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トピックス by村本邦子

2007.12.17
2007年12月 コミュニティ通訳のこと

 立命館の大学院で教えた卒業生たちが、あちこちの分野で活躍している。今日は対人援助学会(準備会)の例会で、4期生の飯田奈美子さんにコミュニティ通訳の現状と課題について話してもらった。彼女は福祉事務所で中国語の通訳をしてきた経験をもとに、中国帰国者についての貴重な修論を書いた。私たち教員もとても勉強させてもらった。卒後は、対人援助場面で通訳を行う通訳者のネットワークmcinetを立ち上げ、全国規模の活動を展開している。この会には、私も初期、2回ほど招かれて行ったが、今日の発表を聞いて、1年かけて積み上げてきたことの重みを感じた。

 コミュニティ通訳とは、病院、学校、福祉機関、裁判、警察、その他、さまざまなコミュニティにおける対人援助場面で、言語的・文化的マイノリティとして通訳を必要とする在住外国人に対して通訳サービスを行っている人たちのこと。結果的に、対象となるのは、高齢者や子ども、生活困窮者、DV被害者、外国人労働者、難民など社会的弱者が多いことになる。かれらが日常生活で問題に直面したとき、援助を受けるために必要な交渉や手続きを行わなければならないが、その間に入って、コミュニケーションをつなぐ役割を果たす。

 仮に、私たちが、このような状況に陥ったとき、たとえ言葉に問題がなくても、自分の権利を主張し、援助を受けるには大変な力とエネルギーを必要とするだろう。ましてや、言葉や社会制度についてまったくわからなければ、正当な権利を主張することなどできるはずもない。そう考えれば、そこをつなぐコミュニティ通訳の人たちが、どんなに難しい役割を果たさざるを得ないか想像することができるだろう。単に中立的な通訳者であるだけでは不十分で、場合によっては、援助者であり、アドボケイトであることが求められる。

 いくらかの事例についても聞かせてもらったが、虐待やDVの相談だとか、場面に応じて、相当程度、専門知識が必要になる。この人たちの専門は言葉なのに、場面に応じてさまざまな専門知識を身につけていなければならないというのは大変すぎる。ましてや、今のところ、このような領域での通訳は、ほとんど身分保障もなく、ボランティアでやられている場合が圧倒的に多い。マイノリティのために働くわけだから、どこかが経済的援助をしない限り、どうしようもない(マジョリティから成る社会の側としては、本当のところ、なるべくなら援助したくない=切り捨てたいという思いがあるのだから)。

 昔の田舎では外国人というだけで珍しかったけど、ふと気がつくと、私たちの社会にたくさんの外国人が住んでいて、どこに行っても珍しくない。いまや本当に多文化共生社会だ。なかでも、搾取され過酷な状況に暮らしている外国人たちは、出身国のなかでも恵まれない状況から来日に到ったわけだし、サバイバルのための逞しさはもちろん持ち合わせているだろうが、それでも、権利保障からは程遠い状況に生きている。彼らの権利保障をどのようにしていくのか。現在はコミュニティ通訳という人たちの善意や努力に頼っているわけだが、国レベルで保障していかない限り、私たちの社会は貧困な社会に留まることになるだろう。

 立命館にはアジアからの留学生も多いので、最近、授業を通じて、彼らと交わるようになり、それによって多様な視点に開かれ、私たち自身が豊かになっていくのを感じる。言語的マイノリティの権利保障の問題は、気の毒な人たちへの慈善事業ではなく、私たちの社会にこそ必要なことなのではないだろうか。mcinetの人たちは、各援助場面での専門家たちが、まったく、言語的マイノリティについても、コミュニティ通訳の役割についても無知で無理解であることに苦労しているようだ。これらの問題にどう対処していくのか、私たちが成熟した文化社会をつくっていくことができるのかどうかの分かれ道だ。

2007.11.28
南京を想い起こす

11月20日から1週間、南京に行ってきた。国際会議「南京を想い起こす~南京の悲劇70周年記念」に参加するためだ。このタイトルは日本語バー ジョンだが、中国語では「南京記憶~南京大屠殺70周年学術会議」、英語では"Bearing witness to the past, living together in the future: Remembering Nanjing(過去の証人となり、ともに未来に生きる~南京を忘れない)"である。垂れ幕の「大屠殺」の文字を見るたびに、胸が締め付けられる。英語の タイトルのとおり、南京であったことを想い起こし(私たち戦後世代にとっては学び直すことを意味する)、その証人となり、中国側と日本側の対話を試み、と もに生きる未来を模索しようという初めての試みだ。

 私自身は過去にも勉強してきたし、出発前の2週間は、あらためて勉強し直したので、生存者の方々の話を聞き、記念博物館で写真を見ても、事実とし てはほとんどが知っていたことだった。たったひとつ、初めて聞いたことがある。それは、向こう岸に渡るために、日本兵は、何千何百という中国人の遺体を川 に敷き詰め、橋として利用したということ。3月になり、少し暖かくなり始めた頃には、一帯にひどい臭いが立ち込めたと言う。このイメージには「予防接種」 がなかったので、さすがの私もやられてしまった。実際のところ、日本人側の参加者のほとんどが、多かれ少なかれ、頭痛、発熱、吐き気、嘔吐、身体の痛みな どの身体症状を呈していた。残虐行為を知ることだけでも、十分にトラウマになる。予防接種と免疫がなければ、これはきついだろう。

