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FLCスタッフエッセイ

2016.06.21 子ども/子育て
「スマホに依存している」といわれる姿の向こう側

福田ちか子

 

 電車の中で,ふとまわりをみると,ほとんどの人がスマホを見ていた。ネット依存やスマホ依存,SNS上のトラブルなど,マイナスの面が話題になることもあれば,幅広く簡単に情報を発信でき様々なネットワークづくりを実現させるもの,災害時のつながりを支えるもの,としてプラスの面が話題になることもある。コミュニケーションのツールとして,スマホは生活の中に急速に根を張り,広がっている。

 

スマホのマイナス面が強調されるのは,スマホがコミュニケーションを阻害する場合であることが多い。その中で,スマホが大人(親世代)と子ども世代のコミュニケーションを難しくさせる状況について,NHKの「あさイチ」という番組で,昨年7月に放送された特集「こどもリアルスマホライフ 10代の本音」をみて考えさせられることがあった。

 

大人側の視点を入口に,10代のこどもたちにスマホ事情についてインタビューをするという企画だったが,まず親世代にとってと,子ども世代にとってのスマホの存在感の違いが,とても大きいことに改めて気づかされた。

 

 学生時代にスマホが無かった親世代からみると「スマホをしている」という大きなくくりで捉えていることが多く,その段階で「意味がわからない」「ネットに依存している」や,「携帯ばかりして勉強をしない」「無駄遣いが多い」などの注意や拒否反応につながり,その向こう側で起きていることのイメージが持ちにくい様子がみられた。

 

 実際には,「スマホをしている」の中にも,音楽を聴いている,動画を見ている,本や漫画,小説を読んでいる,ゲームをしている,SNSで情報を共有しているなどなど,様々な場合がある。また学級や部活動の連絡網として機能しているケースも多い。

 

特にSNSは,子どもたちにとって日常の中で実際の会話と同じくらい影響力や存在感のあるもので,番組の中で,例えば友だちと実際に会ってしゃべりながら,同時並行でSNSにもコメントをのせ,その場にはいない人ともつながりながら,その場の会話が流れていくことや,SNSのアカウントを 「本アカ」「趣味アカ」「闇アカ」などいくつも作って,日常的に会う友だちに伝えるアカウント(本アカ)と,友だちには話しにくいことを話すアカウント(趣味アカや闇アカ)とを場合によって使い分けたりすること...などが紹介されていた。

 

 紹介した例は,ほんの一部だけれど,子ども世代のスマホ事情は奥が深く,「スマホをしている」中にも,本人の興味関心や特技,趣味が反映されていたり,時には友だちづきあいやその悩みが反映されていたりする。四角い箱の中に広がる世界なので,外から見えにくいのが難点だと思うけれど,大人世代とのつながりを断つもの,コミュニケーションを阻害するものとして排除するのみでは,少しもったいないように思う。「スマホをしている」姿の向こう側に興味をもって親子で話すことが,コミュニケーションの切っ掛けにもなると思われるので,是非一度,子どもたちのスマホ事情に興味をもって話し合ってみることをおすすめしたい。

2015.07.14 コミュニケーション
子育て中の夫婦間コミュニケーションのヒント

                                         金山あき子

人と人とのコミュニケーションは、時に難しいものです。特に、子育て中や忙しい時、自分が何かのストレス下におかれている時は、家族やパートナーからのサポートは大事なものですが、そのニーズをコミュニケーションの中で伝える事は、案外難しかったりします。今回は、ちょっとしたコツで夫婦間のコミュニケーションを円滑にしてゆくヒントを、筆者が最近読んだ本、『赤ちゃんを愛せないーマタニティブルーを乗り越える12章』(クラインマン&ラスキン)からまとめ、考えてみたいと思います。

 

妻自身が忙しかったり、ストレス下にある時には、夫に家事や子育てを手伝って欲しかったり、心の支えになってもらいたかったりなど、相手に対する欲求やニーズが多くなる時期といえます。しかし、多くの女性は、自分の気持ちをストレートに相手に伝える事に、ためらいや違和感がある、といいます。それはあまり主張するのは「女性らしくない」と社会的に思われてきたことから、女性が主張したり、助けを求めることを難しく、恥ずかしいと感じやすいことが原因となっていると言われます。ストレス状況と、そうした社会的なハードルが重なって、女性は相手に自分のニーズを伝えるのがより難しくなる傾向があると言えるでしょう。

