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FLCスタッフエッセイ

2009.06.01 カウンセリング
「心」と「身体」をつなぐトラウマケア

西 順子


 ひとの「心」に関心をもち、「その人らしさを大切に、人生を歩むお手伝いができれば」と心理的援助に関わるようになり20年、カウンセリングに携わるようになって約10年がたちます。特に、心の傷つき(トラウマ)のケアに取り組んできましたが、近年、「身体」のもつ力に関心をもつようになりました。PTSD、パニック障害、うつ、心身症など、心身の健康の回復を望んで来談される方のニーズに応えられるようにと、効果があるとされる新しい方法を学ぶなかで、「心」と「身体」の結びつきについて再認識するようになったからです。最近、「身体」にはそもそも自然治癒力が備わっているのだ、という思いを強くしています。

 トラウマケアに効果が認められている方法には、認知行動療法、EMDRがありますが、フォーカシングや臨床動作法もトラウマケアに使われています。どの方法も、身体にアプローチする側面を含んでいます。
 今年、自然なアプローチ法を用いてトラウマ症状を解決する、新しいトラウマ療法が我が国にも導入されました。ソマティック・エクスペリエンス(身体経験)メソッドです。開発者である医学生物物理学博士・心理学博士ピーター・リヴァインは、「トラウマの癒しの鍵は、強烈な感情より、身体感覚にある」と言います。
 生命体は、脅威にさらされたときに、戦うか、逃げるか、そのどちらもできないときに、凍りつくか、の反応をします。これは生存のために自動的に起こる自然な反応ですが、「凍りつき」によって、PTSD症状のほか、さまざまな心身の症状、衝動的行動が起こります。リヴァインは、この「凍りつき」反応を解放していく方法を見出しました。「凍りつき」を解放していくことで、トラウマによって切り離された、「感覚・イメージ・情動・行動・意味」がつながるのです。
 この方法は、誰もに自然に備わっている「身体感覚への気づき」を使うということで、とても安全であり、エンパワメントの手法だと感じています。

 カウンセリングでは、来談された方のニーズや希望に応じて、従来の「言葉」による心理療法に加えて、「身体感覚」に働きかけるアプローチも取り入れています。「心」と「身体」とのつながりを取り戻すことで、「ありのままの存在」として自分を大切に感じ、生きることの意味を発見していけるものと、実感しています。関心のある方は、カウンセラーにおたずね下さい。

参考文献:
『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』ピーター・リヴァイン著、藤原千枝子訳、雲母書房
『PTSDとトラウマの心理療法~心身統合のアプローチの理論と実践』バベット・チャイルド著、久保隆司訳、創元社

                           (2009年6月発行ニュースレター特集より)

2009.04.10 自然
自然のエネルギーに満たされて~西表島体験

西 順子

 一年程前から、西表島に行ってみたい・・となぜだか心を動かされるようになった。その大自然に心惹かれたことはもちろん、ただ景色を見るだけじゃなく、自然のなかで「体験」することに、ワクワクと気持ちが動かされていた。家族を誘い、昨年末に計画を立て、先月末に、ついに実現することができた。

 シーカヤック漕ぎ、滝を目指すトレッキング、海でシュノーケリングもしたいし・・と思うと、いろいろと調べたり、準備しないといけないことも多かった。仕事で忙しい時にここまでエネルギーをかけて、行く意味はあるのかな・・と、弱気な気持ちになる時もあった。

 でも、実際行って、帰って来てみると、「ほんと行ってよかった!」「またぜひ、行きたい!」に尽きた。「さあ、明日からもがんばるぞ~」と元気になって帰ってきた。西表島に移住された方が主催するツアーを二日間体験したが、島をよく知る方に案内頂けて、西表島の自然を満喫することができた。

 ある一日。マングローブに覆われた川の中をシーカヤックで上流へと漕いでいく。川に入っていくと、やがて車の音も聞こえなくなり、聞こえてくるのは、鳥のさえずりだけ。人は、私たち家族とツアーガイドさん以外誰もいない。海に出た時の風の強さとは一変し、マングローブが防風林代わりとなって、川の中は穏やかで静か。雨が止んで、太陽の光が注がれ、それを喜ぶかのように、気持ちよさそうに、ひらひらと優雅に飛びかう蝶たち。秘境の地で、原始的な自然に包まれていると、人間である自分はなんてちっぽけな存在なのか、と思えてきた。なんてちっぽけな・・と思うと、自分が悩んだり、迷ったりしていることも、なんて些細なことかと思えた。自分がこうして生きているのは、たまたま、ただ自然に生かされているだけなのだと、命に対して敬虔な気持ちになった。私も周りの人たちも、こうして生きているのは、なんと有り難いことなのかと思うと、思わず涙も出そうになった。