 日本の家庭の中で密かに行われてきた女性や子どもへの暴力被害、残忍な性犯罪に長く関わるなかで、私のなかで、その根っこは南京にあるのではない かという思いが強くなっていった。薬害エイズの問題が明らかになったとき、ミドリ十字と731部隊との連関に虫唾が走った。日本軍の性奴隷制度(従軍慰安 婦)のルーツを調べていても、上海から南京への道に行き着く。南京へ行かなければならなんじゃないかという気持ちはずいぶん前からあり、時々、小さなグ ループがそのようなツアーを行っていることを知って、参加したいと思いながら、なかなか時が熟さなかった。今回、不思議な力に導かれるように、ようやく時 が整い、このプロセスに自分のすべてを委ねる決意をした。

 今回、私自身の一番の目的は、頭でしかわからないことを胸に落とすこと、つまり、自分のなかの感覚麻痺を少しでも解くこと、そうすると、その後、 いったい何が起こるのかを確かめることにあったが、その目的は十分すぎるほど達成した。上海から南京に向かう列車の窓から、広大な大地のあちこちに、蟻の ように群がる日本兵を見、残虐行為に焼き尽くされた中国人の遺体の山を見た。生存者の証言のあと、「その時の日本軍は、すごくすごく悪かった」「悪い悪い 日本軍」という言葉が耳について離れず、耳を覆いたくなった。でも、私たちは聞かなければならない。

 記念館の残忍な写真(バラバラにされた身体のパーツ、刃物を突き刺され、切り刻まれた女性性器、裸の死体の山)のなかに映っている晴れやかな笑顔 の日本兵たち。これが、私たちの父であり、祖父であり、曽祖父である。彼らが、焼け野原となった日本に帰ってきて、戦後の日本を建て直し、そこに私たちは 生まれ、育ったのだ。私の頭のなかで、パチンと音を立てて、最後のピースがはまった。自分が紛れもなく日本人であることを受け入れた瞬間だった。加害者側 の恥と怒りと悲しみを、ようやく自分の胸の中に入れる通路が開いた。翌日、追悼のために「燕子磯」という虐殺記念場を訪れた。揚子江のほとりの、信じられ ないほど美しい場所だった。一緒にいる日本人たちと、泣いて泣いて謝った。日本人としてのつながりを感じた。心のなかの氷が溶けていくようだった。感覚麻 痺の時代が終わり、小さな小さな緑の芽生えの気配に気づいた。私には、本当にわかった。やわらかい心で命を愛せない日本人たち、感覚麻痺の苦しみから、自 らを切り、大量の薬を飲まなければ生きていけない若い人たちを癒すことができるのは、やっぱりこれなのだと身をもって知った。

 中国の人たちは、暖かくやさしかった。南京大虐殺を否定したり過小評価したりする今の日本の方向性については過敏になっているようだったが、それ に抵抗しようとしている私たちを敬意でも接してくれ、心を開いていろんなことを話してくれた。歴史を学ぶ若い大学院生の男性は、「今日の日まで、僕は日本 人を憎んできた。でも、気持ちが変わった。日本の若い人たちと話をしたい。交流したい。手紙を書いたら、若い学生たちに渡してくれるだろうか。文通をした い。事実を認めてくれて、話をしたら、友達になれる」と言った。

 辛く重い旅だったけれど、クリアで気持ちの良い帰り道を帰れたのは幸いだった。なんて滋養に満ちた旅だったことだろう。今回はささやかな一歩だっ たが、たしかな前進だった。これから、この方向を歩んでいくために力を尽くせたらと考え始めている。若い人たちを連れて、定期的に、南京を訪れ、向こうの 人たちと交流するというプロジェクトを思案中だ。かなりの準備がいるだろう。知的にも心理学的にも。そのためのトレーニング・プログラムやフォローアップ のプログラムも必要だろう。中国語も勉強しなくちゃ。日本の社会が幸福に向かえるように残る半生を捧げたい気持ちだ。

2007.10.23
2007年10月 「こころとからだ」と代替医療

 友人の村川治彦さんが主催する「イーストウエスト対話センター」と立命の共催で、2日にわたる「21世紀統合医療フォーラム~心身医学と一人称のからだの出会い」があった。私も司会に駆り出されたので、全スケジュール、みっちり参加した。1日目の午前が、基調講演とシンポで問題意識の提起、1日目午後と2日目午前が、代替医療のワークショップでそれぞれ体験をして、2日目午後は、また全体で集まり、研究報告と全体討議で、考えたことや学んだことを皆で分かち合うという構造だった。なかなかよくできた暖かなフォーラムだったなぁと思う。今後、時代の流れは、間違いなく、代替医療に移っていくだろう。企業もストレスマネジメントの波が終わったら、そちらにお金が移っていくと予測される。