では、一体どうしたら、より、パートナーに自分のニーズを健全に伝え、コミュニケーションをより良くできるのでしょうか。以下に具体的な例を交えて「伝え方のヒント」を挙げてみたいと思います。

 

⒈「あなたは〜」ではなく、「わたしは〜」という言い方をする。

「あなたは・・・」という言い方で始めると、ついつい相手のことを責めるような内容になってしまいがちです。例えば、「あなたは、いつも家に居てくれないのね。」という言い方があります。これを、「私は〜」という風な言い方でしてみたらどうでしょうか。つまり、自分の気持ちを、相手に伝えてみるのです。上の例では、「私は、あなたがいつも家に居ないと寂しいのよ。」というように、「私」の気持ちをベースに言い換えることができます。そうすることで、相手は自分が責められないので、あなたの言いたいことも聞いてみようという気になり、コミュニケーションへのドアが開かれやすくなるかもしれません。

 

2.まず夫の立場を認め、その上で自分の欲求を伝える。

例えば、夫と話をしたいと思っていた夜、夫が仕事で遅く帰ってきたとします。ここで、「今頃帰ってきて!一体どういうつもりなの」と言ったとします。こうすると、夫は自分が責められたと思い、また自分の状況をわかってもらえないと感じるでしょう。また、妻が「話をしたい」という本当にして欲しかったことを伝えるゴールは遠のいてしまいます。良い例としては、「仕事で疲れているところ悪いのだけど、私とも話をしてほしいの。」というものがあります。こうして相手の状況を理解する内容を入れてみることで、話し合いの場ができるかもしれず、また自分の欲求を伝えることができる可能性も高まるでしょう。

 

3.曖昧な言い方をせず、はっきりと直接的に欲求を伝える。

たとえば、「もっと手伝って欲しい。」と漠然と言っても、実際に、夫に「何を」して欲しいのかを、具体的に伝えないと、なかなか相手に自分のして欲しいことをわかってもらいにくいでしょう。まずは、こちらが何をして欲しいか、例えば、「子どもがトイレをする間見ていて欲しい」、「食器を下げて欲しい」など、具体的に明確化して伝えると、もっと相手に実行してもらえる可能性が高まります。その際には、1.の「私は〜」の言い方で考えること、2.相手の状況・立場を認めるコツを適用すると、より有効です。

 

最後に、「ありがとう」は魔法の言葉、とも言われますが、やはり感謝伝えるということは、コミュニケーション上とくに大事なことのように思われます。相手がしてくれることが当たり前になっていることも多いものです。自分の主張や、ニーズを伝えてみて、パートナーがしてくれた行動や、言葉が嬉しかったら、それへの感謝を言葉にして、喜びを伝えてみましょう。きっとその喜びは何倍にもなって返ってきて、二人のコミュニケーションが、ますます素敵なものになっていくことでしょう。

 

【参考文献】カレン・R・クレイマン+ヴァレリー・B・ラスキン(1996)『赤ちゃんを愛せない マタニティブルーを乗り越える12章』 (村本邦子+山口知子訳)創元社

 

2014.12.24 子ども/子育て
大人と子どもをつなぐ絵本の魅力

福田 ちか子

 

 小児科で相談を受けていた時,子どもの育ちについて相談に来られた保護者の方々から,「一緒に絵本を読むように言われたんですけど,それって意味あるんですかねぇ...」と尋ねられることが幾度かあった。親子のコミュニケーションを良くするために絵本がいったいどう役に立つというのか?という心の声が聞こえてくるようなお尋ねであった。

 

 子どもは確かに絵本が好きだ,けれどもいったいどう子育てに活かされるのか?どう役立つのか?という素朴な疑問を抱くことって,実は案外多いのではないだろうか。今回は,そんな疑問に答えてくれるような俵万智さんのエッセイ,『かーかん,はあい』(2012,朝日文庫)を紹介したいと思う。

 

  この本では,章ごとに一冊の絵本が,万智さんと息子の日々のやりとりの様子を交えながら紹介されている。親子のコミュニケーションにおいて,絵本が,何ともいえず良い仕事をしている場面や,大人にとって子育てを助けてくれる心強い味方となる場面が描かれていて,絵本の魅力を再発見できる一冊だ。

