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1993.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
「もつれ」 女性の発達における食物、性、攻撃性

ポリー・ヤング・アイゼンドラス、Ph.D.

 食物、性、攻撃性は人間の生活の基本的な3つの側面である。人間は長期にわたって栄養を貯めてお くことはできないので、生きていくためにはしょっちゅう食べなければならない。性的な表現は、生殖の手段であると同時に、重要なコミュニケーションの手段 でもある。攻撃性というのは、私たちそれぞれが他者に対して自分自身の欲求を通そうとする手段であると私は定義している。
 北米やヨーロッパ社会では、これら人間の経験の基本的側面にそれぞれ、男性的とか女性的という特徴が割り当てられている。生まれた赤ん坊が女の子か男の 子か、解剖学的なサインが読み取られた瞬間からそういうことが起こる。食物、性、攻撃性に関して、女と男には、意味、特権、力についての異なるカテゴリー が振り当てられる。女にとって、人生を構成するこれら3つの要因はしばしばひどくもつれあっていて、自分が食物、あるいは性に飢えているのかどうかわから なくなることがある。食べている時に「自分を攻撃しているのか」それとも「栄養をつけているのか」わからなくなるし、パートナーが自分の体に要求してくる ものが性的なものなのか、それとも攻撃的なものなのかについても同様である。以下に、とくに女性の発達と関わるジェンダーについての私独自の理論を要約す るが、さしあたって、ジェンダーが、私たちの存在の基盤である体、性、自己感覚を形成していくうえで強力なカテゴリーとなることを強調しておこう。
 摂食障害を扱う臨床家の多くはいまだに、クライエントの体験のうちのジェンダーに関する側面を深刻に受けとめてはいない。そのため、治療のなかでジェン ダーについての考慮を統合することができない。フェミニストによる重要な文献(たとえば、Orbach, 1979, 1986; Chernin, 1981, 1986; Wooley & Wooley, 1979; Wolf, 1991)では、女性を外見と痩身に没頭するよう駆り立てている広範にわたる特有の社会文化的要因の検証が展開されてきたが、これらの特徴を念頭において 議論された特定の事例はほとんど聞いたことがない。それをすれば、ピア・グループ(同年齢集団)、家族あるいはコミュニティにおけるジェンダーとその発達 という見地から、クライエントの考えと行動を捉えていくことができるのだが。
 臨床家たちは摂食障害についての議論からジェンダーを排除するかもしれないが、フェミニストの学者や研究者は、無意識の問題、言い換えれば、投影や投影 的同一化といったジェンダーの意図せぬ側面について排除することがしょっちゅうである。これらが、身体イメージとセクシュアリティについての女性の関心に 影響を与えているのである。フェミニストでありユング派の分析家である私は、これらの視点を結合させることが役に立つと思っている。ここでは事例を素材に 議論するなかで、この2つの視点を使うつもりである。文脈を明らかにするために、これら2つの視点について簡単に述べておこう。
 私は、フェミニズムが市民権運動であると同時に、大人のあいだの平等で相互的な関係を促進することを目指す思考と行動の修練の場であると考えている。 フェミニズムは、女か男かということがもつ意味と影響、とくに平等で相互的な関係を妨げるようなそれに私たちの関心を集中させる。私の考えでは、女か男か の違いは、意志決定権、文化の創造、また日常生活でこれらが暗示するものの分野での力の違いの根っことなっている。
 ここでユングの分析心理学について包括的な記述をすることはできないが、簡単に述べておくと、それはカール・ユングによって創立された分析の学派であ り、(夢、症状、神話といった)イメージと象徴に現れる無意識の意味を研究するものである。普遍的なものと個人的なものの緊張に光をあてると同時に、「女 性的なるもの」「男性的なるもの」についても説明していることで有名なので、ユング心理学はジェンダーについて議論するごく自然な場所であるように思われ るかもしれない。ここ十年来、私はユング派の同僚に対して、ジェンダーに関するフェミニズム分析を持ちかけてきた。反応してくれたのは、ごく少数だった。 私たちは、女と男の「本性」には普遍的な対比があるとする独自の発想からつくられた性別理論を、そこに刻々と働いている無意識的な意味という観点から男女 の違いを点検していくモデルに書き換えようと取り組んできた。ジェンダーはあらゆる人々に分割をつくりだす。心の中でも、また対人関係でも、自己と他者を 分けてしまうのである。この分割が、しばしば自分自身の行動を説明するのに使われる他者についての恐れや空想、理想化へと結びつく。心の中のことで言え ば、ジェンダーが、投影を引き起こす要因になるのである。
 フェミニズムを摂食障害の臨床的な事柄についての精神力動的な説明とミックスさせると、ジェンダーの社会文化的意味と無意識の意味の両方に注目していく ことができる。摂食障害の無意識的、象徴的意味のいくつかに光をあてるために、ひとつの事例をあげ、補足的に他の摂食障害の女性たちの夢を示そう。それら は食物、性、攻撃性のもつれを表現する夢である。

【生きた象徴としての摂食障害】

 これらのことに言及する前に、摂食障害を女性の抑圧の生きた象徴と見ることの重要性について一般 的なことを言っておきたい。後で見るように、摂食障害の女性の夢には無力感がしみわたっている。切迫した死の宣告と無力感の表現が、精神分析の文献に出て くる摂食障害のクライエントの夢の主なテーマである。(たとえば、Levitan, 1981; Sours, 1980; Thoma, 1967)。ジャーナリストであるナオミ・ウルフ(1991)は女の体につきつけられる現代の要求を「美の神話」と呼んでいるが、私は、これらのテーマが 「美の神話」から生じる苦悩の象徴であると考えている。ウルフは次のように言う。
美の神話が物語る。「美」と呼ばれる性質が客観的、普遍的に存在するのだ。女は美を体現したがらなくてはならないし、男は美を体現する女を所有したがらな くてはならない。美の体現は、男にではなく女に強制され、それが生物学的、性的、進化論的なものであるために、このような状況が不可避の自然なものとなっ ている。つまり、強い男は戦って美しい女を手に入れ、美しい女はさらに、強い男と美しい女を産み・・・このシステムが性的選択に基づいているために、それ は避けがたく、変化しない(p.12)。
 この物語が、ある女の子や女性にとって深刻な精神病理に変わるには、特別な要因が関係しているが、北アメリカ、ヨーロッパ社会に住む多くの女性は、日常生活のなかで美が演じる避けがたい役割のいくつかの側面によって苦しめられている.
 実際、美は普遍的なものでもなければ変化しないものでもなく(それは見る者の目のなかにあるという意味で)、人類学者たちは、しばしば美しい女性よりも 攻撃的な女性の方が生殖の方略では成功するということを示してきた。そのような事実と関わりなく、私たちの社会にいる女たちはみな、美は力なりという等式 に従っている。このことは、私たちの生活に関する否定できない心理学的側面である。私がどこにいようが、誰といようが、私たちは評価の枠組みに入れられ、 女性の容貌についてのコメントに漬からされている。女も男も、顔、脚、お尻、胸の形とサイズによって女を評価するのである。他の女たちのように、私もしば しば、容貌と力の結びつきを壊すことに絶望する。私自身、自分の体が変化し年老いることで自分の容貌がどのように変わろうと「自然な流れに身を任せる」の ではなく、「外見を保とう」と努力している自分に気づく。
 ナオミ・ウルフ(1991)が言っているように、私たち女がこの20年間に築き上げてきた新しい自由と自己評価を毒する秘密の地下生命がある。彼女の言 葉で言えば、それは「自己嫌悪、肉体的な囚われ、老いることへの恐怖、支配力を失うことへの恐れといった暗い鉱脈」(p.10)である。摂食障害は美の神 話の苦痛と抑圧について私たちに語りかける。個々の女性が美は力なりの等式に関してダブル・バインドにあることを示しているのである。ある女性が自分を美 しい(ゆえに力がある)と見なしているとしても、年を取れば、どんなにすばらしい化粧と外科医の助けを得ても、それは結果的に失うことになる。その等式に 反対して、女の容貌に対する文化の基準に適応しないという意味で「なりゆきに任せる」ならば、文化の主流には、もしかしたらサブ・カルチャーにおいてさえ も自分の居場所を見つけだせないことになるだろう(いくつかの例外はあるが)。
 女は美しく、同時に自由であることはできないので(老いていく過程で美の基準が自由を制限していく)、または女は(文化の基準に合わないという意味で) 「醜く」、同時に自由であることはできないので、美は力なりという等式の結果おこってくる精神病理から逃れる道はないのである。それは古典的なダブル・バ インドなのだ。

【ジェンダーと差異】

 ジェンダー、そしてその無意識的な投影の構成要素を理解することなしに、摂食障害の症状と象徴を 理解することはできない。すべてではないが、あるフェミニスト理論家たちのように、私もセックスとジェンダーをはっきりと区別する。「性的差異」を意味す るセックスと言うとき、私は男と女の体の変えられない解剖学的、生物学的違いについて言っている。生涯を通じて、これらの違いはさまざまな形を取り、両性 間に強い憧れを生じさせる。いつでも、セックスは私たちの生殖生活、ホルモン/科学的機能の諸側面の絶対的な制限枠となる。でも、ここで私が興味を持って いるのはジェンダーの方なので、セックスの違いについてはこれ以上立ち入らないつもりである。ジェンダーと言うときは、私たちが誕生(あるいは時にはそれ 以前)からそれぞれに割り当てられ、生涯逃れられない役割と意味のカテゴリーのことを指している。「これは女か男か」を知りたいというどこにでもある欲望 が、実質的に私たちの相互関係のすべてを形づくる。つまり、すべての個人的な属性にこのレンズのフィルターがかけられる。文化、社会、家族が異なるとジェ ンダーについての意味と前提も異なるにもかかわらず、現代社会のほとんどはジェンダーが生物学に基づくものだと教えるのである。慈しみ育てることは女性的 な特性か男性的な特性か、あるいは男と女ではどちらが攻撃的に見えるかなどといったこれらの違いについての説明は、現代では生物学で語られる傾向にある。 以前は、これらの違いについて宗教的、あるいは神学的説明を受けてきたかもしれないのである(そして今もそうであることもある)。
 あらゆるところで人間社会は、「対立物」と呼ばれ、敵対させられるふたつのグループに分けられる。成長しつつある子どものなかで「ジェンダー」カテゴ リーが明確にされるには長い時間がかかる。2才の子は絵のなかの人々のセックスを言うことができるし、3才の子はふつう自分が男の子か女の子かを言うこと ができる。でも、6才か7才にならなければ、子どもたちはジェンダーが排他的で永続するものであることを理解できないのである。学童期くらいになるまで は、子どもたちは、自分たちの人生が言わば「平等につくられている」という印象をもっている。髪、服、名前が変化するだけで違う性になれると考えるような のだ。学童期になると、子どもたちはついに「悟る」、つまり自分が永久にひとつの集団にとどまることを知るのである。この認識は、心理学者ローレンス・ コールバーグとその同僚(たとえばRuble, 1983をみよ)の研究に続く調査で「ジェンダーの恒常性」とうまく呼ばれている。
 私たちはみな決して他の人にはなれないのだという結論に達すると、他者に不安をもったり他者を羨望や理想化し始める。ふつう、それは同性の友人やメディ アから得るステレオタイプと空想に基づいている。6才か7才の頃から子どもたちは、自分と同性のピア・グループに強烈な興味をもつようになる。子どもたち は自分について、他者について知りたいのである。心理学者エレアノア・マコービ(1990)は、ここ25年間の両性間の違いに関する調査を概観して報告し た。それによると、実際の能力、様式、態度には性の違いはほとんどないのに、私たちは、そこに重要な違いがあると信じる傾向がある。新しい世代の子どもた ちはそれぞれ、女の子と男の子で違いがあるという信念に反応して、互いを(そして、どんなにそれに抵抗する「解放された」両親をも)社会化するのである。 違いがあるという信念は、家で、遊び場で、学校で、メディアでと四六時中私たちのまわりにある。思春期はジェンダーの社会化にとって決定的な時期であり、 生涯のうちでもっともジェンダー役割が固定される唯一の時期である。
 ジェンダーという線に沿って自己と他者が分割させられることは、いつでもはっきりと、あるいは曖昧な仕方で私たちに影響を及ぼす。ある属性が自己から排 除され、他者へと投影されるのである。女も男も学校で、遊び場で互いに出会うとき、これらの違いに効力を「強制し」、同性から学んできた恐れと空想を遊び で表現しようとする。私たちの社会では、女は判断を下すための権威を男と男性優位の制度(ほとんどがそうであるが)に投影する傾向がある。私たちの多く が、特定の力ある男性は知識も知性も、文化的、経済的資源をも備え、それらを私たちにいいように与えてくれるのだという前提で大きくなる。女たちはしばし ば、容貌や振る舞いの基準は周囲の男性によってもたらされるものだと想像する。つまり、彼が望むから私はこう見えなくちゃならないんだとか、こうしなけれ ば彼がやっていけないから私はこれらの仕事をしなくちゃいけないんだと考えるのである。図らずも、基準を決める権威が女性自身から排除されているのであ る。