 川の上流にたどり着いた後は、カヤックから降りて、トレッキングで滝を目指す。ジャバジャバと川の中を歩いたり、岩場を超えて滝へ。岩場ではすべらないようにと、特に足もとに注意を払って歩き、よじ登る。一瞬「怖い」「もしも・・」と不安がよぎりそうになるが、感じるより先に、足元に神経を集中する。「不安や怖さがよぎるときも、とにかく信じて、地に足をしっかりとつけて、歩むこと」と、トレッキングは、まるで人生の教訓を学ぶかのようだった。信じるとは、「ゆだねる」という感覚であることを実感した。

 河口に戻って来ると、この日は大潮の日(潮の干満差の大きい日)とあって、潮が引き、広い砂浜ができている。朝カヤックをスタートした時点から、水面の高さは2メートルほど違っていたかと思う。潮が引いた後の砂浜は小さなカニで埋め尽くされている。こんなに大きな潮の満ち引きがあるのか・・と、自然というより宇宙を感じた。

 ・・「体験する」とは、まさに「体」で「経験する」ことであった。五感で、体全体で感じて、体を使って、自然の生命のなかで、人間の生命を実感させられた。行く前は、こんなに深い体験ができるとは思いもよらなかった。本能のエネルギーを感じ、深い満足感で満たされた。一年前から、なんとなく行きたいと思っていた西表島だったが、自分の無意識が自分に必要なものを求めていたのかと、とても不思議な、納得する気持ちになった。

 命には限りがあるからこそ、生きていることに感謝して、今自分にできることを大事に、明日からもまたがんばっていこう。そんな気持ちになって、今年度がスタートした。次回は、海でシュノーケリングをして海の中の世界も見たいと、いつかまた西表島に行ける日を楽しみにしていたい。

(2009年4月)

2009.01.12 子ども/子育て
子どもたちの巣立ちを迎えて

村本邦子

 今年、息子が成人式を迎える。そして、この春、娘が家を出て、いよいよ夫婦2人の生活となる。あっと言う間の子育てだった。こんな親だったが、本当に良い子たちに育ってくれ、日々、感謝である。

 振り返れば、巣立ちを予感させられる出来事は、ずいぶん前からあった。親が思い込んでいる子どもの顔と違う顔を知ったとき。親をうならせるような鋭い批判をされたとき。家よりも、外の世界に関心が向いて、出て行ってしまうようになったとき。親には想像も及ばない才能やすぐれた性質に気づかされたとき・・・。そのたびに、子どもの姿をしげしげと見直し、敬意をもって見上げ、もはや親が不要になりつつあることに寂しさと安堵、そして誇らしさを感じてきた。

 年末、子育ての総まとめのような形で、『プレ思春期をうまく乗り切る!大人びてきたわが子に戸惑ったとき読む本』をPHPから出版した。ちょうど、お盆休みの頃に、急ピッチで書き上げたものだが、そこに書いた子どもたちの状況にも、大きな変化が生じた。娘の突然の進路変更と、息子が長くつきあってきた彼女との別れである。さまざまな経験をし、いろんなことを味わって、さらにグッと大人になる仕上げをしたような格好である。

 そして、年末、息子はCDデビューを果たし、娘はイベントへの初出場を果たした。2人ともラッパーである。私には馴染みのない世界だが、好きなことに一生懸命、打ち込んでいる子どもたちを応援したくて、早速、息子のCDを買い(どころか、周囲に売って回っている)、娘のイベントに行ってきた(こちらも若い人を誘って)。

 息子のCDを最初に聴いたときは、ちょっとショッキングだった。娘と違って、息子の方は、これまで一度も自分の曲を聴かせてくれなかった。その理由がよくわかった。要するに、すっかり大人の男の世界なのである。そんな顔を母親に見せることを遠慮してきたのだろうか。これまでの私には、どんなに体が大きくなっても、かわいいかわいい小さな子どもだった頃の息子の姿が重なって見えていた。ちょうど、マトリューシカ人形のように、幼かった頃の息子から、小学時代の息子、中学時代の息子・・・と入れ子のように重なっているように思えていたのだ。今回、かわいかった小さな男の子が、「ママ、バイバイ!」と笑いながら手を振って、透明になって天に消えて行ってしまったような気がした。軽い喪失体験だった。

