だが、個別例はあったとしても、このように大規模に反省が行われたのは他に例を見ないのではないかという。

 しかも、撫順戦犯管理所では、管理所職員たちと収容者たちとの間に深い友情が生まれている。職員たちは、自分たちの肉親や友人たちを日本軍の兵士に殺され、当然ながら、最初は憎しみと復讐心でいっぱいだったが、「あと二十年したらわかる」という周恩来に説得され、戦犯を人道的に扱うという苦しい努力を続けた。たとえば、自分の担当する戦犯が自分の父親を目前で虐殺した仇だったことを知ったある若い職員は、悩んだ挙句、転勤希望を出すが、「今、君が日本人たちを見捨てるなら、彼らはきっとまた新たな侵略者を続く世代に生み出すに違いない。これでは、第二、第三の君の父を失うことになる」と説得され、仇を援助し続けた。そして、彼らは、「あと二十年したらわかる」という予言が正しかったことを知るのである。四半世紀を過ぎた1984年になってようやく再会がかなった時、彼らは、熱烈に抱き合い、涙を流して喜び合ったという。まさに奇跡である。

 「殺人をするには、相手の人間性を否定し、自分の人間性をも捨てていかなければならない。殺した相手がモノではなく人だったことを理解していくプロセスこそ、自分の人間性を回復することに他ならない」と小田さんは言っていた。なるほどそうだ。そして、人間性を取り戻していくには、自分自身が人間として扱われなければならない。加害者の修復は加害者だけで成しえないのではないか。戦犯管理所の人道主義は、それまで日本軍によって人間性を否定されてきたあり方を根底から修復しようとするものだった。ふと、人間性を否定されたまま帰国し、過去にふたをして働き続けた多くの日本人男性たちは、その後、いったいどのような人生を送ったのかという疑問がよぎる。

 撫順で起こった奇跡を人類の遺産として受け継ぎ、普遍化していかなければならないのではないかということを確認しあって、研究会を終えた。いつか撫順へも行ってみたい。

2010.05.27
2010年5月 カップルの関係と社会的ネットワーク

なんとなくネットワーク論を見ているが、ちょっと面白いものが眼にとまった。ずいぶん古い論文だが、エジザベス・ボット(1955)の「都市の家族〜夫婦役割と社会的ネットワーク」である(野沢慎司編・監訳『リーディングス・ネットワーク論〜家族・コミュニティ・社会関係資本』所収)。「ネットワーク」という用語の意味は、組織化された集団は、共通の目的、相互依存的な諸役割、独自の下位文化を持つ大きな全体のなかに個人が位置づけられるのに対して、集団の構成要素となる個人の一部のみが相互に社会関係を持っていることを指す。

この研究の結論を言ってしまえば、明確に性別役割分担を行っているカップルは、家族の外に高度に結合した社会的ネットワークを持っているのに対して、夫婦共同で家族を運営しているカップルは、分散したネットワークを持っているということである。男女の性別役割を前提としたカップルは、男には男の世界が、女には女の世界があると考えており、家族外で、男同士、女同士の密接な関係を結ぶ。友人・近隣・親類・同僚といった複数の役割が一人の人に重複しており、母と娘の絆は強く、女性同士の関係は濃密でサポートを提供しあっていた。逆に、性別役割を超えた夫婦では、近隣や親族とのネットワークは希薄で、夫婦共通の趣味や友人関係を持ち、ともに時間を共有し、夫婦の絆が強い。興味深いのは、性別役割分担型のカップルでは、セックスが重要な意味を持たず、共同役割型のカップルでは、セックス面でうまくいっていることが幸福のためにきわめて重要だった。

都市型家族は、相互につながりのない専門的に機能を果たす多数の機関との関係ネットワークのなかに存在しており、閉鎖的コミュニティの家族に比べると、高度に個化した存在だった。そのため、高度のプライバシーや自律性を持っており、自分たちの問題を自分たちで統御しやすい状況に置かれている。これは、現代の日本社会においても志向されているものだろう。あまりに単純化した物言いかもしれないけれども、これは、カップル関係に集中してたくさんのものを求め、それ以外のものとは機能的に関わるという印象を受ける。たしかに一理あるような気もする。つまり、生活や関心の多くをカップルで共有することと、家族の外に濃密な関わりを多く持つこととは、時間やエネルギーの配分から言って、相矛盾するわけだから。もちろん、このふたつのタイプの中間に、さまざまなバランスがあるわけだが、こう考えると、カップル至上主義には大きなリスクがあるようだ。 他方、DVカップルでは、性別役割分担と夫婦間でアンバランスな社会的ネットワークの持ち方があるということになるだろうか。もちろん、経済的アンバランスもある。

