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FLCスタッフエッセイ

2016.04.04 いのち
語り部バスに参加して

                                          西順子

 2016年3月の連休、何年かぶりに春の旅行に出かけました。子どもが幼い頃は春休みによく家族旅行にいったものでした。
 行き先は、いつか一度行きたいと思っていた宮城県の南三陸町志津川にある南三陸ホテル観洋。以前、コミュニティ心理学会の催しがこのホテルであり、語り部バスがあると聞き、ぜひ行ってみたいと心に残っていました。そして今回、娘2人を誘い旅行として行くことが叶いました。
 バスガイドの職員さんが何度も「ぜひ伝えてほしい」と話されていましたので、少しでも伝えられたらと、見聞きしたこと、感じたことを書きとめておきたいと思います。

 語り部バスとは、「震災を風化させないために」と、自らも被災者となったホテルのスタッフが「語り部」となり当時の様子を伝えながら、南三陸の現状をバスで見学するものです。2012年2月より始まり、毎日バスを運行しています。
 
 南三陸町では東日本大震災当日、震度6弱の揺れと最大20m以上の津波が襲来しました。ホテルは二階まで津波により浸水。ホテルには宿泊客、職員スタッフ、周辺住民あわせて約350名が滞在しており、震災直後から対応されていました。2011年5月からは二次避難所として600名の地元の住民が引っ越して来られ(同年7月24日まで)、共にコミュニティ作りに取り組まれたということです。

 さて語り部バスは朝ホテルを出発して約1時間の行程です。この日は春休みということもあってかバスは二台、しかも満員でした。バスはホテルを出てすぐのところ、周囲は何もないただ土だけが見える場所に止まりました(工事中でトラックがあるだけでした)。土は所々高く盛られ、バスの座席からは見上げるくらいでした。

 「ここには家がありました。店がありました。街がありました。きれいな川が流れていました・・」とガイドさんが教えてくれました。そして、そこにあった小学校の話をしてくれました。より安全なところへと高台へ、そして小高い林へと移動し、寒くて暗い夜を子どもが寝ないようにと、みんなで校歌を歌って夜を明かしたそうです。
 学校があったであろう場所(今は何もなく土が盛られたところ)と、高台にある家、林を見ながら、私は自然災害の厳しい現実に衝撃を受けると同時に悼む気持ちで、ただただガイドさんの話に耳を傾けていました。

 次に移動したのは、すぐ近くにある中学校。時計は、地震が起こった時刻の14時46分過ぎで止まっていました。建物は残っていますが、震災以後、授業は開かれることはなく、この建物は別の施設になるとのこと。子ども達のために卒業式だけはこの学校で開催されたそうです。校庭には駐車場と仮設住宅が建っていました。お話によると、仮設住宅を出られるのは当初1年後と言われていたのが、2年後、3年後・・と言われ、現在に至るとのこと。そして震災から5年たった今、仮設から出られるのは5年後と言われており、今なお厳しい暮らしを強いられているということでした。

 それからバスは街の中心部へと移動。途中、海岸線に沿って線路があり、電車が通っていたそうですが、線路が流されてしまったということでした。「もう一度ここに電車を走らせたい。それが50年後でもいい、もっと先でもいい、ここにもう一度電車を走らせることに意味がある」というようなお話をされていました。念願がかなってやっと開通した線路で、電車から見える景色は本当に素晴らしかったそうです。でも現在、線路の復旧の目途はなく断念されているとのことで、それでもあきらめずに、働きかけていこうという思いに、本当にこの街を愛していること、自分の命を越えて、未来に生きる人々へと希望をつなげたい・・という思いが伝わってきました。 

 街があった中心部に着くと、そこにあるのは盛り土であり、草はらでした。「ここにもたくさんの店があり、家があり、街があった」とお話してくれました。いずれこの盛り土は平らにされ、何年後かには新しく街ができるということでした。

