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FLCスタッフエッセイ

2016.08.31 子ども/子育て
アメリカでの出産で感じたこと - サポーターの大切さ

                                                             金山あき子

 

私は6年ほど前に、アメリカで出産を体験しました。異国の地での出産というのもあったのですが、なにせお産自体が初めての体験だったので、未知なる世界に入っていくような、期待と不安の入り混ざった心地で、アメリカと日本の習慣との違いなどを発見しては、驚いたり、感心したりの日々を過ごしていました。

 

妊娠〜出産期を通じて、何より驚いたのは、アメリカでの出産と育児における、「夫」の役割の大きさについてでした。妻の妊娠中の病院の検診にも、ほとんどの夫が毎回一緒に来ているのにも驚いたのですが 、それだけではありません。出産〜子育ての流れや心構えなどを教えてもらう教室は、アメリカでは「両親教室」しかなく、夫婦二人で通うこととなっていました。両親教室ではまず、夫たちは、妊娠中の妻のお腹がどれだけ重くて動きにくいかを体感/共感するために、おもりのついた大きな服を着て歩き回るワークをします。そして、お産の流れなどの勉強と共により実用的なワークに移り、陣痛時のマッサージの仕方を妻とペアで練習したり、赤ちゃんの人形を使ってオムツの替え方、お風呂の入れ方 などを、数ヶ月に渡って、何度も何度もペアでワークしていきました。

 

ここで教えてもらったことは、実際に出産時や産後の子育てにとても役に立ったし、何より、出産後、夫がすぐにオムツ替え、お風呂を入れるのも当たり前といった意識になっていることに一役買ってくれたな・・と実感しました。お産の前から夫を育児に巻き込んでゆき、夫を子育ての重要な「当事者」とみなしていくやり方は、その後の育児における夫からのサポートを、よりスムーズにしているなあ、と思いました。

子育てにおける夫の役割が特に重視されるのは、アメリカでは、日本のように「里帰り出産」をして、母からサポートしてもらう風習があまりないこと、共働きの家が多いことも関係しているようです。そんな事情から、アメリカでは出産時にまずは夫、そして友人や、住んでいるコミュニティー、ベビーシッターなどのサポートが、より重要になっているのを感じました。

 

当時私が住んでいた町のコミュニティーでは、誰かに赤ちゃんが生まれたら、近所の友人たちは、赤ちゃん誕生のお知らせと共に、「meal train (ミール・トレイン)」と言って、毎日誰かが一品ずつ、おかずを届けてあげる当番を決めるメールを送り合いました。私自身も、新生児を抱えての忙しさや不安にぼう然・・としていた頃、友人たちが食べ物や、おかずを代わる代わる持ってきてくれた際には、涙が出るほどうれしく、本当に助かりました。料理を持ってきてくれること自体も嬉しかったですが、その際に、赤ちゃんの顔を見がてら、何気ない話をしていってくれたりするのが、すごく息抜きになったのを思い出します。また、その町の、子育て支援センターのような場所で、「Doula(ドューラ)」と呼ばれる、お産の支援者の女性と知り合ったことも、大きな助けになりました。そのセンターでは、子どもを連れてのヨガ教室や、出産体験の話を分かち合うグループ、子どものプレイグループなどがあり、そういったプログラムに参加したことが、産後のしんどさや不安をへらし、気分転換するのにとても助けになりました。当時私が住んでいたのが、アメリカでも田舎のほうだったため、コミュニティー内のつながりが比較的強い事もあったかもしれませんが、こういったつながりの場がある事が、どれだけ助けになるのかを実感しました 。

 

「妊娠・出産」は、大きな変化の時期であり、お母さん達にとっては「危機」とも言われるほど、大変な時期となります。こうした時期に、周囲からのサポートが少しでも増えることで、子どもへの対応に余裕が出てくることを、自分自身何度も体験してきました。国や文化がどれだけ違っても、「子育て」が「孤(こ)育て(孤立した中での子育て)」になってゆくと、お母さんはいつの間にか追い詰められ、子育てに困難が出てくるのは、各国共通です。現代では、核家族化や少子化が進む中、ほとんどのお母さんが、子育ての中で、子どもと一緒なのになぜか取り残されたような「孤独」を味わう瞬間があるように思います。なぜだかわからないけれど、無性に子どもにイライラするという時、もしかしたら一人で色々なことを背負いすぎているのかもしれません。 そんなとき、何か、小さなサポートになるもの、ないかな?とまわりを見回してみると、意外なところに「つながり」の種が転がっているかもしれません。 小さくても色々な「つながり」を持つことの大切さを思いおこしつつ、子育てという大仕事に向かう力を、私自身も、蓄えてゆきたいと思います。

2016.06.21 子ども/子育て
「スマホに依存している」といわれる姿の向こう側

福田ちか子

 

