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FLCスタッフエッセイ

2018.12.12 コミュニティ
2018年度対人援助学会第10回大会に参加して

                                                           朴 希沙

去る111718日、立命館大学にて開催された対人援助学会に参加し、ワークショップを行ってきました。

対人援助学会とは、「既存の医療・福祉・心理・教育等の学問領域を超え、広く『人を助け、エンパワメントを実現する』支援実践や臨床研究の探求を通じて、『対人援助学』(Science for Human Services)の創造という多職種の、学問と実践の『連携と融合』の舞台となること」(対人援助学会ホームページより)を目的に設立された学会です。

既存の枠組みにとらわれず様々な領域で活動をしている専門家・非専門家の方々が集まり、お互いの実践について紹介したり交流を深めたりする刺激的な学会です。

私は、現在翻訳・出版活動を行っている「マイクロアグレッション」という概念について紹介し、ワークショップを開いてきました。

今回は、旧来の明白な差別とは異なる、現在の曖昧な形態をとる差別「マイクロアグレッション」について少し紹介させていただこうと思います。

私がマイクロアグレッションに出会ったのは、在日コリアンの当事者研究グループを行っているときでした。

近年、在日外国人を始めとして、社会的弱者の人々を攻撃するヘイトスピーチが話題になっていますが、私たちはグループを行っている際、ヘイトスピーチとは異なる日本社会で経験する形容しづらいもやもや感、心理的ダメージについて説明する言葉が必要であることを感じていました。

Microaggression(マイクロアグレッション)という用語はChester Pierceによって1970年代に初めて使われました。

Pierceは論文の中で、日常的にアメリカの黒人に向けられる、形容しづらい、しばしば無意識的に行われる中傷や侮辱を言い表そうとしたのです(Pierce, Carew, Pierce-Gonzalez, & Willis, 1978)。

現在、マイクロアグレッションは①明示的に相手を傷つけることを目的として行われるMicroassault(マイクロアサルト)、②無意識的に相手を侮辱するMicroinsult(マイクロインサルト)、 ③無意識的に相手の社会的経験を無価値化するMicroinvalidation(マイクロインバリデーション)の 3 種類に分類されています。

その中でも、マイクロインバリデーションが最もネガティブな影響を被害者に与えると考えられています。

マイクロインバリデーションとは、例えば、人種差別に悩んでいる黒人の人に対して白人が「肌の色なんて関係ないじゃない。私はあなたを黒人として見たことなど一度もないわ」と言うことや、「世界にはたったひとつの人種がある。それは、人類という名の人種さ」と言う発言等が当てはまります。

これらの発言は攻撃の意図が明確にあるわけではありません。むしろ、相手を励まそうとして言った言葉かもしれません。

しかし一方で、これらの発言は、相手の人種的・社会的経験を無視し、存在しないものとしている点で、その体験や発言を無価値化することからマイクロアグレッションの一形態とされます。

どんなマイクロアグレッションも、1 度だけなら影響は小さいでしょうが、日常的な累積によって、旧来の明白な差別以上に被害者に怒りやフラストレーション、孤独感や自らのアイデンティティへのネガティブな感情を生み出し、自尊心や自信を喪失させる可能性があることが示唆されています(Sue et al.,2007)。

ワークショップでは、マイクロアグレッション概念の紹介の他、複数の事例を会場で朗読し、それについて小グループに分かれてディスカッションしました。

小グループのディスカッションでは、マイクロアグレッションという概念への戸惑いや、自分がこれまで体験してきたこと、マイクロアグレッションが起こったらどうしたらいいか、等について話し合いました。

今回のワークショップを通して、私はマイクロアグレッションが人々の言動をラベル付けしたり評価したりするためのものではなく、対話の種になればいいなと改めて感じました。

例えば、社会的に異なる立場の人が交流した際、そこで立場の弱い人が嫌な思いをして、なかなかそれを言語化しづらいことがあるかもしれません。

マイクロアグレッションは多くの場合無意識的に生じるので禁止や予防は非常に難しいと考えています。この社会で生きている以上、差別や偏見から自由な人などほとんどいないでしょう。

だとしたら、無意識的で曖昧な差別や偏見(マイクロアグレッション)を相手に向けてしまった時、それはある意味仕方がないことと一旦受け止めた上で、そのことを契機にいかに相手と対話していくことができるのかが重要になってくるのではないかと思います。

そのためには、「なぜマイクロアグレッションをしてしまったのか」ということを個人に問うよりも、「どのような関係、状況でマイクロアグレッションは生じるのか?」ということをテーマに、マイクロアグレッションという現象そのものを探求していく必要があるのではないかと考えています。

つまり、差別の被害・加害を個人の特性や心に還元するのではなく、無意識的に私たちが共有している社会的事柄として、マイクロアグレッションという現象そのものをテーマに据え、それを「研究」するという態度で話進めていくという方法です。

私は、今回の学会でのワークショップを足がかりに、今後様々なところで同様のワークショップを開いていきたいと考えています。

日常の中での小さなすれ違いや立場の違いから生じる葛藤について、どのようにすれば安全に相手と理解し合える対話が出来るのか、今後じっくりと模索していきたいと思っています。

【参考文献】

Pierce, C., Carew, J., Pierce-Gonzalez, D., & Willis, D. (1978). An experiment in racism: TV commercials. In C. Pierce (Ed.), Television and education (pp. 62- 88). Beverly Hills, CA: Sage. 