  例えば,「お薬飲みなさい。飲まないと良くならないよ!」何回いっても子どもは聞かない。「苦いからやだ!」「なんで飲むの?」大人は大人で,どうしていう事を聞いてくれないのかと焦るし心配だしで,時にはイライラ。「なんで?」と聞かれても,お腹の調子を良くする薬の働きなんて説明のしようもないし,と焦りは募る。

 そういう時に効きそうなのが,"バクテロリストVS.ビオフェル民族"の章。病気になる仕組みや身体の働きが詳しく紹介された絵本(『よーするに医学えほん からだアイらんど おなか編』)を気に入って以来,薬嫌いの息子さんが,ビオフェル民族に応援してもらうんだから,と張り切ってお腹の薬を進んで飲むようになったエピソードが紹介されている。

 また,「今日は幼稚園行きたくないんだ!だって......だってなんだもん!」嫌な気持ちを,子どもは上手く言葉にできない。大人は心配したり,かけることばがみつからなかったり。そんな時には,"今日は「いやいやえん」"の章が役に立つかもしれない。どうしても今日は幼稚園に行きたくないといった息子さんがお休みしたある日のエピソード。気晴らしにと出かけた図書館で,息子さんは,その日の自分の気持ちにぴったりの絵本(『いやいやえん』)を見つけて目を輝かせる。次の日は元気に登園したとあり,万智さんが安心した気持ちも伝わってくる。

 

  日々のあるあるシーンで,子どもの気持ちにぴったりの絵本がみつかると,絵本の世界をとおして,子どもが自分の気持ちを大人に伝えることができる。また,大人が子どもにわかりやすく伝えることもできる。絵本が,まるで大人の言葉と子どもの言葉を通訳してくれるかのようである。絵本によって,子どもと大人の気持ちが通い合う瞬間が生まれることが,この本のたくさんのエピソードに共通している絵本の魅力だ。絵本の力で,子どもと大人が楽しく通じ合える瞬間が,自然と増えていく。子どもの気持ちがわからない,子どもと楽しく過ごせない,そんな時,絵本を味方につけると,心強いサポーターになってくれると思う。

2014.12.01 コミュニケーション
夫って/妻ってこんなタイプ!!夫婦間ストレスを減らすコツ?!
福田ちか子

 

  漫画家の高世えり子さんが,自分とは考え方やものごとへのアプローチが大きく違う夫に焦点をあてて,出会いから結婚,出産までを描いたエッセイコミック"理系クン"シリーズ。 "理系クン"と呼ばれる夫、N島クンが,夫婦間の葛藤や家事といった彼にとっての難題を冷静に分析して改良(?)していく様子や,そんなN島クンに対する妻、高世さんの心のツッコミが,大学時代に比較文化を学んでいたという高世さんによってコミカルに描かれていて面白い。

  例えば,買い物の仕方の違いで勃発した夫婦ゲンカについて。結婚後の新居に購入する家具を買おうとしたとき,納得がいくまで素材や商品を比較検討したいN島クンと,N島クンと一緒にお買いものをする雰囲気を楽しみたい(買う品物へのこだわりは小さい)高世さんの間に大きな溝ができる。

******

高世さん:「二人で買い物しようって言ったのに,N島クン一人で勝手にいっちゃうわ,私の意見は聞かないわ,話しかけてもシカトするわで一緒にいる意味全然ない!!」

N島クン:「(まっさお)......僕......は...えり子にとっても今日一日は楽しくてもりあがったデートだと思ってた...」

高世さん:「どっ,どこが......?」

N島クン:「え...だって...一緒にいるし,一緒にお店に入ったし...(以上)」―(略)―

N島クン:「シカト!?」「いつ...!?」 高世さん:「ずっと!」「休もうよ~とか」

 ここまではよく起こるすれ違いかもしれない。しかしここから,N島クンの分析がはじまる。

N島クン:「ごめんそれは僕の頭のCPUが「買い物」という項目で占められていて,えり子の様子や外のコトはひとっつも入ってこなかったんだよ...」「しかしえり子はすごいね...「会話」と「買い物」を「同時に処理」できるんだ...