 15種類もあるワークショップのうち、3種類を選べたので、気功、アロマ、操体法を選んだ。気功の講師は津村喬さん。お名前はよく知っているものの、お目にかかるのは初めてだったが、まるで宮崎駿のアニメにそのまま登場できそうな、ほんわかムードのキャラ。気功をやると、こんなふうになれるのかしら!?気功はまったく初めてで、想像とはまったく違って(どうしても手かざしの怪しいイメージが・・・)、とっても気持ちよかった。北村幹男さんの操体法というのも初めてだったが、これもよかった。私のバリダンスの先生は、最近、フェルデンクライスの資格を取り、準備体操にも取り入れられているが、どれにも大きく共通するものがありそうだ。参加できなかったが、ロルフィングのワークショップをやった安田登さんは能のプロで、能を通じて心身に起こることを説明するのにロルフィングの枠組みが使えるのだそうだ。心身の真実に関する知恵は、このあたりにあるのだろう。

 アロマは、ホリスティックケア総合学院の学院長である相原由花さん。医療現場でアロマを実践されているので、さすがプロ。私は通信で勉強したので、こうやって講習を受けるのも大事なことだとあらためて思う。人の説明を聞くことで、自分の理解をまた少し視点を変えて見直すことができる。ターミナルケアなどにもアロマを使っているそうだが、たしかに、自分自身が難病や末期で苦しんでいるとき、こんなふうにアロマで優しくケアしてもらえるとしたら希望が持てるだろうなと実感した(そうなりたくないが、万が一、そうなったら、絶対やってもらおうっと)。

 今回、いちばん新鮮だったのは、「ツボ」というのが何なのかを体感レベルで納得したこと。「ツボ」っていったい何なんだ!?と長く疑問に思ってきたが、言葉で説明できないものの、疑問が解決した。ただし、私の理解では、「ツボ」と言われているものは、多くの人がそこにあると言えるだけで、実際には一人ひとり違うものだと思う。「こころとからだ」が全体であること、それが自然や社会、世界や宇宙とつながっていることもなんとなく実感できた。

 東洋と西洋という二分割をして東洋を理想化するような態度には胡散臭いものを感じるし、医療と言ってしまうより、健康であって、もっと教育に近いんじゃないかしらなどと思っていた私の疑惑も、最後の全体討論でフロアからたくさん提示されていたし、私としてはとても満足。参加者の半分は医者だったにも関わらず、暖かく皆がつながりを感じることのできるフォーラムだったことも良かった。そうそう、基調講演は日本心身医学会理事長の中井吉英先生だったが、彼の「身を診る」診療実践にはとっても感心させられた(これまで知らなかったことを恥ずかしく思う)。最後に、村川さんが長く暖めてきたことが、こんな形で少しずつ形を成していくこと、友人として嬉しく誇らしく思う。私も、少しずつ勉強して、深めていきたい。

2007.09.30
2007年9月 秘密

 「お母さんは口が軽すぎるって!」時々、子どもたちからクレームがくる。「FLCのお客さんの秘密は守るくせに、子どもたちの秘密は守らへん」。「秘密にしてって言われたら秘密にするけど、そうじゃなかったら、秘密にする必要性感じへんもん。秘密にして欲しいことは、そう言ってくれるか、話さへんかどっちかにして~」。

 成長の過程で秘密を持てるようになることは、大人になるための大切な第一歩だ。とくに、親との関係において、どこか共生的に生きてきた子ども時代から脱出するためには、秘密を持つことで親と距離を作る必要がある。そういう意味で、思春期の子どもをもつ親は、子どもの世界、子どもが秘密をもつことを尊重してやらなければならない。

 秘密は大切な誰かと共有することで、絆が深まる。思春期の子たちは、仲間集団で秘密を分かち持つことで、大人たちから自由な世界を持とうとする。一種のレジスタンスである。それは価値ある秘密だ。

 選択の余地なく、1人で抱える秘密は重い。誰かと共有する暗く苦しい秘密もある。何らかの事情で、人と分かち持つことができない秘密、持てば持つほど、自分を蝕んでいくような秘密もある。秘密を守るために、嘘偽りを重ねた結果、自分自身でさえ、いったい何が本当だったのかわからなくなることさえある。これらは悲しい秘密だ。

 大人になると、自分に関する情報を誰に話したいか、話したくないかを選ぶことができるようになる。話したことを悪意でもって利用されると思えば、誰しも話す気にはならないだろう。ネット上の中傷をはじめ、人の情報を悪意で利用して楽しむ人たちは必ずいるものだ。人から聞いた話を、今度は、聞いた人が、話し手として判断して、誰かに話したり、話さなかったりするだろう。その判断基準は、最初に語った人、つまりその情報の発信者のそれとは違うかもしれない。それはそれで仕方がない。自分の責任の範囲を超えた話だ。

 信頼して話した相手が悪意なしに誰かに伝え、それを聞いた誰かが、悪意でもって利用することも起こらないわけではない。それはそれで仕方がない。自分の情報は自分のものであるというのは奢りではないか。人が人として生きている以上、透明な存在になることはできない。人は、互いに影響を及ぼしあって生きている。そういう意味で、自分に関することは自分だけがコントロールできる所有物ではない。