 そして今も鉄骨が当時のまま残っている防災対策庁舎の前でバスは止まりました。最後の最後まで、「高台に避難して下さい」と住民に向けてアナウンスをしていた職員さんのお話をしてくれました。庁舎は三階建で屋上2mを越える津波が押し寄せたのでした。今年4月から工事の関係で、ここには入れなくなるということです。

 ガイドさんが何度も言われていたことは、この震災の体験を伝えて行かなければならない、風化させてはいけない、ということでした。

 55年前、この地域にはチリ地震、津波が起こり、その経験を元に、防災マニュアルが作られ、皆が津波に備えて訓練していたと。でも今回の東日本大震災は、チリ地震を越えるもので、想像を超えるものであったこと、そしてチリ地震以前に起こった震災の記録、記憶はなく、風化してしまっていたこと。過去に起こった経験を活かせなかった、だから、今回の震災の記憶は、後世に伝えていかなければならないこと、風化させないこと・・、そのような思いで、この語り部バスを続けているとお話くださいました。
 

 最後に、現在取り組んでいる「南三陸てん店(てん)まっぷ」のご紹介がありました。南三陸地域に点々としながも元気に営業しているお店を応援するために、地域のお店のマップを作っているとのこと。そのマップを一枚もらいましたが「このマップを片手に「転々」と南三陸をめぐって復興への願いを天まで届けましょう」と書かれていました。お店の方々は、「人と話をする」ということが希望につながるのだと、だからお店に足を運んでほしいと力と願いを込めてお話してくださいました。

 生きていくために「人と話をすること」がとても大切なこと、人とのつながり大切さを心に留めました。残念ながら、お店をめぐる時間はなかったのですが、またいつかぜひ訪れたいと思いました。

 自分たちの街を愛し、街の人々を愛し、この街で未来を生きる人々のことにも思いを寄せながら、震災の記憶、経験を伝えて下ったガイドさん、そして温かく笑顔でもてなしてくれたホテルスタッフの皆さまに感謝いたします。被災された方々が一日も早く安心して日常生活が送れますよう、被災地の復興を心からお祈りいたします。

                ウミネコが人懐っこく、迎えてくれましたIMG_1191 (2).jpg

2016.03.13 自然
蒸留水ことはじめ − 3.11の日に


                                    金山 あき子

 

先日、とあるご縁で、フルーツやお花や野草、ハーブ、木くずなどを蒸留し、そこから植物のエッセンスを抽出し、香りのついた水、芳香蒸留水を作るというワークショップに参加してきました。「水を蒸留する」とは、水を熱し、気化させたものを冷まして液化させ、不純な成分を取り除き、水を精製してゆく作業のことのようです。 まずこの日は、ローズマリーの葉と、ジンジャーを、蒸し器のような、手作りの蒸留キットに入れて、芳香のついた蒸留水を作ることに。 抽出されて出来たのは、なんともすっきり、目が覚めるような、ほんのり甘い香りの蒸留水。これを、スプレーボトルなどに入れて、ルームスプレーにしたり、化粧水などにしたり。薬能のあるとされるハーブで作った蒸留水は、ちょっとした消毒、鎮静など、色々な用途に使えるとのこと。何より身近に咲いている草花で作るのがいいよ、と聞いたので、春になって、山歩きをした際には、桜の花や、ヨモギ、松の葉などで蒸留をしたみたいな・・などと色々な実験のアイデアが浮かんでは、ますます春が待ち遠しい気持ちになりました。

 

今回、芳香蒸留の方法を教えてくれた先生は、仙台から来られていたのですが、この先生が手作りの蒸留器を作ることを思いついたきっかけが、5年前の震災時の体験だったとのお話がありました。この蒸留器は、もともとは、震災時の水不足や停電のある状況でも、なんとか自前で安心に飲む水を作りたいという思いから考えられたとのこと。そして、その思いが、月日が経つ中で、好きだったハーブを作ることと合わさり、より色々な「芳香のついた水を作る」というアイデアとつながっていった、とのお話でした。今回はまさに、3月11日に、このワークショップを受けたことに、色々な意味を感じつつ、震災のあった地に、人々に黙とうをささげました。