そうして出た結論が,

N島クン:「はっ,そうかっ―(略)―集中力の使い方がちがう方式なんだよ!」

この後,お互いが重視するポイントを比較検討して,N島クンがネットで商品を探してしぼりこんでから高世さんに聞くシステムを考え出し,一件落着となる。 

*****


 こんな風に高世さんからみたN島クンとの価値観の違いにまつわるエピソードがちりばめられている。 "二人でしゃべりながら、良い雰囲気になったら楽しいだろうなぁ"などという期待に対して,N島クンからあまりにもピントがズレたコメントが返ってきた時の高世さんの肩をポンと叩いて労いたくなることもしばしばだ。

  ただ、このシリーズの面白いところは,二人の価値観が違う!!というところでどちらかがあきらめることや,相手の価値観を変えさせようとすることなく,お互いの価値観が尊重される落としどころをみつけていっているところだと思う。

   相手の価値観やタイプをしり,どちらか一方が我慢するのではなく,自分も相手も大切にする。高世さんやN島クンのように,衝突や葛藤があったとき,お互いの価値観の違いに気づいて、そのことを相手と共有できると,お互いにとって程よい着地点を工夫できて、「もうっ!!なんでっ!!」というストレスが,少~し減らせるかもしれない。

 

引用文献: 高世えり子 2012 理系クン 夫婦できるかな?   文芸春秋

 

2014.10.17 コミュニケーション
「あたりまえやん」,ほんとかな?  ――コミュニケーションのヒント――

 福田ちか子

 

  「そんなんあたりまえやん」「え~,空気読めへんなぁ」「最近の若い者は...」などなど,相手の行動に違和感があってつっこんだり,自分が言われて落ち込んだりする言葉の数々。つっこむ側にいるときは,結構イライラするし,言われたときは結構傷つくのではないだろうか。

 

  実はこれらは,ある一定の「常識」があって,相手や自分がそれを知っていることが前提になって初めて成立するということを,かつて友人から教わった。

 

  一度目は,アメリカに留学していた先輩から。

   突然だが,"古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音"という松尾芭蕉の句から,どんな情景が思い浮かぶだろうか。解釈の道は奥が深いので脇へ置くとして,目を閉じてイメージしたとき,そこに蛙は何匹いるだろうか? 私は,同じ質問をされたとき一匹の蛙が思い浮かんだし,本やTVでたまに見かける際のイメージ映像でも一匹の蛙のイラストが自然に添えられている。

   ところが,アメリカ人に同じ質問をすると,どうやら蛙が一匹とは限らないのだそうだ。初めてそれを聞いた時,「たくさんの蛙がポチャンポチャンと飛び込む......そんなん情景台無しやん!」と心の中でつっこんだ(英語に翻訳されたものには,"A Flog"と冠詞がついている。俳句や日本語に詳しくない英語圏の人が訳しようとすると,"Flogs"と複数になる場合もあるのだとか)。でも自分がそうだと思い込んでいることが,実はあたりまえではないのかもしれない,ということがとても新鮮だった。

 

   二度目は,イスラエル人の友人から。

 学生時代に,お互い留学生という立場で,彼女と仲良くなり,お互いの自宅に招き合ってお茶をすることになった。最初は友人のお宅へ,そして次は私の下宿へ。下宿に友人が来て,テーブルについて,ちょっとお部屋を案内という段になったとき...す~っと,ごく自然に,まるで自分の家のようにその友人が冷蔵庫を開けた。その瞬間の驚きといったら!後で友人に尋ねると,友人の文化圏ではあたりまえのことだそう。内(ウチ)と外(ソト)の境界の感覚が文化や生活圏によって違う,ということを肌で感じた瞬間だった。

   相手が,自分が,「知っていてあたりまえ」「わかってあたりまえ」という気持ちがあると,相手がわからなかったとき,自分がわからなかったとき,腹が立ったり傷ついたりする。そういったコミュニケーションの中で起こる違和感の小さな塊は放っておくと心に降り積もる。でも,実は「あたりまえ」ではないかもしれない,ということを心に留めておくと,今まで見えていなかった新しい側面に気がついたり,積もった塊を小さくすることができるように思う。

2014.07.02 コミュニケーション
祖母と孫―ジェネレーションギャップ編―

福田ちか子

 

 うちの祖母は、御年90歳になる。7年前に祖父が他界し、一人暮らしだ。90歳になり、これまでの人生をふりかえって、いろいろ思うところがあるご様子。そんな祖母をみていると、孫にもいろいろ思うところがでてくる。