【有能な女性アンジェラの事例】

 すでに述べたように、美の神話はダブル・バインドであるから、自分の容貌の基準を男が決めてくれ ると女が想像するのに何の不思議もない。容貌の問題を処理したり、「うまくやる」ことはできないので、女性は心休まることがない。基本的にダブル・バイン ドは心が休まらないことを意味している。生物学者であり哲学者であるグレゴリー・ベイトソンとその同僚の研究から、ダブル・バインドが人々を狂わせるとい うことがわかっている。私が『女の権威-心理療法で女の力を強くする』(1987)を書いたとき、何百という女性たちの夢や臨床上の素材に見られるもうひ とつのダブル・バインドを発見した。私はそれを「女の権威のダブル・バインド」と名づけた。女性が自分の権威をいかに処理しようが、つまり、率直にそれを 要求し主張しようが、あるいはそれを放棄して他者の手に委ねようが、決まって、その扱い方は根本的に間違っている、たぶん病的なのだとまで言われることに なる。社会学者ブローバーマン、フォーゲルマンらによってなされて今では有名な研究(1972)によれば、このダブル・バインドは一般大衆や心理学者の幅 広い経験的研究に見られると報告されている。ベイトソンと彼の研究を引き続き行っている人々の言うことから、ダブル・バインドを扱うにはたったひとつの方 法しかないことがわかっている。それは、そのダブル・バインドの外へと完全に踏み出さなければならないということである。これをするためには、まずそれに 気づかなければならない。そのダブル・バインド性質を明らかにしなければならないのである。女たちは一生懸命頑張りさえすれば力を手にすることができると 信じるよう励まされるために、美の神話のダブル・バインドと女の権威のダブル・バインドは今もってうまく秘密にされたままである。
 私は、私たちを陥れるダブル・バインドを暴露し、「うまくやる」ことなんてできないのだと主張したい。男性優位の社会に住む女たちは、満足と自尊心に 真っ直ぐ辿り着くことはできない。このことを認めれば、自分が行ってきた選択に自信と成功を感じやすくなる。
 アンジェラは42才のクライエントで、摂食障害者のための住居施設に住んでいる。彼女は「うまくやる」ために非常に一生懸命やってきた。エクササイズ、 食事制限、嘔吐、魅力的な外見を保とうとすること。アンジェラも私たちの多くと同様、容貌を通じて個人的な力の感覚を維持しようとしている。彼女はまた暖 かく、配慮が行き届き、才能に満ちており、新しい夫とのコミュニケーションを改善したいと思っている。彼女は摂食障害の女性たちの無料のセルフ・ヘルプ・ グループを運営している。これまで、過食の治療を受けるために専門のセンターにも通ってきた。最近彼女は、娘をカウンセリングに連れて行き、その後自分も 心理療法を続けている。過去には別の治療も受けていた。彼女は才能に満ちた女性である。
 これらのことに加えて、アンジェラは、キャッシャー、配膳の付添人としてフルタイムで働いていて、多くの義務と責任を持っている。病気やその他の理由で 仕事を休むことはほとんどない。彼女には家にいる20才の娘、21才の娘、17才の息子、脳性麻痺の養子、新しい義理の息子がいる。アンジェラは多くの役 割をこなすよう一生懸命やってきた。
 フェミニズムの観点に立って、力の文脈で彼女の困難を理解するために、まず「コンピテンス・モデル」を通じてアンジェラを見てみよう。精神病理、精神力 動、症状に関する多くの伝統的見解は、何かが間違っており何かが足りないかでクライエントを見ていくことで、私たちのクライエントの「欠陥」を強化する。 欠陥を探すやり方でいくと、アンジェラの事例史、とくに小さい頃の家族歴の外傷体験を読んで、「彼女の人生は混乱しており、いつもそうだった。いったい救 いようがあるだろうか」ということになるだろう。
 欠陥を探す方向づけでは、女の権威のダブル・バインドが強化される。女性クライエントは、もしこれやあれが間違っていたら、うまくやれていたのにと結論 するだろう。欠陥を探すようなやりかたで事例を調べていくと、女性たちは、両親、しばしばとくに母親が悪いのだという結論に至る。両親がそんなにも「無 能」でなければ、物事はもっとうまくいっていたのにと考える。心理学者キャロル・タブリス(1992)が新しい本『女についての間違った基準』のなかで非 常に力強く描いているように、欠陥を探すやり方では、女は男に基づく基準で自分の人生や体を測る。これらのモデルは暗に、いつだって誰もがうまくやること ができるということを前提にしているのである。
 「コンピテンス・モデル」はクライエントの弱さやストレスを見過ごすことはしないが、同時に力を重視する。『女の権威』で示したモデルでは、コンピテン スは自分で認知している力だと定義した。コンピテンスとは力を主張し、自分や環境のなかにある資源としてそれを見なす能力である。アンジェラは責任感や内 省力(たとえば彼女は繰り返し、生まれてからこのかた感情を「いっぱい詰め込んできた」と言ってきた)など、たくさんの力を持っているにもかかわらず、た ぶん治療の初期にはほとんどコンピテンスを持たなかった。住み込みのセンターでの個人セラピー、グループ・セラピーを行った治療の終わり頃には、アンジェ ラは次のことをはっきりと自分のなかに認めたのである。それは、自分についての知識、人のことを配慮する能力、計画をたてたり組織化する技能、責任をとる ことである。これらのコンピテンスは、いつか自分が依存症のカウンセラーになるという目標に到達できるという信念を強めた。コンピテンス、つまり自分の力 を認めることは、しばしば中年女性の個性化へと通じる。
 アンジェラの弱さについてはどうだろう? 弱さとは、コンピテンスを妨げる長期にわたる状況である。自己評価の低さ、主導権を握ることへの恐れ、無力感 との同一化、自分の女性性についての否定的レッテル貼り(たとえば操作的だとか依存的だとか、不安が強いなど)が、アンジェラの弱さの例であるが、これら は多くの女性に共通するものである。加えて、アンジェラは自分自身や自分の体を嫌悪し、自分には何の価値もないから自分には楽しむ権利がないと考える傾向 があるという点が、もっと深刻な問題だった。彼女が自分の人となりを受け入れ、ダブル・バインドが自分に及ぼしている影響と、自分が自分の人生にもたらし ているコンピテンスを受け入れられるよう、十分内面に取り組まなければ、自己嫌悪をコントロールするために彼女は食物、エクササイズ、嘔吐を利用し続ける だろう。
 コンピテンスを調べる三番目のカテゴリーはストレス、つまりさしあたって特別な順応を要求する決定要因である。(外見上は)最後の1年に、アンジェラは 家を失い、ようやく信頼し始めた男に捨てられた(その1年前には二番目の夫にも捨てられていた)。そして三番目の男と結婚し、子どもたちを養子に出し、彼 とその息子の元へ引っ越した。彼女の母親は肉体的に弱って腎臓が機能しなくなり死が予想された。このようにたくさんのストレスがあると、誰でも、物事に対 処する能力が弱まり、徹底的な危機が訪れる。当然のように、アンジェラは月経周期に関係ない出血があったりした。これはしばしば閉経期の女性ではストレス のサインである。
 アンジェラの場合、注目すべきことは、彼女が治療によく反応し、過剰なエクササイズと嘔吐をやめたことである。彼女は希望をつなぎながら困難に満ちた人 生に戻ったのだった。彼女の妹アイリスは34才だったが、生き続けることができず、ピストル自殺をした。この観点からアンジェラを見ると、彼女の精神病理 が仄めかされると同時に、個性化の可能性を見ることができる。アンジェラが自分のことを他者から愛されたり賞賛されるに値する統合された有能な女性である と見ることができるとき、ストレスが強く援助が受けにくい状態であっても、女であることと結びつく弱さの多くを補うことができるだろう。そうでなければ、 彼女は、自己嫌悪をコントロールするために、食物、エクササイズ、自己飢餓を再び利用するようになる。
 アンジェラは子ども時代のトラウマ(心の傷)と貧困から精神病になる危険性があった。貧困で家族の人数が多い状態で大きくなった子どもの多くは、物質 的、教育的資源を欠くことと即結びつく性的虐待、身体的虐待に曝されている。私たちが(症状のみでなく)、逆境で育つ人々のパーソナリティにできてくる 「ストレスをはねかえす要因」や「防御要因」に注意を向ければ、コンピテンスがいかにストレスと弱さの埋め合わせをしているかがわかる。アンジェラの成育 史と治療から、私は、ひどい逆境にもかかわらずしっかりと生きている強い人々の話を思い出した。アンジェラはいつでも有能に直面してきたわけではなかった が、しばしばそうしてきたのである。

【食物、性、攻撃性】

 ナオミ・ウルフが「ウェイト・コントロール崇拝」と呼ぶものは、女性の食べる量や体重を命じる権 威主義的構造への恐ろしいほど広範に見られる献身である。これが私たちの社会の女性のジェンダー・アイデンティティの一側面になっていることは、誰も無視 することができない。とくに思春期(どんどん年齢は下がっているが)、女の子たちはメディアや他の文化的影響によって、男の子たちに「受け入れられる」よ う自らを社会化する。この「受け入れられる」ということは、文化的な基準や、男の子が望んでいると女の子が想像するものを投影したものに基づいている。人 生半ばまで、女たちは、どのくらいの体重がふさわしいか、どのくらい食べたらいいかに気をとらわれるあまり、基本的な本能である食物に楽しみを見いだすこ とがほとんどできない。
 容貌の基準に従うことは、しばしば、自分たちの権威を他者、とくに男に投影することで保たれる。心理学的に言えば、これは自分自身の身体イメージに責任 を持つことに対する防衛である。でも、女たちは実際身体イメージや健康や美を自由にコントロールできるだろうか。否、ダブル・バインドゆえに、文化の基準 に「従え」ば貶され、従わなくても貶されることになる。
 加えて、私たちはみな男による女のイメージの洪水に襲われている。歴史的には美術や文学で、今はあらゆる種類の大衆メディアで。現代の新聞、雑誌の広 告、テレビ、その他のメディアに溢れる女性の体のイメージの渦を考えるがいい。かつては、女たちも、商品を売り空想を引き起こすために利用される女の体の 写真にいつもいつも曝されていたわけではなかった。写真革命以前、ほとんどの女性は女の体のイメージを見せつけられることは滅多になかったのである。とこ ろが今、私たちはみな、いつもイメージに溺れかけている状態である。
 8百万のアメリカ女性が、ウェイト・ウォッチャーズ(体重監視)に登録している。アメリカでは毎週毎週1万2千ものクラスが開かれ、痩身というジェン ダーの意味を広め、強化している(ウルフからの引用、1991、p.125)。女も男も入り混じった家族、学校、職場にいたるまでどこでも、女の外見はし ばしば達成と責任に先立っているので、私たちの多くは痩せたいという欲求から逃れることができないと感じている。女子校とか女性グループのような同性同士 の場ですら、痩せていることは能力や支配感と結びつけられることが非常に多い。
 アンジェラが食物を取ることができないのは、女性が食べる楽しみを自分に禁じているという広く見られる傾向を誇張したものである。食物を取ることは、楽 しい経験から喜びを引き出す能力と、嫌なことにも効果的に直面できるという能力を含んでいる。強い自己批判能力がありながら無力感を感じることが摂食障害 の女性に見られる(Brink & Allan, 1992, p.289)。これらの感情は次のような夢に表れている。これは摂食障害の若い女性の夢である。
私には赤ちゃんがいて、いつもそのことを忘れてしまう。赤ちゃんを外に置いてけぼりにして風邪をひかせてしまう。また赤ちゃんのことを忘れてしまったの で、ある時もうだめだと罪悪感を感じる。ママとパパに会ったら、彼らが赤ちゃんの世話をするのを手伝いたがっていたことを思い出す。とっても罪深く、赤 ちゃんのために悲しい気持ちになる。私はとても赤ちゃんを愛したい気持ちになるが、どうしてもうまくいかない。(Brink & Allan, p.290)
赤ん坊を忘れてしまうという夢を見た摂食障害の女性は彼女以外にいないが、夢のなかで赤ん坊の世話をしたり、忘れたことを償う方法を見つける夢はよくあ る。どの人も、自分に安全や不安を与え、自分を養うことを回避することを感じさせる傾向にある世話人との早期の関係パターンを内在化してしまっている。と 言っても、女性たちは、自由に食べたり、食欲と感情に基づいて食べ物を楽しむということに関して、尋常でない困難な環境に直面している。
痩身にたいする文化の規準がもっとも先鋭に感じられるのは、硬直した性的ステレオタイプが男性集団、女性集団を支配する思春期である。私たちの多くは思春 期の基準を永久に持ち続けるので、この発達期間は摂食障害の女性を治療するさいに徹底的に理解される必要がある。思春期はまた、食物と性のもつれが、セク シーでありたいという感情と痩身を混同し始める時期でもある。
異性愛の女性の最近の経験では一般に、性的歓びの女性本来の能力(たとえば複数のオーガズムやクリトリス・オーガズムの得やすさなど)が反映されていな い。専門家によるものでも、大衆的なものでもほとんどの調査で、異性愛の女性は性的欲望の低さ、しばしば喜びの低さが報告されている(Young- Eisendrath, 1993, pp.374-75)。
思春期の女の子たちは自分自身の欲望や歓びからでなく、自分たちがいかに「欲望の対象」にならなければいけないかという点から、性に導き入れられる。それ 以前になされていなければこの時点で、痩身が定式の主な構成要素となる。コントロールの感覚が男の欲望の対象になることに組み込まれる。つまり、食事をコ ントロールすれば、私は力を持ち、性的であることができるのだ。ここで「性的である」という定式は、自分の歓びを選び、感じ、遂行する、自分自身の欲望の 主体であることとは関係がない。ウルフ(1991)は、とくに広告、テレビ、映画が女性のセクシュアリティに及ぼす影響について強調する。彼女によれば、
女の子たちは男の子といっしょになって、自分の性を見張ることを学ぶ。そのため、本来ならば、自分が欲するものを探したり、それについて読んだり書いたり したり、求めて得ることに費やすべき空間がなくなってしまう。性は美の人質となり、女の子たちの心の奥に早くから身代金という言葉が刻み込まれる。 (p.157)
 自分自身の性的歓びを学んでいないから、私たちは、パートナーに教えることができない。女性のセクシュアリティについて男性の視点から(女性の視点から はほとんどまったくと言っていいほどない)あまりにもたくさんのイメージを受け取りすぎて、たいていの女性はいかにしたら性的な歓びを得られるかではな く、いかにしたらセクシーに「見えるか」だけを知っている。社会化の結果、私たちのほとんどがスマートな外見と性的な感情を混同している。
 アンジェラの個人史は女性のセクシュアリティと摂食障害との結びつきの他の部分を補ってくれる。それは、女の子、女性に対するセクシュアル・アビューズ と暴力の問題である。暴力や虐待は、男が女にするものであり、しばしば圧倒的と思われるほどひどいものである。現在、3人に1人の成人女性が子ども時代に 性的な虐待を受けたと報告されているのに対し、男性は9人に1人である。男女ともにこれらの虐待を加えているのはほとんど大部分(どこでも85%~98% と報告されている)が男性によるものである。身近な家族が女性を虐待する傾向が強いのに対して、見知らぬ者が男性を虐待することが多いようである (Young-Eisendrath, 1993, pp.375-76)。
 アメリカ女性の25~45%がレイプ、もしくはレイプ未遂の状況を生きのびてきた(Beneke, 1982)。大衆的な異性愛のイメージではセックスと攻撃性が混ぜ合わされ、今やMTVからニューヨーク・タイムズの広告にいたるまで、女性に対する暴力 が「セクシー」だとか、女性を支配しようと思えば、セックスと暴力をミックスしなければならないのだと若い人々を説得している。
 多くの摂食障害の女性たちは、アンジェラのように、暴力や虐待に体を支配された経験を持っている。しかも、しばしば保護してくれるはずの世話人の男によってなのである。ここにあるのは、アノレクシアの女性が過食の時期に見た夢である。
父が私を抱き倒す・・・私たちは実際にセックスをしている・・・私は目隠しされているが、目隠しがずり落ちる・・・確かに父である・・・私は暴れ叫ぶ・・・ついに目が覚める。(Brink & Allan, p.79)。
 悪魔のような強姦魔、殺人として現れる性的に支配する男のイメージは、摂食障害の女性にも治療で出会う他の女性にもすべてにあまりにありふれている。夢 は性的歓びに関して多くの女性が感じている、圧倒され、目隠しされているという感情的テーマを描写している。
 食物、性、攻撃性の複雑なもつれは、信頼と歓びに多くの制限を加える。ここにアノレクシアの女性の夢がある。彼女は危機的なほど体重減少し、治療を拒ん でいた。彼女の夢は、決して得られない性的歓びと無力な怒りに、美の神話が手の尽しようがないほどにもつれていることを表現している。
姉と私はショッピング・センターにいる・・・化粧品のカウンターに商品を並べている女性がいる。私たちは彼女に情報を求め、彼女はわかりにくい説明をす る。突然、大きな腫れ物が彼女の首にできる。それは息をしているように見える。彼女の首が裂け、彼女は倒れる。大きな黒い蛙が傷の中に座っている。獰猛な 爪である。その女性は今にも死にそうだが、誰も彼女を助けようがない(傍点著者)。蛙は後ろを向き、彼女ののどから胸の中へともぐり込む。(Brink & Allan, 1992, p.287)
 食物と性に歓びをほとんど感じられない女性に頻繁に見られる症状は、自分に向けられた怒りの凶暴さと不吉な感じである。怒りと不吉さは早期の家庭環境の 産物であるばかりではない。女性の体を脅かす文化の状況をも物語っている。それは、女性の容貌に内在化され投影された基準の状態であり、女の子や女性に加 えられる暴力の状態であり、結果的に女たちの自己評価を下げ自己嫌悪に陥らせて、さまざまな形の精神病に陥れる危険さえあるものである。
 どの発達段階でも女に対する男の暴力、攻撃性は、情け容赦なく女の攻撃性を伴う問題へと結びつく。多くの女性は、自分の欲求を勝ち取ったり、自己主張し たりすることに絶望し、混乱している。とくに、本来なら自分を愛してくれるはずの男から肉体的、情緒的に虐待を受けてきた場合はそうである。
 摂食障害についてのユング派、その他の精神力動分析では、伝統的にジェンダーへの気づきを排除し、その代わりいわゆる「母子関係の失敗」に焦点を当て る。母親を責めることは、今もなお精神分析のもっとも有害な副産物のひとつである。とくに摂食障害に関して言えば、父権制における女性の体についてのより 広い理解なしに、(現実的か象徴的かを問わず、どんな形であれ)母親に焦点を当てることは、臨床家をも大衆をもひどく惑わせることになる。北米、その他の 西洋社会のあらゆる女性の人生にあるダブル・バインド、食物と性と攻撃性のもつれを認識するのでなければ、愛着パターンから自己を点検する家族システム論 や関係モデルでさえ不完全で、効果のないものになるだろう。