 電車の中で,ふとまわりをみると,ほとんどの人がスマホを見ていた。ネット依存やスマホ依存,SNS上のトラブルなど,マイナスの面が話題になることもあれば,幅広く簡単に情報を発信でき様々なネットワークづくりを実現させるもの,災害時のつながりを支えるもの,としてプラスの面が話題になることもある。コミュニケーションのツールとして,スマホは生活の中に急速に根を張り,広がっている。

 

スマホのマイナス面が強調されるのは,スマホがコミュニケーションを阻害する場合であることが多い。その中で,スマホが大人(親世代)と子ども世代のコミュニケーションを難しくさせる状況について,NHKの「あさイチ」という番組で,昨年7月に放送された特集「こどもリアルスマホライフ 10代の本音」をみて考えさせられることがあった。

 

大人側の視点を入口に,10代のこどもたちにスマホ事情についてインタビューをするという企画だったが,まず親世代にとってと,子ども世代にとってのスマホの存在感の違いが,とても大きいことに改めて気づかされた。

 

 学生時代にスマホが無かった親世代からみると「スマホをしている」という大きなくくりで捉えていることが多く,その段階で「意味がわからない」「ネットに依存している」や,「携帯ばかりして勉強をしない」「無駄遣いが多い」などの注意や拒否反応につながり,その向こう側で起きていることのイメージが持ちにくい様子がみられた。

 

 実際には,「スマホをしている」の中にも,音楽を聴いている,動画を見ている,本や漫画,小説を読んでいる,ゲームをしている,SNSで情報を共有しているなどなど,様々な場合がある。また学級や部活動の連絡網として機能しているケースも多い。

 

特にSNSは,子どもたちにとって日常の中で実際の会話と同じくらい影響力や存在感のあるもので,番組の中で,例えば友だちと実際に会ってしゃべりながら,同時並行でSNSにもコメントをのせ,その場にはいない人ともつながりながら,その場の会話が流れていくことや,SNSのアカウントを 「本アカ」「趣味アカ」「闇アカ」などいくつも作って,日常的に会う友だちに伝えるアカウント(本アカ)と,友だちには話しにくいことを話すアカウント(趣味アカや闇アカ)とを場合によって使い分けたりすること...などが紹介されていた。

 

 紹介した例は,ほんの一部だけれど,子ども世代のスマホ事情は奥が深く,「スマホをしている」中にも,本人の興味関心や特技,趣味が反映されていたり,時には友だちづきあいやその悩みが反映されていたりする。四角い箱の中に広がる世界なので,外から見えにくいのが難点だと思うけれど,大人世代とのつながりを断つもの,コミュニケーションを阻害するものとして排除するのみでは,少しもったいないように思う。「スマホをしている」姿の向こう側に興味をもって親子で話すことが,コミュニケーションの切っ掛けにもなると思われるので,是非一度,子どもたちのスマホ事情に興味をもって話し合ってみることをおすすめしたい。

2016.05.11 子ども/子育て
お弁当作り雑考 ー 日米での比較

                                        金山あき子

 春ですね。新学期もはじまり、わたしの娘の幼稚園のお弁当作りも、はじまりました。7年間のアメリカ生活から日本に引っ越してきて1年、いろいろな「逆カルチャーショック」を体験してきましたが、日本のお弁当文化もまたそのうちの一つかもしれません。

アメリカで娘をプリスクール(保育園・幼稚園)に行かせていた頃、よく作っていたお弁当といったら、タッパー入りご飯に、茹でたブロッコリー、プチトマト、そこにゆで卵があれば上出来といった、いたって簡素なもの。周りのアメリカ人達のお弁当にこっそり目をやると、これまたシンプル極まりないランチ。ピーナッツバターを挟んだだけのサンドイッチ。スティック野菜(にんじん)とパン。ケサディヤ(メキシコ風の薄焼きチーズパン)。りんごだけ。ジップロックにナッツだけ(!)などなど。自由だな〜。栄養は大丈夫かな?などと少しの心配はありつつも、私はこの、「自由」な弁当作りの雰囲気を、大いに楽しみ(楽をし)ました。特に、周りの母親達は、共働きの人が多く、彼女らの忙しいライフスタイルには合っているようでした。

しかしアメリカではやはり、子ども達の食事と健康が深刻な問題になっていました。多くの小学校でのランチのメニューはピザ、ホットドッグとハンバーガーのオンパレード。子どもたちがスーパーで買うアメリカ版のお弁当箱「ランチャブル」は、ビスケットとクッキー、プロセスハムとチーズ、砂糖が一杯のパックジュースが箱詰めされたもの。こういう状況もあって、アメリカにおける子どもの肥満の割合は増加の一途を辿っており、ランチの内容をヘルシーに工夫することや、子どもたちへの食育の必要性が叫ばれていました。

 