 娘のイベントの方は、「クラブ」というところが生まれて初めてだったので、とにかく若いパワーに圧倒されっぱなしの体験だった。こんな中で、独りで歌おうというチャレンジ精神にまずは脱帽である。初々しく恰好よく、ソロを2曲歌い、最後の曲は、音楽仲間と兄が友情出演した。息子だけ大人で、さすがに迫力あったが、仲間である高校生の男の子たちも何とも素敵な子たちだった。良い仲間に恵まれ、幸せなことだと思う。素晴らしい人間関係を拡げていく力も、この子たちの力だろう。若者たちが愛おしくてたまらなくなった。みんな幸せになって欲しい。

 「いつでも潔く死ねる」と思っていた若い頃から、子どもが出来て、何があっても死ねないと思った。変な話だが、一人で飛行機に乗る時など、万が一、飛行機が落ちて死んだとしても、幽霊になってでも生き続けるぞと思ったものだ。最近、まったくそんなことを考えなくなった。親がいなくなっても、この子たちは、もう立派に生きていけるだろう。願わくば、長生きをして、大人になった子どもたちと共に過ごす機会をいつまでも楽しみたいものだけど。

(2009年1月)

2008.10.12 五感
おしゃれを楽しむ

村本邦子

 めったに掃除をしない私だが(嫌いとか苦手とかいう意識はないのだけど、どうしても生活の中での優先順位が低い・・・)、なぜか衣替えはこまめにやる。着る物のことを考えるのは大好きで、日本文化の趣ある季節感を重視している(桜の柄の着物は、桜が咲く前のほんの一時期だけしか着ないといった)。「○○の時は、××を着ようっと!」と思っていても、こう不規則に季節が変わると、なかなか計画通りにいかない。それでも、いよいよ秋物の出番だ。

 しかも、先週は雨の日続き。これが嬉しかった。春に、とってもおしゃれな黒いレインブーツを買ったのだけど、はく機会がなかった。月曜は毎週泊りなので、ひどい雨に長靴をはいて行って、火曜に晴れたりなんかすると、興ざめなので、晴れても堂々とはいていれるおしゃれなレインブーツを長く探し求めていた。なかなかなかったが、ついに見つけたのだ。それに、これも長年探し求め、やっと去年、出会えたお気に入りのレインコート。きれいなパープル。これらに身を包み、ルンルン気分で出勤した。お気に入りの雨の日グッズがあると、雨の日が楽しみになる。今のところ、超お気に入りの傘はまだないので、電撃的な出会いを期待しているところだ。

 面接で話を聞いていると、女性たちのなかには、「おしゃれに気を配るのは良いことだ」という価値観と、「おしゃれのことに気をとられているのは恥ずかしく良くないことだ」という価値観があることに気づく。だいたいは、小さい頃に母親や父親から刷り込まれた女性性に関わる価値観だ。私にとっては、良いも悪いもなく、自分が楽しければやったらいいし、面倒くさかったらやめたらいいというだけのこと。その昔、フェミニストの集会で、「屈辱に震えながら、毎朝、口紅を引く」という女性の発言を聞いて、驚いたことがある。私自身、若い頃は、めったにお化粧をしなかったが(第一に面倒だったし、濃い顔立ちなので、ちょっとしただけでかなりケバくなっていたため)、最近は、結構、お化粧も楽しんでいる。年を取って、顔色が悪く暗く見えるが、ちょっと色をさすと華やいだ気分になる。
 
 年齢とともに服装の好みもちょっとずつ変化してるかな。相変わらず、華やかでかわいいものが好きだけど、無地を選ぶことが増えた(昔は絶対に上下無地ということはあり得なかった)。アクセサリーをつけるようになったからだと思う。きれいな色の石物がいい(妹夫婦がジュエリーショップをやってるし)。それに、スーツを着る機会が増えたかも。それでも、相変わらず、「まったく普通」のは避けている。先日、明るいブルーのセーターを買ったが、「これだけだとちょっと地味だから華やかなスカーフでもしないとね!」と言って、お店の人に笑われた。私が地味だと感じていても、外目には派手ということがある。