Sue, D. W., Capodilupo, C. M., Torino, G. C., Bucceri, J. M., Holder, A. M. B., Nadal, K. L., & Esquilin, M. (2007). Racial microaggressions in everyday life: Implications for clinical practice. American Psychologist, 62, 271-286.

Sue, D.W.(2010). Microaggressions in Everyday Life: Race, Gender, and Sexual Orientation. Hoboken, N.J.: John Wiley & Sons.

2018.11.15 五感
古くて新しい

                                     北村由紀恵

秋は木々の彩りも鮮やかになり、吹く風も心地よく、自然の中を歩くにはとてもよい季節です。

私は仕事の合間に奈良や京都に出かけ、自然の中にある神社やお寺を巡るのが好きです。
日常生活の慌ただしさから解放されてホッと一息つくのが、自分にとってとても大切な時間となっています。

古くからある神社やお寺では、自分が21世紀の時代に住んでいることも忘れてしまうような何とも言えない時間の流れを感じます。


10月には奈良の興福寺に行きました。

随分前から再建のために工事されてきた中金堂の、落慶法要が大々的に営まれたのですが、ご縁があり参列させていただきました。

秋晴れの青空のもとで、真新しい美しい中金堂がお目見えしました。五色幕が風に揺られ、僧侶の読経に合わせて散華がきらきらと空を舞い、うっとりするようなひとときでした。

中金堂は本来興福寺の中心となる建物ですが、西暦710年に藤原不比等によって興福寺が建立されて以来、なんと7度も消失したそうです。

そのたびに再建はされて来たのですが、今回は江戸時代の消失の後、300年ぶりの再建となるそうです。創建当時の天平建築の形をそのままに再建されています。

平成も最後の年になりますが、古式の建築の方法が継がれていることが素晴らしいと思いました。しかし今回使った木材などは海外から輸入したものだそうです。創建当時はきっと国内のものだったでしょう。

新しいけど古い、古いけど新しい。古来より続く日本の文化の流れを感じました。


夜には記念のコンサートが中金堂前で行われ、ヴァイオリニストの古澤巌さんが演奏されました。

こちらもまた、ヴァイオリンというヨーロッパの歴史ある楽器で、クラシック音楽を現代風にアレンジした素晴らしい演奏をされ、その迫力にみな引き込まれました。


いろんな時代や国が交差する中に身を置いている自分を感じ、こんな日を生きていることになんだか感謝の念が生まれてきて、お堂の中の仏像にそっと手を合わせました。

2018.09.16 コミュニティ
フィンランド便り③ーオープンダイアローグに触れて

                              朴希沙

20186月半ば~9月頭まで、私はフィンランドの中部に位置する大学の街、ユヴァスキュラで過ごしました。3回連続のフィンランドからの便り。最終回は、フィンランド発祥の精神医療、オープンダイアローグについて紹介します。

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はじめに

オープンダイアローグという言葉を聞いたことがあるでしょうか?

これは、フィンランド発祥の投薬に頼らず平等で開かれた対話によって治療を行う精神医療の実践のことで、その民主的でユニークな手法や治療実績から現在世界中から注目が集まっています。

私は8月末~9月頭にかけて、オープンダイアローグが実践されているフィンランド北部の小さな町、トルニオを訪ねました。

今回は、実際にオープンダイアローグを創ってきた人たち、そして現在実践されている人たちとの交流を通して学んだことについて書いていきたいと思います。

オープンダイアローグとは?

オープンダイアローグとは、日本語では「開かれた対話」を意味します。

その手法は、統合失調症という、従来は投薬治療が中心である心理的な病に対してさえ、対話の力によって結果的に治癒をもたらし、症状の再発をおさえることから、精神医療の世界では驚きを伴った注目が集まっています。オープンダイアローグは1980年代から着実に成果を上げ、現在はフィンランドの公的な医療サービスとして、西ラップランド地方のトルニオでは無料で治療が提供されています。

その過程は驚くほどシンプル、そして考え抜かれたものです。

*参加者に対して、オープンであること

まず、患者さんやその家族から、病院に相談の電話が入ります。

オープンダイアローグでは医師・看護師・心理士・ソーシャルワーカーといった医療に従事する人々との間での協同・対等・民主的な関係が非常に重視されています。この電話をとるのも、様々な役職の医療従事者ですが、電話をとった人が責任を持って治療チームを結成し、初回ミーティングに臨みます。そして24時間以内に、相談者が安心して話し合いを行える場所に、治療チームが出向きます。

そう、オープンダイアローグは1対1の、診察室やカウンセリングルームで行う治療とは根本的に構造が異なっているのです。それは基本的に2名以上の専門家がチームとしてミーティング(診察やカウンセリングとは呼びません)に参加し、相談者を(無理に)病院に連れて来ることなく、治療を進めていきます。重篤な急性の精神疾患であっても、この基本原則は変わりません。

そして、このミーティングには相談者本人に関わる重要な人物であれば、誰でも参加することが出来ます。家族でも、恋人でも、友人でも、学校の先生や近所の住民でも参加できるのです。まず参加者に対して、非常にオープンであるといえます。