かたや、日本の「お弁当」は、海外でも"Bento"の固有名で通るほど、独自の文化です。運動会の日に見た、日本のお母さんたちの作ったお弁当のおかずのバラエティ、色どりや飾りの美しさには、目を見張るものがありました。帰国後は娘からも、「可愛いパンダのお弁当作って〜」と、かつてなかったリクエストが出るようになり、嬉しい反面、朝の忙しい時間に大変やな〜と複雑な気持ちも湧いてくるところ。「周りと違う」ことをあまり良しとしない日本文化の中では、一定の「クオリティ」を持った弁当を作る事が、お母さん達のプレッシャーになってくることもあるだろうなあ・・と考えさせられました。

そんな折、本屋さんで、「今日も嫌がらせ弁当(三才ブックス)」という本を発見。反抗期の娘の毎日のお弁当に、のりやチーズ、カラフルな食材で、時にブラックな、時に愛情いっぱいなメッセージや絵を描き、弁当の面をまるで切り紙細工のように仕立てながら、母親が娘に愛憎を伝えてゆくやりとりが、写真とともに綴られていました。つくづく、日本人にとってのお弁当は、アートや美的なものにもなり、濃密な感情の表現や、コミュニケーションのツールにもなりうるんだなあ、と再確認。「弁当」という小箱には、色んな思いが詰まっているのだ・・などと、しみじみしながらも、ずぼらな私はといえば、アメリカ式ランチボックスで、思いきり楽をする日もあれば、日本的に気持ちを込めて弁当を作る日もあり、 どちらも捨てがたい。でもどちらでも、あくまで「健康・簡単・楽しめる」弁当作り、という具合を保てるように。自分なりのいい塩梅、中庸を模索している今日このごろです。

2016.04.26 子ども/子育て
子どもたちにとっての喪失体験-出会いと別れの新学期―

福田ちか子

 

 4月は、入園や入学,引っ越しや転勤,クラス替えなどいくつもの新しい出会いの時期である。そして同時にそれは、多くの別れも意味している。身近な大人と離れて過ごすことになったり、仲の良い友だちとクラスが変わったり、卒業や引っ越しで、それまで過ごした親しみのある家屋や風景とさよならする別れもあるかもしれない。そうした喪失の体験は、子どもたちにとってどのようなものか、少し考えてみたい。

 

 子どもたちにとって、喪失体験というのは、日常に遭遇する可能性のあるものであり、また心身のバランスを揺るがす波が起こる出来事でもある。波を乗り越えて前に進む力を身につけることにつながる体験でもあり、バランスを取り切れず、調子を崩したり、喪失による傷つきを深める結果につながるものでもある。

 

 精神分析においては、喪失体験を内的なものと外的なものに分けて捉えている(小此木、1979)。森(2015)は、外的な対象喪失とは、「大事な対象が目の前からほんとうにいなくなってしまう、なくなってしまうことを意味」し、内的な対象喪失とは、「その対象が目の前にあり続ける中で、その対象に対するそれまで抱いていたイメージを失ってしまうこと」としている。

 

 こどもが遭遇する内的な対象喪失とは、大切に思っていた大人や、大切に思っていた友だちか裏切られるような体験や、暴力を受けること、相手の、それまでの信頼を裏切るような行動を見聞きしたときに起きうることであり、例えば、思春期に大人への幻滅を感じることや、被害体験としていじめや、虐待に遭った場合などにも起こりうる。

 

 外的な対象喪失は、例えば、大切にしていたものを無くしたり壊れたりすること、引っ越しや進学、クラス替え等の節目に起こりやすい大切な人と別れや、大切な人との死別、ペットとの死別、両親の離婚などがあげられる。

 

 喪失に伴う感情は、怒りや悲しみなど、一般にはネガティブとされるものであるために、子どもたちは「いつまでも悲しまないで」「早く忘れなさい」「そんな風に思わなくても大丈夫だよ」などと、周囲の大人からポジティブな感情に置き換えるように促される場合や、あるいはその喪失が周囲の大人にとっても大きな体験であり、大人たちの悲しみや、日々忙しく十分に悲しむ時間が取れない大人の焦りに圧倒されて、表現する機会が失われてしまうこともある。

 

 先人の知恵や、さまざまな研究において、喪失体験は、その体験やそれに伴う感情を(言葉や絵、音楽などどのような形でも)表現すること、一緒に分かち合うことが大切とされている。それは喪失の瞬間に受け止めきれなかった悲しみなどの感情を感じなおす過程でもあると言えるだろう。また山本(2015)は、留意点として、現実に関わる営み(日常生活)を行うことの大切さにも言及し、喪失と向き合い表現し分かち合う時間と、喪失と距離を置き日常の現実に取り組む時間の両方を繰り返していくことが大切であると述べている。

 