 もうひとつ、今年、パープルの毛糸のマントを買った。早く寒くな~れ!もともと、ケープやポンチョ類が好きなので、集めているが、ここ数年、流行り気味なんじゃないだろうか。よく見かける気がする。そう言えば、二十数年前に愛用していた黒のマントを長く使っていない。今年は出番があるか!?ン十年前の服まで捨てずに取ってある私。掃除ができないはずだ・・・。と言っても、最近では娘が歓迎してもらってくれる。我が身だけでなく、家のおしゃれも楽しめるようになったらいいのだけど、家にいる時間が短すぎるんだよね~(老後は、着なくなったプリント柄の服の数々でパッチワークを楽しむ計画がある)。

(2008年10月)

2008.10.10 こころとからだ
ワークショップ体験~体とつながる

西 順子

 年に数回、臨床の勉強のために、関心のある研修に出ているが、なかでもワークショップ体験は好きだ。自分が体験し、実感してこそ納得する・・というタイプだからでもある。
 10月は、2日間「第二回21世紀統合医療フォーラム」に参加した。2日間にわたって、さまざまな「からだ」に関わるワークショップが開催されていて、どれもとても面白そう、全部参加してみたいくらいだった。私が選んだのは、中川一郎さんによる「タッピング・タッチ」、藤原千枝子さんによる「ソマティック・エクスペリエンス」、そして藤井里香さんによる「フェルデンクライスメソッド」。この2日間では、新たな刺激を受けてのワクワク感と、体とつながることの心地よさを感じさせてもらった。
 
 タッピングタッチは経験したことがあったが、開発者の中川さんから直接教えてもらえるワークショップは初めてなので楽しみにしていた。その日は、とてもいいお天気で、さわやかな風が吹いていた。心地いい音楽を聴きながら、そして、窓から入ってくるさわやかな風と光を感じながら行ったタッピングタッチは、とても心地がよかった。音楽と調和したリズミカルな感じがとてもよかった。中川さんのお話から醸し出される、平和への願いとあいまって、スピリチュアルなものとのつながりが感じられるような経験だった。

 ソマティック・エクスペリエンスは、藤原さんが訳された『心と身体をつなぐトラウマ・セラピー』を、とても納得して読み、興味をもっていたので、特にワクワク楽しみにしていた。日頃フォーカシングを使うこともあり、体の不思議にはとても感銘を受けていたので、もっと奥が知りたいと思っていたところだった。直接お話が聞け、貴重なビデオを見せてもらえたことが、とても嬉しかったし、ありがたく感謝の気持ちだった。少ししか時間がなかったが、疑問に思っていたことを直接質問できて、答えてもらったことも有り難かった。また、いつかぜひ、もっとお話を聞かせていただく機会があれば・・と、またいつかを楽しみにしたい。

 フェルデンクライスメソッドは、スタッフのお勧めで参加した。体に無理をせずに行うゆっくりとしたエクササイズ。「痛気持ちいい」ではなく、体に無理をかけない、楽に行うというのがポイントで、それが目から鱗だった。首のコリ、肩のコリには、「痛気持ちいい」が効くものと思っていた。また、好きなエアロビクスは、エネルギー全開!で身体を動かすのが気持ちよかったが、疲れているときには体に負担をかけることなのかな・・と、ちょっと自分の体を振り返った。このエクササイズは、脳の神経系に働きかけるというのも興味深かった。ワークショップが終わった後は、体が「すっきり、楽」。こんな「すっきり、楽」っていいなと、こんなに楽な感じで毎日を過ごせたら・・と、とても関心をもった。 
 早速エクササイズの本を購入したが、本を読んで実践するまで・・時間がかかりそう。やはり、これは本を読むよりも、実際に体験して体で学ぶのがよさそう。今のところ、肩コリに効くというエクササイズだけは続けていて(これも、今までやってたストレッチとは逆の方法なのが面白い)、そのせいか、少しましなような気もする。
 
 二日間で、体と心がすっきりして、明日からまた頑張ろう~!とエネルギーをもらえるワークショップだった。体の声をよく聴いて、体が楽・心地いいっていう感覚を大事にしていこう。来年は、大阪で開催されるという。楽しみにしたい。

(2008年10月)

2008.08.10 トラウマ
非暴力と平和を願う~その2

西 順子

 前回のエッセイで書いたが、今年、研究所で取り組んできたテーマは「世代を超えて受け継ぐもの」。この7月には、IMAGIN21による「地獄のDECEMBER~哀しみの南京」を観劇し、ドラマセラピストのアルマンド・ボルカスさんによるプレイバックシアター「こころとからだで考える歴史のトラウマ」とワークショップ「アジアの若い世代が継承する戦争体験」に参加させていただいた。以前から参加するのを楽しみにしていたが(どんなふうに自分が感じるのかと)、思っていた以上に、心の奥深くに触れる、密度の濃い四日間だった。
 特に最後の二日間のワークショップが終わった時、心の奥深くが満たされたような、これまでにないものを味わっていた。これをどういう言葉で表現したらいいのかと思ったが、一番ぴったりときたのは「癒し」という言葉だった。魂が癒されるというのはこういうことをいうのだろうか。自分に対して、人に対して、人間に対して「優しい」気持ちになれる自分がいることに気づいた。癒し、それを体験できたのも、この四日間で、人間の心の闇に触れることができたからであろうか。