5年間という月日は、長いのでしょうか、短いのでしょうか。あれから、色々なことが変わり、でもまだ変わらない状況のままのこと、解決していかなくてはいけないことも依然として存在しています。日々の生活の中で、この時の痛み、そしてまだ、続いている痛みを忘れないように・・。帰り道で、カタコトと音をたてる蒸留器を抱きかかえながら、少しでも、自分のできることを考え行動にしていきたい、と思いました。

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                 蒸留キット。とても軽く、万が一の際にもさっと持ち運べる大きさ。

2015.09.03 いのち
生と死と、自由と愛と~『レ・ミゼラブル』を観て思い巡らしたこと

                                                  西 順子

この夏、夏季休暇中の楽しみとして、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観にいきました。観劇してから三週間がたちましたが、毎日、家で過ごす時間はCDの音楽に聴きいっています。

『レ・ミゼラブル』は「悲惨な人々」「みじめな人々」を意味しますが、CDの歌声と音楽によって、ミュージカルの登場人物らの情熱的な生き様が思い出され、魂を鼓舞されます。
生の舞台や歌、そしてアンサンブルは、生きるエネルギーに満ち、魂を揺さぶられるようでした。
ここでは、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、思い巡らしたこと、考えたことを書いてみたいと思います。

□『レ・ミゼラブル』とは

原作『レ・ミゼラブル』(1862年)は、ヴィクトリア・ユゴーが自身の体験を基に、19世紀初頭のフランスの動乱期を舞台に当時の社会情勢や民衆の生活を克明に描いたフランス文学の大河小説です。1切れのパンを盗んだために19年間もの監獄生活を送ることになった主人公ジャン・バルジャン。ミリエル司教の慈愛によって改心し、善良に生きることを全うしようとする人生の物語です。

私は原作を読んでいませんが、2012年に映画を観て、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のことを知り、今回二回目の観劇となりました。
ミュージカル『レ・ミゼラブル』は、1985年ロンドンでの初演から現在まで世界30カ国以上で公演、ブロードウェイでも16年間続く大ロングランヒットとなっています。ミュージカルとしての歴史も長いことには驚きます。

ミュージカルには、原作のもつ「無知と貧困」「愛と信念」「革命と正義」「誇りと尊厳」というエッセンスを余すことなく注ぎこまれたと言われています。時代を超えて人気があるのは、この物語の根底にある普遍的なテーマが、観る者の魂に訴えかけてくるからでしょう。

□ 自由と使命、愛

私自身が魂をゆさぶられたのは、「この物語は決して過去ではない」ということでした。
ユゴ―自身「地上に無知と悲惨さがある間は、本書のごとき書物も、おそらく無益ではないだろう」(岩波文庫版)と言いますが、私はこの物語から「自由を求める闘い」を感じました。そして「自由を求める闘い」は現代において今もなお続いていることを思いました。

それは社会のなかで、家族のなかで、そして人々の内側で、支配し抑圧する者との闘いです。

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、自由で平等な社会を目指して革命を起こそうとする若者たち(男)、生きるために売春窟で働く女たちも、自由を求めて生きることと闘っているのだと、その闘いは命の叫びであると感じられました。

一方で、自由があるだけでは人は幸せになれないのか・・という問いかけも起こりました。
ジャン・バルジャンに愛娘コゼットの未来を託したフォンテーヌと、託された使命のためコゼットを愛し守り抜くジャン・バルジャン。叶わぬ恋とわかりながらも愛する人のために力を貸したエポニーヌ、皆が人を愛することを全うするなかで、安らかに死の床についたのが印象的でした。
正義のため、自由を求めて闘った若者たちも、闘いに破れて命を落としました。