 ◎自分の人生は人と比べて平穏だったとこぼす件。

 毎朝新聞を読むのが日課の祖母。祖母の中では、ニュース欄も、ゴシップ欄もTV欄も同じ扱い。「美智子さま(皇后陛下)も大変ねぇ...」「最近はやれ離婚離婚て多いわねぇ...」「大野君はいろんな人に人気らしいわ(90歳、嵐ファン!!)」。そんな祖母だが、TVで人様の波乱万丈の人生を見聞きするにつけ、自分は平凡な人生だったわ...世間知らずなままだわ...などとぼやく。

 ......何をおっしゃるやら。祖父の兄に気に入られて、祖父の顔を知らずに結婚が決まった祖母。当時満州にいた祖父のもとへ祖父の兄が送った≪ヨメキマル≫の電報一つで夫婦になり、そのまま満州へ。満州で終戦を迎え、ロシア兵から逃れ、夫婦で1歳の娘を抱えて引き上げのご経験ありだ。

 孫世代からみると、驚愕の結婚事情だが、当時はそれが当たりまえ。今も疑う余地なくあたりまえだったと感じている祖母の目には、現代の自由な結婚事情はとても大変なものと映るようだ。〈おばあちゃんの方が大変やったやん〉と伝えたいが、そこはなかなか伝わらず、もどかしい。

 

 ◎恐竜が現代に実在すると信じそうになる件

 いつだったか祖母とTVを観ていて、たまたまロードショーのジュラシックパークが映った時のこと。グラント博士と子どもたちがラプトル(小型の恐竜)に追いかけられるシーンを見て、「あらこわい。これって本物?」と一言。その時、CGがピンとこない祖母に、簡単に説明ができないことに気づいた。CGかどうかの区別って、私たちはどこでつけているんだろう...??? 映像がリアルになればなるほど、現実と空想の境界が曖昧になる...というのはよく耳にするが、身近に実例がいた。

 TVを見ているとき、孫世代の私たちは、自然と現実かそうでないかを判断して映像をみているけれど、祖父母世代には全部現実のように映っているのかもしれない。そう思ってメディアの情報を見ると、祖父母世代は混乱するだろうなと思ったり、実は孫世代が現実だと思っているものもフィクションなのかもしれないと怖くなったりする。

 

 ◎曾祖母の気持ちがわかるわぁと祖母がぼやく件

 ここ20年ほどで、IT化は急速に進んだ。15年ほど前には、誰でもが電話を携帯して道を歩いてはいなかったはず。携帯電話普及の波には何とか乗った祖母だが、インターネットの波には乗らなかった(乗れなかった?)。ネット環境が前提で情報提供がなされているご時世。≪詳しくはWebで!!≫≪今日LINEでさ~≫≪facebook上のトラブルで...≫等々。《犯人はPCを遠隔操作して...》と,祖母が好きな刑事ドラマのトリックまでもがIT化だ。

 情報についていけない悔しさや、ネットが当たり前の現状への憤り、もはやついていく気力はないあきらめなど、複雑な心境がうかがわれる。そんな中、「給湯器が普及してきたときのお母さん(曾祖母)が、世の中変わるなぁ~ってぼやいてた気持ちが今わかるわ」と、繰り返しつぶやいている。孫世代が祖母世代に変わるころには何が起こっているのだろうか...

 

 こうしてみると、時代の変化の中で、祖母世代と孫世代では、ジェネレーションのギャップが大きすぎて、孫世代はもどかしい。相手が自分と同じ世界観だと思い込んで話をしようとすると、かみ合わないことこの上ない。ここまで来ると、異文化交流のような気がしてくる今日この頃だ。最近の変化が特に激しいのか、やはり昔から繰り返されてきたことなのだろうか...。祖母世代も同じ気持ちを感じているのだろうか...。

 ついつい、新しいことに対応できる方が偉いように錯覚して〈そんなことも知らんかったん?〉と上からの視線や口調になってしまうこともあるけれど、祖母の話の中には、キラリと光る生活の智慧が隠れていることがあるので、侮れない。祖母世代の経験智、大切にしたいと思う。

2012.09.02 DV
安全でサポーティブなコミュニティづくり~相互信頼を実感して

西 順子

 先週の土曜・日曜日の二日間、援助者向け講座「DV被害者のトラウマと回復~女性と子どもの視点から考える」を開催したが、あっという間に一週間がたった。開催の一週間前から講座本番に向けて集中力が高まり覚醒度がアップ(ハード面とソフト面と両方の準備は初めて!)、当日はピークを迎え、終了後のこの一週間はこの体験を咀嚼し消化する時間だった。と同時に、次にどうつなげていけるかと新たなアイデアが浮かんだり、それを現実に照らし合わせたりして考える時間でもあった。