またこの際結成された専門家による治療チームは、同じメンバーで継続的に相談者本人とその関係者を支えていきます。

*決定に対して、オープンであること

次に重要な点ですが、投薬や治療の進め方、入院等についての決定は、本人がいないところでは決して決めないし、そのことに関する話し合いも行いません。

治療に関するあらゆる決定は、本人を含む関係者全員が参加するミーティングで決められます。そこでは、ひとりひとりの意向が十分に尊重され、傾聴されます。

患者から必要な情報を聞き出し、医師が一方的に治療方針を決めたり、患者やその家族がいないところでカンファレンスを行ったりしません。代わりに、「リフレクティング」という手法を用いて、相談者やその家族の眼の前で専門家同士が話し合います。

その意味で、何かを決定することに対して、非常にオープンなのです。

*不確実であることに対して、オープンであること

オープンダイアローグは、「技法」や「治療プログラム」ではなく「哲学」や「考え方」であることが、しばしば強調されます。性急な結論や治療方針を決めるのではなく、対話それ自体が目的だからです。だから、「今後、どうなるんだろう?」という不確実さ、不安感にいつも耐えて進んでいかなくてはいけません。

それを可能にしているのが、継続的に、必要であれば毎日でも同じ専門家チームに支えられて開かれるミーティングです。

結果や今後の不確実さに対して開かれていること、これもオープンダイアローグにおいて重要な哲学です。

だからたとえ意見が対立していてもそれをすぐにひとつの意見にまとめようとしたり価値判断をしようとしたりしません。意見が異なる中で傾聴とやりとりを続けていくこと、それが重視されるのです。

そのために、1度のミーティングではなんの合意にも至らないこともあります。その場合は何も決まらなかったことが確認されます。

◎それは、どんな体験だったのか?

日本にいたころ、私はオープンダイアローグについては本や論文を通して見聞きしていて、それは実際どのようなものなのだろうかととても興味を持っていました。今回、実際にトルニオの町を訪ね、実践されている人たちとお話していく中で、次のようなことを感じました。

*不確実さに耐えることを支えているもの

日本にいた頃、私が非常に難しいと感じていたことのひとつが、「不確実であることに耐える」というオープンダイアローグの基本的なスタンスでした。

話し合うこと、対話すること、それだけがまずは目的であるという在り方には非常に惹かれるものの、「それで、どうするの?」「何も決まらなかったら、相談者も治療者も不安じゃないかな?」と思っていました。ですが、実際に実践されている方々のお話を聞いていくうちに、それは「心のもちよう」とは異なるものだと感じました。

なぜ、不確実であることに耐えられるのか。それは、継続的に同じメンバーで話し合っていけるという確信があり、そのことに対するしっかりとした安心感があるからだということに気づいたのです。

継続的に複数の人々の間で話し合っていける、ということに対する信頼感が、不確実さに耐え、結論を急がずにいることを支えています。

また、「話し合い」と「不確実なものへの耐性」というこのふたつはコインの裏表のような関係であることも分かってきました。

つまり、話し合いが継続してできるからこそ不確実さに耐えることができるし、不確実なものに開かれているからこそ多様な人々の間での話し合いを継続できるのです。

そのためには、スタッフや専門家の間の関係性が非常に重要だと思いました。そこでの信頼関係や関係性が話し合い全体を支える土台になるからです。

チームで働くことの素晴らしさやその可能性について、改めて実感し、また驚いたのでした。

100%の同意を求めないからこそ、話し合いを継続できる

次に私が驚いたのは、異なる意見、対立する意見に対して現地の方々が非常に落ち着いて反応されている、ということでした。

これは私の感覚ですが、日本では異なる意見を言うことそれ自体が難しく感じられたり、対立が避けられがちになったりすると思います。逆に対立や意見の相違が明らかになった場合、相手に対する怒りや「同じでないこと」に対する強い感情が湧いてきたりもするのではないでしょうか。これは、私は日本及びアジアの文化ではないかと感じています。

それに対して、オープンダイアローグを実践されている方々は「個人」というものが非常にしっかりと確立していると感じました。相手と自分とはそもそも異なる存在だし、100%同じ意見になることが重要でもない、という認識を根本的に持っておられると感じたからです。

皆で何かひとつのことに決めなくてはいけない時はあるでしょう。しかし、オープンダイアローグでは(事務的なことをのぞいて)話し合いの中で自然に答えがでることを待ちます。異なる意見を説得してひとつの意見に集約させなければいけない、とは考えられていません。

同じ意見になることは、重要ではないのです。それよりも重要なのは、意見が異なり、違う人間でありながらも互いに話を続けているという関係性なのです。

どんなに親しい間柄でも、互いの全てを知っているわけではなくそれぞれ大切な自分のスペースを持っていて、そうでありながらも深い関係性を持続している、ということが私には衝撃的に感じられました。これはひとつの、カルチャーショックのようなものだと思います。日本にいたころは、非常に親しい間柄といえば家族のようになんでも共有している、同じような意見である、というイメージがありましたから。

以上、非常にざっくりとですが、3つのオープンという視点からオープンダイアローグについて、そして実際にトルニオの町を訪ねて私が感じたことについて紹介させてもらいました。

またこの3ヶ月間、フィンランドでの生活で新しい価値観に触れ、多くの刺激を受けました。特にフィンランドの女性の在り方、生き方に対して驚きと憧れを感じました(これについてもまた書ける機会があれば、と思います)。

これからの問いは、この体験を今後の自分の実践にどのように活かしていけるか?とういうことです。

異なる文化や価値観に触れるということは、自分の中に新しい物の見方が生まれる、ということでもあると思います。これまで当然だと思っていたことが、実はそうではない。私達の社会で当たり前だと思われていることが、違う社会にいけば当たり前ではない。例えば私達の社会では「子どもは母親が育てるのが当たり前」と思われていますが、フィンランドではそうではないんです。むしろ「父親と母親が平等に育児を担当するのが当たり前」である社会でした。