 話さないことは秘密ではない。話せないことが秘密を形成する。大人になって、はっきりと境界線を引けるようになれば、噂話や他者の思惑に振り回されなくなる。人が何を言おうが思おうが、自分に責任のないことは流せばよい。そう腹が括れれば、不要に秘密を持たずにすむ。秘密を持たずに生きることができれば、その方がずっと楽だ。
  

2007.08.28
2007年8月 バリの火葬ガベン

 今年のバリ体験のなかで、もっとも興味深かったのは、火葬ガベン。以前から関心を持っていたが、なかなかチャンスがなかった。今回、たまたま話していたホテルの運転手さんジーメンが、「今日は故郷で5年に1度のガペンがあるけど、行く?」と誘ってくれた。タイミングと現地のツテが揃うのは貴重なので、予定変更して行ってきた。

 バリは、もともと、風葬、土葬だったが、バリ・ヒンドゥーの影響で、14世紀の頃より火葬が行われるようになった(今も風葬を行うバリ・アガという村がある。1度行ってみたい)。火葬には莫大な費用がかかるので、人が死ぬと、遺体をいったん墓地に埋葬し、資金を貯める。バリ人は、人生最後の儀式(葬儀)のために、一生、懸命に働くのだとも聞いた。お金が貯まると掘り起こして、あらためて荼毘にふす。火葬が済んでいない死者は生者でも祖霊でもない、中途半端で危険な存在だと考えられている。遺体は不浄なので、いつまでも村に埋めたままでは、村全体が不浄になってしまうから、最後はかならず火葬にする。火葬は浄化のための儀式である。今回見たガベンは、5年に1度の集団火葬。裕福な階層はおのおの火葬をするが、おそらく経済的な理由で、定期的に村の集団火葬をするのだろう。

 火葬は1ヶ月から準備され、バデと呼ばれる遺体を運ぶ塔が作られる。バデは、天界、人間界、地界を表す3層からなる高い塔で、人間界にあたる真ん中の部分に遺体が納められる。火葬するとき遺体を入れるプトゥラガンは、牛、獅子、象など、一族のシンボルとなる大きな動物をかたどってある。火葬の日には、バデやさまざまな供物やシンボルを担ぎ、ガムランを奏でながら、村の人々は火葬場まで練り歩く。不適切な喩えかもしれないけど、イメージ的には、祇園祭の山鉾巡行のような感じ。墓地に着くと遺体はバデからおろされ、プトラガンに納められ、聖水をかける儀式を行い、火をつける。

 今回は、火葬の部分だけを見たが、十数個のプトゥラガンで55の遺体が火葬されていると言う。ものすごい炎で、すべてが焼き尽くされるまで、2~3時間かかったのではないだろうか。空一面に炎が上がって、ものすごい迫力。熱いし、煙たいし、灰をかぶるし、見ているのも、結構大変だ。時間の経つ遺体は燃えるのも早いが、新しい遺体は時間がかかる。最後まで残ったものは、おそらく2週間以内に亡くなった人だろうと言う。たしかに、髪が焦げたような生々しいにおいがたちこめる。

 不思議な光景だ。バリ人たちにとっては、当たり前の光景なのだろう。その場にいると、当たり前のことのように感じられるが、よくよく考えてみると、怖くもある。すべての遺体が燃えるまで、村の人々は、周囲で歓談している。屋台もたくさん出て、夏祭りのよう。子どもたちもたくさんいて、ふざけている。観光客が見に来ていることも、いっこうに構わず(私たちの感覚からは、失礼なようにも思えるが、盛大な葬儀を見てもらうことはウェルカムらしい)、目が合うと、みんなニコニコしてくれる。小さな子どもは、満足そうに母親に抱かれ、風船を持っている。

 この子たち、ここの人々にとって、死は、とても身近な、日常のひとこまなのだろう。去年も書いたが(2006年8月の「魔女ランダ」を参照のこと)、生と死、光と闇が一緒に存在する。日常生活のなかから死や闇を切り離し、あたかも、それがないかのように生きている日本の子どもたちが、「人が死んだらどうなるか見たかった」などというようなことは起こりえない。日本では、宗教の扱いが難しいが、生きる力を育てるには、「死の教育」を考えてみる必要があるのかもしれない。

 火葬の後は、遺骨を拾い、また儀式をして、川に流すのだそうだ。最終的には、火葬の後も、1ヶ月、儀式が続くという。いろいろ予定があったので、今回は、川に流すところまで見ずに帰ってしまったのだけど、次の機会には全行程を経験する方がいいかな。ジーメンに、「死んだ人はこれからどうなるの?」と聞くと、輪廻転生を言っていた。「信じてる?」とヤボな質問をしてしまった。「もちろん。だって、本当のことじゃない!」。