【おわりに】

 美の神話と女の権威にまつわるダブル・バインドを認めることで私たちは解放され、北欧の女たち は、女だって健康な体のイメージ、健康な食生活、高い自己評価をまっすぐに伸ばしてよいのだと信じることができるようになる。女性が自分の食欲と歓びにつ いて学ぶことに信頼と自由を厳しく制限するような危険もトラウマもある。しかし、これらのダブル・バインドを明らかにすることで、私たちは、男のように発 達できないことで女を(そして母親を)責めるのをやめることができる。女性の発達についてのこれらの問題にははっきりした健康の基準がないため、治療者 は、アンジェラのような女性を取り巻くダブル・バインドに気づいておく必要がある。治療的な査定をする時に、特定の女性クライエントの治療の欲求を理解す るダブル・バインドとコンピテンスの両要因を含めなければならない。
 自分の個人的な福祉を危険に曝すような食習慣を持つ女性たちの生活に介入するとき、私たちはいつも次のことに気づく。夢と症状における彼女たちの象徴的 表現は、私たちが女性の体を支配している文化的、社会的状況を変えるために行動しなければ、無力なまま不屈な運命にまもなく襲われるであろうということを 私たちすべてに語っているのだと。私たちが不自由な基準と美は力なりという間違った前提から女性の体を解放するまでは、女でも男でも、食物、性、攻撃性と の関係を癒すことはできないだろう。

〔注釈〕

2頁 クライエントの考えや行動の文脈を彼女のピア・グループでのジェンダーとその発達という観点 から捉えることは、違った集団では違った身体イメージの理想が作られるのだということを認識することである。摂食障害がもっともおこりやすいのは、産業社 会で上層部にある社会経済集団であると報告されている。私たちの社会では、ほとんどの摂食障害女性が白人である。アフリカ系アメリカ人についての研究で、 白人社会に同化していればいるほど摂食障害の問題を持ちやすくなることがわかっている。摂食障害を持つ全人口の5~10%だけが男性であるが、この問題で 治療を求めた男の50%以上が同性愛であった。これらの統計は、エリン・カシャック(1992)の『危険に曝された命-女性の経験についての新しい心理 学』(Basic Books)からとった。「食事」の章を参照のこと。

文献

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(以上、村本邦子訳)

『女性ライフサイクル研究』第3号(1993)掲載

1993.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』第3号(1993年11月発行)

※この号は売り切れました。

特集《ダイエットから摂食障害まで》


report03.gif現在、我が国でも痩せ礼賛の風潮はますます強まり、ダイエット本やダイエット食品、シェイプアップ器具は巷にあふれています。また、「今ダイエット中よ」 という会話は日常茶飯事です。拒食、過食、嘔吐、下剤を使っての浄化すら特別なことではなくなってきており、摂食障害は顕著に増加してきています。場所や 時代が変われば美の基準が変わり、その基準に振り回されてしまう女性の体って、何なのでしょうね。「何かおかしいと思うけど、やっぱり痩せたい」という一 般の女性から、専門的な関心を持つ方まで、幅広く読んでいただけるようさまざまな角度から、この問題に迫りました。執筆者の中には過去に摂食障害を経験し た人も含み、フェミニストでありユング派の分析家である、P.Y.アイゼンドラスによる寄稿論文を掲載していることでもとても貴重なものになっています。

〈内容〉


基調論文「もつれ─女性の発達における食物・性・攻撃性」
1 臨床の現場から
2 女性心理と摂食障害(摂食障害と母娘他)
3 文化の中の摂食障害
その他、「子どもの性教育への提言」「性的虐待防止教育の試み」「体罰と子どもの人権を考える」


150頁

〈掲載論文〉
「もつれ」女性の発達における食物、性、攻撃性 ポリー・ヤング・アイゼンドラス、Ph.D(訳村本邦子).
特集 ダイエットから摂食障害まで 特集にあたって 村本邦子

1992.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
チャイルド・セクシャル・アビューズとは何か?

村本邦子(女性ライフサイクル研究所

1 はじめに

 チャイルド・セクシャル・アビューズは、我が国では一般に「児童性的虐待」と訳され、社会福祉に 関わる現場や医療、法律関係者のあいだでは、「親やそれに代わる保護者によって子どもに非偶発的に加えられる」性的虐待のことを指している。つまり、身体 的虐待、養育の怠慢・拒否、心理的虐待と並ぶ「児童虐待」の一型である。しかしながら、上に挙げた専門家以外の人々のあいだでは、一般に通り魔のような異 常者による性的逸脱行為を伴う犯罪が連想される傾向がある。近親姦が話題にされると「まさかそんなこと、よっぽど異常な家庭ではごく稀にあるのかもしれな いけれど、普通の家庭ではあり得ないわ。性的虐待って、家庭内の問題じゃなく、関わりたくもないような変質者に不幸にして捕まってしまった時に起こる災難 みたいなものじゃないの。」というのが、ごく普通の人の反応である。どちらにしても近親姦もしくは異常者の犯行という特殊な問題として理解されているため に、この問題は一般の関心から外れてしまい、その限り、これは社会問題になり得ないし、その本質は見逃されることになる。そこでこの特集ではまず、チャイ ルド・セクシャル・アビューズの定義に戻り、家庭内での性的虐待という専門家の理解と、家庭外での変質者の犯行という一般の理解に二分割された問題が実は つながっており、この二分割のあいだに数知れないたくさんの性的虐待が闇に葬られ無視されているということ、これが特殊な領域の問題ではなく、もっと身近 で普遍的な問題であり、一刻も早く社会問題として捉えられる必要があるということを論じていきたい。
 本章の論点はふたつある。まず第一は、チャイルド・アビューズ一般の問題、そしてその下位概念としてのチャイルド・セクシャル・アビューズの問題、第二 にチャイルド・アビューズの一型に限定していては論じきれないチャイルド・セクシャル・アビューズのセクシャル・アビューズとしての一面についてである。
 なお、筆者はチャイルド・セクシャル・アビューズという片仮名を用いているが、これは、「児童性的虐待」という言葉からすでに連想される以上のような先 入観を取り敢えず置き、まずはこの概念が(日本の文化の)外から入ってきたというところから新しく考え直して欲しいと思うからである。

2 チャイルド・アビューズ(児童虐待)一般について

(1) チャイルド・アビューズという概念の歴史

そもそも児童虐待という概念が注目されるようになったのは、1874年にアメリカで起きたメリー・ エレン事件がきっかけだったとされている。ニューヨークに住んでいたメリーは継親に殴られ、飢え死にしそうになっているところを発見された。しかし、当時 は虐待された子どもを保護する法律がなかった。そこで市民は動物虐待防止協会を説得し、彼女を広義の「動物」として、少なくとも犬や馬に与えられるのと同 じ保護を受ける資格はあるとした。これをきっかけに児童虐待防止や保護のための団体がつくられることになった。この事件が社会問題として大きく取り上げら れたということは、似たようなケースが表沙汰にならないまでも多く存在していたことを示すと同時に、虐待という概念を人々が受け入れられるだけの基盤が出 来つつあったということを示している。
虐待という概念は人権という概念とワンセットである。人間の権利が人間の普遍的な権利として主張され、宣言されたフランス革命は、今から200年前のこと であるが、この人権という概念の背後にはギリシャ時代からすでにテーマとなっていた平等という概念がある。アンティフォンは、「自然によれば、万人は平等 である。野蛮人もギリシャ人も。なぜなら、誰もが口と鼻で呼吸し、手で喰うからである」と言った。カルビン派は宗教革命で「神の前には、主人も奴隷も、男 性も女性もみな平等である」と説き、トマス・ペインは人権の根拠を「それは人間が人間であるという、その自覚の中にあるのだ」とした。したがって、人類の 歴史が人権という概念を徐々に形づくっていったというよりは、むしろ人権という概念は早くからあって、「人」に含まれる人々が徐々に増えていったと言う方 が適切であるが、子どもの人権について言われるようになるためには、「子ども」という概念ができるのを待たねばならなかった。
アリエスによれば、「子ども」が発見されたのは17世紀である。それ以前はあまりにも多くの子どもたちが死んだり、殺されたりしていたせいで、子どもは一 種の匿名状態にあったというのだ。モリエールは「小さい者は数のうちに入らない」と言い、モンテーニュは「精神の作用も、それと認めうる身体の形も、子ど もたちにはみられない」と言ったし、パスカルは「子どもは人間ではない」と言いきった。このように理解される子どもは「人」のうちに入らない。子どもの人 権について考えられるようになったのは、やはり、ルソーの『エミール』からであろう。しかし、ルソーの念頭にあったのは男の子のみであった。アリエスも指 摘するように、子どもの概念はまず少年のためのものとして覚醒され、他方少女たちはさらに長期にわたり伝統的な生活様式のうちにとどまり、遅れをとること になった。フランス革命が女性を多く動員しながら、結果的には女性の人権を置き忘れたように。
このように「子どもの人権」という考え方は、比較的新しいものであり、これを理解するためには、ある面で、一定程度の意識のレベルが必要であり、社会の成 熟が不可欠なのである。我が国でもつい最近まで行われてきた間引きや人身売買、中国のてんそく、アフリカの方で現在も行われている女子割礼(男子の割礼と 違い、女子の場合はクリトリス切除である。この風習は世界各地に見られ、フランスでも18世紀まで行われていたという)などについては、現在の我々から見 れば虐待であっても、その社会では決して虐待とは捉えられない。我が国でも「子どもの権利条約」の批准が言われているが、いまだに批准していないことは、 我が国の社会がこの一定程度の意識のレベルにまだ達していないということを示しているのである。
アメリカでは、このように人々の意識が徐々に高まると同時に、医学の進歩によって虐待児の外傷をX線で診断できるようになったことが大きな影響を与えた。 初めて小児のX線撮影が行われたのは1906年であり、1946年にキャフィー(J. Caffey)が虐待された子の硬膜下出血と長骨のX線上の変化を報告した。池田由子によれば、1960年前後に児童虐待の第一次キャンペーンが展開さ れ、被虐待児のレントゲン写真を示すテレビ番組が何回か放映され、小児病院の医師の談話もよく紙上に登場していたが、当時は専門家も一般の人も「まさかそ んなことが!」というような反応だったという。このように、最初にチャイルド・アビューズを発見し問題視したのは、原因不明の外傷の治療という形で虐待児 に関わった小児科医たちだった。この時点でチャイルド・アビューズは、ケムペ(C. Kempe)の提唱により「殴打された子症候群(battered child syndrome)という医学用語に代表されていた。
こうして虐待が特殊なケースではなく、大きな社会問題なのだと認識され、人々の意識が高まると、チャイルド・アビューズは決して目に見える外傷を残すもの に限られないことが理解されるようになり、身体的虐待だけでなく性的虐待をも含むようになり(性的虐待が問題にされるようになったのも、初めは性器の外傷 や妊娠という目に見える被害からだと推測されるが)、さらに心理的虐待、そして積極的に虐待するわけでなくても養育を差し控えるという形での消極的行為を も「保護の怠慢ないし拒否(ネグレクト)」として虐待と見なすようになった。これが我が国にも導入され、1973年厚生省による児童虐待に関する全国調査 が行われることになるが、その時、虐待とは「暴行など身体的危害、長時間の絶食、拘禁など、生命に危険を及ぼすような行為がなされたと判断されたもの」と 定義され、遺棄とは「いわゆる捨て子として受理したもの。病院、施設、駅構内に置いたまま、実父母等が行方不明になったもので、親族に置き去ったものを除 く」とされた。つまり生死に関わるほどの身体的虐待とネグレクトに限定されたのである。すでに述べたように、虐待という概念を理解するためには、一定程度 の意識のレベルが必要である。この時点で、我が国のレベルは虐待が発見され始めた頃のアメリカのレベルと等しい。

(2) これまでのチャイルド・アビューズ理解の問題点

 1974年にアメリカで交付された「児童虐待の予防と治療に関する法令(Child Abuse Prevention Act)」での定義は、「18歳以下の子どもに対し、その子の福祉に責任のある人間が、身体的傷害や精神的傷害を加えたり、性的暴行をしたり、保護を怠っ たり、残酷な行為をして、子どもの健康や福祉を脅かし、あるいは損なうことをいう」だった。ところが、我が国で1983年に実施された児童虐待調査研究会 の全国調査では、「親、または、親に代わる保護者により、非偶発的に(単なる事故ではない、故意を含む)、児童に加えられた、次の行為をいう。云々」と定 義されたのである。ここに問題を見るかどうかは、「その子の福祉に責任のある人間」の部分の解釈の問題と言えるだろう。我が国では懲戒権という権利を保証 することで親権者は一般人と異なる特別な地位が与えられている。また、虐待を知った人に通報義務はあってもこの義務を怠った時の罰則はない。つまり、我が 国においては、「その子の福祉に責任のある人間」と「親、または、親に代わる保護者」とはほとんど同じものだと理解されており、そうであるがゆえに、法は 家庭に入らずと言われる。池田由子も親の性的虐待(近親姦)が刑法上の罪に問われず、それがもっぱら道徳の範疇に納められていることを指摘しているが、果 たしてこれは正しい解釈だろうか。筆者は、このように読み取るところに日本人のあり方が表現されているように思えてならない。特定の子どもに対して「親、 または、親に代わる保護者」が一般人より思い責任を荷うのは当然であろう。ところで、見ず知らずの子どもが目の前で溺れかかっている時、その子を助けるた めに何もせずただ見ていたとすれば、その人に罪はないだろうか。それも道徳の範疇に納めるべきというのであれば、もはや法は不用だろう。筆者の言いたいこ とは、何の関わりもない子どもであっても、大人は子どもの福祉に責任があり、少なくとも目の前にいる、あるいは身近にいる子どもに対して、その責任を果た す義務があるのだということである。ところが日本人の性質として、よその子には遠慮して介入しないという傾向がある。まず、それを明確にした上で、筆者は 通報義務に罰則が必要であると考える(ただし、アメリカのように誤報であった場合の免責規定も必要だろう)し、虐待を「親、または、親に代わる保護者」に 規定する必要はないと考える。行きずりの子どもを殴ったら、それはチャイルド・アビューズであり、行きずりの子どもに性的暴行を加えたら、それもチャイル ド・アビューズである。
 もちろん、「親、または、親に代わる保護者」のケースをその他のケースと区別して対処しなければならないことは言うまでもない。この場合、虐待という事 態に加えて、子どもが育つ権利をも侵害するという二重の被害が含まれているからである。子どもは家庭で世話され愛情を注がれることによって身体的にも精神 的にも成長する存在であり、その基本的要素が満たされないことは、致命的である。行きずりの虐待は家庭という癒しの場を持つが、家庭内の虐待はどこにも逃 げ場を持たない。このように緊迫した問題として、家庭内のチャイルド・アビューズが真先に問題になったことは理解できるが、しかし、チャイルド・アビュー ズというからには、それを家庭内に規定するのでなく、家庭内の虐待に関してはまた特別のカテゴリーを設けて理解するのが適切であると提唱したい。この定義 にこだわるのは、すでに述べたように、ことセクシャル・アビューズに関して言えば、加害者は「親、または、親に代わる保護者」によることもあるし、それ以 外の場合も多いからである。ここで定義を明確にして統一しなければ、今後どれだけ念入りに調査が行われても笊の目であろう(アメリカでは、さきほど紹介し た「児童虐待の予防と治療に関する法令」が規定されて、虐待の報告が5倍に増えたという)。
 なお、日本では一般にCAPAの定義が「18歳以下」と訳されているが、原語は"under the age of eighteen"であり、「18歳未満」の誤訳ではないかと思われる。「18歳以下」であろうと「18歳未満」であろうと基本的にかわりはないわけだ が、今後外国のデータと比較調査する際に統一されている必要はあるだろう。今後「子どもの権利条約」に批准するものと期待するならば、「子ども」の定義と して他の項目とも統一される方が良いのではないかと考えられる。