 私にとって今回開催した講座は、「安全でサポーティブなコミュニティづくり」の一歩だった。生態学的視点からトラウマと回復を捉えると、トラウマを受けた人は「安全でサポーティブなコミュニテイ」に接近する必要がある(女性のトラウマに関わる臨床家の使命)。昨年、年報21号の論文「女性や子どものトラウマとコミュニティ支援-個人臨床を超えて」をまとめたことで、自分のなかで「コミュニテイづくり」がより意識されるようになった。そして今年は「自分がいいと思ったこと、やりたいと思うことで、できることは何でも思うようにやってみよう」という意思があった。そして自分の考えに賛同しチームを組んでくれた仲間がいたことで、今回の講座が実現した。なので、私にとっては行動できたこと自体が嬉しいことなのだが、この二日間で経験したことはこれまでにないくらい心に響くエンパワメントの体験となった。それは何かと考えると、今回は講座開催の動機など、大事に思っていること、価値を置くことをストレートに伝えたわけだが、心をオープンにしているせいか、そこに入ってくるものはどれも新鮮で有難く感じられるものだった。

 この体験をなんと言ったらよいだろう・・と思っていたところ、ふと読んだ昨年の年報21号のタイトル「コミュニティ・エンパワメント」がぴったりきた。コミュニティ・エンパワメントとは、コミュニテイやシステムなど「場」全体の力を引き出す、活性化することを意味する(村本、2011)。二日間の講座という一つの「場」に、参加している人々のもてる力が集まり、互いにそこから学びあい、互いにエンパワーされたこと、その相互作用が素晴らしくて刺激的だった。「場」に参加している人とは、参加者の皆様とお手伝いに参加してくれたスタッフ、主催者であり講師である私たちである。その場自体が、コミュニティ・エンパワメントだったかもしれない。

 もともと私は、相互作用のなかで互いに変化、成長する双方向性の関係性がとても好きである。だからカウンセリングという仕事が好きであるが、講師という伝える仕事においても、「場」のなかで相互作用から生まれる変化や変容を感じられることは新鮮な感動であった。世の中に、こうして女性や子ども、人々に寄り添っていこうとしている方々がいるということ、真摯に学んでいこうという方々がおられることに、人やコミュニティへの信頼を感じさせていただいた。そして、信頼を寄せる気持ちをもつことで、これから私たちも頑張っていこう~と未来へと向かう希望を感じた。

他にも、もっとこんなことも伝えたい、やってみたいと思いは色々湧いてくるが、それを現実化することを考えると現実の壁にぶつかる。何をするのにも資金、人、時間、場所・・が必要である。そこにはいつも限界がある。しかし、どれも十分にはないからこそ、また工夫も生まれるというものだ。できることはほんの小さな、ささやかなことかもしれない。でも小さな第一歩からでもスタートすると、また次につながっていくと、今回の講座を経験して実感した。できれば思いつきではなく、長期的展望をもってつなげていきたい。

 今日は本社で月一回の「女性のためのセルフケア・グループ」の日だった。継続して参加くださっている方から初めて参加くださった方まで、何がしか自分を大切にしてケアするヒントを持ち帰ってくださったのなら嬉しい。アンケートには、今後希望するグループやワークショップも書いてくださっていた。女性や子どもの声に耳を傾けると、そこにはさまざまなニーズがある。

 一人でできることは限られているけれど、さらにスタッフの力も合わせていければいいな。「安全でサポーティブなコミュニティ」への架け橋となるように、コミュニテイに出向いていっての「場」づくり、研究所のなかでの「場」づくりと、小さな一歩を積み重ねていきたい。

(2012年9月)

2012.06.12 コミュニケーション
みやげ話

村本邦子

 みやげ話という言い方がある。私自身もあちこちに行くことが多いので、周囲の人たちに旅先の写真を見せ、おもしろかった体験を話して聞かせることは多い。楽しかったことや驚いたことなど印象深いエピソードを身近な人たちと共有したいと思うからだ。でも、最近、本当におみやげ話が嬉しい人はどのくらいいるんだろう?と考えるようになった。もしかすると、本当はあまり興味のない人や、むしろおもしろくない人だっているのかもしれない。行先や関係性にもよるだろう。年賀状の写真に似ているのかもしれない。