皆、愛することが使命であったともいえるでしょう。愛することが生きること、と愛が生きる意味を与えていたのだろうと思いました。もちろん、キリスト教精神がバックボーンにあることは大きいと思いますが、東西文化の違いを超えて、愛することの大切さを教えてくれています。自由は「個としての尊厳」ならば、愛は「他者とのつながり、絆」です。人が幸福に生きるためには、自由と愛と、その両方が必要なのだと考えさせられました。

もちろん、生きることは愛することと、きれいごとではないことも描かれています。民衆は、自由を求めて闘う若者たちを見捨てました。ティナディエル夫妻のように生きるために盗みを働き、お金を得ることに執着する者もいます。生き延びるためには、きれいごとでは生きられないのか・・と、人間の限界や悲しみを感じました。貧困にあえぐ悲惨な社会には善と悪、被害者と加害者が入り混じり、光と闇があるのです。どちらにせよ、民衆たちは生きること、生き延びることに必死であると言えるでしょう。


□未来を託すもの、託されるもの

ミュージカル『レ・ミゼラブル』では、生きること、愛すること、使命を全うして生きることに、生命エネルギーを感じると同時に、死ということと、死にゆく人々のことも考えさせられました。

ミュージカルの最後の場面は、ジャン・バルジャンが愛するコゼットと命を救ったマリウスに看取られて、幸せのなかで亡くなります。ジャンバルジャンの命を引き継いだのは、生き残ったコゼットとマリウスの二人。最後の最後の舞台は、この二人を囲むようにして亡くなった民衆や若者ら全員が亡霊のように登場し、大合唱で幕を閉じます。
ジャン・バルジャンは、自分が愛し育て、命を救った若者に未来を託すことで、安らかに永遠の眠りについたといえるでしょう。

涙なくしては観られない場面ですが、生き残った二人の命の背後には、たくさんの亡くなった命があることに思いを馳せました。

ミュージカルを観劇したのがちょうど終戦記念日の前々日。この夏でわが国も戦後70年を迎えましたが、今、生きているということは、たくさんの命の犠牲の上にあることなのだということを思い、その命を大切にしていかなければならないと思いました。

私自身のことですが、この一年親の介護の問題が現実化してきました。気がつけばいつの間にか親はすっかり年を取り、生命に限りがあるということを最近実感させられるようになりました。

前世代が私たち次世代に、安らかに幸せな思いで命のバトンを手渡してくれるだろうか、未来への希望を託してくれるだろうか、そして私はバトンをしっかり受け取れるだろうか・・と考えると不安になります。残された時間はもう少ないと思うと焦る気持ちにもなります。できれば幸せに最期のときを迎えさせてあげたいと願います。

しかし不安になっても私にできることは何もないに等しいことから、私にできることは自分が今生きていることを大切にすること、自分に与えられた役割や使命を全うすることと思い、心を鎮めるようにしています。


□生きるということ


日々の臨床のなかでは、生きることに絶望している、生きる意味が感じられない、自分には生きている価値がない・・という声なき声に耳を傾けています。


私には何も言うことはできませんが、ただその声に寄り添い、聴き取り、自由と尊厳を求めて生き抜いてきた方々の証人であり続けたいと思います。
そして、生きることは辛くとも、闇から光を見い出す道もあると信じ、そして生きている限り、身体がある限り、生きる意味があり、生きる価値があると、ただただ命を信頼していければと思います。


・・・ミクロからマクロまで視点があちこちにいきながら、つらつらと書きましたが、生と死と、自由と愛について、ミュージカル『レ・ミゼラブル』を観て、考えさせられ、思い巡らしました。


19世紀前半のフランス社会の激動期の物語、150年前に書かれた物語は今にも通じるところがあるのではないかと思います。時代を経ても、社会と人との関係、人と人との関係、自由と愛を求めることは普遍なのだと思います。
そして「無知と貧困」を繰り返さないよう、歴史から学ぶ必要があります。ぜひ一度、原作を読んでみたいと思います。