 これまで、研究所主催のグループも含めて、さまざまなグループに参加してきたが、グループで体験を語り合う中で、女性として、かつての子どもとして、「普遍性」を体験することができた。それは、「私だけじゃない、自分一人ではない」という体験である。しかし、今回の催しでは、私個人というより、家族として、普遍性を体験させてもらうことができた。私自身は、祖父母から戦争体験を聞くことはなく、父母からもほとんど聞くことはなかったため、戦争を身近なこととして実感することなくきてしまったが、今回の催しを通して、根っこのところでつながっているのだと感じられ、私の家族の歴史をも、全体の歴史の文脈に位置づけることができた。家族が孤立するのではなく、社会のつながりのなかに位置づけられるのだと思うと、とても安堵するような気持ちになった。
 つながりを感じることができたのには、ドラマという手法を用いて、からだ=五感を通して表現されていたからだと思う。ドイツで、アジアで、日本で、それぞれの家族が戦争による苦悩と悲しみを背負っていることを「人」を通して知ったが、それぞれの体験は違うものの、苦しみ、痛み、悲しみは、底でつながっているということを、ドラマの表現を通して感じさせてもらった。それは感情が伝わる体験だった。また、家族が背負った戦争のトラウマを自ら引き受けて、受け継ごうとしている方々の勇気と希望に向かう気持ちが、心にすっと染み渡り、敬意と尊敬の気持ちを感じさせていただいた。
 四日間での人と出会い、心とからだで感じた戦争体験を伝えて下さった方々に、感謝の気持ちである。

 もうすぐ終戦記念日を迎える。自分なりに過去の歴史と向き合い、家族とも戦争と平和について話し合う機会を持ちたい。自分が体験して感じさせてもらったことを、次世代の子ども達にも伝えていかなければと思う。 

(2008年8月)

2008.07.12 トラウマ
ドラマの力

村本邦子

 「地獄のDecember~哀しみの南京」を観た。期待を裏切らない舞台だった。前半と後半の二部に分かれ、前半では、ナレーターとともに、新聞記者、ミニー・ヴォートリン、渡辺さんと横井さんの「告白」などの声によって、歴史的事実、舞台の背景が与えられる。後半では、被害者と怨霊の声が、ストーリー性を持って私たちに迫り、「もう一度、生まれ変わりがあるのなら・・・幾重にもかけて・・・この罪と罰を、魂にきざみこみ、懺悔の生を生きてゆけたらと思う・・・。罪人の私、その罪をどう償うのか。地獄こそ、我が住家」と渡辺さんがきっぱりと言い放ち、幕が閉じられる。

 渡辺さん、横井さんにとって、繰り返し舞台を演じることは、トラウマの再演なのだと思った。演劇という形で再演することで、現実の再演を避けることができるし、うまく共感を得ることができれば、トラウマのシナリオは変容していくだろう。一緒に観た人たちの多くが、「最後が重すぎる。地獄には住めない・・・」という感想を漏らしたが、渡辺さんが地獄に住まざるを得ないのは、一人で背負うしかないからだ。私たちが、少しずつでも分かち合うことさえできれば、それはもっと軽くなるはずなのだ。ふと、若者たちの自傷や次々起こるおかしな事件は、歴史のトラウマの現実的な再演なのではないだろうかと思った。舞台の上での再演をみなで分かち合うことができれば、現実の再演は避けられるのではないだろうか。

 よくできた舞台だった。「こころとからだで歴史を考える会」の企画だったが、心と体だけでなく頭も使って向き合うことが求められた。そして、さまざまなところにいるさまざまな人々の視点、絶望と希望、さまざまな感情が惜しみなく散りばめられており、ひとつの事象をたくさんの角度から見つめることのできる構成だった。演劇とは、なんてパワフルなツールだろう。