2007.07.25
2007年7月 特別支援教育

 小学校のスクールカウンセラーをしている関係で、この間、特別支援教育についてかなり勉強した。今年の4月から学校教育法に特別支援教育が位置づけられ、特別支援教育推進の通知が出されたこともあり、スクールカウンセラーは支援体制に一定の役割を果たすことが求められる。一定程度、教育行政を理解しておかなければならない。

 とは言え、私自身は、ここ数年の「発達障害ブーム」を苦々しく思っているなかの一人だ。虐待ブームの次は、発達障害ブームかと少々、げんなりしている。もちろん、それらが重要でないと思っているわけではない。物事の本質まで届かないうちに、時代時代の興味関心でうわべだけをさらって、飽きれば新しい話題を探していくという社会のあり方に違和感を持つというだけのことだ。

 実際、いろんなケースを見聞きするなかで、「それって本当に障害の問題?」と疑問に持つことは少なくない。そもそも周囲の大人の関わりが悪くて子どもがSOSを出しているのに、問題行動を脳のせいにして、子どもを薬でコントロールしようなどというやり方は、暴力以外のなにものでもないと腹立たしく思う。まずは、環境によるものか、個性によるものかを見分ける力をつけたいものだ(もちろん、重複もある)。

そもそも、個性は脳の違いで表されるという。脳に損傷を受けた後、性格がまるで変わってしまったという報告は枚挙に暇がない。同じ脳を持つ人はひとりとしていない。脳の大雑把な特徴がマジョリティに属するか、マイノリティに属するかの問題だ。逆に言えば、現社会に生きやすい脳を持つかどうかという問題だ。自分自身を振り返っても、自分の身内や友人を思い浮かべても、みんなちょっと変わったところがあるし、違った脳のでこぼこがあるんだろうと思う(年を取ってからわかったことだが、私の空間認知のおかしさは努力でカバーできる範囲を越えている)。

 正規分布からはずれた人たちをどの程度まで社会が許容するかは、社会の器の問題である。器が小さくなればなるほど、正常外とされる人は増えていく。知能指数200の人は、50の人とともに、正常外、すなわち異常に属するわけだ。知人の子どもは、ミクロネシアの小さな島で育った子ども時代、まったくのびのび適応していたそうだが、アメリカ社会に戻るやいなやADHDと診断されたそうだ。現在、とても有能で個性的な援助者である。

 社会の器が小さく狭い場合、そこからはずれてしまった個性的な子どもたちを切り捨てるのでなく、きちんと教育を保障するために、この子たちの個性は障害によるものであり、特別な教育支援をしていきましょうというのが、この特別支援教育だが、内心、本末転倒ではないのか、社会の器を広げる方が大切でしょうという気がしないでもない。いずれにしても、器の小さな社会では、暫定的であっても、ないよりあった方が良いという類のものということになるだろう。

 関連書物は驚くほどたくさんでているが、私が気に入ってるのは、ナイランド著『ADHDへのナラティブ・アプローチ~子どもと家族・支援者の新たな出発』(金剛出版)だ。原著は2000年に発刊された"Treating Huckleberry Finn"(『ハックルベリー・フィンを扱う』)で、注目していたら、いつの間にか翻訳が出ていた。タイトルの意味は、ハックが今のアメリカ社会にいれば、ADHDと診断され、リタリンを処方され、私たちは、ハックを失っていただろうという趣旨。

 繰り返すが、特別教育支援を否定することが私の意図ではない。どのような形であれ、個別の子どもたちのニーズに合った教育を提供するのは良いことだと思う。何であれ、障害という言葉なしに個性的な人たちが認められ、個別の対応をしてもらって、独創性に富む社会の有用な人材として受け入れられるようになってほしい。そもそも芸術家や専門家は、不特定多数の人とは違った関心や感性を持っているものではないだろうか。突出しているところがあれば、当然、抜けた部分もあるだろう。支援の発想としては、生きていくのに最低限、困らないように抜けた部分を補いつつ、突出を生かすということではないか。ハックを失わないために。

2007.06.21
2007年6月 タッピング・タッチ

 先日、ホリスティック心理教育研究所の中川祥子さんを迎えて、タッピング・タッチの研修をしてもらった。タッピング・タッチというのは、祥子さんのパートナーである中川一郎さんが開発したホリスティック・ケアの技法。トントントン・・・と指先で軽く相手をタッピングするというだけの簡単な方法なのだけど、これが、リラクセーションにもコミュニケーションにもなり、命のつながりを感じさせる。『タッピング・タッチ』(中川一郎著、朱鷺書房)の本には、「こころ・体・地球のためのホリスティック・ケア」というサブタイトルがついているのだが、「うん、たしかに」と納得する。

 これまで何度か経験して、「これはいいな~」と気に入ったので、さらに、本やビデオで勉強して、いろんな人に紹介してきた。祥子さんに教えてもらうのは初めてだったけど、やる人によって個性が出て、その人となりが感じられるのも面白い。やる場や相手によっても違ってくるのだろうけど、祥子さんのタッピングは、どちらかと言うと、張りがあって、呼びかけられている感じ。応答したくなる。今回はいろんなバリエーションを教えてもらったので、目的によって使い方もさまざまに広がる。そう考えると職人技に近くなっていくけれど、タッピング・タッチの神髄は、やはり、そのシンプルさ、誰でも、どこでも気軽にできるというところにあると思う。