2007.06.10 いのち
生老病死~病院臨床に関わりはじめて

西 順子

 ご縁があって、今年の4月から病院で週一回、非常勤の心理士として勤務することになった。総合病院だが、婦人科と小児科の所属のため、女性や子どもの相談、カウンセリングが主な仕事となる。これまで、女性ライフサイクル研究所を中心に、女性センターや学校でのカウンセラーも経験してきたが、主に女性や子どもの問題に関わってきたので、病院臨床でもこれまでの経験を活かしていけるだろうと思っていた。しかし、これまでの経験を活かせるところと、新たに勉強していかなければならないことがたくさんあることを日々痛感しているところである。もちろん、臨床の現場によって、どんな方々が来られるか、何が求められているか、それぞれの場での特徴はあると思う。それぞれの場に応じて、新たな学習が必要であるし、経験を積んでいくことも必要である。病院臨床でも、新たな学習が必要なことはもちろんだが、またこれまでとは違った体験をさせてもらっているな・・と感じることがある。

 まだ勤めて3ヶ月もたたないが、病院では、やはり「生と死」について、「命」について、漠然とではあるが考えさせられることに気づく。生きる喜びと、死の悲しみが隣り合わせに感じることもある。生きる喜び、病気の苦しみ、死の悲しみを前にして、自分には何ができるだろうかと問いかける。今の私にできることは、そこに寄り添うこと・・それしかできない、できないのではないか。寄り添うことしかできないが、そこに、共にいさせてもらえるなら・・という気持ちで、お話を聞かせていただいている。

 「命」をありのまま受け入れることは難しいことだと改めて感じる。「命」には、生も、老いも、病も、死も含まれることに気づく。「命」を受け入れるとはどういうことなのだろうかと問いかける。老いも、病も、死もあるものとしての「命」を受け入れるには、スピリチュアルなものが必要といえるだろうか。スピリチュアルとは、人間の力を超えたものに対する畏敬の念、己を超えたものとのつながりを実感することなどである。

 今の私にできることは、ありのままの「命」を受け入れることに伴う苦しみ、痛みに寄り添うこと。そして、苦しみ、痛みを超えて生きていく人間の可能性も感じていたい。

(2007年6月)

2007.03.12 いのち
嬉野の「命の水」

村本邦子

 嬉野温泉へ行った時のこと。嬉野と言えば温泉豆腐だが、『まっぷる』に「抹茶豆腐」というのが取り上げられていたので、今回はこれを試してみることにした。嬉野の街は、何だかよくわからないけど、一種独特の不思議な雰囲気を持つ街だ。街中にある「板前東屋」を訪ねる。夕方5時頃、開店一番乗りだったので、お客は誰もいない。嬉野はお鮨も結構いけると聞いたので(勝手に山のイメージを持っていたけれど、案外、海に近いのだ)、握りと抹茶豆腐を頼む。

 手持ちぶさたなので、机の上に積んであるサイン帳を見る。それによれば、料理がとってもおいしいらしいが、ここでは、「命の水」とやらをもらえるらしく、そのことへの感謝がたくさん記されている。「何のことだろう???」と訝しんでいるが、料理を運んできた板前のおじさんが話し出した。

 その昔、このおじさんはかなり大きな交通事故に遭って死にかけた。頭が割れてへこんで、万が一、助かっても植物人間状態と言われたそうだが、夢に裏にある「お湯の神様」が現れて、「お前はもっと生きて、人のために尽くせ」と語ったそうだ。意識を取り戻したおじさんは奇跡と言われたそうだが、それからおじさんは、温泉豆腐の水づくりに精を出した。「お湯の神様」とは、東屋の路地裏にある薬師如来。湯屋のそばにあった大きな楠が対象11年の大火で消失したが、燃え残った木片で掘られたものだそうだ。