カップル関係の持ち方と、その他の社会的関係の持ち方に関連性があるとは、考えてみれば当たり前とも言えるけれど、意識してみるとおもしろいかもしれない。人は、ある程度まで、緊密に結合したネットワークのなかに生きる方が、足場は安定するような気がする。別の言葉で表せば、「コミュニティ」である。男女役割分担から自由なコミュニティのあり方を考えることは、ある種、チャレンジと言えるわけだ。

2010.04.24
2010年4月 リチャード・ガードナーと子どもの視点

リチャード・ガードナーという小児精神科医がいる。私の大好きな一人だ。と言っても、一度もお目にかかる機会もなく逝ってしまわれたが。彼のことを最初に見たのは、JIP(日本心理療法研究所)のAPA心理療法ビデオシリーズ I の第二巻「行為障害の子供とのゲームとお話を使った心理療法」だ。大きな嘘で周囲を振り回す行為障害の女の子(実は乳幼児期に母親に見捨てられた辛い体験を持つ)の事例を扱ったものだが、この手の子どもたちは自己洞察力が乏しく、困難に取り組もうとする動機が弱いので、心理療法に乗せるのが難しい。ガードナーは、ゲームを通して、物語、メタファー、寓話などの形で子どもに積極的なメッセージを伝えていく。徹底的に子どもの視点に立ち、運命に翻弄されがちな子どもがしっかりと自分の足で立てるよう、子どもの力を信頼して応援する彼の姿勢に感銘を受け、当時、私は、著書を数冊手に入れた。そのうち、『パパとママの離婚』や『シングル・ペアレント・ファミリー』は日本語にも訳されている。『ステップファミリーの子どもたちへ』を是非訳したいと出版社に掛け合ったが、どうも死後の著作権の状態が複雑らしく、残念ながらうまくいかなかった。

ところが、昨年、たまたまDVを扱ったアメリカのドキュメンタリーで、ガードナーが目の敵にされているのを見た。確かに、彼は両親の離婚による監護権争いが子どもに与える悪影響について書いた本を出版している。なぜ彼が悪者扱いされているのか不審に思いながら、そのままになっていたが、つい最近、研究チームで一緒の佐々木健さんから、「ドイツ法における親子の交流と子の意思〜PAS(片親疎外症候群)と子の福祉の観点から」(『立命館法学』第327・328号、2010)という抜刷をもらい、事情がよくわかった。つまり、彼の理論は、DVや虐待加害者側によって、暴力を振るう父親を子どもから引き離すことはPAS(片親疎外症候群)を作るから問題だという理論として利用されてきたのだ。アメリカ法は、現在、PAS理論が科学的正当性と信頼性を欠くと否定しているらしいが、そもそも本人の意図と違う形でその理論を利用していること自体がおかしいのに、ガードナーを悪者にするとは、何だかとても不愉快な気分だ。「フォルス・メモリー」の理論もそうだが、法律家たちは、時々、まったく文脈を無視して、理論のみを利用しこねくり回す傾向があるような気がする。

ガードナーの名誉のために、『シングル・ペアレント・ファミリー』(北大路書房)から私の好きな明言をいくらか紹介したい。親の離婚に直面した子どもたちへのメッセージである。