 森(2015)は、児童文学を引いて、子どもたちの回復力について、ただ距離を取り忘れ去ることが回復なのではなく、悲しみの中に「ずーっと、ずっと、だいすきだよ」などと、対象との間で確かに体験した楽しかった思い出や、良いイメージを見出し、心の中に取り込むことで成長し、その対象との体験を今の記憶に統合しながら過去のものにしていくことができる回復の過程を示している。

 

 いくつもの出会いの裏にいくつもの別れがある新年度、大人にとっても多くの新しいことが始まる忙しい時期でもあるけれど、もしも身近な子どもに、心身のバランスが乱れるサインが見えたとしたら、別れたものを一緒に振り返る時間をもってもらうことが大切な時であるかもしれない。

 

参考・引用文献 

森 省二 2015 絵本・童話・児童文学にみる「別れ」. 児童心理.  Vol.69 金子書房.

森 さち子 2015 子どもの心を襲うさまざまな喪失体験―その体験を大人が抱えることをめぐって.  Vol.69 金子書房.

小此木啓吾 1979 対象喪失-悲しむということ. 中公新書.

山本 力 2015 子どもの離別と死別-悲しみの心理臨床学. 児童心理. Vol.69 金子書房.

2016.01.19 子ども/子育て
思春期の子どもの世界 --通過儀礼と心の成長   

                                    金山 あき子

 

「思春期の子どもの考えていることがわからない」。「反抗的な子どもと、どう関わっていいのかわからない」。といった声は、臨床の場面でも、よく出会います。この時期の子どもの心には、一体何か起こっているのでしょうか。

 

思春期とはまさに、「疾風怒濤(しっぷうどとう)」の時代。子どもの世界から、大人の世界へと進んでゆく大きな変化の時で、その心には大きな嵐が吹き荒れます。

 

古代では、子どもから大人への変化の時期には、「通過儀礼」という儀式がコミュニティの中で行われることで、その嵐の時期を体験し、切り抜けるという知恵がありました。古代における、大人になるための通過儀礼では、様々な困難や「試練」が与えられます。その「試練」には、母親の元から引き離され森の中に連れて行かれ、高い崖から飛び降りたり、断食をして自分の将来のビジョンが見えるまで一人で山に篭ることなどがあり、まさに生死をかけたような危機的体験を乗り越える事で、大人になるとされてきました。しかし、古代のように明確な「通過儀礼」が無い現代では、個人個人が、各々の形で、昔より比較的長い時間をかけて、大人になるための「試練」を体験していると言えます。

 

「自分」というものができてくるにつれ、これまでは自分を守ってくれ、居心地が良かったはずの家族(母親)との世界が、次第に息苦しいもの、居心地の悪いものと感じられます。また、心のより深い層では、「自分とは何者なのか」という、大きなテーマが動き出します。大きな変化の時期ということは、古い自分(子ども時代の自分)の「死」と直面するとさえ言っても過言ではなく、そこには大きな喪失感や、不安感も存在します。思春期特有の不安定な言動は、「親から自立したい」気持ちと「まだ子どもでいたい」という両極を動く気持ち、さらには、「自分とは何者か」という、実存的とも言える大問題と向き合い出していることの表れなのです。

 

私がまだ十代のころ、「魔女の宅急便」の映画が大好きでした。「あのキキみたいに、遠い国に修行に出て、魔女になりたいなあ・・」などと、夢見がちに、主人公の独り立ちの物語を、憧れとドキドキワクワクした気持ちで何度も繰り返し見ていたことを思い出します。物語は、13歳の魔女の血を受けつぐ少女キキが、親元を離れ、新しい街で、空を飛ぶホウキに乗って配達をする仕事をしながら暮らし始めます。キキは街の人々と出会う中で、人生にまつわる喜びだけでなく、悲しみ、鬱屈など、複雑な感情を学んでゆきます。そんな中、ある日母親からもらったホウキでは空を飛べなくなるのです。・・最後には、友人のトンボを助けるため、デッキブラシで飛ぶことで、新たに魔法の力を取り戻す、といったストーリーです。ここには、母と一体であった子ども時代の自分に一度終わりを告げ、試練を乗り越えることで、新しい存在としての自分(自分自身のやり方で魔法を使うこと)を生み出してゆくというテーマが描かれています。今思うと、私自身、ちょうど思春期の自分の課題である親からの自立や、「自分らしさ」を見つけてゆく、という通過儀礼的なテーマを重ねて、この物語から成長への力を得ていたのだろうと思います。

 

思春期の子どもが、日常の言葉では説明のつかないような苛立ちや、不安定さを抱えている時に、小説、アニメやファンタジーなどで表現された「物語」に触れることで、どこか自分の気持ちの「言えない」部分をすくってもらったようにすっとした気持ちになったり、力をもらうことは、多いようです。こうしたイメージに触れることも、通過儀礼の時期を支える一つの資源となることでしょう。