 板前だから食べ物を通じて人に尽くそうと考えたのだろう。何しろ、ここは明治の中頃から続く温泉湯豆腐の老舗。20年間、豆腐に合う温泉水を研究し、カルシウムを含む食材を加え調整することで理想の味にたどりついたという。こうして出来た温泉水をお客さんに求められて差し上げているうちに、それが奇跡のような働きをすることがわかったという話らしい。おじさんの父親である90何歳のおじいさんも途中で出てきたが、かくしゃくとして、虫歯の一本もないそうだ。

 心臓病やら癌やら、さまざまな難病を抱えた人たちの家族が、遠くからお水をもらいにきて、長生きをしているという。たしかにサイン帳に書かれているのはそういった話だ。研究者やマスコミも何度かやってきて取材したが、なぜだか公開されないらしい。たしかに、この「湯の端お茶豆腐」については頻繁に紹介されているが、「命の水」の方はどこにも紹介されていない。従弟の京大病病院の先生から「特許を取って水を売ったら?」などとも言われているが、豆腐を食べに来てくれたお客さんにペットボトルで1本無料で差し上げているだけという。

 私もラベルをはがした古いペットボトルに1本、「命の水」を頂いたが、この地味さ加減がマスコミでブレイクしない理由のような気がする。でも、私は、この地味さ加減が気に入った。サイン帳を読んでいて思い浮かぶのは、家族を思って遠くからやってくる人たちの思い。そして、温泉の神様の夢を守って、水を作り料理を作り続ける職人気質のこのおじさん。なんかいいな~と思う。この水を朝夕、おちょこで一杯ずつ飲むといいんだそうだ。飲み終えたが、効果はいかに!?

 ネイティブ・アメリカンのリザベーションでも、不治の癌の病床で神のお告げを聞き、そこから突然回復し、現在はヒーラーとして働いている女性と出会ったことがある。この手の話を私はそのまま信じるわけでもないが、そんな場でいったいどんなことが起こっているのだろうということには、とても興味がある。「嬉野をフィールドにして研究したら、温泉に通えるなぁ・・・」などと考える私は、やっぱり動機が不純だ。東屋の隣の「古湯」が近く再建されるそうだ。

(2007年3月)

2005.04.12 いのち
秘密の世界

村本邦子

 鹿児島の洞窟で、中学生4人が死亡したと報じられた。子どもにとって、いや、大人にとっても、洞窟探検は魅力的だ。洞窟には、表からは見えない秘密の世界が隠されている。私が子どもの頃にも、通学路からほんの少しはずれた所に洞窟があった。今回の事件ほど入り組んだ洞窟ではなかったが、中にはまったく光が入らず、真っ暗闇になるので、片方の穴から入って、もう片方の穴から走って出てくるという肝試しをやっていた記憶がある。今回のニュースで初めて知ったが、本土戦に備え、防空壕の4割が鹿児島に掘られていたのだという。私が遊んでいた洞窟も、いつの頃からか柵が立てられ、いつの間にやら消えてしまったが、国中で、危険だからと組織立てた防空壕調査と穴埋めがあったということを、今回、初めて知った。
 洞窟とは別に、小学校の頃、何年もの間、秘密基地づくりに没頭していた時期がある。近所の山の茂みや竹藪の中に秘密の空間を作り出し、宝物やら何やらを持ち込んで、1日、そこで過ごしたものだ。人と話していたら、「基地ごっこは、ふつう、男の子の遊びで、女の子のは聞いたことないな」と言われたが、いつも私がリーダー格で、女の子の基地だった。いったい、どこから、そんな遊びを思いついて没頭することになったのか、自分でも不思議な気もするが、すでに独立心旺盛だった自分の子ども時代を愛おしく思う。そして、確かに、こういった遊びが私を育ててくれたのだ。
 事件となった洞窟も、大人たちは誰もその存在を知らなかったという。大人の知らない秘密の世界で、子どもたちは大切な時間を過ごすのだ。安全のため、僅かに残った洞窟は、これからも次々と埋められていくだろう。子どもたちの秘密の空間を埋め、奪ってしまう行為は、今の教育を象徴しているようで哀しい。かと言って、わが子が危険な遊びの中で命を落とすことを思えば、やはり、そんな危ないことはしないで欲しいというのが親の本音である。大人の目の届く表の世界のみに育つ子どもたちは、それでも彼らの洞窟をどこかに探し求めることだろう。ネットの世界は、子どもたちにとって、そんな秘密の穴蔵なのかも。まるでイタチごっこのようだ。
 私は、今でも洞窟が好きだ。鍾乳洞やケーブ・ダイビング(海の中の洞窟に入る)には心魅かれる。ひょっとして、FLCも一種の穴蔵なのかも・・・。光をあてれば、物事はよく見えるようになるけれど、あの世への通路は閉ざされてしまうだろう。闇の世界は、目に見えないものをたくさん感じさせ、世界の奥行きを教えてくれるものだ。安全とともに失うもののことにも思いを馳せたいと思うのだ。