 最近、バリダンスの準備体操のひとつとして、ペアを組んで、背中をそっとさするということをしている。背骨に添って上下にとか、肩甲骨周りとか、肩を左右にとか、本人の気持ちの良いように優しくさするだけ。やっていると、不思議と互いの体が温まり、だんだん緊張がほぐれていく。最後は前屈、そしてバリダンスの基本ポーズになる(背中をそらして、腰をぷりっとあげる)。先生がフェルデンクライスをやっているので、準備体操には、それが取り入れられている。

 体っていうのは本当に不思議だ。誰かにそっとタッチしてもらうと、普段は無意識だったその部位が、くっきりと意識される。その部分に意識を向け、ただ感じていると、意図的に何もしなくても、いつの間にか、その部分の緊張が緩んでいくのだ。意識を向けてやるという行為自体が、ケアリングなのだと思える瞬間だ。他者に対しても同じ。苦しんでいる人に何もしてあげることができないとき、ただただその人のことを思う(=祈る)ことで、何かが伝わるように感じることがある。

 科学で解明されることは、あらゆる事象の氷山の一角ではないか。10月20・21日、イーストウエスト対話センター主催、立命館で「心身医学と一人称のからだとの出会い」というカンファをやる。ハコミ、エサレン、アロマ、気功、その他たくさんの代替医療を紹介するワークショップもある。一般公開なので、関心のある方は是非どうぞ。

2007.05.24
2007年5月 平和のための教育

 今月は、立て続けに、戦争と平和関連のワークショップに参加した。ひとつは、トランセンド研究会(平和的手段による紛争転換NGO)主催「アリシア・カベスード教授のワークショップ」、もうひとつは、立命館主催「こころと体で歴史を考える~アジアの戦後世代が継承する戦争体験:プレイバックアシアター」だ。平和教育の歴史は決して浅くなく、敬意を表しているが、それでも、このところ急激に、感覚的にしっくりする催しが多くなってきたというのが実感である。プレイバックシアターもとっても良かったが、すでに日記に書いたので、ここでは、アリシアさんのワークショップのことを。

 アリシア・カベスードさんは、国連平和大学・エルサルバドル大学教授で、もともとは歴史学が専門。1960-1985年、アルゼンチンの独裁主義下において、高校で平和教育を行い続けたという信じがたい実践を行ってきた人だ。レジスタンスを志す教員たちが、授業中、さまざまな比喩を使って、政府を、独裁制を批判した。授業スタイルは、民主的な参加型。各学校に散らばっている教員たちの中には、管理職に呼び出され、クビを切られたものもいた。アリシアさんの勤めていた学校長は、「君たちが何をしようとしているかよくわかっているぞ。頑張れ。ただし、私がこう言ったことは決して口外しないように」と言ったという。こうして、管理職の暗黙の応援を得て独裁主義下で平和教育を続けた先生たちがいた。この運動は、ネットワークを通じて、中南米の他の国々に拡がり生き続けて、現在では国連の支援を受けているという。なんてすごい話なんだろう。

 ワークショップでは、中南米の歴史の概要もわかりやすく教えてもらったが、名づけるなら「エンパワメントの歴史学」とでも言うにふさわしいものだった。征服者による"His Story"ではなく、"Our Story"を語り直そうとしているように感じられた。たとえば、スペインやポルトガルによる植民地支配の歴史は不幸なものだったが、植民地支配という歴史を共有したことで、中南米はひとつになったという視点。あるいは、レジスタンスの歴史を中心に語ること。血なまぐさい歴史であっても、聞いている側に、正義の力がフツフツと沸いてくるような感じだ。

 フロアから質問が出た。あの頃(独裁制の終わり頃)、中南米にいた。何度かデモに出くわしたが、メキシコの「ディスアピア」(この事件は日本ではあまり知られていないが、映画「ジャスティス」を見ると、詳しい状況がわかる。私は、翻訳した『もっと上手に怒りたい~怒りとスピリチュアリティの心理学』キャスリン・フィッシャー著に出てきて初めて知った。この本にも、母たちの力強いレジスタンスの事実が記されている)など怖ろしい状況だった。生命に危険はなかったのだろうか?と。

 アリシアさんは、さらっと当たり前のように、「レジスタンスは危険なものよ。それを選ぶかどうかはそれぞれの選択。あなたの自由」と言った。たいがい腹を括って生きているつもりの私でさえ、ギョッとした。この潔さはすごい。しかも、ちっとも肩肘はっておらず、すごいことを言っているとはまったく感じさせない。かっ、かっこいい。ワークショップのなかで、最近の若い男の子たちは右翼がかっこいいと言うということが話題に上っていたが、かっこよさを言うなら、レジスタンスの方だろう。