 

また、この時期の子ども達が反抗的になったり、言葉で自分の思っていることをうまく言えず、何を聞かれても、「別に」。「フツー」。と言って、詳しく答えずにすませようとするのは、自分では手に負えない位の、心の中の大きな嵐が背景にはあります。

 

思春期の子どもに接する周囲の大人は、子どもの心の中ではうまく言葉にできないほどの嵐が起こっているということを理解し、その時期をくぐり抜けることが変容・成長へとつながることを信じ、良い「距離」を保ちつつ見守ることが、子どもへの大きなサポートになります。

 

思春期の子どもへの関わり方という点で、当研究所では、思春期の子どもを持つ保護者の方を対象に、子どもとの関わり方について学べるプログラムが、2月8日、22日に開催されます。 ご興味のある方は、ぜひ一度、チェックしてみてください。

詳しくはこちら→「CARE・思春期の子どもをもつ保護者向けワークショップのご案内


 参考文献:好きなのにはワケがある (2013)岩宮恵子 ちくまプリマー新書


<関連記事> 
2016年1月「児童期〜思春期の子どもとのコミュニケーションのヒントに!
2015年8月思春期の子どもの成長を支える〜『バケモノの子』を観て思い巡らしたこと

 

 

 

 

 

2015.11.10 子ども/子育て
出産や子育てを語ること−子への否定的感情を語る−『たのしく、出産』を読んで

                                             金山 あき子

 

筆者は5歳の娘の子育て中。つくづく「子育てって大変だなあ。」と、思い知らされることも多い今日この頃です。そんな中、村本邦子(当研究所の顧問です)著の、『たのしく、出産』という本を読んで、自分の出産について思い出し励まされたり、「子育てとは?」ということについて改めてふりかえる機会があったので、今回はこの本について少し書いてみたいと思います。

 

この本は、まずは著者の出産体験のレポートから始まります。とても生き生きと、普段は表ではあまり語られることのない、妊娠・出産という女の「秘められた」体験が、なまなましく語られてゆくうち、読む者は思わずハッと息を飲んだり、ほろりとしたり・・。著者が、第一子を自宅で出産をすることを決心してから、自宅出産して子育てが始まり、第二子を出産するまでの軌跡が、鮮やかに、情緒豊かに描かれてゆきます。

 

読み進めるうちに、「人が自然に出産・子育てするとは?」「病院で出産することの意味は?」など、出産にまつわる「当たり前」がどんどんゆらいできて、現代の出産システムへの色々な問いも生まれてきます。

また、著者が子育てをすすめる中で、自らの子どもへの気持ちや関係の変化についても、つぶさに描写されてゆきます。その中でも、私は特にこんな語りが心に残りました。

 

著者が二人目の子どもを妊娠中、身重で思い通りに動いてくれない母に、息子がイライラしはじめた頃のこと。「子どもが産まれてから、子どもの存在を疎ましく感じるようになったのも、息子のそんな感情の変化(イライラ)に出くわしてからだ。ある母親は、産まれてすぐから、我が子を疎ましいと感じる自分に気づく。またある母親は、もっと大きくなってから、(中略)初めてそんな自分の(子が疎ましいという)感情を知る」。「とにかく、遅かれ早かれ、女たちは、母として存在しながら、母親らしからぬ部分を持っている自分に気づく。それは、周囲にどう非難されようと、否定できない事実である。」「でも私は、こう思うのだ。本当に、母親が子どもをかわいいとしか思わないとすれば、子どもは成長する必要もないじゃないかと。(中略) ところが、世間や男や心理学者はこういう。「母親とは、子どもを愛してやまない存在であるはずだ。でも、子どもの自立を阻んではいけない」と。そんなのは、あまりに虫のよすぎる話じゃないか。母親だって、ただの人間だ」。さらに、著者はこう言います。「産んだ女が今、語らねばならないのは、子どもに対する否定的感情ではないか」。と。

 

子どもが愛おしく、かけがえのない大切な存在だと思う肯定的な気持ちと、子どもが疎ましい、イライラするというような、否定的な気持ちは、本来、同じだけ存在するものでしょう。我が国では、とくに「母性愛神話」という、「母は、子どもを無償に無条件に愛する存在であるべき」願望が強いと言われます。こうした背景もあって、子への否定的な気持ちは、タブーとして、見つめにくく、より語られにくいものとなっています。しかしこの否定的な側面を、単に「良くないもの」として抑圧してしまうことは、心のバランスに偏りを起こすでしょう。子どもに対する、両価的(アンビバレント)な感情を、みつめてゆくことで、よりバランスのとれた子育てになってゆくと思われます。といっても、それはそう一朝一夕に簡単にできるものではないのかもしれません。ただ、「子が疎ましい」「子が憎い」といった、子への否定的な感情の部分も、「母なるもの」の自然な姿なのだ、と思うだけで、十分解放される部分があるかもしれません。