 二日目の企画は、「プレイバックシアター~こころとからだで考える歴史のトラウマ」。アルマンド・ボルカスさんをファシリテーターとするこのプレイバックシアターは、昨年も経験したが、素晴らしい手法だ。提供されたエピソードから、役者たちが、一人の人の心の中にあるさまざまな感情の声を注意深く聴きとって、それぞれに演じてくれる。あたかも、どの感情も無視されず、聴き取られる権利があるのだと言わんばかりに。人殺しとは、もしかしたら、自分の心のなかの声のどれかを殺すことから始まるのかもしれないと思った。自分の心のなかにあるすべての声を救うために、複数の他者が全身全霊で耳を傾け、共感しようと努力してくれること、そして、それをたくさんの人々に証人として見守ってもらうことは、どんなに大きな力になることか。

 折りしも、この二日の昼間の私の仕事は、毎年やっている芸術教育研究所の保育士研修で、ロールプレイを使うセッションをやった。即興でやってもらう寸劇を通して、現場から上がってきたたくさんの疑問に、私が答えるよりずっと説得力のあるだろう答えが見えてくる。同じ答えが提示されても、与えられた答えよりずっとよく身につくことだろう。
 
 三日目、四日目の企画は、「過去を共有し、未来を築くワークショップ~アジアの戦後世代が継承する戦争体験」で、少人数のクローズトグループだった。ここで初めて、見るだけでなく、自分の感情を演じてもらう、自分が相手の感情を演じてみるということを経験した。自分の体験を受け取ってくれた相手が、懸命にそれを表現しようとしてくれる体験は、これまで経験したことのない不思議な感じだった。私はいつでも自分の感情のすべてに責任を持つ努力をし続けてきたが、その責任を手放す感じ。おもしろいことに、手放すことから見えてくるものがある。逆に、相手の感情を聴き取る努力をしたあと、体が演じるままに任せるというのも面白かった。プレイバックで見たときには、どうしてそんなことができるのか不思議だったが、意外とできるかもしれないと思えた経験でもあった。

 これまでも、多少はドラマセラピーを経験している。ひとつの有効な方法だとは思ってきたが、私自身に関しては、とくにドラマの力を借りなくても、自分の気持ちを扱うのに不自由を感じてはこなかった。ただし、この歴史のトラウマ、つまり個のレベルを超えた集合的トラウマを扱うには、ドラマの力がとても役に立つのだと感じた。今さらドラマセラピストにまではなれないが、部分的にちょこちょこ取り入れることはできるかも。そして、自分ももっともっと人の助けを借りていこうと思った。

(2008年7月)

2008.05.10 トラウマ
非暴力と平和を願う

西 順子

 今年の年報のテーマは、「世代を超えて受け継ぐもの」。このテーマについて取り組むために課題図書を読んだり(『ザ・レイプ・オブ・南京』『沈黙という名の遺産』など)、親の歴史を聴くインタビューを行ってきた。自分自身の歴史をも振り返り、受け継いだものを内省するなかで、負の遺産が今では正の遺産となっていることに気づかせてもらった。年報執筆に向けて取り組みながら、個人レベル、マスレベルで世代を超えて受け継ぐものについて思い巡らす今日この頃であるが、そんななか、4月にたまたま二つのミュージカルを観劇した。
 一つは、劇団四季の「ウエストサイド物語」。もともとミュージカルが好きだし、特にパワフルなダンスが好きなので、楽しみにしていたのだが、観劇しおわって、感動したというのかエネルギーを感じて心と身体が震えるようだった。社会の貧困と差別、憎しみと暴力、平和を求める闘いと願い。歌やダンスを通して表現されるものには、負のエネルギーと正のエネルギーとが渦巻いていた。差別、虐待、暴力、その連鎖を断ち切ろうとして生き抜こうとした若者の姿に、現代にも通じる非暴力への願い、祈りを感じた。平和とは人を愛することであると感じた。
 もう一つは、夫に誘われて、内容は知らずにたまたま行くことになった、大阪・憲法ミュージカル2008実行委員会主催の「ロラ・マシン物語」。このミュージカルはフィリピンで従軍慰安婦にされたトマサ・サリノグさんという実在の人物をモデルにしたもので、大阪では若手弁護士らが企画し、公募で集まった市民100人が演じている。物語では、戦時性暴力による深い苦しみと悲しみ、それを生き抜き、超えて生きようとする人間の尊厳をかけた正義を求める闘いが描かれていた。主人公、そして民衆のエネルギーが渦巻く舞台、平和を求める願いに、魂が揺さぶられるようだった。感動とともに、同じ過ちを繰り返してはいけないこと、人間の尊厳を奪うことがあってはならないこと、真実と向き合うことが大切なこと・・を伝えてくださった、トマサ・サリノグさん、出演された市民の方々、このミュージカルを創った方々、企画された方々に感謝したい気持ちとなった。