短い期間でしたが、フィンランドで得た新しい物の見方を大切に、今後の日本での実践や生活に活かしていきたいと思っています。

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【参考文献】

斎藤環著・訳(2015) 『オープンダイアローグとは何か』 医学書院

2018.07.08 コミュニティ
フィンランド便り②-フィンランドの暮らし

                                朴 希沙


現在、私はフィンランドの中部に位置する大学の街ユヴァスキュラに来ています。6月から3ヶ月間、ここで姉・姪・甥とひと夏を過ごします。フィンランドってどんな国?実際に来てみると日本と違うところもたくさんあるようです。3回連続のフィンランドからの便り。2回目は、フィンランドの田舎の暮らしをご紹介します。

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6月後半の週末、私たち家族はユヴァスキュラから車で1時間ほどの小さな町、カンガスニエミに行きました。
ここには、姉の知り合いのペッカさん一家が暮らしています。ペッカさんは、私たちが暮らすユヴァスキュラが「都会過ぎるから」とカンガスニエミに住んでいます。でもユヴァスキュラにも森や湖があるし、歩いているとちょくちょくうさぎもみかけるので、私たちは少し不思議に思っていました。

ユヴァスキュラからカンガスニエミまでの道は、ずっと森と湖が続いています。
湖と森が織りなすフィンランドの夏の景色は爽やかでとても綺麗です。
フィンランドには有料道路はないそうで、高速道路にも乗りましたが料金をとられることはありませんでした。「パーキングエリア」と言われた一角にも小さなパン屋さんのようなものがひとつあるだけで、日本の高速道路とはかなり異なります。

そしておうちに到着してみて...びっくり!
2018年、フィンランドは世界幸福度ランキングで1位をとっていますが、今回その暮らしを少し体験させてもらい、その理由を垣間見ることができました。実際、素晴らしい生活が広がっていて、私たち家族はみな驚いたのです。今回は、ペッカさんご家族にご了承をいただき、その暮らしをご紹介します。

ペッカさん家族が暮らすお家は、とても素敵なおうちでした。
広々としていて、どこもきちんと整っています。派手だとか、ゴージャスだとかそういうことではなく、おうち全体から飾り気のない、静かな愛情が伝わってくるのです。

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このおうちはペッカさん一家が職人さんたちとで相談しながら作ったそうです。
家族で家のタイルを張ったり、サウナも作ったりしたそうで、家のあちこちにかわいい模様が入れてあります。
フィンランドではこのように家を建てる際自分たちで作る人たちも多いそうです。職人も色々な種類の人がいるらしく、例えば窓枠専門で作る職人、台所を専門で作る職人等がいるとのこと。

この日私は娘さんのお部屋に泊めてもらいました。ずいぶん居心地のよいお部屋で、私たち家族は「このお部屋からは、娘さんが大切にされていることが伝わってくる」とすっかり感動してしまいました。
例えば、娘さんのお部屋には大きなドールハウスがあります。これは、ペッカさんの親戚の一人がコツコツと手作りしてプレゼントしてくれたものだそうです。凝った作りで、中にはサウナもあります。

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その日は夏至だったので、お昼ご飯はみんなでソーセージを焼いて食べました。フィンランドでは夏至の日はソーセージを焼いて食べるそうです。

また午後にはペッカさん家族が「パイを焼きましょう」と言ってくれました。
ペッカさん家族は夏の間、「夏の家」という山小屋のようなところに行くそうです。
そこにはペッカさんの親戚の森があって、自然のコケモモやブルーベリーが一面になっている場所があるんだとか。
「ブルーベリーがたくさんあるからね」と、大きなブルーベリーパイを一緒に焼きました。

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ブルーベリーパイを焼いている間、「夜はサウナに入りましょう」と言ってもらい、一緒に準備を手伝わせてもらいました。
サウナは薪で温めます。「夏の家」からは薪もたくさんとれるそうで、お家の薪小屋にたくさん積んでありました。やり方を教えてもらったので、すぐに火をつけることができました。
お家の周りの庭や畑にはりんごの木やお花が咲き、いちごもなっているので、姪は喜んでいちごを摘んで食べていました。

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おうちの中にいると本当に静かで、鳥のなき声と風の音しか聞こえません。

夜は、スパゲティをみんなで作って食べてから、サウナに入れてもらいました。

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薪をくべて温めた石に水をかけ、その水蒸気でサウナ全体を温めます。体が熱くなったら外に出て体を冷やし、寒くなったらまたサウナに入るということを繰り返します。そうすると体が芯から温まって本当に気持ちがよいのです。私がペッカさん家族に「とても贅沢ですね」と言うと、「ああ、そうですか?贅沢、といわれたらそうなのかもしれませんね」とおっしゃっていました。とても静かで、落ち着いたご家族でした。

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夜娘さんのベッドに横になると、かわいい模様で飾られた天窓が見えました。

次の日の朝はコーヒーとヨーグルト、シリアルを食べました。
たっぷりのヨーグルトにおうちで作ったコケモモやいちごのソース、それから蜂蜜をかけます。

ペッカさんご夫婦は娘さんのことが大好きなようで、時々娘さんのことを話します。私たちも、どんな風に娘さんを育てたのか聞きました。
「いけないことはいけないといい、よくできたら褒めてあげる。でも叱るときも褒めるときもいつもひざの上に乗せて、言い聞かせる。よく聞いていましたよ」と静かにおっしゃっていました。