 

育児(子育て)=育自(自分育て)とは良く言いますが、確かに子育ては、子どもを育てると同時に、自分の心をみつめ、育ててゆく一つの機会になることができます。そのことを、日々娘との関わりに試行錯誤している自分にも言い聞かせながら、ひとまずは、この機会を大切に歩んで行こうと思いなおすこととします。

 

 

引用・参考文献:『たのしく、出産』(1992) 村本邦子編著 新水社 

 

2015.10.28 子ども/子育て
大人も子どもも楽しめる絵本のすすめ

福田ちか子

 

 本屋さんで,表紙に惹かれて手に取ったヨシタケシンスケさんの絵本,「りゆうがあります(2015 PHP研究所)」が,とても面白かった。

 

 帯には"ハナをほじったり,びんぼうゆすりをしたり,ごはんをボロボロこぼしたり,ストローをかじったり......。こどもたちが,ついやってしまうクセ。それには,「りゆう」があるんです。""こどもにもいいわけさせてよ"とあった。

 

 大人の目線からみると,注意しがちなこどものクセ。お母さんに見つかってダメよと言われたこどもが,つぎつぎとおもしろおかしい理由を繰り出して"いいわけ"をする。それと向き合うお母さんの表情が,何とも絶妙に,複雑な心境を物語っているのもまた面白い。お母さんが子どもの"いいわけ"や母への反論を,受け流しつつ大人の言い分を伝える場面も、素敵だった。

 

大人にとって,こどものクセは「大きくなってもそのままだったら...」と心配してしまう不安のタネ。そして小学校の低学年くらいまでの間にしばしば聞かれるこどもの"いいわけ"は,正面切って向き合うと「なんでそんなウソを言うの」「いい加減なことばっかり言って...」と無性に腹が立ったり,「この子大丈夫??」と心配になったりしてしまうやっかいなもの。 

 

そしてこどもにとって,ついやってしまうクセは,何かに夢中になったり他の事に気を取られたりしているときに,無意識に身体が動いてしまう,やったらダメということは知っていても,なんでだかしてしまうもの。少し前にこどもたちの間で流行っていたことばを借りると「妖怪のせい」と言いたくなってしまうほど、わかっているけどどうしようもないもの。 

 

 そんなこども気持ちを堂々と代弁してくれているこの絵本は、こどもの強い味方のようでもあり、大人にとっても、お母さんの表情に、わかるわかると共感できたり、ユーモアに肩の力がふっと抜けたりする一冊のように思う。

 

 「やったらダメよ」「は~い...」、「もう、また!」というやり取りを繰り返して大人もこどもも疲れてしまっていたり、なんだか険悪になっているような時に、この一冊を一緒に読むと、ふっとお互いに力が抜けて、気持ちがほぐれることがあるかもしれない。 

2015.08.06 子ども/子育て
思春期の子どもの成長を支える~「バケモノの子」を観て思い巡らしたこと

                                                    西 順子


先日、今公開中の映画『バケモノの子』を観ました。バケモノの世界に飛び込んだ少年、九太(きゅうた)と、師匠のバケモノ、熊徹(くまてつ)とが共に成長していく物語。未来を生きる子どもたちへの温かい眼差しと、子どもの成長を応援する深い愛を感じる映画でした。この映画を観て、思春期の子どもと親・大人との関係性について、そして「愛とは何か」を考えさせられました。子どもの視点、親の視点から思い巡らしたことについて書いてみたいと思います。

■映画を観て

少年と父親代わりの熊徹との関係性は、子どもの視点にたってみると「こんな大人がいてくれるといいよなぁ」と理想的です。子どもと一緒にとことんつき合い、向き合う熊徹は、子どもにとって頼もしい存在だろうなと羨ましく思いました。


親の視点にたってみると、思春期になった子どもが変化し反発すること(=自立していくこと)への戸惑いや寂しさ、でも最終的には子どもを認め、後ろに引いて子どもを手放そうとする熊徹に、愛するが故の切なさを感じました。物語の最後、熊徹が表現した愛は、想像を超えていましたが・・(ネタバレにならないために書けませんが、涙があふれそうになりました)。


今の時代にあっては、子どもが成長していくためには、親でなくとも、熊徹のように子どもと体験を共にし、向き合い、愛をストレートに子どもに手渡してあげられる大人の存在が必要とされているのだと思います。


一方、九太と熊徹の関係性と対照的に描かれている親子が、一郎彦(いちろうひこ)とその父親の猪王山(いおうぜん)。猪王山も一郎彦を大切に思い愛しているのですが、その関係性は全く違うものでした。一郎彦と猪王山の関係性は「心の距離感が遠く」、子どもの疎外感と孤独が伝わってきました。そして親も子も、どちらも「本音」が見えずに隠されていました。そこには現代社会における父子(特に父と息子)の関係性が象徴されているように感じました。