3 セクシャル・アビューズ(性的虐待)としての一面

 これまでのチャイルド・セクシャル・アビューズ理解の問題点は、それがこのようにチャイルド・ア ビューズの下位概念として「家庭内」に限定された点だったが、それに加えて、チャイルド・セクシャル・アビューズはチャイルド・アビューズであると同時に セクシャル・アビューズでもあるという点が見逃されてきた。セクシャル・アビューズという点からこの問題を語るならば、そこにはレイプやセクシャル・ハラ スメントといった性暴力と共通するものがある。イタリアの「性暴力法」の原案では、第一条で「性暴力とは、女性の合意を得ない行為をいう」とされ、アメリ カ、ウィスコンシン州の「性暴行法」では暴行とは相手の意思に反した行為だとされているとのことであるが、主として男が女をその物理的力、社会的力などを 利用してほしいままにするということである。
 アビューズ(abuse)とは本来「力の誤用、権力の濫用」の意味であり、力関係で上にある者が下にある者に対してその権力を誤用したり乱用したりする ことを示す。内藤和美(1991、p.43)は、それをふまえて、性的虐待は「構造的な力関係のもとでの、力をもつ者からもたない者への性的強制力の行 使」と定義し直すことができるのではないかと示唆している。この場合、「構造的な」とは、個人の力では容易に変更できない一定のパターンとして社会に存在 するということであり、男と女、大人と子ども、富裕な者と貧しい者など様々な組み合わせが考えられ、それは偶然そうであるという関係の中で行使される力に はない社会的後押しがあり、当たり前のこととして正当化される危険を孕んでいるという。たとえば、女よりも男の方が権力を持ちやすく、性行為に関して、男 の方が攻撃的であるよう後押しがなされている社会である以上、男と女の性には構造的な力関係があると言える。
 このようにフェミニズムの視点からチャイルド・セクシャル・アビューズの問題を論ずるとすれば、チャイルド・セクシャル・アビューズの被害が軽視されて きた理由として、レイプが強姦罪として成立しにくいのと同じ社会的背景を問題にしなければならないだろう。一般に、見知らぬ男によって生命に危険を及ぼす ほど著しい暴力とともにレイプされたケースを除けば、被害者の責任が問われるのがふつうである。なぜこのようなことになるのか、つまり、レイプが本人の意 思に反して加えられる暴力でありながら、加害者の罪よりも被害者の責任が問われるという理不尽な結果になるのは、この社会に「強姦神話」が流布しているか らだと言われている。弁護士である段林和江によれば、この「強姦神話」には、たとえば以下のようなものがある。

a. 強姦されるのは、被害者に責任(落ち度、軽率、挑発)があるからだ
b. 本当にイヤだったら、最後まで抵抗できるはずである
c. 顔見知りのあいだでは強姦にはならない、合意があったのではないか
d. 女性には強姦願望がある
e. 普通の男性は強姦など行わない、強姦は特殊な男性の反抗である
f. 性的欲求不満が強姦の原因である

 ひとつの強姦事件を例に挙げるならば、昭和53年広島で、「被告が知り合いの人妻に恋慕し、同女 を詐言をもって人気のない場所へ誘い出し、恋慕の情を打ち明けたが、同女が帰らせて欲しい等と言い出したので、この機会を逃すと同女と性交することができ ずに終わるだろうから、この際何とかして同女と性交してしまおうという気になり、同女を口説きつつ、車内で、泣き出す同女を姦淫した」という事件があり、 無罪となった。男性である裁判長に言わせると、「およそ男性が、座っている女性を仰向けに寝かせ、性交を終えるについては、男性が女性の肩に手をかけて引 き寄せ、押し倒し、衣服を引きはがすような行動に出て、覆いかぶさるような姿勢となる等のある程度の有形力の行使は、合意による性交の場合でも伴うもので あると思料されるところ」であるから、何ら特別な暴力が使われた証拠もなく有罪とは見なしがたいというのである。この裁判長がふだんどのような「合意によ る性交」を行っているのか想像したくもなるが、レイプであったか否かを決めるものは暴力が使われたかどうかとか、被害者が抵抗したかどうかなどと関わりな く、被害者の意志に反していたという一点である。
 子どもに対するセクシャル・アビューズも同様で、暴力が伴わない猥褻行為に社会は非常に甘い。また、子ども自身がa~dの神話によって自分の落ち度を恥 じ、咎められることを恐れて助けを求めることもできない。万が一、子どもが助けを求め事件が取り沙汰されたとしても、e fの理由で、ごくふつうの男性である加害者は「犯人」などではなく「ちょっとした気の迷い」もしくは「欲求不満」によって過ちを犯してしまった哀れな男と して、むしろ世間の同情を買いさえする。
 チャイルド・セクシャル・アビューズを考える時、このようなセクシャル・アビューズとしての一面を見逃すならば、大きな過ちを犯すことになるだろう。つ まり、チャイルド・アビューズは大人vs子ども、セクシャル・アビューズは男vs女という構造的社会背景を持っている。もちろん「構造的な」と言うからに は、一般傾向について言っているのであり、必ずしもチャイルド・セクシャル・アビューズが大人によって子どもに加えられる、男によって女に加えられるとい うわけではない。後に述べるように、子ども同士で起こるチャイルド・セクシャル・アビューズ、大人の女から男の子に対して加えられるチャイルド・セクシャ ル・アビューズも問題にしていく必要がある。この場合でもアビューズの背景になっている「力関係」に眼を向けることは非常に有効である。子ども同士では、 発達の違い、知能や腕力の違いによる力関係があるし、女性による加害の場合、女性が大人であることに加え、母親であったり教師であったりと、子どもに対し て力を持っている場合がほとんどである。しかしながら、これらのケースは非常に少なく、おおまかには大人vs子ども、男vs女という構造的力関係で考えて よいと考えられる。

4 チャイルド・セクシャル・アビューズの定義

 それでは、アメリカではチャイルド・セクシャル・アビューズの定義はどのように捉えられているの だろうか。アメリカであってもその定義と分類は、この語を用いている者がどの専門分野に属するかによって違ってくる(しかしながら、我が国のようにチャイ ルド・セクシャル・アビューズを家庭内に限定するという根拠はどの専門分野にも見当たらない。あるとすれば、一昔前、つまりチャイルド・セクシャル・ア ビューズの概念が出来始めた頃の定義である)。法律関係、医者、精神衛生関係者たちが、それぞれこの問題にどのような関わり方をするかによって、独自の定 義を持つからである。たとえば、法律関係者ならば、強姦、和姦、ソドミー、強制猥褻、オーラル・セックス、物を使った性器もしくは肛門への挿入、性的搾取 などというふうに分類し、どう起訴するかが問題となるし、医療関係者であれば、多くのチャイルド・セクシャル・アビューズが外傷を残さないため、子どもを 支持してチャイルド・セクシャル・アビューズを証明するための検査が必要である。チャイルド・セクシャル・アビューズの身体的症状として、あざ、擦り傷、 歯形、SDT、下着の血痕、性器周辺のあざや腫れ、肛門、性器、胃腸、膀胱周辺の痛み、了解不可能な性器の傷、陰唇への傷などを子どもの証言にあわせて順 にチェックすることになる。
 ここでは、精神衛生に関わる専門家、しかも犠牲者中心アプローチを取る立場の専門家による定義を紹介しよう。この犠牲者中心アプローチというのは、チャ イルド・セクシャル・アビューズを扱う上での基本的ものの考え(philosophy)であり、専門家がチャイルド・セクシャル・アビューズを扱うさい、 常に、犠牲者の利益を心にかけ、それを追求しなければならないとするものである。つまり、その子どもを今後チャイルド・セクシャル・アビューズから守り、 感情を解き放す助けになることを問題にし、その他の利益は後回しにしなければならない。さて、チャイルド・セクシャル・アビューズとは、異なった発達段階 にある者同士の間に起こり、より発達の進んだ方が性的満足を覚えるあらゆる行為のことである。これは加害者も被害者もひとりであるということを前提にした 説明であるが、当然、加害者も被害者も二人以上のことがある。通常は大人対子どもで起こるが、子ども同士で起こることもある。加害者が思春期の子どもで、 被害者が潜伏期の子どもであることもあれば、同年令で、片方が発達遅滞ということもある。この定義に挑戦して、セクシャル・アビューズは性的行為なのでは なく、その背後に別の動機が隠れているとする専門家もいる。性的満足が唯一の動力でないことは確かだが、それがひとつの役割を果たしていることもまた事実 であり、その意味で他の行為とは区別できる。もちろん、被害者の方が何らかの性的興奮、快感を経験したとしても、セクシャル・アビューズであることに変わ りはない。加害者と被害者が身体的に接触する場合もあるが、身体接触がない場合もある。細かい分類は次のとおり。

(1) 身体接触のないセクシャル・アビューズ

a. 性的語りかけ...「君とやりたいなぁ」などと子どもに言うだけでもセクシャル・アビューズである。
b. 露出...加害者が自分の性的な部分(胸、ペニス、バギナ、肛門)を露出したり、被害者の目前でマスターベーションをするなど。
c. のぞき...被害者が着替えるのをこっそり、あるいはじろじろ観察するなどして性的満足を得る。おむつ替えや子どもが風呂に入っているのを見るなど、外目にはそれとわからない場合もある。

(2) 性的部分を触るセクシャル・アビューズ

性的な部分を触ること。胸、バギナ、ペニス、お尻、肛門、会陰周辺部。加害者が被害者を愛撫する、加害者が被害者に愛撫させる、相互に接触するよう強要する場合がある。衣服の上からの場合もあれば、直接の場合もある。

(3) 口と性器でのセックス

子どもの性器への、もしくは子どもに強制するクンニリングス、フェラチオ、アナリングス。

(4) 大腿骨のあいだでの性交

子どものももとももの間にペニスを押し付けてする性交のことで挿入はない。子どもが小さすぎて挿入ができない場合、子どもを処女のままにしておきたい場合に使われたり、大きい子どもであれば、避妊を避けるために使われるやり方である。

(5) 性器の貫通

a. 指での貫通...バギナや肛門に指を入れるものであるが、口に指を入れるというのがセクシャル・アビューズであることもある。子どもの指を加害者の性器に入れさせるというものもある。これは、性器や肛門での性交に発展する場合がある。
b. 物での貫通...これはケースとしては非常に少ないが、道具を被害者の穴(バギナ、肛門、口)に入れるもの。
c. 性器での性交...ペニスをバギナに入れるもの。被害者のサイズと合わないので加害者の性器は部分的に入れられる。約半数のケースが射精にまでいたる。ほとん どの場合、加害者が男、被害者が女であるが、その逆の可能性もある。その場合、被害者は比較的年長で思春期のことが多い。
d. 肛門での性交...加害者のペニスを被害者の肛門に入れる。被害者が男のことが多いが、女のこともある。後者の場合、加害者は妊娠を避けようとしていることも あるし、それ以外のセクシャル・アビューズと併用してこの方法を用いることもあれば、加害者が被害者に非常に腹をたてていることもある。

(6) 性的搾取

加害者が直接子どもと性的接触を持って満足を得るのではなく、加害者は子どもを性的に使って金儲けをするという場合が多い。
a. 子どものポルノグラフィー...子どもの写真を撮ったり、映画やビデオを撮る。これを個人的に見て満足を得る場合もあるが、ポルノ製作者と取り引きして売るこ ともある。子どもとの行為にのめりこむのではなく、子どもを物と見るという点でこれまでのセクシャル・アビューズとは異なる。子どもに誘惑的なポーズをさ せることもあるが、入浴などごく普通の行為を撮り、観察者を性的に興奮させることもある。家出した子どもが営利目的の大人に利用されることもあるし、両親 が子どもをポルノグラフィーの対象にすることもある。
b. 強制的売春...被害者は男の子も女の子もあり得るが、加害者はほとんど男である。強制的売春の被害者となるのは家出した子どもが多い。家庭が自分を保護して くれないと考えて家出した子どもが生計を立てるために売春をやるはめになる。ふつう子どもが自発的にこの商売を始めるのではなく、斡旋して金儲けする大人 がいる。

(7) 他のアビューズと一緒になったセクシャル・アビューズ

以上に挙げたようなものがセクシャル・アビューズであるが、これらは非常に多くのバリエーションや 組み合わせがある。排尿や排便が何らかの役割を果たしたり、薬物やアルコールが与えられることもある。チャイルド・セクシャル・アビューズを別の子どもに 見せたり、加わるように強制させるケースもある。
 これらをそれぞれ、家庭内のセクシャル・アビューズと家庭外のセクシャル・アビューズに区別する。
 細かな補足をするとすれば、被害者の年齢制限にはさまざまなバリエーションがあり、15歳までとするもの、16歳までとするもの、17歳までとするもの がある。また加害者と被害者の年齢差に制限をつける立場もある。5歳以上の差がある場合のみピックアップする研究と、10歳以上の差を設けるもの、加害者 は15歳、あるいは16歳以上と限定するものもある。しかし、ここで紹介した定義のように、子ども同士のセクシャル・アビューズでは、単純に暦年齢だけで は力関係を説明できないわけだから(精神年齢や体の大きさなども当然関係してくるだろう)、年齢制限を設ける必要はないというのが筆者の考えである。フィ ンケルホーは、同年齢の遊び仲間同士による虐待についても問題提起しており、とくに思春期の女の子が同年齢の男の子から性的な攻撃性を向けられ、それまで の経験からそれもチャイルド・セクシャル・アビューズだと感じることがあるという。日本の集団による子ども同士のいじめの問題も同様であるが、同年齢であ ろうと、そこに力の格差があり、被害者がアビューズと感じているならそれはやはりアビューズであろう。
 その他、セクシャル・アビューズを受けた子どもたちを救済するための施設スチュアート・ハウス(カリフォルニア)でボランティアを経験した弁護士の松尾園子は、セクシャル・アビューズを、1.incest(近親姦)2.child molestation(子どもに対する性的いたずら、不特定多数の被害者が発生することが普通)3.ritual abuse(ある種の宗教的信念にもとづくもの、いわゆる保育園などで起きた集団虐待事件)に分類しているが、とくに3つめのリチュアル・アビューズは我が国でも問題にしていかなければならないだろう。

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J.エニュー(1991)『狙われる子どもの性』戎能民江他訳、啓文社。

D.Finkelhor(1988)Child Sexual Abuse, Sage Publication

池田由子(1987)『児童虐待』中公新書。

池田由子(1991)『汝、我が子を犯すなかれ』弘文堂。

金城清子(1992)『法女性学』p.7~23、日本評論社。

近畿弁護士会連合会少年問題対策委員会(1992)『子どもの権利条約と児童虐待』

第20回近畿弁護士連合会大会シンポジウム第4分科会。

内藤和美他(1991)「こどもへの性的虐待に関する調査研究」 昭和女子大学女性文化研究所紀要8。

『女性ライフサイクル研究』第2号(1992)掲載

1992.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
チャイルド・セクシャル・アビューズを子どもの様子から知る指針

村本 邦子(FLC研究所)

 チャイルド・セクシャル・アビューズは、外傷などはっきりと目に見える結果を持つ場合と、子ども 自身の証言で知る場合を除くと、見過ごされる可能性が高い。それでも、アメリカの研究により、チャイルド・セクシャル・アビューズがあったことを示唆する 子どもの行動上の変化があきらかにされている。それをここでは参考までに紹介しよう。
 それによると、小さい子どもが年令不相応の性的知識や行動を示したりする場合はその可能性が非常に高いし、遊び友達やおもちゃを相手に異常で攻撃的な性 行為をしている場合もそうである。とくに乳幼児であれば、強迫的にマスターベーションに耽ることがあるし、十代前後の女の子であれば、異常に誘惑的な態度 を示すこと、乱交、妊娠が指標になるし、男の子はホモセクシュアリティに過剰な興味を示すかもしれない。その他、チャイルド・セクシャル・アビューズの指 標になる行動は次のとおりであるが、もちろん以下のような傾向が見られたからと言って、必ずしも背景にチャイルド・セクシャル・アビューズがあると断定で きるわけではない。以下のような症状は、子どもの通常の発達過程において見られることもあるし、それ以外の何らかの心理的問題が引き金となっていることも あろう。少なくとも、一時的に子どもが不安定な精神状態にあるとは言えるので、状況によっては注意しながら見守ることも必要だし、原因が思い当たらない、 緊急性があると感じられるならば、可能性のひとつとしてチャイルド・セクシャル・アビューズを疑ってみて、専門家に相談することも必要だろう。