 二つのミュージカルを観劇して、暴力へと向かう負のエネルギーと、非暴力と平和を求める正のエネルギーが拮抗するなかで、その渦を超える正のエネルギーを感じとった。正のエネルギーは、「生」のエネルギーでもある。負の遺産と向き合うことで、負のエネルギーを非暴力と平和を求めるエネルギーに変容させていくことができるのではないだろうか。まずは私にできるところから、一人一人の人間の「歴史」の真実と向き合っていきたいと思う。 
 7月には、ドラマセラピストの方の平和教育ワークショップとプレイバックシアターに参加する予定であるが、ここでもまたどんな体験ができるのか、とても楽しみである。

(2008年5月)

2008.04.12 ライフサイクル
新車がやってくる!

村本邦子

 人の心は移ろいやすいもの。「自分は一生、絶対、やらない」と思い込んでいたのに、やるようになったってことがあるものだ。私の場合、ふたつある。ひとつは運転、ひとつはピアスだ。

 昔々、プレイセラピーでかなり長い間、おつきあいしたアスペルガーの女の子がいた。愛ちゃんというが、よく、「先生、運転しないの?運転しないと、大人になられへんで」と言われたものだ。愛ちゃんが住むところは、1人一台、車を持っているような地域だったので、大人はみんな運転していたのだと思う。なぜか、自分は一生、運転することはなかろうと思い込んでいた。

 ところが、どういうわけか、たまたま住むことになったところの駐車場が抽選で当たり、使うか使わないかという状況が訪れ、駐車場を使えるということは、かなり困難で特権的なことだということがわかったので、何を考えたのか、突然、運転免許を取ることにした。ちょうど息子が生まれたばかりで、同じく免許を持っていなかった夫と2人で、託児つきの教習所へ通い、苦労して免許を取った。

 子どもたちが小さかった頃は、よく車を使っていた。童謡をいっぱいダビングして、みんなで声を合わせ、繰り返し繰り返し歌いながら、あちこち旅行したものだ。子どもたちが学校に上がると、めっきり運転しなくなった。もともと、夫も私も運転が得意な方ではない。加えて、私は救いようのない方向音痴。迷いながら運転するので、危なっかしくて仕方がない。必要がなくなったこともあり、それから、まったく運転しなくなった。

 正確に言えば、ほんの一時期、なぜか急に運転できるような気がしてきて、運転し始めたことがあった。和歌山に二泊三日の旅行をした。帰る直前までスムーズにいって、かなり自信を持ち、「これからも時々、車で旅行することにしよう」と思ったのも束の間、環状線を降りるレーンを間違えて、あちこちからクラクションを鳴らされ、かなり恐い思いをした。それで、急に自信がしぼんで、再び運転しない状況に戻ってしまった。

 その頃、思っていたことがある。「運転できる」という感覚は、なぜか「自分が一人前の大人である」という感覚に近い。「愛ちゃんが言っていたことは、まんざら間違いでもないな」と時々、懐かしく思い出す。他の人はどうだか話したことがないので、もしかすると、これは、私だけの感覚かもしれないけど。私は、長い間、自分が大人であるという感覚を持てずに生きてきた(いまだに、とっても子どもっぽいところがある・・・)。大人の感覚は、初めて自分名義のクレジットカードを作ったとき、確定申告をするようになったとき、被扶養者でない健康保険証を持ったとき、少しずつ増えていった。運転も、明らかに、この延長線上にある。

 この春、生まれて初めて、外国でレンタカーを借り、自分で運転しながら旅をした。パックツアーでなしにハワイ島を旅しようとすれば、レンタカーを借りる以外に選択肢がないため、決死の覚悟だったが、ハワイ島は車も少なく、道もシンプルで、運転は快適だった。すっかり大人になった気分で、自信をつけて戻ってきたところ、なんと、留守中、夫が息子の引越しをしてやって、壁に当ててしまい、車は相当に悲惨な状態になっていた。修理すると50万かかるということで、いつもながら、いきなりだが、20年近く乗ってきた愛車を手放し、新車を買うことにした。