 娘がヨーロッパから帰ってきた。今回ほどおみやげ話を心待ちにしていたことはない。今や私がまだ行ったことのない未知の国々を経験してきた貴重な人だ。ブルガリア、オランダ、ベルギー、モロッコ、トルコ・・・。セルビアやボスニアなんて、いったいどんな国なのか想像もつかない。カミーノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴ巡礼)にも興味津々。いったい何から聞けばいいのやら。

 「旅先で出会った女たちで素敵だった人たちは?」一番は、30歳のインドネシア人、カミーノで一緒だった女性だそうだ。ジャカルタで生まれ、イタリアにインターンシップに行って、そこでファッション関係の仕事を見つけ、ミラノに暮らす。休暇ごとに「カウチ・サーフィン」(要するに、ネットで旅人にソファを提供しあうサイト)であちこちの国を訪れている。バスク地方では、ブータンからの留学生で男の子2人がカウチを提供してくれてとても親切にしてもらったそうだ。さすがはブータン。

 もうひとり、アルゼンチンから来た年配の女性ともカミーノの道で一緒になったそうだ。自国には子どもがたくさんいて、毎日、家事や子育てが大変すぎるから、休みを取って、夫に家のことを任せ、一人で旅している格好いい女性。日本ではちょっと考えにくい。良くも悪くも我が強いので、時には一緒になった人たちとけんか腰になることも。

 不思議すぎるのは、日本からブルガリアに一人で来ていた20代の女の子。英語もまったく話せず、おどおどと困惑しながら何でも娘に代弁を頼んでくる。将来の夢は国際NGOで働くこと。だったら英語くらいは勉強してきた方がと思うけど、それにしても、そんな状態で一人、ブルガリアに辿りついたということだけでも驚異ではある。

 「じゃあ、嫌な目に遭ったり、怖い目に遭ったりは?」何もなかったわけではないが、「でも、結局のところそれほどひどい目には遭わなかった」そうだ。世の中にはどこにでも悪い人はいるし、下心のある人たちはたくさんいるが、だいたいパターンは決まっていて(たとえばマッサージかダンス)、きっぱりとノーを言えば、ほとんど大丈夫とのこと。なるほど。なぜかイスタンブールでは、宝石屋さんで話しがはずみ、お茶をご馳走になって、アクセサリーを買おうと思ったら全部タダでくれたのだそうだ。それでおしまい。奇妙な話だ。

 そして、ほとんどの場合、出会う人たちがみんな親切にしてくれ、かわいがってくれるそうだ。それもそうだろう。好奇心で眼をキラキラ輝かせた若い女の子が一人で旅をしていれば、たぶん、誰もが親切にしたくなるだろう。そのうえ、出会ったたくさんの人たちと人生を語り合い、いつも常に素敵な言葉をもらってきたとのこと。なかなか良い人生ではないか。親としては無事に帰ってきてくれたことだけで十分だが、娘を育ててくれる世界に感謝である。私にとっては貴重なみやげ話、当分、尽きそうにない。

(2012年6月)

2007.06.12 コミュニケーション
ストレスとつきあう

村本邦子

 「なぁ、久しぶりに動作法やって~や・・・」ストレスでしんどくて吐きそうと訴えている娘。この子は友達に恵まれ、自分のことで悩むことはないんだけど、特定の誰かを嫌って排除するようなことができないために、激しく対立する友人やグループの間に立たされ、振り回されるハメになることがある。

 「自分で背負いきれないほど、人の荷物しょったらアカンで。そんなことしても、誰のためにもならんからな。相手のためにもならんし、自分のためにもならん。荷物が自分でしょえる重さを超えたら、きっぱり線引かな~」「うん・・・自分でもわかってるんやけどな。今日、ちゃんと話して帰ってこようと思ったけど、限界やった。明日はちゃんと話すわ」

 自分がどこまで人の荷物を背負えるか、背負えないものはきっぱりと線引いて引き受けないというのは、本当のところ、とても難しい。まず第1に、自分のキャパを十分に知っていなければならない。そして、はっきりとノーを言わなければならない。荷物の持ち主が自分に近しい人であればあるほど、これは難しい。私自身、娘くらいの頃は、うまくバランスを取れずに悩んだものだ。私の場合は、友人ではなく、家族の荷物だったけど。