誕生~5歳の子ども

a. 特定の人物や場所を怖がる
b. 強い恥意識や罪悪感を持つ
c. 嘔吐、摂食障害、腸傷害、睡眠障害などのような身体症状
d. 夜尿、人見知り、分離不安、指吸い、赤ちゃん言葉、ぐずる、しがみつくなど小さい時の状態に退行する
e. 発達不足

6~9歳

a. 摂食障害(過食、小食)
b. 不安、恐怖症、あまりに強迫的な行動を取る
c. 悪夢、その他の睡眠障害
d. 腹痛、排尿の困難などの身体症状
e. 学校での問題行動、態度や成績の著しい変化

10~12歳

a. 家族や友人から離れて引き篭もる
b. 抑鬱
c. 悪夢、眠ることに対する不安、長時間にわたって眠り続ける
d. 学業不振
e. 不法な薬物やアルコールの使用
f. 学校へ早く来たり、遅く帰ったりして家庭にいることを怖がる
g. 年齢不相応な身体についての自意識過剰
h. 攻撃性

13~15歳

a. 家出
b. ひどい抑鬱
c. 不法な薬物やアルコールの使用
d. 自殺を考えたり、それをにおわす態度
f. 学校の無断欠席
g. 学業不振
h. 体育の着替えを拒否する
i. 更衣室やトイレを怖がる
j. 正当な理由もないのにお金や新しい服、贈り物を持っている
k. こっそり泣いている
l. 攻撃的行動、非行
m. 処女でなくなったことを悲しむ
n. 自分のコントロールを超えた状況に追い込まれることに激怒する
o. 自己評価の低さ

 親を始め周囲の大人がこのような知識を持ち、チャイルド・セクシャル・アビューズの可能性を疑う 場合、うまく子どもから話しを引き出してあげられるような雰囲気をつくる必要があるだろう。もちろん、子どもが自発的にこのような問題を話せる基盤が出来 ていることが望ましいが、それは容易なことではない。そして何らかのチャイルド・セクシャル・アビューズがすでに起こったことがわかったならば、親として どのような対応をしていくのかを次に紹介する。

『女性ライフサイクル研究』第2号(1992)掲載

1992.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
サバイバーと関わる人のための手引

村本 邦子(FLC研究所)

1 ケアされるべき対象は誰か?

 治療的ケアということを考える時、主な対象として3種類が考えられる。まず、チャイルド・セク シャル・アビューズの被害にあった子ども、それから、子ども時代に被害にあい、それが心的外傷となっている大人、最後にチャイルド・セクシャル・アビュー ズの加害者である。この特集の関心は、被害にあった子ども、子ども時代に被害にあった大人に対する治療についてであるので、加害者の治療は非常に重要な問 題ではあるが、他の研究に委ねたい。加害者について言えることは、罰則を重くすることも必要だが、それ以上に必要なのが治療だということである。治療を受 けない犯罪者は犯罪を繰り返す可能性が高い。そのため、加害者の治療はすなわちセクシャル・アビューズの防止策でもある。また、治療の結果、加害者が自分 の責任を認めるようになれば、子どもが自分の証言が真実であることを証明しなければならないという負担から開放されるという付加価値がある。
 4番目の可能性として、被害者を取り巻く周囲の人々も治療を必要とする場合があろう。とくに家庭内におけるチャイルド・セクシャル・アビューズの場合、 家族全員が問題を抱えることになるため、援助が必要となる。女性がレイプされた場合、その夫やパートナーにも実は援助が必要だということが認識されていな いために、しばしばレイプによって女性の体と心が破壊されるだけでなく、彼女の「関係」までもが破壊を受ける結果となるのと同じように、子どもが被害に あった場合、多かれ少なかれ親や他の家族のメンバーも傷つくものである。

2 被害にあった子どもへの対応で気をつけること

 子どもが被害にあった場合は、医学的な検査や治療、法的措置が必要であったり、とくに家庭内の被 害であれば、被害が繰り返されないように危機介入も必要になろう。子どもが被害にあった場合、その被害体験からのトラウマはもちろんのこと、それを報告し たさいの大人の対応や各専門機関をたらいまわしにされ、何回も繰り返し嫌な体験をしゃべらされることなど、二次的な被害によるトラウマが指摘されている。 清水隆則(1991)によれば、チャイルド・セクシャル・アビューズによる被害は初期トラウマ(事件直後に被りやすいもの)と長期トラウマ(事件後かなり の期間かかって形成される問題行動)とに分類され、初期トラウマはさらに内在因(虐待行為それ自体にかかわる被虐待児の反応)と外在因(虐待事件に対する 関係者や社会の反応)とに分類される。初期トラウマの外在因に関しては、事件の調査と処遇にかかわる専門職の数が多いほど、配慮を欠く専門職の取り扱いが あるほど、トラウマは増大する。また、被害児童が犯人の訴追手続きに証人などとして関わる方がトラウマは強くなると言う。この場合、トラウマは「親にまと わりつく」「特定の人を恐れる」「入眠障害」などの問題行動によって測られており、アメリカのデータをもとに相関関係が調べられている。彼の結論は、トラ ウマを増やさないための関係者の役割として、必要な場合以外事件を他人に口外しないよう家族を指導する、初期ケース処遇に関わる専門職は、処遇に際して是 非とも必要なものに限定する、児童が訴追手続きに巻き込まれる時はその危険性を心得ておく、たび重なる質問攻めを防止するなどの配慮が必要であるとしてい る。これらは、すべてすでに紹介した犠牲者中心アプローチに則るものである。
 子どもの証言がどこまで信用できるか、あるいはいかにしたら信頼できる証言を引き出せるかは、子どもに関わる大人の対応や理解にかかっている。子ども は、加害者を必ずしも嫌い怖がってばかりいるわけではなく、ふだんはその子をかわいがっているように思われる近親者が加害者であれば、その関係を子どもが 大事に思っている場合も考えられる。その場合、子どもは加害者をかばったり、証言を取り下げたりする可能性がある。また、加害者が親であれば、もう一方の 親を慮るあまり、子どもが告発するのを躊躇して機を逸する可能性もあるし、子どもが加害者の巧みな繰りに乗せられて、悪いのは自分であると信じたり、大人 にとっては非現実的にしか聞こえない脅しを子どもであるがゆえに容易に信じてしまうこともある。また、小さい子どもの自己中心性によって、自分は唯一無比 であり、自分の体験が他の人には決して理解できないだろうと信じてしまうこともある。その他、チャイルド・セクシャル・アビューズ適応症候群と言われるも のを紹介しておこう。これは、精神科医シュミット(R. Summit, 1983)によって指摘されたもので、セクシャル・アビューズにあった子どもたちがその状況に適応して生きていくために形成する症状である。この知識を持 つことは、治療を改善し子どもを効果的に支持するのに役立つだろう。
 チャイルド・セクシャル・アビューズ適応症候群の5つは以下のとおり。

(1)秘密の保持:子どもと虐待者の出会いは「秘密」である。子どもは、人に話しても信じてもらえないと思い込まされているし、恥ずかしく罪悪感もあり、話すことを恐れる。虐待者はしばしば、さらに子どもを威かす。
(2)無力感:子どもは信頼する大人との関係で無力感を感じる。それは固定観念にとらわれ助けを求められないという形で表現される。
(3)わなにかかり適応する:秘密が保持されるならば、子どもは虐待を受け入れるしかない。話せば家族が崩壊するからと家族を保つための重荷を背負わされ るわけである。ヒステリー症状を示したり、非行、反社会的行動、自傷などに走るメカニズムは、虐待された子どもが生き延びるための芸と言える。
(4)打ち明けるのが遅れたり、打ち明けることに葛藤を示したり、説得力を欠いたりする:持続している虐待はほとんどの場合、打ち明けられることがない。犠牲者は、家族の葛藤が引き金となって明らかになるか、思春期に入るまでは黙っている。
(5)撤回:子どもは近親姦について話しても、それを覆すようなことを言う。家族が撤回するよう子どもに圧力をかけ、我慢させようとするからである。

3 被害にあった子どもの治療

 次に具体的な治療に関してであるが、犠牲となった子どもたちにどんな援助が有効で、なぜそれが必 要かについての認識は不足している。子どもは実に回復力のある生き物であるためにアビューズによる影響は楽観視される傾向があり、「子どもだから忘れてし まうだろう」といった大人の願望が投影されることになる。しかし、子どもは年齢に応じてさまざまな発達課題を抱えており、セクシャル・アビューズによる衝 撃はこの発達課題の遂行の妨げになる。たとえば、小さな子どもは自分の欲求を現実に合わせてコントロールすることを学んでいくが、早期にセクシャル・ア ビューズを受けると子どもは激しい性的感情に圧倒され、自制心を身につけることが困難になる。このような子どもたちは、治療の場で特別な訓練を受けた治療 者によって、激しい性的で攻撃的な行動を伴う出来事にしっかり対応してもらう必要がある。
 子どもの治療には遊戯療法が行われるのが普通で、アメリカで試みられているのに、操り人形遊び、人形遊び、物語をつくる、自分が主役の絵本をつくるなど がある。操り人形は既製の動物や人形を使ったり、紙袋にクレヨン、マーカーで絵を描いて子ども自身が作り、人形をとおして自分の感情を表現するよう励ま す。人形については、解剖学的に正しく作られた人形を置くことが重要であり、それによって小さな子どもの表現を助けたり、治療者が性的な話題を受け入れて いることを具体的に示すことができる。物語をつくるという方法はR.ガードナーによって広められたもので、「始めと真ん中と終わりのあるまったく君だけ の」物語を作るよう促すと、子どもはそれが「作り話」であるということを信じて話をする気になるという。自分が主役の絵本を作るという課題は、「自分が主 役の本」が子どもの自尊心の確立に効果があるという以前からの研究に基づくもので、絵を描くことで感情を表現することもできる。
 ロサンゼルスには、必要なケアがすべてひとつの場所で受けられる「スチュアートハウス」という施設がある。そこでは、検察官、警察官、ソーシャルワー カーが一緒になって子どもの保護にあたり、専門のセラピストが無料で治療を行うそうである。ここに被害児が送られてくると、それぞれ個別のプログラムが組 み立てられ、原則的には週一回のペースで子どもの症状を見ながら進められる。チャイルド・セクシャル・アビューズが原因だと考えられる徴候(暴力行為や悪 夢などの睡眠障害など)が消えるのをめどに治療が行われ、プレイセラピーやコラージュなどの手法が用いられたりしているとのことである。スチュアート・ハ ウスにおけるセラピストたちが基礎とする理論はアメリカでももっともすすんだ理論とされ、フロイトのエディプス理論に挑戦している。成人女性の精神障害に はチャイルド・セクシャル・アビューズの経験が深く関連しているという調査結果が精神科医らの統計から主張され始め、近年のアメリカにおける研究では、フ ロイトが最初に発表した説の方がむしろ事実だったのではないかとも言われているそうである。我が国でも、このような各専門職がチームを組んで、被害者であ る子どもの利益を第一に考える立場で適切な対応ができるようなシステムづくりや、フロイトのエディプス理論の見直しなどが早急に求められていると言えるだろう。

4 チャイルド・セクシャル・アビューズの長期的影響について

 ここから問題にしていくのは、チャイルド・セクシャル・アビューズを経験した大人の癒しの問題である。さきほどのトラウマの分類で言うならば、長期トラウマにどう対処するかということになる。まず、長期トラウマとしてどのような症状が考えられるか見てみよう。

・抑鬱
 子ども時代にセクシャル・アビューズを経験した大人にもっとも一般的な症状は抑鬱である。多くの統計的研究によって、これは支持されている。たとえば、 身体接触を伴うチャイルド・セクシャル・アビューズの経験者は非常に高い割合で長期にわたる抑鬱を経験し、病院にかかる割合も多い(Peters, 1984)。大学生への調査では、犠牲者の65%が抑鬱症状を経験しており(非犠牲者43%)、18%がこの症状のために病院にかかっている(非犠牲者 4%)(Sedney and Brooks, 1984)。

・自己破壊的傾向
 自己破壊的になることも多くの研究によって裏づけられている。カウンセリングセンターにおける調査では、チャイルド・セクシャル・アビューズの犠牲者の 51%が自殺企図の過去を持ち(非犠牲者は34%)31%が自傷欲求を訴えている(非犠牲者は19%)(Briere, 1984)。大学のサンプルでも、自傷を考えたことのある者は犠牲者の39%(非犠牲者16%)、一度でも自殺を試みた者は犠牲者の16%(非犠牲者 6%)である(Sedney and Brooks, 1984)。

・不安発作、悪夢、睡眠障害
 臨床におけるデータでは、犠牲者の54%が不安発作を経験(非犠牲者28%)、54%が悪夢を報告(非犠牲者28%)、72%が睡眠障害(非犠牲者 55%)(Briere, 1984)。大学のサンプルでは、59%が神経過敏と不安を訴え(非犠牲者41%)、41%が過度の緊張に悩まされており(非犠牲者29%)、51%が睡 眠障害を示しているという(非犠牲者29%)(Sedney and Brooks, 1984)。

・摂食障害
 女性の摂食障害を治療しているプログラムでは、患者の34%が15歳になるまでにセクシャル・アビューズを経験していたことがわかった(1/3が拒食、 2/3が過食)。睡眠障害は思春期、成人してから性生活のストレスに直面した反応であると考えられる(Oppenheimer, Palmer & Brandon, 1984)。

・遊離(dissociation)
 臨床の場でのサンプルによれば、遊離の症状を報告しているのが犠牲者の42%(非犠牲者22%)、身体離脱の経験が21%(非犠牲者8%)、非現実感を 訴えるのは33%(非犠牲者11%)だった。チャイルド・セクシャル・アビューズの犠牲者は遊離というメカニズムによってその不快な経験から逃れ、それが 後々まで症状になってしまうものと考えられる(Briere & Runtz, 1985)。

・自己評価の低さ
 犠牲者が自己評価の低さという傾向をもつことも研究によって裏付けされている。犠牲者は孤立感を感じやすく(とくに父娘の近親姦の犠牲者に甚だしい)、 否定的な自己評価については、初期の影響でははっきりしないが、長期の影響ではそれが強く出てくる。クーパースミスの自己評価インベントリーを用いた調査 によれば、犠牲者の19%が「非常に悪い」(非犠牲者5%)、「非常に良い」は犠牲者のわずか9%(非犠牲者20%)という成績だった(Bagley and Ramsay, 1985)。臨床の場でのサンプルではその差がさらに著しく、近親姦の犠牲者の87%が自己評価にダメージを受けたと報告されている(Courtois, 1979)。