○家族の愛について

ほとんどの両親は、結婚しようと決めたころは、ふつう、とても愛し合っています。その時に、相手に腹を立てていたり、相手を愛していなかったり、にくんでいたりするようなことはめったにありません。だけど、そのような気持ちも、ほんの少しですがたしかにあります。・・・次のことは、とてもたいせつなことですから覚えていてくださいね。人を愛する気持ちは、愛情だけで成り立っているのではありません。そのなかには、いつも、怒りや、時には、にくしみまでもまじり合っているのです。これは、二人の人間が、結婚したいと思うほど深く愛し合っている時でもあてはまることです。・・・ふつう、親の子どもに対する愛情は夫婦の愛情よりも強いものです。ほとんとの親は、一生わが子を愛し続けます。・・・両親がたとえ相手をきらい、憎み合っているとしても、子どもがお父さんとお母さんの両方を愛することは、少しもわるいことではないということです。・・・悲しいことですが、わが子を愛さない親もときどきいます。でも幸いなことに、そのような親は多くありません。両親が離婚し、どちらかの親が子供を置き去りにしたとしても、子どもにはもうひとりの親が残っています。(5-12頁)

○離婚に対する感情を表わす

「恋人からさよならの手紙が届いたなら、思い切り泣きなさい。そうすればこころが張れるはず」この歌詞はとてもかしこいアドバイスをしていると思います。というのは、思い切り泣けば、気持ちが軽くなるからです。・・・感情を適度に表わすのはよいことです。でも、これは感情のすべてを時も場所も選ばずに外に出してよいということではありません。怒りを表わすことは、なやみを取り除くのに役立つし、問題をなくす助けとなるかもしれません。でも、むちゃくちゃにおこったり、大声をあげたりするのはいきすぎです。それでは何も得るところはありません。・・・悲しみについても同じです。泣きたいだけ泣くこと。それが一番です。そうすれば気持ちが軽くなります。でも、いつもみじめな気持でいたり、悲しみにくれて、学校の勉強や友達との遊びや家の手伝いなどができないほどだったら、悲しみすぎです。それでは、あなたの気持ちは軽くなるどころか、ますます苦しくなってしまうでしょう。(27-31頁)

○親のデート

お母さんの男友だちがとまる時、子どもがあまり腹を立てないためには、次のことも役立ちます。もっとわかち合うことを学べばいいのです。ほかの人とうまくやっていこうと思うなら、わかち合うことがたいせつです。・・・わたしがいままでお話ししてきたのは、特定のたいせつな男性だけをとめるお母さんのことです。けれどもなかには、その男性をよく知っているかどうかにかかわらず、家にとまるようにさそうお母さんもいます。・・・こんな場合、子どもが腹を立てるのはもっともだと思います。・・・もし、あなたのお母さんがそんな人なら、あなたがどんな気持ちでいるかをはっきりお母さんに言ってみてください。ぜひともね。・・・そうすることで、お母さんのおこないは改まるかもしれません。だけど、そうでないお母さんたちもいます。でも、少なくとも、あなたは自分にできるだけの努力をしたことになります。・・・お母さんの気持ちが変わらないとしたら、あなたにできることはもうほとんどありません。あなたにできることは、自分の好きなことをしたり、友だちと遊んだりすることにもっと時間をかけること。それだけでも、あなたの悲しみや怒りはずいぶんやわらぐはずです。また、ぜひとも覚えておいてほしいことは、大きくなるにつれて、あなたが家から離れてすごす時間もふえるということ。・・・やがて、あなたもおとなになり家を出ることができるでしょう。その時こそ、あなたはこのようなことに心をわずらわされずにくらせるようになるのです。(95-99頁)

○覚えておきたいたいせつなこと

・・・必要なのは、別れる前でもあとでも、よいこともあればわるいこともあったのだということをしっかりと思いだすことです。離婚前がすばらしかったわけでもなければ、離婚後もよいことばかりではなさそうです。どちらの場合も、よいこともあればわるいこともあるし、両親がわかれようとわかれまいと、あらゆる人にとって人生とはそういうものなのです。たいせつなのは、今のあなたにできることを心から楽しむこと、すぎてしまったことをあれこれ考えて時間をむだに使わないことです。ありもしなかったことなのに、あのころは本当によかったと考えるのはおやめなさい。また、たとえ本当にあったことでも、わるいことを思い出して、クヨクヨ考え時間をむだ使いするのもやめましょう。過去を変えることはできません。でも、未来をよりよくするために、今、何かをすることはできます。(103-105頁)