帰る前におうちの周りのお散歩もしましたが、どこもお庭やお花をきれいにしていて、野菜も作っています。
お隣は自宅で床屋さんをしているおうちでしたが、ペッカさんのおうちと同じくらい大きくて、子ども用のジャングルジムや滑り台、ブランコもありました。子どもがたくさんいるおうちだそうです。

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フィンランドの田舎の方は、家が広々していて、とても美しい景色が広がっていました。私はリンドグレーンという作家が好きで、特に『やかまし村の子どもたち』という作品を何度も読んでそこでの生活に憧れていたのですが、まるでその本に出てくるような場所が実際にあったので驚いてしまいました。

夏は仕事が終わったら毎日散歩、冬はスキーを楽しんでから、おうちの暖炉であたたまるそうです。
フィンランドの豊かさは華美な贅沢さやショッピング、消費の楽しみにあるのではなく、このような日常に静かな幸福が満ちているところにあると、今回実感しました。
ペッカさんご家族が日本にいらした際には、素敵な場所にぜひご案内したいと考えています。

【関連記事】
2018年6月FLCスタッフエッセイ「フィンランド便り①~フィンランドの保育園事情

2018.06.25 子ども/子育て
フィンランド便り①~フィンランドの保育園事情

                                    朴希沙

現在、私はフィンランドの中部に位置する大学の街ユヴァスキュラに来ています。6月から3ヶ月間、ここで姉・姪・甥とひと夏を過ごします。フィンランドってどんな国?実際に来てみると日本と違うところもたくさんあるようです。そこで、今回から3回連続でフィンランドからの便りをお届けします。

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1回目は、フィンランドの保育園についてです。
 
現在、私の姪は4歳、甥は0歳。この3ヶ月はフィンランドの保育園に通います。私も勉強を兼ね、姪・甥たちの慣らし保育に同行しました。そこで目にしたのは、日本とはかなり違うフィンランドの保育園事情でした。

違うところその① 保育のシステム
まず、システムがかなり日本と異なるようです。
今回、姉が保育園に子どもたちを預ける際、ベビーシッター派遣か4人までの保育ママか保育園かのいずれかから選択をすることが出来ました。
また、今回姪・甥が通う保育園は幼保一体型、かつ、中学校までついています。親の育休が9ヶ月は必ず保証されるので、子どもは9ヶ月以降からしか入れませんが、0歳〜中学生までが場所を共有しながら使っていきます。
そして朝・昼・おやつの三食は保育園が出してくれるので、「起きたらすぐ連れてきて大丈夫」とのこと。
給与に応じて保育料は変わるものの、最高額で1人月290ユーロ(3万7千円ほど)でふたりめからは半額になります。

違うところ②設備
そして、フィンランドの保育園はとにかく設備が素晴らしいのです!
園庭は非常に広々していて、裏に公園がついています。室内には、食堂・お昼寝の部屋・体操室・美術室などがあり、それもいくつもあります。可能なら毎日森に遊びに行ったり散歩に行ったりします。
また子どもたちは食べたいものはカフェテリアにて自分で自由に決めます。
ちなみに、○○組というのも自分たちで話し合って決めるんだそう。「今年はトカゲ組にしよう!」とか^^

違うところ③先生の数とその様子
3歳以下には4人にひとり先生がつき、3歳以上だと7人に一人先生がつきます。加えてお給仕の先生や特別支援の先生がつきます。
そして先生たちはとってもあっさり。子どもたちを集めて一緒になにかやらせることはほとんどありません。子どもたちを好きに遊ばせていて自分たちはおしゃべりしながらそれを見ています。必要があれば行く、という感じです。服装もかなり多様かつラフで、派手でおしゃれな先生も多数いらっしゃいます。

違うところ④子どもたちの様子
何より不思議なのが、子どもたちの様子です。
慣らし保育の日は朝からお昼過ぎまで保育園で過ごしましたが、その間泣き声をあげたのはうちの甥と姪だけでした。子どもたちは元気に遊んでいますが、かんしゃくや大声は聞こえてきませんでした。これはフィンランドの街を歩いていても感じます。子どもたちが落ち着いていて、かんしゃくをあげている子どもにまだ会っていません。別に先生たちが特段かまっているわけでもないですし、親も傍で別の人と話していたりするのに、子どもたちは自分で好きなことをしてあまり注目をひこうとしません。これはとっても不思議なことに感じます。

以上、今回は私が体験したフィンランドの保育園事情と、いくつかの写真を紹介しました。
次回も日本とは異なるフィンランドの様子について、お届けできたらと思います。


フィンランド便り①-2.jpg保育園の裏の丘


フィンランド便り①-3.jpgお昼寝室。いくつもあります。

フィンランド便り①-4.jpg園庭の一部。




2018.01.18
生理にまつわるエトセトラ

                            朴希沙

 早いもので年が明け、1ヶ月がたとうとしています。

 12月・1月はクリスマスに年末、お正月とイベントが目白押しですが、皆様いかが過ごされたでしょうか。

 2017年秋から冬にかけて忙しくしていた私は、年末年始ずっと行きたかった旅行にでかけました。疲れを癒やして楽しみたい!と前々から楽しみにしていたのです。

 ところが残念なことに、私にとっては鬼門の時期、生理前と日程が重なってしまいました。

 女性にとって生理に関する悩みはなかなか大きなもの。体調が悪くなったり、気持ちの余裕がなくなったり、調べてみると様々な不調が出る方が多いようです。私は生理前になるととかく気持ちがネガティブになり、普段ではなんとも思わないようなことにすぐ悲観的になります。自分に対しても否定的になり、「どうせ私なんて...」「もう私はだめだ...」と思いつめます。イライラと張りつめて、周りの人にも八つ当たり。普段は毎日楽しく過ごしているだけに、生理前の不調は私の目にも、お恥ずかしながら周囲の目にも明らかなようです。