■思春期の子どもの成長を支える


大人は子どものためを思い、子どもを愛する気持ちで、大人がよいと思うことを与えます。そして子どもは疑問なくそれを受け取り成長します。
しかし思春期を迎えるとき、子どもは親から受け取ってきたもの(価値感)に疑問を感じ、反発し、それを壊そうとするものです。そして「自分とは何か」を探求し、試行錯誤し、自分の価値感を構築していこうとします。それは親を客観的に見れるようになるからこそできることであり、親離れであり、自立へのプロセスで、それが思春期の子どもの仕事です。


しかし、親からみると「以前はいい子だったのに、どうしてこうなってしまったの?」「今まで子どものためを思って、ここまでしてきたのに・・」と、受け入れがたい気持ちになったりします。
しかし、子どもの人生の主人公は「子ども」です。といっても、まだ子どもから大人への過渡期。子どもが思春期の課題を乗り越えていくには、成長を支えてくれる親、大人の存在が不可欠です。かといって今までと同じ関わりでは役に立ちません。


思春期を迎えた子どもが成長のために必要としているのは、「大人が誠実に、本音で、ありのままの自分と向き合ってくれること」、そして「子ども扱いせずに対等に関わってくれること」です。そのことを、『バケモノの子』を観て再確認させられました。


「思春期の子どもをごまかさない」姿勢が大切なのです。嘘、ごまかしは子どもの信頼を損ねます。子どもが大人を信頼できることが必要で、他者を信頼できることは自分を信頼することとつながるのです。

■思春期の子どもと向き合う


思春期の子どもの心に寄り添いたいとカウンセラーを志してから早30年が過ぎました。そんな私のカウンセラーとしての原点を思い出させてくれた映画でした。これからも、一人の大人として、子どもと向き合い、親や家族に寄り添うことができれば・・と思います。


女性ライフサイクル研究所では、不登校、引きこもり、摂食障害、うつ・不安、いじめ、デートDV、暴力被害・・など、思春期の子どもと親への心理的援助(カウンセリング)を提供しています。子どもが未来に希望をもって歩めるよう子どもの伴走者となりながら、親御さんには、子どもの行動の意味、コミュニケーションの取り方や関わり方を共に考えていければと思っています。


子どもと大人、子どもとコミュニティ・社会とをつなぐ「橋渡し」となれればと願って・・。

お勧め図書:
『思春期の危機と子育て』村本邦子・前村よう子著、三学出版。
『プレ思春期をうまく乗り切る!大人びてきたわが子に戸惑ったときに読む本』村本邦子著、PHP研究所。


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2015.06.24 子ども/子育て
"落ち着かない子ども"の気持ち

                                                                                                                                            福田 ちか子

 

 先日,FLC(女性ライフサイクル研究所の愛称)で開催しているCARE(ケア)の講座に,サポートスタッフとして参加した際に,とても興味深い体験をしたので紹介したい。

 

 その前に,少し講座の紹介をしようと思う。CAREというのは,米国オハイオ州シンシナティ子ども病院で開発された,子どもと関わる大人のための心理教育プログラムで,子どもとの間に温かな関係を築き、関係をよりよくする際に大切なコミュニケーションのコツについて,体験的に学ぶことができる講座である。一日5分,子どもが遊びをリードし、親がそれについていく関わりをすることで関係が改善し、子どもの自尊感情を高めることにもつながる。

 

 その中で,今回興味深い体験をしたのは,大人が二人一組で,一人が母親の役を,もう一人が子どもの役をして,子どもが遊びをリードする場合と,大人がリードする場合を,それぞれロールプレイで体験するという場面がある。(以下の会話例は,体験をもとに一部編集・再構成したもの)

 

例えば,

子:「こうやって,車で遊ぶの~!!」

母:「こっちのブロックの車はどう?」  

子:「えっと...じゃあそうするね」

母:「窓もつけて見たら?きっと格好良いよ!」         (大人が主導の例)

 

子:「こうやって,車で遊ぶの~!!」

母:「そう~,車で遊ぶのね」 

子:「うん。車を走らせて,お出かけごっこするの」

母:「おでかけごっこするのね~」               (子ども主導の例)

 

 それぞれの関わりについての詳しい説明はここでは置くとして,おもしろかったのが,子どもの役になった時の,自分の心の動きだった。母親役から,特に何か傷つくような言葉を言われるわけでも,母親役が怖い言葉を言うわけでもないのに,大人が主導のロールプレイでは,相手の言葉に注意が向いて,そわそわして手元に集中するのが難しく,遊びを考える暇がない感じがした。時には自分がしたいことを考える前に言葉が掛かって,イラ立ちを覚えることもあった。