・対人関係へのインパクト
 チャイルド・セクシャル・アビューズの犠牲者は女性との関係についても男性との関係についても、対人関係の困難を訴える。近親姦の犠牲者はその79%が 母親に敵意を抱くのに、加害者に敵意を抱くのは52%である(de Young 1982)。治療を受けにきた近親姦の犠牲者の60%が母親を嫌い、40%が父親に強い否定的感情を向けているという(Meiselman, 1978)。近親姦の犠牲者は母親を憎み、自分をも含めて女性に軽蔑を感じている(Herman, 1981)。
 また、他者に対する不信感が強く、他者と親密な関係を持ちにくい。臨床の場でのデータでは、男性恐怖を感じている女性が犠牲者の48%(非犠牲者 15%)、女性恐怖を感じている女性が12%(非犠牲者4%)だった(Briere, 1984)。とくに近親姦の犠牲者にはこの傾向が甚だしく、これも臨床の場のデータでは、犠牲者の64%が夫やセックス・パートナーに葛藤や不安を感じて おり(非犠牲者40%)、39%が結婚していなかった(Meiselman, 1978)。同じようなデータが他にもある。
 子ども時代のセクシャル・アビューズが後に親となった時に影響を与えるとする研究が少なくともひとつある。それによれば、子どもが虐待されている家庭に いる母親のうち24%が近親姦の犠牲者(子どもが虐待されていない家庭の母親で近親姦の犠牲者は3%)だった。犠牲者にとって親しみと愛情に性的意味を付 与されてしまう傾向があるため、母親が子どもと情緒的にも身体的にも距離をとろうとすることで、チャイルド・アビューズに走りやすい土台ができてしまうと 考えられる(Goodwin, McCarthy and DiVasto, 1981)。
 もうひとつ深刻な影響として、子ども時代に犠牲者になるとその後も犠牲者になりやすいということが研究によって裏づけられている。980人の女性に対す る調査で、チャイルド・セクシャル・アビューズの犠牲者のうち33%~68%(幅があるのは定義によって数が変わるためである)が後にレイプの犠牲者に なっている(非犠牲者でレイプされたのは17%だった)(Russel, 1986)。その他にも同じようなデータがいくつかある。また、犠牲者の38%~48%が夫による肉体的暴力を受けており(非犠牲者では17%) (Russell, 1986)、治療を受けにきた犠牲者のうち49%が大人になってからも殴られる経験をしている(非犠牲者では18%)(Briere, 1984)。

・セクシュアリティへの影響
 臨床の場でのデータでは、近親姦の犠牲者のうち87%が性的適応の困難を報告している(非犠牲者20%)(Meiselman, 1978)。数値は違っても、この傾向は他の研究でも裏づけられており、近親姦の犠牲者は非犠牲者と比べて性的不安が強く、性に罪悪感を持ち、性関係に不 満をもつ傾向があることもわかっている(Langmade, 1983)。
 一般のランダム・サンプルによる調査でも同じ傾向が確認されている。近親姦の犠牲者の80%が性的行為をリラックスして楽しむことができず、セックスを 避けるか禁欲するか、もしくは逆にセックスを強迫的に求めるという(Courtois, 1979)。大学生の調査では犠牲者の方が性的な自己評価が極端に低い(Finkelhor, 1979)。なお、チャイルド・セクシャル・アビューズと同性愛(レズビアン)との関連性はない(Finkelhor, 1984 ; Fromuth, 1983 ; Meiselman, 1978)。

・社会機能への影響
 チャイルド・セクシャル・アビューズの経験が売買春にも関係していることがわかっている。売春婦の55%が子ども時代に10歳以上年上の相手にセクシャ ル・アビューズを受けていた(James and Meyerding, 1977)。売春婦の60%が16歳までに、平均二人から20ヶ月にわたるセクシャル・アビューズを受けていたというデータもある(Silbert and Pines, 1981)。

 セクシャル・アビューズは暴力が介入しなければそれほど心的外傷にはならないとする説や、外傷が 大袈裟に論じられすぎているとする説もあるが(Constantine, 1977 ; Henderson, 1983 ; Ramey, 1979)、以上のデータから明らかなように、セクシャル・アビューズはきわめて深刻な精神衛生上の問題を引き起こす。ここに紹介したものは、アメリカで 成された研究をフィンケルホーがまとめたものの一部である。詳細は彼の研究を参照されたし。アメリカでのデータがどこまで我が国でも適応するものかはまだ わからないものの、傾向としてはどれも当てはまることだろう。日本でもこのような研究調査が一刻も早く行われることが望ましいが、それ以前の問題として、 チャイルド・セクシャル・アビューズの定義が明確になされ、サバイバーが声を上げられるような土壌が必要だろう。
 以上のことで、チャイルド・セクシャル・アビューズの犠牲者の心理的治療がいかに大切であるかは明白になったと思う。次にどう治療がなされたらよいのか を考えていきたいが、我が国はこれほど遅れをとっているのが現状であるから、治療についても、まず、私たち治療者は、犠牲者がいかに癒されていくのかにつ いての知識を持ち、それにつきそうことからしか始められないのではないかというのが今の実感である。そのような意味で、犠牲者をいかに癒すかではなく、ア メリカの実践に学びながら、犠牲者がいかに癒されるかを理解したいと思うのである。

5 サバイバーの治療に関わる人へ

 アメリカでは20人の女性クライエントを持っていたら、カウンセラーがそれに気づくと気づかない とに関わらず、そのうちの何人かはサバイバーであると言われる。すでに論じてきたように、我が国においても数値は別にしてもこのような傾向があることは確 かだろう。現実に心理療法や精神科の現場にチャイルド・セクシャル・アビューズのエピソードが持ち込まれることは事実だし、治療者がこの問題を認識して丁 重に聞き込めば、クライエントはそれを話そうとしたのではないかと感じられるケース・スタディもある。日本では精神療法に携わる人々にセクシャル・ア ビューズの知識がないために、必要なケアができなかったり、それどころか治療者による二重の被害があることも推測される。アメリカでこの問題が言われ出し た時、それまでのエピソードを話したために治療者から異常だと指摘されますます自己評価を貶められたり、専門家にファンタジーだと説明されることでそれま で味方であった家族の信頼を失い、ますます辛い状況に追い込まれていったという証言が相次いだ。日本では、まだこのようなレベルにあるのだろう。その例と して、チャイルド・セクシャル・アビューズについての認識がないために、さらにクライエントを追い詰めているように思われる事例を、出版されているもの (吉田脩二、1991『思春期・こころの病』、高文研)からひとつだけ紹介しようと思う。

<事例>
 境界例とされる「美しい髪をした」23才の女性の症例である。「細身で、スタイルや顔の作りもよくて、シルエットだけなら美人といえる人でしたが、表情 には精気がなく、むしろ相手を拒絶するような冷たい感じ」があり、訴えは「家に篭もりっきりで、人の目が気になる、イライラして急に怒りっぽくなって母に 当たる、たまに外出するとヒソヒソ陰口をたたかれている気がする、たまらなく不安になり、毎日死ぬことを考えている等々」。インテークした男性医師に向 かって、彼女の方から「私は男性が嫌いです!」とはっきり宣言されて、女性の治療者と交代するが、この男性医師が薬の処方やスーパービジョンを行ってい る。女性治療者との間でいろいろな話しができるようになり、15回目に「急に過去の嫌なことを思い出した。誰も信じない。」と言う。思い出したことという のは、中学時より三年間も夜になると兄に悪戯されていたというエピソードである。次の回では自分に対する不潔感を綿々と綴った手紙を持参し、自分は不潔 (バイキンのよう)な女の子なんだと思い込み、周りの人よりも長くお風呂に入り、念入りに身体や顔、髪を洗い、それでもまだ洗い足りないような気がするな どと訴える。クライエントはこの「自分は汚れている」という観念を母との関係に位置づけ、母に対する恨みを述べるが、既に紹介したように、家庭内のセク シャル・アビューズでは、加害者よりも母親に敵意を感じるパーセンテージの方が高いのである。印刷されているケース記録だけから見る限り、セクシャル・ア ビューズの話題はその後まったく取り上げられていない。その後、治療者に出された薬を飲んでいるかどうか尋ねられ、クライエントは混乱し激怒しながら 「やっぱり先生は私を信じていなかったのね!」と泣きわめく。彼女に必要だったのは、絶対的に自分を信じてくれる人ではなかったか。兄のことを話した時、 母親は取り合わなかったのである。しかも、薬を処方している男性医師は、診療の合間に彼女に近づいて何かと言葉をかけ、「髪の毛にそっと触れるように」し ていたというのである。これに対して、クライエントは「はじめはあからさまに顔をゆがめたり、身をよじって避けて」いたが、「次第にいやがらなくなり」、 むしろ、わざと医師が現れるのを「待っているふしも見受けられ」たということである。医師の方にそのつもりはなくとも、これではまさにセクシャル・ア ビューズではないか。このクライエントにとって、親密さを失わないためには嫌なセクシャル・アビューズを我慢することしかできないのである。
 医師のあげるクライエントの問題点の一番目は、「自己評価が全くできておらず、それが自己の身体イメージにまで及んで」いるとのことだが、これを問題に するためにはセクシャル・アビューズの理解が必要ではなかっただろうか。また、この治療関係の限界は「母子の合体部分はそれほど大きかった」ことを意味し ていると結論しているが、彼自身「境界例は他者との関わりの中でますます境界例らしくなる」と述べているように、すべてを母子関係で読む治療者の眼差しに よって、クライエントがますます「境界例らしく」振る舞うようになったとは言えないだろうか。もちろん、境界例の原因がチャイルド・セクシャル・アビュー ズであるというような短絡的な説を唱えるつもりは毛頭ないが、それがひとつの重要な契機であり、この問題を避けては治療は進まないと思うのである。

 私たち治療者は、しばしばこのように無知からくる罪を犯し得る存在である。加害者のところで述べ たように、無自覚に力を持つ者は、無自覚にその力を乱用する可能性があり、いつでもアビューザーとなり得るのだということを肝に命じる必要がある。以下、 サバイバーに関わるカウンセラー(精神科医、サイコロジスト、結婚カウンセラー、家族療法家、ソーシャル・ワーカー)のための指針を紹介する (Engel, B., 1989)。

カウンセラーのための指針
(1)癒しが可能であることを信じる
(2)大きな苦痛につきあう覚悟をする
(3)信じられないことをすすんで信じていく
(4)自分自身の態度(セクシャル・アビューズについて、善や悪について、自分自身の性的混乱や苦痛、異性愛と同性愛などについての態度)を点検する
(5)自分の生育暦とセクシャル・アビューズについての不安を探っておく(自分が子ども時代にセクシャル・アビューズを経験しているのなら、それは十分に癒されているのか、そうでなければ、少なくともスーパービジョンを受けること)
(6)自分に経験がない場合は、それにもっとも近い経験を探っておく(これらについての反応や感情を基にしてクライエントを理解することができる)
(7)クライエントこそ専門家である(彼女自身の癒しについては本人が一番よく知っている)
(8)クライエントの欲求が正当なものであると認める
(9)カウンセラーの性別はクライエントにとって重要である(クライエントが女性カウンセラーを望むなら、その選択を認めること)
(10)クライエントが適切な助けを求めていくのを支持する(たとえば自助グループに参加するなど)
(11)孤立感と恥の感情と戦うためにはグループ・ワークに参加すると非常に役立つ
(12)サバイバーを信じること(本人がセクシャル・アビューズを受けたことに確信を持てない時すらセクシャル・アビューズがあったことを信じること)
(13)虐待を空想するということはあり得ない(エディプス理論を使って子どもの方が誘惑的だったとするのは誤りだし、有害である)
(14)虐待に対するクライエントの責任を決して仄めかさない(子どもには絶対に責任はない)
(15)クライエントが快感を経験したとすれば、それは何ら恥じることではなく、ごく当たり前の反応であり、それでもって虐待を望んでいたことには決してならないのだということを確認する
(16)近親姦は犯罪であり、犠牲者をつくる(家族の状況がどうあろうと近親姦が正当化されてはならない)
(17)虐待を過小評価してはならない(どんな虐待も有害である)
(18)虐待者を理解するために時間を割く必要はない
(19)クライエントが虐待者を許すべきだと言ったり仄めかしたりしてはならない(許すかどうかは癒しにとって重要なことではない。これは多くの立場から反論があるが、許さなければ癒されないと信じているならば、サバイバーと関わるべきではない)
(20)サバイバーが薬物やアルコールの中毒になっていないかチェックする
(21)クライエントの処理能力を評価する
(22)子どもの権利について健康な見解を提示する
(23)怒りは虐待に対するまともで健康な反応であることを評価する
(24)クライエントが声をあげていくことを支持する(虐待者に直面したり、家族に打ち明けたり、法的措置に訴えるなど)
(25)サバイバーがサポート・システムをつくる手助けをする
(26)性的な志向がセクシャル・アビューズの結果であると言ったり仄めかしたりしてはならない(性的志向にセクシャル・アビューズがまったく関係ないと は言えないがそれだけで決まるとするのは、あまりに短絡的であり、レズビアンのクライエントに失礼である。これは同性愛恐怖症からきており、心理的外傷が なければレズビアンにはならなかったとする誤った考えに基づいている)。

 サバイバーに向けて書かれたものに、次のようにあるのも参考になるだろう。被害者は誰かにその経 験を打ち明けるということがとても重要であるが、誰に言うか賢明に見分けなければならない。もしカウンセラーがほんの少しでも自分の責任を問うたり、それ ほどのことでもないと仄めかすならば、それは誤った治療者であるから、即刻治療を中止した方が良いというのである。つまり、治療者側は、チャイルド・セク シャル・アビューズの責任は全面的に加害者にあるということを理解していなければならないし、その重要性をきちんと受けとめなければならない。先に紹介し た事例にしても、治療者がそのエピソードを決して軽視したわけでなく、事実の重みゆえに沈黙を保ったのではないかと推測できるが、治療者がそれを真実とし てしっかり受けとめているということをクライエントに伝えることができなければならないのである。
 次に癒しのプロセスはどのような経過を辿るかを紹介しよう(Bass & Davis, 1988: Engel, 1989)。深い変化には時間がかかる。癒しのプロセスは自分がアビューズを生き伸び、生き残った(サバイバル)という事実に気づくことから始まり、子ど もの頃にたまたま起こった出来事によってもはや左右されない満足のいく人生を送れるよう成長することで終わる。癒しのプロセスはいきあたりばったりのプロ セスではなく、どのサバイバーも通り抜けなければならないはっきりした段階がある。しかし、それはらせん階段のように、ぐるぐる同じところをまわりながら 進んで行くものである。また、人によってはある段階はとびこしていくこともあるし、途中までで終わることもある。
(1)癒しの決意・・・セクシャル・アビューズが自分の人生に与えた影響をひとたび認識したら、癒しのために積極的にコミットする必要がある。深い癒しのプロセスは、自分が選択し、自分が本当に変わりたいと望んで初めて生じるものである。
(2)緊急段階・・・抑圧された記憶や感情を吸い始めることで心理的に大混乱が起こることもある。でも、これはひとつの段階にすぎず、通り過ぎていくものだということを心に留めておきたい。
(3)思い出す・・・多くのサバイバーが子ども時代の記憶を忘れてしまっているので、記憶と感情の両方を取り返すプロセスが必要である。
(4)それが本当に起こったことなのだと信じる・・・サバイバーはしばしば自分の思い出したことが事実かどうか疑うが、それが本当に起こったことなのだと信じるのは、癒しのプロセスのきわめて重大な部分である。
(5)沈黙を破る・・・多くのサバイバーはアビューズを秘密にしているが、起こったことを他者に話すことは強い癒しの力となり、犠牲者であることを恥じる気持ちを追い払ってくれる。
(6)それが自分の過ちではないことを理解する・・・子どもたちはアビューズを自分の過失だと信じてしまいがちだが、成人したサバイバーは、責められるべきは加害者であることを理解し直さなければならない。
(7)内なる子どもと関係を持つ・・・多くのサバイバーは自分の感じやすい部分との接触を絶ってしまっている。内なる子どもと関係を持つことで、自分自身への共感、加害者への怒り、他者との親密感を感じられるようになる。
(8)自分自身を信頼すること・・・癒しのための最善の導き手は自分の内なる声である。自分自身の認知や感情や直感を信頼することを学べば、この世を生きていく新しい基盤が形成されることになる。
(9)悲しみ悼む・・・サバイバーの多くは喪失を感じていないが、悲しみ悼むことが苦痛に栄誉を与え、解放を促す。
(10)癒しの中心部分である怒り・・・怒りは強力な解放の力となる。虐待者と自分を守ってくれなかった人にまともに怒りをぶつけることが怒りの中枢である。
(11)開示と対決・・・虐待者や家族と直接対決することが必ずしもすべてのサバイバーに必要なわけではないが、それは劇的な浄化手段である。
(12)許す?・・・許すことを薦める立場もあるが、虐待者を許すことは癒しのプロセスにとってはそれほど重要なわけではない。唯一必要な許しは自分自身に対する許しである。
(13)霊性・・・自らを超える力を感じることは本当の財産になり得る。霊性は特有の個人体験であり、伝統的な宗教、瞑想、自然、サポート・グループを通じて見出すことができるかもしれない。
(14)決意と前進・・・これらの段階を繰り返し通過することで、統合という地点にたどりつく。自分の感情と見解がしっかりしたものになる。虐待者や他の 家族のメンバーと折り合いがつくかもしれない。自分の過去を消してしまうことはできないが、人生を変えていくことはできる。癒しのプロセスに気づき、共 感、力を得て、よりよい世界に向かって歩むことができるようになるだろう。