 そこで今回は、気分転換に色々と試みてみました。

 生理前にイライラしたりネガティブになってしまう方に何かヒントになれば、色んな方と生理に関する体験をシェアしたい!と思い、紹介させていただきます。

*試みたことリスト*

①自分の好きなものに没頭する

 まず手っ取り早くできることとして、諦めて自分の好きなものに没頭するよう試みてみました。

 普段はやらなければいけないことを優先させても、この時ばかりは「自分は今不調な時期」と諦めて自分の好きなことをできるだけしてみました。例えばただ好きな本を読む、見たい動画を見る、ドラマを見る等です。生理前には甘いものも無性に食べたくなりますが、それも思い切って、普段買わないようなものも買って食べてみます。「今自分は大変な時期だから」と諦めてしまうと、意外と楽しいことを心置きなくする余裕が生まれることもあります。

②瞑想

 これは、以前生理前にイライラした時家族から「瞑想してみるのはどう?」と言われたことが頭に残っていて、試してみました。

 特に今回は熊野宏昭さんが書かれた『実践!マインドフルネス』を参考に、呼吸に注意を向けた瞑想を試みました。確かに瞑想をすると気持ちがスッキリして、はればれとした心持ちになります。瞑想は続けることが大切で、1回でどうにかなるようなものではないのですが、瞑想という行為自体から学べることがたくさんあるように思いました。

③姉や友人と話す

 しかし、生理前の不調は手ごわいもの。①や②を試しても、なかなか思いどおりにはいきません。そんな中で一番効果があったのは、姉や友人と生理にまつわる体験についてシェアすることでした。生理前後の心身の不調やその時のエピソード、どんな風に対処しているのかについてそれぞれの体験を教えてもらったり、私の体験を話したりしました。 

 そうすると、普段は「こんなに気持ちが揺れて、自分はダメだなあ」と思っていることでも、「みんな色々な症状で苦労しているんだ!」「自分だけじゃないんだ」と分かり、ほっとします。そして、「これは自分の問題というより、多くの女性が抱えていることなんだな」と少し距離を置いて眺めることができるのです。さらに、お互いの体験を分かち合うことで、連帯感もはぐくまれて以前よりももっと仲良くなれるような気がします。

生理前の不調はつらいですが、そんな時こそ同じような状況にある人・女性たちと互いの体験をシェアできる機会でもあることに、気づかされました。

 今までちょっと恥ずかしく、なかなか切り出しづらかった話題ですが、改めてもっと色んな人と生理にまつわる体験をシェアしてみたい!と思いました。日々のこと、体調のこと、生理のこと・・・女性たちが気軽に、安心して話し合える環境や関係性が広がっていくことを願っています。

参考文献:

熊野宏昭著 『実践!マインドフルネス: 今この瞬間に気づき青空を感じるレッスン』 サンガ出版

2018.01.08 カウンセリング
カウンセリングの窓から~女性の心理的成長のための四つの課題   

              
                                     西 順子

今年度の女性心理学フリートークでは『女はみんな女神』の読書会を行っています。
私自身、『女はみんな女神』との出会いは27年前にさかのぼります。以後、本書は人生のバイブルともいえるような存在となってきました。自分らしさを肯定できると同時に、人生の困難を乗り越えるための知恵を授けてくれたように思います。

今回、このエッセイでは、先月12月の読書会でテーマとなった「錬金術の女神、愛と美の女神アプロディーテー」から「心理学的成長の比喩としてのプシュケーの神話」を紹介したいと思います(『女はみんな女神』326-330頁)。この神話は、「女性が発達させなければならない四つの課題」を表しています。

女性が人生の途中で道に迷い悩むとき、この「四つの課題」は普遍的なものとして、現代の女性にも通じるものがあると思います。神話をイメージするだけでも混沌から抜け出して、知恵と勇気と冷静な落ち着きを得られるように感じます。皆様にとっても、人生の困難を乗り越えて成長するヒントとして何がしか役に立てていただければ幸いです。

■プシュケーの神話とは

『女はみんな女神』の著者ボーレンは「心理学的成長の比喩としてのプシュケーの神話」と題し、女性が心理学的成長するための比喩として重要な象徴的意味を解説しています。

神話にでてくるプシュケーは、エロース(愛の女神アプロディーテーの息子)と再び結ばれることを求めている人間の女性で、何よりも人間関係を大事にして、他の人々に対して本能的あるいは感情的に反応します。プシュケーはエロースと仲直りするために女神アプロディーテに自分を差し出しますが、アプロディーテーはプシュケーを試すために四つの課題を与えました。四つの課題とは、女性が発達させなければならない能力を象徴しています。ではこの四つの能力とは何か、ボーレンの解説と共にその課題をみていきましょう。