○未婚の母親

未婚のままで妊娠し子どもを産もうとする女性は、ふつう、勇かんで心がやさしい人だということをあなたにもわかってほしいものです。ざんねんながら、むかしもいまも、こういう女性はふしだらと考える人がいます。こんな人たちは、こういう女性を尊敬しようとしません。軽べつしたり、悪口を言うかもしれません。こんな女性は、だらしなくて罪深い人間だと考える人もいます。私はそうは思いません。・・・自分の体の中で赤ちゃんを成長させたいと願うこと、そして子どもを育てることは、世の中で最も美しいことのひとつです。これをはずかしいと思う必要などないとわたしは考えます。(148-153頁)

詳しく紹介しすぎて、著者や訳者や出版社から怒られるかしら!? まだまだあるが、是非、本を買って読んでみて欲しい。子どもへ向けてのメッセージだが、悩める大人にも十二分に役に立つ。すべての子どもたちが恵まれて幸福であって欲しいけれど、現実は必ずしもそんなに甘くない。タフな現実を背負って生きざるを得ない子どもたちのために、胸を痛めつつ、一人ひとりの子どもたちの力を信じて暖かく応援し続ける姿勢、私は、これが本当に好きなのだ。

2010.03.03
2010年3月 「ナヌムの家」のこと

「ナヌムの家」へ行ってきた。ナヌムとは、ハングルで「分かち合い」という意味で、「慰安婦」被害の生存者たちが一緒に生活しているところである。1992年に開設され、現在はソウル郊外にある京幾道広州市にあり、ハルモニたちが暮らす高齢者居住福祉施設と仏堂(交流の場や宿泊所としても使われている)、そして、隣接する「日本軍『慰安婦』歴史館」(98年開館)から成る。常駐スタッフ、長期・短期滞在ボランティアのほか、毎日のように、たくさんの学習グループやボランティア・グループが集まってきて、国際交流の場ともなっている。

戦争加害・被害の問題を心理化して語ることには問題があると思うが、臨床心理学的な視点から見ると、一種の「コミュニティ型回復支援モデル」と言うことができる。必ずしも、人為的な治療プログラムのようなものがあるわけではないが、生活プロセスのなかに、人々との語らいや表現の積み重ねがある。

興味深いのは、ハルモニたちの絵だ。ナヌムができて間もない頃、ハルモニたちが学校教育をろくに受けられなかったために、実は読み書きができないことがわかり、ボランティアを募って識字教室を始めたが、同時に、画家のボランティアが絵画教室を始めたのだという。そのなかで、3名のハルモニたちが絵画での表現に没頭するようになり、たくさんの芸術作品が生まれた。それらは歴史館に展示されているのだが、どれも味わい深く胸を打つ表現となっている。

たとえば、金順徳ハルモニの作品には、のどかで平和な幼い頃の田園風景が多いが、それだけに、そこから引き離される瞬間を描いた「連れていかれる」という作品には、胸が締め付けられる。そして、「出会い」は、長い間、一人ぼっちで闇を抱えて生きていた時代から、「一人ではない」という希望の光がさした瞬間を描いたものなのだろうと感じられる。ここでも、アートセラピーが意図されているわけではないが、表現と共有、芸術作品としての超越が感じとれる。

また、「ピースロード」という年2回開催されている若者向けの平和教育プログラムのビデオも見せてもらったが、日韓の若者たちが一緒になって学び、議論し、生活を共にするなかで、ハルモニたちの話を聞いたり、一緒に歌ったり踊ったりして楽しむ様子があり、こうして、体を動かすことで、哀しみや怒りや恨みを停滞させず、外へ向けて発信するエネルギーに転換していくこともできるのだろうと思った。何より、若者たちが国や文化を越え、一緒になって、過酷な運命を生き延びてきてくれたハルモニたちに感謝や敬意を示し、未来の平和について真剣に考える姿を見ることは、希望を与えることに違いない。

このように、ハルモニたちの生活を中核にしながら、同心円的に社会、そして世界へと広がりを持ち、政治的な力をも発揮するというユニークなモデルだけに、困難や矛盾も抱えているに違いない。それでも、価値あるチャレンジだと思う。高齢化したハルモニたちに残された時間は少なくなっていく。早く彼女たちの願いが聞き届けられることを。

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