 ところが子どもが主導のロールプレイでは,子ども役である自分の言葉を相手が繰り返して,リードについてきてくれるので,落ち着いて自分の考えに集中することができて,一つの遊びを発展させるようなアイディアが自然と湧いてきたのだった。

 

 大人の関わり1つで気持ちが大きく変化することを改めて実感できて良かったので,是非,子どもとの関係作りに悩む保護者の方や支援者の方にも体験をおすすめしたい。

 

 さてこの体験を振り返ってみて,近年増えているといわれる"落ち着かない子ども"の気持ちについて,思うところがあった。

 

 次々と外から声がかかったり新しいアイディアが降ってきたりして,そのリードについていくため自分の外側に注意が向く感覚と,自分の言葉を繰り返してもらって,じっくり考えを反芻して自分が自分の行動をリードし内側に注意が向く感覚。この前者の感覚が,パソコンやスマホで,ネットをみたりSNSやゲームアプリをしているときの感覚と似ているように感じられた。

 

 本当にいろいろな情報がものすごいスピードで発信されては消えていく日々の中で,自分の内側に注意を向けて,落ち着いて手元の課題に取り組むことは,気をつけておかないと中々に難しいことなのではないだろうか。そう考えると,ここ数年の間に"落ち着かない子ども""キレやすい子ども"が増えている,といわれることが,無関係ではないように思われてならない。自分の外側に注意を向けることと,内側に注意を向けること,そのバランスが取れるように意識することが大切なのだと感じた。

 

 

2014.12.24 子ども/子育て
大人と子どもをつなぐ絵本の魅力

福田 ちか子

 

 小児科で相談を受けていた時,子どもの育ちについて相談に来られた保護者の方々から,「一緒に絵本を読むように言われたんですけど,それって意味あるんですかねぇ...」と尋ねられることが幾度かあった。親子のコミュニケーションを良くするために絵本がいったいどう役に立つというのか?という心の声が聞こえてくるようなお尋ねであった。

 

 子どもは確かに絵本が好きだ,けれどもいったいどう子育てに活かされるのか?どう役立つのか?という素朴な疑問を抱くことって,実は案外多いのではないだろうか。今回は,そんな疑問に答えてくれるような俵万智さんのエッセイ,『かーかん,はあい』(2012,朝日文庫)を紹介したいと思う。

 

  この本では,章ごとに一冊の絵本が,万智さんと息子の日々のやりとりの様子を交えながら紹介されている。親子のコミュニケーションにおいて,絵本が,何ともいえず良い仕事をしている場面や,大人にとって子育てを助けてくれる心強い味方となる場面が描かれていて,絵本の魅力を再発見できる一冊だ。

  例えば,「お薬飲みなさい。飲まないと良くならないよ!」何回いっても子どもは聞かない。「苦いからやだ!」「なんで飲むの?」大人は大人で,どうしていう事を聞いてくれないのかと焦るし心配だしで,時にはイライラ。「なんで?」と聞かれても,お腹の調子を良くする薬の働きなんて説明のしようもないし,と焦りは募る。

 そういう時に効きそうなのが,"バクテロリストVS.ビオフェル民族"の章。病気になる仕組みや身体の働きが詳しく紹介された絵本(『よーするに医学えほん からだアイらんど おなか編』)を気に入って以来,薬嫌いの息子さんが,ビオフェル民族に応援してもらうんだから,と張り切ってお腹の薬を進んで飲むようになったエピソードが紹介されている。

 また,「今日は幼稚園行きたくないんだ!だって......だってなんだもん!」嫌な気持ちを,子どもは上手く言葉にできない。大人は心配したり,かけることばがみつからなかったり。そんな時には,"今日は「いやいやえん」"の章が役に立つかもしれない。どうしても今日は幼稚園に行きたくないといった息子さんがお休みしたある日のエピソード。気晴らしにと出かけた図書館で,息子さんは,その日の自分の気持ちにぴったりの絵本(『いやいやえん』)を見つけて目を輝かせる。次の日は元気に登園したとあり,万智さんが安心した気持ちも伝わってくる。

 

  日々のあるあるシーンで,子どもの気持ちにぴったりの絵本がみつかると,絵本の世界をとおして,子どもが自分の気持ちを大人に伝えることができる。また,大人が子どもにわかりやすく伝えることもできる。絵本が,まるで大人の言葉と子どもの言葉を通訳してくれるかのようである。絵本によって,子どもと大人の気持ちが通い合う瞬間が生まれることが,この本のたくさんのエピソードに共通している絵本の魅力だ。絵本の力で,子どもと大人が楽しく通じ合える瞬間が,自然と増えていく。子どもの気持ちがわからない,子どもと楽しく過ごせない,そんな時,絵本を味方につけると,心強いサポーターになってくれると思う。

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