 アリシアさんは、教育は民主主義を拡大もすれば停滞させもすると言う。多くの社会で、教育とは「学校化」(schooling)と同義であり、学校教育は権利である。それは民主主義を拡大させると考えられているが、植民地下における学校は、人々のアイデンティティを計画的に毀損させるものに他ならない。グローバル化は、バリアを取り払い、強者の価値を優勢にする傾向を持つ。教育の背後には「文化的暴力」が潜んでおり、教育自体が構造的暴力を正当化してしまう可能性があることを忘れてはならないと言う。

 また、平和学習の構成要素として参加すること自体が自由の実践であり、対話によるコミュニケーションと決定への参加に民主主義のプロセスが含まれており、これが平和教育の主たる目的のひとつである。知るということは、知識や情報やデータを積み上げることではない。日常の中にある小さな物事が、地域的なもの、地球規模のものとリンクしているという理解のもとに捉えられるものである。また、知るということは、批判的に物事を考えることを学ぶことであり、関係を築き、リンクを創り出すことであると言う。

 平和教育って、なんてパワフルなんだろう。必ずしも重苦しい戦争についての学習ばかりではない(もちろん、事実を知ることは重要だ)。そして、私が日々、努力していることも、もしかしたら、すでに十分、平和教育かも・・・と思えて、なんだかエンパワーされた一日だった。

2007.04.24
2007年4月 体のモニタリング

 この春は体調不良で辛かった。と言っても、寝込むわけでなく、普通に仕事をしていたのだけど(だから、たいした病気でもないのだけど・・・)、執拗な花粉症に始まって、キリキリと胃が痛み、肋間神経痛を経由して、背中、肩、首へと痛みが回り、最後は左後頭部のひどい偏頭痛。こんなことは初めてだった。偏頭痛が続いた3日目に、かかりつけの整骨院で治療を受けたら、驚くことにピタッと痛みが消えた。原因は、肩首の凝り、過労、ストレスだそうだ。これだけ凝っていて、これまで頭痛がなかったことの方が不思議だとも言われた。

 若い時は、自慢の肩凝り知らずだった。それが、いつの頃からか、肩凝りがひどくなって、それが高じると神経痛を発症するようになった(今は亡き藤岡喜愛先生によれば、消化器系が敏感な内胚葉型に対し、皮膚・神経に出る私は外胚葉型だ)。ここ2~3年、会社の近所の整骨院へ行くようになって、動けないほどの神経痛はなくなった。整骨院へ通っていると、自分の体の凝り具合、疲れ具合がわかるようになる。ところが、去年の秋から多忙を極め、すっかり足が遠のいていた。そうすると、いつの間にやら、自分の体の凝り具合、疲れ具合がわからなくなっていた。

 「首の左側が痛いなぁ」と思う。整骨院で押さえてもらうと、実際には、右側もかなり張っていることがわかったりする。人間の体って、一番、痛いところに気を取られ、それ以外の部位の痛みを感じなくなってしまうのだそうだ。たしかに、フロイトも、歯が痛い時はリビドー(エネルギー)が全部、歯に向かってしまうというようなことを書いていたよなぁ。痛みがひどすぎると、感覚麻痺が起こって、何も感じない。事故やレイプの被害者たちが、一日経って初めて骨折に気づくというようなことさえある。さらに、痛みが慢性化しても、感じられなくなる。「今年は整骨院に行かなくても元気だなぁ」と思っていたけど、何のことはない、単に感じなくなっていただけのことだった。怖ろしい。

 仕事柄、心については敏感だ。感覚麻痺することはまずないし、自分の細かな感情について、人一倍よく把握していると思う。でも、フロイトが言うように、一種の職業病とも言えるのだろうが、心に多くエネルギーを取られているものだから、体に回す分が枯渇しがちなのだろう。年を取ってからは、若い時のようにはいかないことを痛感して、気をつけているつもりでも、今回みたいな失敗をしてしまう。とりあえず、何はさておいても、定期的に整骨院へ行くとしよう。

 ある人が、「整骨院でマッサージしてもらうのって、体のモニタリングになるよね」と言った。たしかにそうだ。「体のモニタリング」とは、リラクセーションなどの時によく使われる方法だが、足先から頭のてっぺんまで、ほんの少しずつ意識を体の部位に向け、移動していく。「モニタリング」と言われるけど、私の感覚では、「スキャン」という方がぴったりくる。パソコンのウィルス・スキャンみたいに、意識で体の各部位をスキャンするのだ。そうすると、足の疲れ、下腹部の痛み、肩凝り、手の冷たさ、舌のしびれなど、それまで無視して気がつかずにいた体の小さな叫びがキャッチできる。普段、忙しくして、自分を欺いて体に無理を強いていたものが、通常の閾値以下で聴き取れるのだ。小さいサインを聴き取って対処すれば、大きなことにならずにすむ。心の問題については、それができているのだけど、体については、まだまだ下手だな。

 それにしても、これは不思議な現象だと思う。たとえば、意識を足先に当てた時と、胸に当てた時とでは、物理的に言って何が違うのだろう?温度がほんの少し上がっていたりするんだろうか?バリダンスの準備体操でも、「骨盤の重みを右足の裏で感じて」とか、「胸の重みを右足の裏で感じて」というのがあるんだけど、たしかに、これができるのだが、実際には、右側に重心が移動した以外の物理的差異はあるのだろうか?いつも不思議に思っていることだ。