 とくに理解すべき重要な概念は「内なる子ども」という考え方である。ふつうセクシャル・アビュー ズを受けた子どもは、自分の感情の部分を切り捨てることによって適応を保っている。この内奥にある感情との接触を回復するためには、内なる子どもを取り戻 さなければならない。多くの大人は自分のなかにこの内なる子どもがいることを忘れてしまっているが、これは私たちの一部であり、愛されることを求めている のである。過去の傷を癒すためには、この内なる子どもを愛し、慰め、慈しむ必要がある。これが癒しのキーポイントである。内なる子どもとの関係を取り戻す ためにできることは、子どもだった頃の自分を思い描いてみること、その子を象徴するようなぬいぐるみや人形を買ってみること、日記に書いたり、空想したり して、その子と会話してみることなどである。癒しのプロセスの途中で立ち止まっては、内なる子どもの声に耳を傾け、彼女が何を感じ、何を求めているかに注 意してみることが大切である。また、治療には困難がつきものであるから、途中で投げ出したくなることもあろうが、そういう時のために、「何故自分は治療を 望んでいるか?」についてのリストを作ってみると良い。そして時々それに返るのである。
 治療目的は、自己評価の改善、対人関係の向上、セクシュアリティの改善、自分の感情を理解し、表現し、解放できるようになること、身体症状の消失、自分 で自分をコントロールできるという感覚、自己意識の覚醒を高めること、健康な防衛機制を発達させること、心の平静を得るなどである。

文献

Bagley, C. & Ramsay, R. (1985), Disrupted childhood and vulnerability to sexual assault : Long-term sequels with implications for counseling", Social Work and Human Sexuality.
Bass, E. & Davis, E. (1988), The Courage to heal : A Guide for Woman Survivors of Child Sexual Abuse, Harper and Row.
Courtois, C. (1979), The incest experience and its aftermath", Victimology : An International Journal, 4.
deYoung, M. (1982), Sexual victimization of children, Jefferson, NC : McFarland.
Engel, B. (1989), The Right to Innocence : Healing the Trauma of Childhood Sexu-al Abuse, Ivy Books : New York.
Finkelhor, D. (1979), Sexually victimized children, Free Press.
Finkelhor, D. (1988), Child Sexual Abuse, Sage Publication.
Goodwin, J., McCarthy, T. & DiVasto, P. (1981), Prior incest in mothers of abused children", Child Abuse and Neglect, 5.
J. ハートロッシ(1991)『わたしのからだよ教則本』(田上時子訳)ビデオ・ドック。
P. キーホー(1991)『ライオンさんにはなそう教則本』(田上時子訳)ビデオ・ドック。
Miselman, K, (1978) Incest : A psychological study of cases and effects with treatment recommendation, Jossey : Bass.
内藤和美他(1991a)「こどもへの性的虐待に関する調査研究」昭和女子大学女性文化研究所紀要8。
内藤和美他(1991b)「女性の自己定義 主体化とセルフヘルプグループ活動」『学苑』
Russel, D. (1986), _The secret trauma : Incest in the lives of girls and woman, Basic Books.
Sedney, M. & Brooks, B. (1984) Factors associated with a history of childhood sexual experience in nonclinical female population", Journal of the Ame-rican Academy of Child Psychiatry, 23.
清水隆則(1991)「性的虐待児の『初期トラウマ』」『少年補導』416号。
Summit, R. (1991) The child abuse accommodation syndrome", Child Abuse and Neglect, 7.

『女性ライフサイクル研究』第2号(1992)掲載

1992.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』第2号(1992年11月発行)

※この号は売り切れました。

特集《チャイルド・セクシャル・アピューズ》


女性ライフサイクル研究所のテーマが子育てから虐待・性虐待へと広がり、CR(意識向上グループ)やCAP(虐待防止教育)などを始めている段階にきたこ とで、「こんな重要なテーマを心理臨床の専門家たちが知らないでいるのは、大きな問題だ」と考え、専門家と社会一般に訴えるつもりでこの特集を組みまし た。

《内容》
当時は関連の出版物もなかった中で、苦労して集めたアメリカの文献などの紹介と、スタッフそれぞれがそれぞれのテーマで書いています。

〈掲載論文〉
サバイバーと関わる人のための手引 村本邦子
チャイルド・セクシャル・アビューズを子どもの様子から知る指針 村本邦子
チャイルド・セクシャル・アビューズとは何か? 村本邦子

 

1991.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
女性のライフサイクルについての試論

村本邦子(女性ライフサイクル研究所)

(1)はじめに

 娘として生まれ、育ち、他家に嫁いで妻や母や嫁としての役割を果たした後、今後は息子の嫁を迎え て姑になる・・・というのが、従来の女性の道だった。基本的には、どんな家に生まれるか、そしてどんな家に嫁ぐかが女の別れ道であり、その決定は当人の意 志ではないものに委ねられていた。ライフサイクルという意味では、比較的単純で、有無を言わせぬものだったと言える。誰々の娘、誰々の妻、誰々の母といっ た何者かに付随する形でアイデンティティが規定され、個々の女性は、その時々、自分に与えられた枠内で、悩み、苦しみ、喜び、楽しみ、それなりに自分を表 現してきたと言える。
 ところが、この枠組み自体が崩れつつある。時代は変わったと言う時、その変化を支えた女たちの苦闘は背後に隠れ、見えなくされてしまう。私たちは、変化 の御利益を当然のごとく享受すればするほど、その影の部分に目を配ることを忘れてしまいがちであるが、御陰様で、時代は確かに変わりつつある。結婚するこ とが必ずしも自明のことではなくなったし、結婚しても仕事を続け、妻としての役割よりも自分自身の人生を重視することは可能だし、子供を持たぬ選択をする カップルもでてきた。結婚せずとも子供を持つことはできるし、妻や母として生きていた人生を途中でスパッと捨てることも不可能ではない。女性の生き方が多 様化したぶん価値観は混迷し、自由が増したぶん責任は重くなった。このような時代に生きる私たち女性は、いったい何を基準にして生きていくのだろうか。そ れに伴い、女性のライフサイクルはどのように変化していくのだろう。

(2)これまでのライフサイクル研究

 ライフサイクルの研究としていつも挙げられるのが、エリクソンの研究とレビンソンの研究である。ここでは、ふたりと、これらに先立つユングの研究を紹介しよう。

1.エリクソンの研究

 前論文でも紹介されているように、エリクソンの発達概念の根底にはエピジェネシス(個体発達分化 と訳されたりする)という考えがある。これは、未分化なものが時間とともに次第に分化していく様相を表すものであり、ひとつの段階が終わって次の段階に変 わるというよりは、もともと可能性として全てを含んでいる人間のその時々の現れの順路のようなものを意味している。彼は、社会的側面と関わりながら発達し ていく段階を次のように8つの段階に分け、それぞれを特徴的な社会的、心理的危機と対応させ、危機をどのように乗り越えるかによってパーソナリティが形成 されるとする。この場合、危機とは、破局を意味するものではなく、発達のための転機であり、「成長と回復と分化の可能性を統合しつつ、各発達段階での発達 課題が達成されねばならないときの、必要不可欠な転回点や決定的瞬間を指すもの」である。エリクソンの用語については、さまざまの訳語が提案されている が、本論文では、桑原(1990)、細木(1983)、河野(1985)を参考にする。

1.乳児期は、信頼対不信。母親的人物との相互的な関係のなかで、他者に対する信頼と自分に対する信頼を学ぶ。
2.早期児童期は、自律性対恥・疑惑。親的人物(複数)との関係で、自律性を身につけ、自分が一個の人間であることを確信する。
3.遊戯期は、積極性対罪悪感。家族のなかで、同性の親との同一化によって性役割を学ぶ。
4.学童期は、勤勉性対劣等感。学校生活において、仲間をつくり、学び、ものを作ることを通じて自己の拡張を図る。
5.青春期は、同一性対同一性拡散。他の人々や集団のなかで期待される役割の遂行や情緒的コミュニケーションを通して得られる安定感や連帯感を通じて、自分はこれこれこういう人間であるという実感を得る。
6.若い成人期は、親密・連帯対孤立。異性と親密な関係を結び、結婚が課題になる。
7.成人期は、生殖性対停滞。自分たちのパーソナリティとエネルギーを、共通の子孫を産み育てることに結合したいという願望を基盤に拡がっていく発達課題である。
8.成熟期は、統合性対絶望。何らかの形でものごとや人々の世話をやりとげ、子孫の創造者、物や思想の生産者としてのさけがたい勝利や失望に自己を適応させた人間だけが7つの段階の果実を次第に実らせていく。

 エリクソンは、社会との関わりを重視したので、基本的には社会的役割を果たし、社会の要請に答え ることが発達の主眼となる。もちろん、この場合、それは本人の自然な欲求に基づくものであるはずであり、彼も社会的役割に縛られて息絶え絶えになっている ような適応の仕方は考えていなかったことだろう。しかし、今や、社会の要請と個人の欲求との間に大きなズレが生じており、とくに女性に関しては、個々人の 欲求と期待される役割とのギャップが大きくなりすぎたあまり、エリクソンの発達課題を踏むことが、必ずしもそれぞれの「果実を実らせる」ことにつながらな いと考えられる。私たちは、このギャップをはっきりと認識し、社会的役割自体を問い直さなければならない時にきていると言える。

2.レビンソンの研究

レビンソンは、伝記的面接法(biographical interviewing)という研究方法によって個々の人間のケーススタディから人生を四つに分けた。レビンソンの訳語については、河合(1983)と山下(1990)を参考にする。

1.児童期と青年期(0~22歳)
2.成人前期(17~45歳)
・成人への過渡期(17~22歳)
・おとなの世界へ入る時期(22~28歳)
・30歳の過渡期(28~33歳)
・一家を構える時期(33~40歳)
3.中年期(40~65歳)
・人生半ばの過渡期(40~45歳)
・中年に入る時期(45~50歳)
・50歳の過渡期(50~55歳)
・中年の最盛期(55~60歳)
4.老年期(60~)である。

 細かく分けられた年令はわかりやすいものでありながら、研究対象となったアメリカ男子の平均値を 示すに過ぎず、日本に住む私たち女性のことにまで一般化するには無理がある。しかし、彼が自分の著書を「人生の四季(The Seasons of a Man's Life)」と名づけているのは示唆的で、人生の四季の変化になぞらえていると考えられる。そのまま春夏秋冬とあてはめているのか定かではないが、「過渡 期」という言葉が所々に現れてくるように、クルクルとめぐり移り変わっていく人生の変化を考えているのだろう。この過渡期を彼が重視したことも意義深く、 とくに私たち女性にとっては、体が大きく変化する時、社会的役割が転換する時である過渡期あるいはイニシエーションの意味がもっと研究されてしかるべきと 思われる。

3.ユングの研究

 時期的には前後することになるが、ユングは1946年の論文で、ライフサイクルという言葉を使っていないながらも、人生全体の心理学の先駆者とされている。彼は、人生を少年期、青年期、壮年期、老年期の4つに分け、太陽の運行に例えて次のように美しく語る。

 朝になると、この太陽は無明の夜の大海から昇ってくる。そして天空高く昇るにつれて、太 陽は、広い多彩な世界がますます遠く延び広がって行くのを見る。上昇によって生じた自分の活動範囲のこの拡大の中に、太陽は自分の意義を認めるであろう。 そして最高の高みに、つまり自分の祝福を最大限の広さに及ぼすことの中に、自分の最高の目標を見いだすであろう。この信念を抱いて太陽は予測しなかった正 午の絶頂に達するのである――予測しなかったというのは、その一度限りの個人的な存在にとって、その南中点を前もって知ることはできないからである。正午 十二時に下降が始まる。太陽は矛盾に陥る。それは、あたかもその光線を回収するようなぐあいである。光と暖かさは減少して行き、ついには決定的な消滅に至 る。(ユング,1979,p.50)

 彼の考えでは、東から西へ向けて四等分された半円のうち、最初の少年期は問題のない状態であり、 問題は自覚されず、他人にとって問題であるだけである。青年期には、母親からの独立、強い自我の達成、子供としての地位を放棄して大人としてのアイデン ティティを獲得すること、健全な社会的地位の達成、結婚、出世が課題となる。正午を経て、価値観の決定的転換が生じなければならず、これまで外界での成功 へ邁進していたのが、内的価値を求めるようになり、意味と精神的価値への関心へと変わっていく。老年期は再び無意識的状態へと沈みこんでいく。彼の考えの ユニークな点は、「正午の革命」とも呼ばれる中年期に起こるこの価値観の逆転であろう。これは心理的次元ではもちろんのこと、肉体的次元においても生じる と言う。たとえば、南方の諸民族においては、中年の女性は声が低くなり、口ひげが生え、顔つきも険しくなり、他のいろいろな点でも男性的特徴を示すように なり、逆に、男性は脂肪ぶとりや容貌の穏やかさといった女性的な特徴によって和らいでくる。武人でもあるインディアンの酋長が、心の正午、夢のお告げを受 け、以後、女子供と起居をともにし、女の衣装をつけ、女の食べ物を食べるようになったが、声望を失うことはなかったという例も報告されている。

 ユングによれば、一般に、人生前半(青年期)には、社会的役割を重んじ、達成することを目指し、 人生後半(壮年期)には、文化・社会的役割から自由になり、個々の価値観に目覚めていくということになる。ところがこれに反して、現代の若者たちが必ずし も社会的役割や外界での成功にとらわれず内的価値を求めようとする傾向をもつことは既に指摘されている。つまり、インディアンの酋長の例のように男が典型 的な「男らしさ」を達成した後、女性性にも目覚めていくというのではなく、最初から男性性をも女性性をも生きようとする女男が出現しつつあるとも言える。 この場合、外的価値から内的価値へという転換はあまり意味をなさなくなる。
 彼の太陽の比喩はたいへん興味深い。一日の人生を一日の太陽の運行に準えるなら、1年、10年、100年・・・と考えていくと、どれほど多くの人々が生 まれ、死んでいくことか。この発想は、想像もつかないほど大きな宇宙の存在を意識させてくれる。この意識こそ、おそらく、ライフサイクルを考える際、根底 を流れる視点であると言えるだろう。

(3)女性のライフサイクルをどう考えるか?