■ 課題1~種の選り分け

プロディーテはプシュケーをある部屋に連れていき、うず高く積まれた種の山を見せた。それはトウモロコシ、大麦、キビ、エジプトマメ、レンズマメ、ソラマメの種がごちゃごちゃになったものである。そしてプシュケーに、晩までにそれらの種を種類別に分けなければならないと言いつける。プシュケーはその仕事をこなすことができないように思われたが、アリの一群が彼女を助けにやってきて、種を種類別に分け、それぞれの山に盛り上げた。

重要な決定をしなければならない女性もしばしば、互いに葛藤しあう感情や鎬を削る忠誠心を、まず一つ一つ選り分けなければなりません。「種の選り分け」は内面の仕事であり、女性が自分の内面を正直に見つめ、自分のもろもろの感情、価値観をふるいにかけ、重要でないものから真に重要であるものを選り分けることが求められるのです。

これは混乱した状況にとどまり、事態がはっきりするまで行動しないことを学ぶことであると解説されています。アリとは直観のプロセスの比喩であり、プシュケーがアリを信頼したように、「種の選り分け」のプロセスは、意識的なコントロールを超えて、自分の直観を信じることが大切となります。

例えば、やらなければならない仕事、周りとの人間関係、家族のなかで起こる様々な問題など、「問題が山積み。どこから手をつけていいか」という状況はよく起こることです。
また「やりたいことがたくさんあるけれど、どこからどういう優先順位で手をつけていいか」と思い悩むこともあるでしょう。考える時間もなく、突発的に問題が起こり、巻き込まれることもあるでしょう。あるいは、焦りから慌てて行動に移しても、空回りして消耗し、更に状況が悪化してしまうこともあります。
そんな時、まずは一度立ち止まり、自分の内面を見つめて「種の選り分け」をすることが役に立つことを教えてくれています。

■ 課題2- 黄金の羊毛の獲得

アプロディーテが次にプシュケーに与えた命令は、太陽の恐ろしい牡羊から黄金の羊毛を獲得せよということであった。太陽の牡羊たちは野原にいる巨大で攻撃手で角のあるけだものであり、互いに衝突しあっている。もしプシュケーが彼らのなかに入って、その羊毛を獲得しようとするなら、きっと踏みつぶされるであろう。その仕事ができそうもないと思われたそのとき、またしても、助けがやってきた。今度は緑色をした葦(あし)である。葦は日が沈むまで待つようにとプシュケーに忠告する。その時刻になれば牡羊は散らばって寝るからである。それで彼女は、黄金の羊毛を刈り取ることができた。

象徴的に言えば、黄金の羊毛は力を表しており、それは女性が何かを達成しようとするとき、破壊されずに獲得する必要があるものです。人間関係を大事にするため傷つきやすい女性は、他者たちが権力や地位をめぐって鎬を削っている競争の世界に入っていくとき、そこに含まれるもろもろの危険に気づかないなら、傷つけられるか幻滅し「踏みにじられ」てしまうでしょう。

これは権力を得ながら同情心に富む女性であり続けるという比喩です。プシュケーのような女性が傷つけられずに黄金の羊毛を獲得するためには、観察し、待ち、段階を追って間接的に権力を獲得するのがよいと教えてくれています。

例えば、私はこの神話から、DVから逃れた女性のことを思い浮かべました。
自分の「自由に生きる権利」を守るためには、DV男性から離れるしかないと決意したとき、女性は観察し、待ち、その時を見計らいます。もちろん、女性一人ではなく、そこには葦のように助言し、相談にのってくれるも味方の存在があります。安全に家を出るとき、安全に生きる権利を自分の手に取り戻す重要な一歩を踏み出したといえるでしょう。

■課題3--水晶のフラスコを満たすこと

三番目の課題は、小さな水晶でできたフラスコを禁じられた川の水でそれを満たすことであった。この川は、もっとも高いところに位置する崖のてっぺんにある泉から冥界のもっとも深いところへと滝のように落ち、大地をめぐって再びその泉から現れてくる。プシュケーはその川を見つめていると、フラスコをいっぱいにするという仕事はできそうにもないように思われてきた。今度は、一羽の鷲がやってきて彼女を助けた。

鷲は距離をおいたパースペクティブで風景を見つめ、必要とされているものをつかむために急降下する能力を象徴しています。プシュケーのような女性は個人的なことにあまりにも関わっているために「木ばかりが見えて森が見えない」でいます。
関係を重視する女性にとって、人間関係で何らかの感情的な距離をとることは重要です。そうすることで全体のパターンが見えてきて、重要な細部を取り出し、意味のあるものをつかむことができると教えてくれています。

例をあげるとすると、親子喧嘩や夫婦喧嘩などでお互いに相手のよくないところが見えて、「どうしてそうなの?」と相手を否定したり、批判したり、問い詰めたりするコミュニケーションパターンになり、喧嘩がエスカレートしてしまうことがあります。そういう時は、まずは感情的に距離をとることが必要といえるでしょう。距離をとり、全体がみえれば、何を本当に大切したいのか、大切にしたいものがわかるものです。そして、それを得るためにどんなコミュニケーションをとればよいか見えてくるでしょう。

■課題4 ノー(NO)を言うことの学習

第四の、かつ最後の課題は、ある小さな箱をもって冥界にくだり、それを美の香油で満たしてくることであった。プシュケーはその仕事を死に等しいものと考える。今度は、遠くを見る塔が彼女に忠告を与えた。あわれな人々に出会って彼らから助けを求められても、三回「心を固くして同情心に動かされず」彼らの懇願を無視し、歩み続けなければならない。もしそうしなければ、彼女は永遠に冥界にとどまることになるであろう。