 ベーシックに肩上げからやり始めるが、体がピクピクひきつっているのがわかる。娘の肩は、本来、ものすご~く柔らかく上がるのだ。片方ずつゆっくりと、手を当てながら何度かしているうちに、少しずつ、ピクピクがなくなり、スムーズに上がるようになる。もう片方、そして両肩。何度も繰り返して、片開きまでやると、ずいぶん楽になったと言う。それは、援助しているこちらにもよくわかる。

 友人関係のごちゃごちゃを親に詳細に語れないこの年齢の子に、詳しい話を聞かず(聞かなくても、概要は推測できるのだけど・・・)、体のことだけで何かしてやれるツールがあるのはとっても良い。「動作法」なんて言葉、よく覚えていたもんだ。たしか、受験のストレスの頃、何度かやってやったんだと思う。

 しばらくすると、「せっかく少しリラックスしたのに、頭が考えてしまうから、また、体が緊張してきた・・・」と言う。「じゃあ、次は、タッピングタッチで行くか」。こちらは、前に一度やった時、息子とともに、「なんか怪しい」とあまり喜ばれなかったんだけど、今回は、「やっぱ、いいな~」と受け入れられた。その後は、すぐ寝付けたようだ。

 人との関係で、ストレスは避けられない。ストレスに自覚的であること、早めに手当すること、誰かにSOSを発信すること、自分の体を労ること・・・いろんなことが今後の人生のための勉強だ。ふだんは、ほとんどもう不要となりつつある親役割だけど、あと少しだけ、残っているものがありそうだ。

(2007年6月)

2003.12.12 コミュニケーション
クリスマスのしあわせ

村本邦子

 12月に入ると、街はいっせいにクリスマスに衣替えする。いっときは、11月に入ると同時にクリスマス戦略が始まっていたが、不況のせいか、最近また、12月を待つようになったようだ。クリスマスの雰囲気は、なぜだか、しあわせな気分をもたらしてくれる。
クリスマスと言えば、家族の暖かい思い出と結びつくからだろうか。私が子どもの頃、ケーキを食べるのは、誕生日とクリスマスくらいだった。ショートケーキがなかったわけではないが、デコレーション・ケーキに火をつけ、家族で切り分けて食べるというのは、特別に楽しいイベントだった。それからクリスマス・プレゼント。誕生日は自分だけがプレゼントをもらうわけだが、クリスマスはもらうだけでなく、あげるのも楽しみのひとつだ。「今年は誰に何がいいかな~」と考えるだけで、わくわくしてくる。そういう意味で、クリスマスは、大切な人々のことを思いやり合う、愛に満ちた日でもある。これに加え、サンタクロースの物語は、もっと普遍的な愛の感動を与えてくれる。クリスチャンでなくても、そんな愛を感じることができるからこそ、なんだか、しあわせな気持ちが呼び起こされるのではないだろうか。
 裏返すと、そんな愛を感じることができない状況にある人たちにとって、クリスマスは苦痛に満ちた時期となる。自分が悪いわけではないのに家族とうまくいっていなかったり、孤独だったり、いろんな事情で、クリスマスを祝う余裕がない状況におかれている場合などだ。クリスマス商法に煽られて、クリスマスとは恋人に高価なプレゼントをあげるものだ、カップルで洒落たレストランに行かなければならないと信じ込まされている場合も、プレッシャーだろう。クリスマスが辛いという相談はたくさん聞いてきた。
 宗教心抜きにクリスマス行事に乗っかることには賛否両論あろうが、私には、身近な人、あるいは、名も知らぬ人、誰か他の人のことを思う愛の実践の日と捉えることができたら、それで十分に宗教的なんじゃないかな~と思える。クリスマスには、愛をもらうことより、誰かに愛をあげることを考えることができれば、ひょっとして、皆にしあわせが訪れないかな?プレゼントだけでなく、身近な人に暖かい言葉をかける、街で困っている人に声をかける、募金する、道行く人に笑顔を送る、一人で夜空の星に平和を祈るだけでも良いかもしれない。何でも良いから、他の誰かのことを思いやるのだ。
 暗いニュースが続く昨今、私も、クリスマスには、この美しい惑星の平和を祈って、しあわせな気分を味わえたらなと思っている。

(2003年12月)

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