(2005年4月)

2005.04.10 いのち
安全といのち

西 順子

 4月25日午前、私はたまたま仕事で塚口にいた。JRで脱線事故があったと聞いたが、その時はまだこれほどの大惨事とは思ってもなかった。でも、上空ではヘリコプターが飛び、物々しい雰囲気だった。昼過ぎに仕事を終えて阪急塚口駅へ。駅では号外が配られていた。その写真を見て、衝撃を受けた。私は朝、阪急を利用して塚口に向ったが、その時間に事故が起こっていたとは。私と同じように、いつもの朝を迎え、仕事や学校に向った方々が・・と思うと、他人事ではないと、いたたまれない気持ちになった。
 どうしてこんなことが起こったのか・・。マスコミの報道によると、いくつかの要因が重なっていると言うが、横転・脱線の直接的原因は、運転士が「1分30秒の遅れ」を取り戻そうとして、スピードを出しすぎたことであるようだ。
 
 つい最近、「時間の遅れ」と安全について考えることがあった。
日ごろ、めったに飛行機に乗ることはないが、先月2回、飛行機に乗る機会があり、たまたま2回とも、離陸・着陸予定時間の「遅れ」があった。一つは、着陸する空港の滑走路が混雑しており、上空で海の上をぐるぐる回ること30分。もう一つは、搭乗する飛行機の到着が遅れて、出発時間が1時間以上遅れた。「遅れます」というアナウンスを聞いた時、普段、電車の定時出発に慣れているので、一瞬困ったなと思った。そのあとの予定が狂うからだ。でも、同乗していた同僚から、飛行機の遅れはよくあることと聞いて、そんなものかと思った。時間の遅れは、安全優先のためであるかと思うと、そのほうが「遅れ」よりもずっといい、と納得できた。私は飛行機が大の苦手なので、遅れてもいいから、とにかく安全に到着してほしい・・と願う気持ちだった。

 「1分30秒の遅れ」、そんなことは安全であることに比べたら、私にとってはどうでもいいこと。「安全であること」は、いのちを守ることであり、何よりも優先されるべきこと。どうして、安全が優先されなかったのか。乗客たちは、いつもとは違う速さに違和感や、怖さを感じていたようだが、運転士にそういう感覚はなかったのか。安全であることの感覚が麻痺していたのではないかと思われる。それは、運転士個人の問題だけではなく、個人に重圧をかけている企業の責任であること、構造的な問題であることが明らかにされつつある。
 いのちの基本である「安全の感覚」を麻痺させるような働き方、そしてそれを強いる経営姿勢を問い直さなければならないと思う。「いのちを優先すること、そのために安全を優先すること、それが何にも代えがたいこと」、そんな当たり前のことを当たり前に優先できる企業、社会であることを望みたい。