目標を設定して、助けを求められてもそれを固辞することは、人間関係を大事にする女性にとっては-特に困難です。三回ノーを言うことでプシュケーが達成する仕事は、「選択」を行うということです。

多くの女性は人から何かを押し付けられて、自分自身のために何かをすることから注意をそらされています。彼女らはノーを言えるようになるまでは、何を計画しても、また自分にとって一番よいどんなことでもそれを成し遂げることができないと言います。

例えば、もし女性がノーを言えないとどうなるでしょうか。
他者のために自分の時間とエネルギーを費やし、他者の世話したり働き続けると、心身ともに疲弊してしまい、自分のためによいことができないばかりか、心身の不調に陥ってしまうことにもなりかねません。

ここまで、『女はみんな女神』から四つの課題についてみてきました。
最後に、著者ボーレンは次のように言っています。

この四つの課題を通してプシュケーは成熟します。彼女は自分の勇気と決断力が試されるごとに、もろもろの能力と強さを発達させます。しかし、何を獲得するのであれ、彼女の根本的な性質と重要だとみなすものは変わりません。彼女は愛の関係を重視し、そのためにどんな危険をも冒し、そして勝利するのです。


■カウンセリングの窓から

女性が人生の問題について悩むとき、この四つの課題に直面していることも多いのではないでしょうか。自分自身の経験として、カウンセラーとしての経験からも実感します。

カウンセラーとしての経験では、女性がカウンセリングに初めて来談されるとき、混沌とした状況において、何をどこからどうしたらよいか、どう手を付けていいかわからないと混乱していることが多いものです。カウンセリングでは、混沌した状況を整理しながら、もろもろの感情や考え(価値観)、身体の声に耳を傾けながら、大切にしたいものを大切にできるように重要なものを「選り分ける」作業のお手伝いさせていただいています。

また、他者にノーを言うことが課題であることも多いものです。他者の気持ちがわかり愛するがゆえに、よい娘、よい母、よい妻として周囲の期待に応えようとして自分を見失ってしまい、かえって大切にしたいものを犠牲にしてしまうこともあります。
あるいはノーを言うときに、抑えていた感情がいっきに爆発したり、攻撃的になってしまい、他者に伝わらないばかりか自己嫌悪に陥ってしまうこともよくあります。

そんな時、まずは自分の感情について認めることが大切です。感情によい悪いはありません。どんな感情も認められるべきものです。感情を認めることができたなら、その次には、その感情の源(例えばトラウマとなっている過去の未解決の感情・葛藤など)にも目を向けてみることも必要です。カウンセリングでは、感情を認め、理解し、緩和したり消化するお手伝いをしています。

物事の見方、捉え方が変わることで感情が変わることもあります。感情が抱えられるようになり、本当に大切にしたいものを大切にする決意をもてれぱ、現在に焦点をあてて、自分も相手も尊重する自己主張(率直な自己表現)も可能となるでしょう。

プシュケーの神話から、女性の人生の課題は個人だけの問題だけではなく普遍的な問題でもあると知ることで、勇気づけられ、心強く感じられるのではないでしょうか。

カウンセリングでは、女性が困難を乗り越えて、自分が大切にしたいものを大切にできるように、人生のある時期を共に寄り添う伴走者となれればと願っています。


【引用文献】
『女はみんな女神』(ジーン・シノダ・ボーレン著、村本詔司+村本邦子訳)新水社。

【関連記事】
2017年9月インフォメーション「女性心理学フリートーク『女はみんな女神』読書会のご案内」
2015年1月FLCエッセイ「カウンセリングの窓から~人生の選択に迷うとき」
2014年11月FLCエッセイ「カウンセリングの窓から~私って誰? 本当の私らしさって?」



2018.01.07 ライフサイクル
2018年を迎えて思うこと~女性のライフサイクルと共に

                                                                                                                     西 順子


2018年、新しい年があけました。皆さまはどのような気持ちで新しい年を迎えられましたでしょうか。

私にとって2017年は所長に就任して4年目の年。無事に3年が過ぎたという安堵と同時に「継続は力なり」の気持ちで、コツコツと目の前にある与えられた役割(臨床家として、所長として)に取り組む日々を過ごしました。

また同時に私自身の人生のライフサイクルの段階では親の介護や看取りの年となりました。仕事や自分の生活、他者との関係とどうバランスをとれるか、自分の限界に突当りながら、自分にできることを模索し、今もその道の途中にいます。

仕事、家族、他者との関係など、人生を生きるうえで悩みは尽きませんが、悩みを乗り越えていくには、人との「つながり」が重要であることをしみしじみ実感した一年でもありました。心を寄せて共感してくれる人、温かく支えてくれる人、悩みを一緒に考えてくれる人、至らないところを許してくれる人・・と、人の助けや優しさで、人生で出会う課題を何とか乗り越えて、人として成長していける途上にいられるのだと感謝しています。

5年目の今年も、自分に与えられた人生を全うできるように、一日一日を大切に努めていきたいと思っています。

女性ライフサイクル研究所のスタッフと共に、女性としての人生を生きながら、同じ時代を生き抜く女性の支援を志していきたいと思いますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

2018年が皆様にとって希望に満ちた一年となりますよう心よりお祈りいたします。

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