 できれば、朝晩、寝床の中で、体のモニタリングを習慣にしたい。バリダンスの先生に教えてもらって、いっとき、寝る前に「ゆる体操」というのをやっていた時があったが、いつのまにやら忘れてしまっていた(娘によれば、これをやると、確実に翌朝の目覚めが良くなるという)。心のことにばかり気を取られるのでなく、体のことに気を向けなくちゃ。大切にして、まだまだ長く頑張ってもらわなきゃね~。そういう意味では、「動作法」は心と体を統合した優秀な技法だろう。詳細はまたいつか。

2007.03.13
2007年3月 場面緘黙

 先日、古い友人が訪ねてきた。最近、「場面緘黙(バメンカンモク)」のことを一生懸命やっているという。場面緘黙とは、幼稚園や学校など、特定の場面で話せない子どもの症状だ。昔から事例報告などによく見かけたし、間接的には聞くこともあって、知らないわけではなかったが、直接的に関わることはなかった。それほど多くはないのだろうと思っていたが、出現率は1%弱、0.7%程度と言われているとのこと。1000人の小学校に7人いるということになるから、決して少なくない。

 にも関わらず、それほど話題に上ってこないのは、ADHD等と違って、放っておいても周囲には問題が発生しないためだろう。なにしろ、緘黙の子たちは大人しい。声を上げなければ、無視されるわけだ。本人が困っても、周囲に困ることはない。

 原因はよくわからず、社会恐怖症の診断基準に当てはまるようだ。よって、話すように求められたり、強制されたりすることは、症状を悪化させる。話すことを求めるより、その場に安心していれるようにしてあげる配慮が求められる。治療法としては、薬物療法、行動療法、認知行動療法が主のようである。適切な対応がないと、二次被害があったり、大人になっても症状が残り、生きずらさを抱える場合もあるようだ。

 場面緘黙症Journal (SMJ)というホームページに詳しい情報が満載されている。ファイルを打ち出して、幼稚園や学校の先生たちに配布して理解を求めることのできる資料や、ブログ、掲示板もあるので、関心のある方は、こちらを参照のことhttp://smjournal.sakura.ne.jp/kanmoku_kiso.html

 考えてみると、うちの娘も、小さい頃は、社会的場面での緊張が高かった。娘などは、家での振る舞いと外での振る舞いがあまりに違いすぎて(おしゃべりも少ないし、身体の動きも少ない)、驚いたことがある。あれでは疲れてしまうだろうという感じで、よくお腹が痛くなったものだ。小学校の学年が上がるにつれて、少しずつ変化し、中学生くらいになって、ようやく外でも自由に振る舞えるようになった。高校生になった今はのびのびしている。

 自分自身を思い出しても、幼稚園時代はとってもシャイだった。当時の友人たちに言わせると、あの頃からしっかりした利発な子だったということになっているけれど、これは、自己イメージと大きくギャップがある。公園で子犬と遊んでいて、男の子たちにからかわれて言い返せず、悲しくて泣いていた記憶が浮かぶ。社会的場面というか、周囲の状況が見えすぎてしまうという負担があったような気がする。

 息子は、3歳の時、LDと言われたこともあるが、ADHD系。ランドセルを忘れて学校に行く、好きなことに没頭していたら他のことは何も眼に入らない、自分がしようと思わないことをさせるのは至難のわざ、数々の忘れ物と落とし物。親の眼にはかわいくて笑えるけど、小学校時代は、先生との関係でヤキモキするようなこともなかったわけではない。時々、吃音もあったし。これは、本人が気にするようになったら、伊藤伸二さんが主催する竹内敏晴さんの親子サマーキャンプに行こうと勝手に楽しみにしていたけど、そのチャンスはなかった。その息子も、今や、すっかり好青年だ。

 自分自身のことを考えても、子どもたちのことを考えても、子ども時代って、かなりバランスの悪い偏った存在なんだと思う。それが個性とも言えるんだろうけど、それぞれがそれぞれなりの偏りを抱えて生き抜く中で、だんだんと世の中に揉まれて丸くなっていく。自分でもおかしいけど、私って、本当に何でも自分でやってみて自分で確かめなければ納得できないタチだった。そっちに行ったら絶対こけて頭をうつとわかっていても、人から事前に言われるのは絶対に嫌。人に口出しされるより、自分でこけて、やり直す方を好んだ。今は少し丸くなって、ようやく、事前にわかっていることなら、助言をもらって賢明な選択をする方が良いと思えるようになった。そんな自分の頑なさは、おかしくもあり、愛おしくもあり。

 そんな子どもの偏りに名前がついたりつかなかったり、世の注目を浴びたり、無視されたり。いずれにしても、生きにくい時代だ。特別、理解がなくても、当たり前のように受容される懐の深い社会でなくなった今だからこそ、きちんとした理解を構築していく必要があるのだろう。

 いろんな意味で、過去の自分と出会う。遠方より友来る、また楽しからずや・・・であった。

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