(2005年4月)

2003.05.10 いのち
自然の声に耳を傾ける

西 順子

最近、「自然」ということについて考えることが多い。一人で、「自然」についてあれこれと、いろんな思いを巡らしている。

「自然」について考えるようになったきっかけは何だろう、自然の力のすごさを実感するようになったのはいつだろう・・と振り返ってみると、思い出すのは三年前と一年前のアートセラピー体験である。三年前は大学院の授業で、一年前は芸術療法家によるワークショップであったが、いずれも自然の声に耳を傾け、自然との対話によって感じたままを絵に表現するというものであった。今から思えば、その時の自分のなかにある、言葉では言い表せない何かを表現することで、実感をもって「自己」を感じられた体験だったといえるだろうか。三年前は、桜の木と対話し、桜の花びらが散る様子に悲しみを感じながらも、大地からひこばえが育ちゆく姿に喜びを感じ、それを木の絵で表現した。それは、自分の人生のサイクルの一つが終わり、また新たなサイクルへと踏み出す、人生の節目にいる「私」を実感させてくれるものであった。新たなものとの出会いは、何かとの別れでもある。一年前は、京都鞍馬の山のなかでの体験だが、ふかふかした落ち葉の柔らかさとその下にある土の湿った暖かさ、そしてその大地のパワーを吸収している木を感じて、それを表現した。暖かいエネルギーを吸収している木のイメージによって、自分自身のなかにも暖かく、わき出るエネルギーを感じることができた。自然の声に耳を傾け、対話することで、自然は私たち人間を癒してくれるだけでなく、力を与えてくれるものであると実感した。自然とは、生命であり、エネルギーである。自然は私たちに生命のもつ力を教えてくれる。

また、自然は、私たち人間そのものでもあると、最近、実感している。カウンセラーとして仕事をするなかで、人間のもつ自然の力、生命の持つ力に感動する。自然のもつエネルギーが何らかの要因でせき止められる時、生体に何らかの弊害が生じても不思議ではない。それは症状であったり、何らかの病気であったりするかもしれない。しかし、それも自然だからこそ、である。人間のエネルギーがせき止められる時とは、ショックな出来事との遭遇であったり、ストレスが溜まりすぎていたり、「~あらねばならない」と自分を縛ったり、「自分は駄目だ」「自分が悪い」と自己否定しまうような時だったりするだろう。でも、生命のエネルギーが自然に、あるがままに流れるとき、生体はもっとも生命力を発揮する。そのためには、あるがままの流れ、自分のなかにある自然を信じ、大切にすることが必要だ。カウンセリングでは、自然な流れの回復のために、ちょっとしたお手伝いをしているにすぎない。もともと、自然がもつ力、生命がもつ力は誰もに備わっているのだから。

自然とは、循環そのものでもある。季節は巡る。木が育ち、木の葉はまた落ち葉となって、大地にもどっていく。そしてまた、その大地からエネルギーを吸収して木は育つ。自然の循環によって生態系が保たれる。人間という生体も、血液、体液、呼吸・・と循環によって生命が維持される。東洋医学では、エネルギーを「気」と呼ぶようだが、生体のなかでエネルギーも循環している。と同時に、人間と自然、人間と人間の間にも循環があるのではないだろうか。人は自然からエネルギー、パワーをもらうが、人からもエネルギーをもらうものである。私も、人からたくさんのエネルギーをもらっている。それは、生命がもつ力への感動、成長し育ちあうことの喜び・・であったりする。自然から人へ、そして人から人へ、人から自然へと、プラスのエネルギーや力が伝えられ、与えあって、よりよい循環ができれば、自然も人もあるがまま生きやすい生態系になるのではないか・・と夢想する。

あるがまま、自然の声に耳を傾けることを大切にしたいと思う今日この頃である。

(2003年5月)

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