 これまでのライフサイクル研究を概観して、ライフサイクルが社会的役割、あるいは社会の要請と切 り離せないものであることがわかっただろう。同時に、前、村本詔司論文でも明らかにされているように、ライフサイクルは、個体からもっと大きな存在へとひ ろがりゆく生命の鼓動や欲求とも深く関わり合っているのである。まず、社会的側面から、次に生命的側面から、現代に生きる女性のライフサイクルを考えてみ よう。

1.時代はどう変わったか? ――社会的連関に生きる私たち

 女性としてライフサイクルを考える時、男性中心社会が女性に課する役割や要請と、女性の生命の鼓 動や欲求とに大きなズレがあることは既に述べた。たとえば後の津村論文のテーマでもある結婚生活における役割に関する葛藤に関しても、いわゆる良妻賢母を 押しつけられ、その役割を果たそうとする無理から、子供が手を離れた後、結婚生活が破綻する可能性が示唆されている。本当は、その時々で押しつけられる社 会的(あるいは家庭的)役割に縛られるのではなく、自分の人生全体を見渡して、現在をライフサイクルのどんな時として位置づけるかという視点が必要なはず だ。そんな視点を持つことは、私たちがどのような社会に生き、どのような影響を受けてきたのかを自覚し、現在自分が生きようとしていることは自分の欲求に 適ったことなのか、あるいは誰かの利益を支えるために動かされているのか見極めることである。それには、情け容赦なく、自分の人生の責任を背負う重みが 伴っている。

 女性についてのライフサイクルあるいは発達段階についてはほとんど論じられていないなか、ユング 派であるE・ノイマンが女性心理の発達段階を論じている。ユング派は、女性原理ということを強調することで、これまで無視され続けてきた人間のある側面に 光をあて、女性のことを考えるひとつの手掛かりを与えてくれたと言える。ノイマンは「心理的条件がどの程度社会的情勢に影響をおよぼし、また逆に集団的な 社会情勢がどの程度個人としての女性の心理に影響をおよぼすかは、本論ではさほど重要な問題ではない。」(ノイマン,1980,p.20)と頑なな態度を 保ちながらも、一方で、現在の社会的情勢における女性のありかたを見事に分析している。彼自身がその矛盾を意識していたのかどうかわからないが、とくに、 父権制結婚の形に含まれる精神状況について、次のように語っているのは興味深い。

 結局、女性的なものにとって父権制が有する否定的な意味合いは、循環論法をなすのである。男性的 なものは女性的なものをまず力づくで、ただもう女性的であるほかない領分に限定し、同時にしかし、女性的なものが真の意味で父権文化に関与することを不可 能にし、女性的なものに二流の劣等者の役割を押しつける。しかし、女性的なものがこうして娘のような未成年者の役柄を脱することができないので、男性的な ものはその後見役を務めなければならない。そうすれば男性的なものは、女性的なものの価値を奪っておいてなお申し開きが立つのであり、女性的なものは、い わゆる生まれつきの劣等性に居直る口実ができるわけである。このような状況によって悲惨な影響を蒙るのは女児である。彼女はこの父権利的な価値体系のなか に生まれおち、自分自身の価値の無さを教えこまれる。女に生まれなかったことを日ごとに神に感謝するユダヤの男性の朝の祈りや、女性の「ペニス羨望」に基 づいて構築されたフロイトの女性心理学は、このような父権的状況を表す極端な例であり、父権的な文化的共生を強いられている女性的なものの危機的状況を物 語っている(ibid.,p.44)。

 これを読み替えるならば、「父権制において、男はロゴスに同一化し、女は力づくでエロスに同一化 させられた。父権文化はロゴスに価値を置き、エロスに二流の劣等者の役割を押しつける。このような役割分担のために、女もエロスも危機的状況に置かれてい る」となる。さて、時代は変わったという時、まず、女たちがロゴスを発展させたために、エロスとのみ同一化させられる強制に反発しだした。それが、男性と 同一化しひたすらロゴスを追い求めた初期の女性解放運動にかかわった女性たちである。一方、女性をエロスと同一化することは受け入れ、そのかわりにエロス に二流の価値しか見出さないことに反発するグループも出てきた。彼女あるいは彼らは、エロスを崇拝し、女を理想化することになった。いずれにせよ、ノイマ ンが記述した状況から、事態は大きく変化し、物事をそう単純に考えることはできなくなった。ノイマンが女性心理の発達段階として記述したものも通用しなく なりつつある。

 ノイマンの意図は、今日の文化危機を乗り越え、社会の健康を取り戻すために、女性原理の独自性を 発見しなければならないというものであった。しかし、女性原理と言われるものは、生身の女と直接結びつくものではなく、抽象概念としての「女性」、一般に 「女性的」性質として人々が考えているもの、つまり、意識、文化、分析、客観性など「男性的」性質と対立する無意識、自然、統合、主観性などと関係するも のである。しかし、これらの用語を借りて言うならば、人間の可能性を男性原理と女性原理の対立で考えること自体、男性原理的発想だと言うこともできる。女 を考える時、女性原理について考えることから出発すれば、出発の時点からすでに、男によって分析され、振り当てられたものから始めることになる。「女性原 理の独自性」を求めようとするならば、男性原理、女性原理という二分法をそもそも捨てなければならない。しかも、これだけ時代が変わり、私たちが全体性を 求めている現在、この古くなった性別役割を用いることはもはや時代錯誤と言うべきだろう。もちろん、今もなおエロスを女性特有のものと、ロゴスを男性特有 のものと信じる人々がいることは事実である。しかし、それを前提にしてさえ、女性をエロスにのみ限定するのではなく、女性も男性的側面を生きるように求め られている今(たとえば、学校生活では女性であってもロゴスがある程度評価される)、女性原理、男性原理に変わる言葉が求められていると言えよう。本稿で は、いささか乱暴ではあるが、とりあえず女性原理(「女らしさ」と考えられるものと同じではないが、かなりだぶっているものである)をエロス、男性原理 (同様に「男らしさ」とだぶる)をロゴスと言い換えてみた。エロスが女と、ロゴスが男と必ずしも結びつくわけではないことは、ギリシャ神話のエロスが男で あり、プシケー(ロゴスとだぶる)が女であったことを、思い起こしていただきたい。
 この文化的危機を乗り越え、社会の健康を真に取り戻そうとするのなら、私たちが常に社会的連関のなかにあることを認め、社会を信頼することに始まり、社会に対する批判と働きかけなしにはあり得ない。

2.生命としてのライフサイクル ――いきいきとした感覚を求めて

 お伽噺が結婚に終わりメデタシメデタシとなったり、「大きくなったら何になるの?」と問われて、 女の子が「お嫁さん」とか「お母さん」と答える時、その後の女性の人生は見えてこない。あるいは、「結婚は恋愛の墓場」と言われるように、結婚によって男 との関係が発展をやめる時、女男の関係の未来は見えてこない。人生そのものが生きたものであり、過去が現在に通じ、現在は未来へと開けていくという展望を 持てなければ、あるいは生命の流れが個人のなかに閉ざされることなく、自由に他の生命とつながれるのでなければ、人生は硬直化し、生命の流れは妨げられ る。このことは、数多くの弊害をもたらし、神経症や鬱病やあるいは精神病の原因となっているようにも見える。一方、あまり健康的とは言えないこの社会自体 が既に硬直化を示しており、個々の女性の欲求の変化についていけず、柔軟に対応していくと言うよりは、必死になって既に過去のものとなった社会的役割を押 しつけることにしがみつくことで、何とか現状維持している状態のように思われる。たとえば、全体性を求める女性たちは、結婚生活において、当然パートナー にも全体性を求めることになるが、なかなかここのところで潔く事が運ばない。現実的に男たちが女の犠牲の上に乗っかっているのがほとんどであるし、たと え、心ある男たちが全体性を求めようとしても、彼らに課されている社会的役割がまた道を阻むことになる。

 ライフサイクルということを考える時、個体を超えた大きな存在、人間という種族全体の流れや生物 の発生、宇宙などといった超個人的なものとのつながりが暗示されると同時に、個々の生命の原理や欲求などとも切り離せないことはすでに見てきた。それは、 自分の生命の欲求を大切にすることが、ひいては大きな生命の流れを大切にすることに他ならないという生命への信頼を基盤としている。このような全体的なも のとのつながりは、ひとりの女性が自分の子供を産むということに限定されない。子供を産まずとも、私たちはこのようなつながりを感じることができる。
 女性にとって、このようなつながりを感じさせられるのは、自分の体を司っているサイクルを意識する時であろう。月ごとのこのサイクルは、さまざまな体の 変化や気分の変化を生み出す。女性のさまざまな可能性をギリシャ神話の7人の女神に準えて語ったボーレンは、

 この変化に敏感な女性たちは、サイクルの前半では自立している女神たち(特に外向的で世 の中に出ていくことを重視するアルテミスやアテーナー)により強くひかれていることに気がつく。そしてサイクルの後半になると、妊娠のホルモンである黄体 ホルモンが増加するため、「巣づくり」傾向がより強くなるように感じられ、家にいつもいたいという気持ちや誰かに甘えていたいという気持ちがより顕著にな ることに気がつく。デーメーテール、ヘーラー、ペルセポネーあるいはヘスティアーがもっとも強く影響を及ぼすことになるのである。(ボーレ ン,1991,p.46)。

 と述べているが、自分の欲求や気分が周期的に変化していくことをおもしろく感じている女性も少な からずあることだろう。ホルモンの影響は絶対的なものでは決してないが、ホルモンがドラマティックに変わるとき(思春期、妊娠期間、および更年期)、女性 が大きな変化を経験する可能性は高い。このような時を過渡期と考えることができ、過渡期に危機はつきものである。このサイクルは、体内からくる力でありな がら、月の満ち欠けに代表されるような宇宙力ともつながっている。「月の神話と女性原理」の関連を論じたハーディングは、次のように言う。

 女にとっては、生そのものが周期的なのである。生命力は、彼女の経験の中で、男の場合の ように、夜と昼のリズムで退いたり満ちたりするばかりでなく、新月、半月、満月、衰退期そして闇へとまわる月の周期でも退いたり満ちたりするのである。こ れら二つの変化が相まって月の変化のような、また大きな月々の周期が、日毎の変化といっしょになって作り上げる潮のようなリズムをつくる(ハーディン グ,1985,p.88)。

 もっとも、ここでは、女性の体を司るこのようなサイクルを絶対視したり、ハーディングのように 「女性の神秘」を強調することは意図していない。女と男を同質のものだとは考えないものの、既に述べたように、「女性原理」という言葉自体に疑問を感じる からである。女性がこの力によってのみ動かされているわけではないし、このサイクルとの関わり方は各々の女性で違っている。男だってホルモンの影響を受け ているのだし、「神秘」と言えば、生命そのものが神秘なのであって、男も生命である以上、女性だけを神秘視するのは不自然である。
 女性が、このサイクルを感じ取り、その移り変わりに身を委ねながらも、個人の人生全体を見通し、そこに現在を位置づけていくという視点がもてないものだ ろうか。このことは、通過儀礼(イニシエーション)とも関わってくる。ヘンダーソンは、次のように言っている。

 なぜイニシエーションが必要なのであろうか。おそらく男性はそれを知りながら、それを体験することができず、一方女性はそれを体験しながら、それを知ら ないからであろう。したがって、各人が体験することができると同時に、その体験をはっきり意識することができるような能力を獲得するようにならなければな らない(ヘンダーソン,1974,p.264)。

 たしかに、これまで女性は自分の体験の意味を把握し、人生全体を見渡すことに躓いてきた。それ は、その方が現在の社会にとって都合が良かったからでもあるが、たとえば、仕事にいきがいを見出しキャリアを積みながらも、他方で良き母となる(良き母と は、仕事より子育てを優先するものである)未来を思い描く若い女性は、そこに分裂した自分があることに気づかない。子供を育てる葛藤は子供を持つまで想像 できないし、健康に暮らしている者が病気を忘れているように、更年期の動揺や、その後の老いは、若い女性にとって他人事であり、ギリギリまで目を背けてい たいものである。しかし、その場限りの生き方は、しばしば自分の欲求すら感じられなくし、社会や文化の硬直化した要請に振り回される危険を孕んでいる。

 これは、世代間の葛藤をも引きおこす。つまり、自分の人生を見通すことなく「かくあるべし」とい うところから人生を生きる女性にとって、「女の道」は、踏み外してはならない絶対的な道であり、そこには躍動する行きつ戻りつはなく、年齢を重ねた者ほど 人生の先を行く者として立てられなければならないという倫理観を生むことになる。自分自身が自分の生命の原理を信じることのできる人は、他者の生命の原理 を信じることができるし、年令や経験を積むことが重要なことというわけではなく、すべては可能性として元からあって、私たちはそこを回っているのだという ことが前提となれば、年配の者に対しても、年下の者に対しても、等しく敬意を払うことができるはずである。子供を未熟な大人と見る者は、硬直化した縦の直 線の上に人々を上下に位置づけて並べるのに対して、子供を独立した一個の存在として認めることのできる者は、自ら子供になったり老人になったりするイマジ ネーションを駆使し、時間的長さとは関係なく、のびやかな人生を送ることができるはずである。

(4)おわりに――FLC研究所の抱負にかえて

 すでに述べてきたように、私たちは、女性が既成の概念に縛られず、自由にいきいきと生きられるこ とを望んでいる。ライフサイクルという言葉を使うことで、特定の問題にこだわらず、さまざまな側面に対応できることを狙ったつもりである。非常に漠然とし ており、アピールに乏しいことは事実であるが、自分たちを限定せず、その時々の欲求や必要性に応じて柔軟に姿を変えていける生命体のようであればと考えて いる。ライフサイクルが個人のものにとどまらず、家族のライフサイクルや社会のライフサイクルにまで拡張できるように、FLC研究所自体もライフサイクル をもつことになるだろう。今は、私たちにとって曙であり、今後の全体を思い描くには、まだまだ時期尚早のようである。ということから、本稿を「女性のライ フサイクルについての試論」としたが、もともと、エリクソンやレビンソンのように、発達段階を論じるつもりはなかった。結婚するとか子供を産むとかいった ことが、女性のライフサイクルに大きな影響を与える一方、結婚や子供を選ばなかった女性たちには、また違ったライフサイクルが考えられるし、思春期や更年 期にホルモンによる大きな影響を受ける女性もいれば、そうでもない女性もある。結局のところ、重要なのは、各々が自分の人生を全体との関係のなかでとらえ ていき、しかも、個人を超えた力や他者とつながりながら、自分の人生を生きていくということである。既に述べたように、女性に期待される社会的役割が女性 の生命力を枯渇させる方向にある今、社会への働きかけなしに女性の自己実現あるいは個性化はあり得ない。FLC研究所は伸び伸びと自由に自分の人生を生 き、自分とは違った他者をも受け入れ、社会全体がもっといきいきと活気づくことを願う女性たちのホームでありたいと考えている。

文献

J・S・ボーレン(1991),『女はみんな女神』(村本詔司・邦子訳)新水社.
Erikson, E. H.(1968),Identity, Youth and Crisis. New York:W.W.Norton & Company.

M・E・ハーディング(1985),『女性の神秘』(樋口・武田訳)創元社.
細木照敏(1983),「青年期心性と自我同一性」『岩波講座 精神の科学6 ライフサイクル』岩波書店.

C・G・ユング(1979),「人生の転換期」(鎌田輝男訳),『現代思想臨時増刊 総特集=ユング』青土社.

河合隼雄(1983),「概説」『岩波講座 精神の科学6 ライフサイクル』岩波書店.

河野貴代美(1985),『女性のための自己発見学』学陽書房.

桑原知子(1990),「青年期の女性の自己同一性」『現代青年心理学-男の立場と女の状況』(氏原・東山・岡田編)培風館.

Levinson, D.(1977),The Seasons of a Man's Life. New York:The William Alanson White Psychiatric Foundation.

E・ノイマン(1980),「女性心理の発達段階」『女性の深層』(松代・鎌田訳)紀伊国屋書店.

山下景子(1990),「おんなのわかれ道」『現代青年心理学-男の立場と女の状況』(氏原・東山・岡田編)培風館.

『女性ライフサイクル研究』創刊号(1991)掲載

1991.11.23 年報『女性ライフサイクル研究』
『女性ライフサイクル研究』創刊号(1991年11月発行)

※この号は売り切れました。

特集は組んでいませんが、「女性のライフサイクル」をテーマにスタッフそれぞれが原稿を書いています。また村本詔司さん、清水由紀さんが友情執筆されてい ます。そして、23人の仲間たちが「子育て中の私から─FLCの仲間たちからあなたへの発信」としてエッセイを書いています。
閉塞しがちな子育てのなかで、女として社会につながっていくとはどういうことなのかを、模索してきましたが、出版を通じて、出版社や新聞社など、さまざまな他の機関と関わることを学ばせてもらいました。

〈掲載論文〉
女性のライフサイクルについての試論  村本邦子

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