 子どもたちが大学を卒業したら、カーナビつきの新車を買って、あちこちの温泉地を旅して回るというのが私の夢だったが、なんと急な展開で、夢が実現することになった。ドキドキ・・・。新車は連休明けに来る予定だが、これからは、時々、運転して回るとしよう。今では、大人の感覚をもてないということはすっかりなくなったが、これで運転するようになったら、いよいよすっかり大人になれるような気がする。たぶん、最後のイニシエーションだ。

 「一生、やらないだろう」と思っていたはずのことが、いつのまにか当たり前のようにやることになる。人生とは不可思議なものだ。

(2008年4月)

2008.02.12 子ども/子育て
受験生とのつきあい方

村本邦子

 二年続けて受験生をやってる息子。「受験生がいると気を遣うでしょ~」と人から労われるが、ぜんぜん気を遣っていない私。

 その息子も、去年の今頃は、「なんかめまいがする」「心臓がドキドキする」などと身体症状を訴えたり、なんだかイライラピリピリしていたが、今年は、それほどのこともなく、「やっぱり大人になってきたな~」と内心、感心していた。

 ところが、本番の受験が始まる前夜。家に帰ると、息子が、「晩御飯食べたら、みんなで温泉行こうや」と言う。びっくり仰天した私が思わず、「みんなで温泉なんか行ってる場合なん!?一分一秒惜しんで勉強した方がいいんと違う!?」と茶化して言ってしまったところ、息子が怒り出した。「どっちみち風呂に入るんやから、一緒のことやろ。それとも、風呂にも入らんと勉強せえって言うん!?」

 なっ、何なんや、これ・・・(個人的には、温泉行きたいんだけど・・・)。受験生のストレスか!? 内心、驚きながら(息子がこんなふうにわけわからない怒り方をするのは、思春期だった中学生の一時期を除くとめったにない)、「この子は、いったい何を考えてるんだ!?」と、こっちも腹が立ってくる。余裕のある子ならともかく、志望校にギリギリ届くか届かないかというところなのに・・・(四月からずっとよく頑張ってきたが、なにしろ生まれて初めてやる勉強だから要領を得ないのか、ずっと成果が上がらなかった。それが、年末あたりから急に成果が見えてきたので、本番に間に合うかどうかといったところ)。しかし、互いに怒りをエスカレートさせても良いことはないし・・・と大人の方がググッとこらえ、黙っておく。が、息子の方は、まだ畳み掛けてくる。八つ当たりやろ!?

 「お母さん、そうやって上から目線でものを言うのやめてくれる?」「えっ、上から目線でなんか言ってへんし・・・」「言ってる。まるで、あんた馬鹿じゃない!?って言われてみたいや」。心の中に思い当たるフシなく、そんなことはない・・・とは思うが、このシチュエーションにいる息子にはそう聞こえるのかしらと思うと、ちょっとかわいそうになる。納得できない部分は残るが、「そんなつもりはないけど、そう聞こえたら、ごめんなさい」とひとまず謝っておく。

 それでも、「いったいこの子は何を考えているんだろうか。私には理解できない」と考え続けるが、ふと、試験前日で不安と緊張が高く、家族と一緒に和気藹々と温泉にでも行って、あったかい気持ちに包まれて本番を迎えたいということだったんだろうかと思いつく。たぶんそうだったんだろう。そう考えると、急に、かわいく、そして、かわいそうな気持ちになる。やっぱり悪いこと言ったかな。

 「今、ご飯、食べる気分じゃない」と言うので、夫と二人、無言で食べ始めるが(夫の作ってくれたちゃんこ鍋)、そのうち娘が帰ってきた。「一緒にご飯、食べ」と言うと、息子も気を取り戻そうと努力してか、娘と食べ始める。場を察した娘が息子の笑いを取れる話題を提供し、夫と三人、仲良く笑いを取り戻す。輪からはずれていた私が、頃合いを見計らって、「じゃあ、そろそろ温泉行こうか~」と誘うと、息子も大人らしく意地を張ることもなく、素直に「うん」と言う。こうして、受験前夜、一家で温泉へ行った。

 温泉効果がどんなふうに現れるのかよくわからないが、まっ、気分悪くて実力発揮できなかったと後々まで言われるよりは、気分よく試験を受けてもらう方が良いことは間違いない。基本的に、受験は自分のために自分でやることなんだから、受験生がいるからって、家族全員が腫れものに触るような扱いをするのには反対だが、それでも、やっぱり、ストレスフルな受験生のこと、ちょっとは気遣ってやらなきゃな・・・と反省した。さじ加減が難しい。さて、来年は、娘が受験生だ。

(2008年2月)

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